クリス・エイモン
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| F1での経歴 | |
|---|---|
| 国籍 | |
| 所属チーム | レッグ・パーネル, RP, イアン・ラビー, クーパー, フェラーリ, マーチ, マトラ, テクノ ティレル, エイモン, BRM, エンサイン, ウィリアムズ |
| 活動時期 | 1963 - 1976 |
| 出走回数 | 97 |
| 優勝回数 | 0 |
| 通算獲得ポイント | 83 |
| 表彰台(3位以内)回数 | 11 |
| ポールポジション | 5 |
| ファステストラップ | 3 |
| F1デビュー戦 | 1963年ベルギーGP |
| 初勝利 | - |
| 最終勝利 | - |
| 最終戦 | 1976年ドイツGP |
クリストファー・アーサー・エイモン(Christopher Arthur Amon 1943年7月20日- )は、ニュージーランドの元レーシング・ドライバー。1966年ル・マン24時間レース優勝者。
一般にクリス・エイモン(Chris Amon)として知られる。
目次 |
[編集] 人物紹介
ブルース・マクラーレン、デニス・ハルムと共に、名を知られたニュージーランド人レーサーの1人。2人同様、主に1960年代に活躍し、1966年のル・マン優勝もマクラーレンと組んでのものだった。
F1においては、「勝てそうで勝てなかったドライバー」の筆頭とされる。PP:5回、リーダーラップ:183周は、いずれも未勝利ドライバー最多である。
[編集] キャリア
[編集] F1前・F1初期
農家に生まれ、13歳より国内を中心にレース活動を開始。一定の活躍後、ローラのプライベーター使用だったレッグ・パーネルチームより誘いがかかり、1963年にF1デビュー。まだ19歳であり、当時の最年少記録として話題となったが、マシンの戦闘力は高いとは言えず入賞なしに終わる。
1963年第9戦メキシコGPより、ロータスのプライベーター使用であるRPに移籍、翌1964年第2戦オランダGPで5位に入り、初入賞を記録。しかし、以後は苦戦を強いられ、同年の入賞は1回となった。
1965年・1966年にはチームを転々。それぞれ3戦・2戦のみの参戦に留まり、入賞も記録していない。
[編集] フェラーリ時代
[編集] 1967年
前年のル・マン優勝などを評価され、1967年にフェラーリのワークス・チームに移籍。ここで一気に才能を花開かせることとなる。
フェラーリチームとしての初戦となった第2戦モナコGPでは、予選14位から追い上げ3位入賞、初の表彰台を記録[1]。その後も連続入賞を重ね、最終的には4度の3位表彰台を含む6度の入賞でランキング4位。「次世代のチャンピオン候補」との評価を得る。
[編集] 1968年
1968年には、第2戦スペインGPで初のPPを獲得。スタートで後退した後、16周目に首位に返り咲くが、残り20周余りとなった58周目に、燃料ポンプのトラブルでリタイヤ。
第3戦モナコGPを欠場後、第4戦ベルギーGP・第5戦オランダGPと連続PPを獲得、再び才能の片鱗を見せた。しかし、ベルギーGPでは2周目以降ジョン・サーティースに首位を奪われ、8周目にはラジエターのトラブルでリタイヤ。オランダGPでは、1周もリーダーラップを記録しないまま5位に終わっている。
その後も予選では2位・3位などの高位置につけるが、決勝ではリタイヤなどで結果を出せず、勝利に手が届かないレースが続いた。第7戦イギリスGPでは、予選3位から中盤よりヨー・シフェールの背後でレースを展開したが、そのまま抜けず2位でチェッカーを受けている。
この年は、予選では前年以上に飛躍したものの、決勝では2位・4位・6位各1回の3度の入賞に留まり、ランキングも10位となった。
[編集] 1969年
1969年もフェラーリから参戦。この時期フェラーリは資金難であり、1969年はエイモン1台のみのエントリーであった。第2戦スペインGPでは、ヨッヘン・リントのリタイヤ後に首位に立ち、2位のジャッキー・スチュワートを約40秒突き放し独走。しかし残り24周となった57周目、エンジンが壊れストップ、またも初優勝はお預けとなった。
この年はフェラーリV12エンジンの信頼性が低く、6戦中5戦リタイヤという成績であった。ランキングは、3位1回による4ポイントで最終的に12位となった。チームは1970年からは新しい水平対抗12気筒エンジンで臨む事になっていたが、エイモンはこれ以上フェラーリチームに残る事を選ばず、フェラーリを駆るのはこの年で最後となった[2]。
またこの年は、タスマン・チャンピオンシップ(V6タスマンディーノ)では4勝でチャンピオンを獲得している。
[編集] マーチ時代
[編集] 1970年
1970年はマーチから参戦。第4戦ベルギーGPではペドロ・ロドリゲスとトップ争いを展開、初のFLを記録するが、5周目以降は前に立てず、約1秒差の2位でフィニッシュ。これを含め、2位2回・3位1回・4位1回・5位2回の成績で、ランキングは7位となった。
[編集] マトラ時代
[編集] 1971年
1971年よりマトラに移籍し、第9戦イタリアGPでは3年ぶりとなるPPを獲得。決勝では6台による激しいトップ争いが展開され、エイモンもリーダーラップを記録したが、結局敗れ6位に終わっている。シーズンを終われば、入賞は3位1回・5位2回・6位1回の計4度であり、ランキングも9位と低迷した。
[編集] 1972年
1972年もマトラに残留し、第5戦ベルギーGP終了時で2度の6位・1FLを記録。すると、続く第6戦フランスGPにてPPを獲得、決勝でもスタートからトップを走るが、20周目にタイヤがパンク。その後、FLを出す走りで追い上げるが3位となり、またしても初優勝はならなかった。第10戦イタリアGPでは、予選2位からのスタートだったが、リタイアに終わっている。この年の最終成績は、3位1回・4位1回・5位1回・6位3回であり、ランキングは前年同様9位だった。
[編集] 1973年以後
前年をもってマトラがF1を撤退、以後は戦闘力が高いとは言い難いチームからの参戦が続くこととなる。1973年はテクノから5戦、ティレルから2戦に参戦したが、入賞は第5戦ベルギーGPの6位のみだった。 フェラーリチームの中には1974年のドライバーとしてエイモンを再度起用するというプランもあったが、それは実現しなかった。
1974年にチーム「エイモン」を設立。オーナー兼ドライバーとして参戦するが、マシンは戦闘力に欠けており、参戦した4戦中リタイヤ1回・DNS1回・予選落ち2回と、一度も完走出来なかった。資金も底を尽き、第13戦イタリアGPをもって撤退、終盤2戦はBRMから参戦するも、最高位9位に終わった。
1975年はエンサインから2戦に出走したが、どちらも決勝は12位。1976年も引き続きエンサインから参戦し、第4戦スペインGPでは5位入賞。3年ぶりのポイント獲得となった。また、第7戦スウェーデンGPで予選3位、第9戦イギリスGPで予選6位につけるなど、下位チームながら時折存在をアピールした。
しかし、第10戦ドイツGPにおけるニキ・ラウダの事故に衝撃を受け、チームを離脱。第14戦カナダGPでは、ウィリアムズから1戦のみ復帰し予選を通過したが、決勝は走行しなかった。結局、この年をもってエイモンはレースキャリアを終えた。
引退後は母国に帰国し、実家の農業を引き継いでいる。
[編集] 補足
- 1966年には、日本インディ200マイルレースにて来日している。
[編集] 注釈
- ^ ただしこのレースは、エースのロレンツォ・バンディーニが他界したGPでもあり、手放しで喜べる状態ではなかった。
- ^ しかし、皮肉な事にこの水平対抗12気筒エンジンにより翌年からのフェラーリは躍進する事となる。

