エマーソン・フィッティパルディ

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エマーソン・フィッティパルディ
Emerson Fittipaldi
2020年撮影
基本情報
国籍 ブラジルの旗 ブラジル
イタリアの旗 イタリア
出身地 ブラジル サンパウロ州サンパウロ
生年月日 (1946-12-12) 1946年12月12日(77歳)
F1での経歴
活動時期 1970-1980
所属チーム '70-'73 ロータス
'74-'75 マクラーレン
'76-'79 コパスカー
'80 フィッティパルディ
出走回数 149 (144スタート)
タイトル 2 (1972,1974)
優勝回数 14
表彰台(3位以内)回数 35
通算獲得ポイント 281
ポールポジション 6
ファステストラップ 6
初戦 1970年イギリスGP
初勝利 1970年アメリカGP
最終勝利 1975年イギリスGP
最終戦 1980年アメリカ東GP
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署名

エマーソン・フィッティパルディEmerson Fittipaldi, ポルトガル語の発音ではエメルソン・フィッチパウヂ、1946年12月12日 - )は、ブラジルサンパウロ出身のレーシングドライバー。元F1ドライバー、インディカー(CART)ドライバーである。F1とインディカーの両方でチャンピオンになった。愛称はエモ(Emo)。F1現役時代は大きなもみ上げがトレードマークであった。

プロフィール[編集]

デビュー[編集]

1969年ブランズ・ハッチでのF3レース

サンパウロ出身。モータースポーツジャーナリストでラジオ解説者のウィルソン・フィッティパルディと妻のヨゼファ・ジュゼ・ヴォイチェホフスカの間に、裕福な家庭の次男として生まれる。「エマーソン」という名前は父親が敬愛するアメリカの作家、ラルフ・ワルド・エマーソンにちなんだもの。父がイタリア系であるため、ブラジルとイタリアの二重国籍を持っている[1]

兄のウィルソンと共にレースを始め、カートフォーミュラ・Veeの国内チャンピオンを獲得した。当時のライバルにホセ・カルロス・パーチェがいた。

1969年に単身イギリスに渡り、ジム・ラッセル・レーシングスクールを経てフォーミュラ・フォードに参戦。すぐに頭角をあらわし、1970年にはロータスF2チーム入りを果たした。

F1[編集]

ロータス時代[編集]

ロータス時代(1973年)

1970年のヨーロッパF2選手権英語版は未勝利ながらもコンスタントにポイントを重ね、シリーズ3位。1970年シーズン途中にロータスF1チームのNo.3ドライバーとして加わり、イギリスGPでF1デビューした。

ところが、想定外のアクシデントが大きなチャンスをもたらす事になる。イタリアGP開催地・モンツァでのヨッヘン・リントの事故死と、ジョン・マイルズの放出によってNo.1ドライバーに昇格。大抜擢直後のアメリカGP72Cに乗り、初優勝を遂げた。キャリア4戦目の快挙であり、ブラジル人ドライバーのF1初優勝でもあった。

ロータスでの最初のフルタイム参戦となった1971年は、ガスタービンエンジン56Bの失敗や交通事故の後遺症もあって未勝利に終わり、ドライバーランキング6位であった。

ワールドチャンピオンを獲得したF1マシン・ロータス72D

1972年シーズンはJPSカラーに塗り替えられた72Dの熟成がすすみ、12レース中5勝を獲得。4勝のジャッキー・スチュワートティレル)を下してシリーズチャンピオンになった。

25歳273日でのワールドチャンピオンは当時の最年少記録であり、2005年にフェルナンド・アロンソ(24歳58日)が更新するまで、33年間も更新されることのなかった大記録であった。母国のブラジルではこれを記念した記念切手が作られるなど、名実ともにブラジルの英雄となった。

1973年シーズンは初開催の地元ブラジルGPを制し、国民を熱狂させた。序盤戦は3勝と好調だったが、シーズン途中に登場した72Eに悩まされ、スチュワートに次ぐランキング2位に終わった。

この年は、チームメイトとなった親友のロニー・ピーターソンの速さにも対抗しなけらばならなかった。終盤のイタリアGPでは、チャンピオンの可能性を残すフィッティパルディを優勝させるという了解が存在したが、レースではチームオーダーが発動されず、ピーターソンが優勝した[2]。フィッティパルディはチームオーナーのコーリン・チャップマンに不信感を抱き[3]、高額の契約を提示したマクラーレンへの移籍を決意した。

マクラーレン移籍[編集]

1974年イギリスGP

1974年は強豪のマクラーレンと契約して、M23をドライブした。ブラジルGP連覇をふくめて3勝、2位・3位それぞれ2回ずつという安定した成績を残し、4名によるチャンピオン争いに加わった。

フィッティパルディとクレイ・レガツォーニフェラーリ)が同点で最終戦を迎え、このレースでノーポイントに終わったレガツォーニを抑えて2度目のワールドチャンピオンを獲得した。

1975年は2勝したものの、フェラーリのニキ・ラウダについで2位に終わった。スペインGPではコースの安全管理の不備に抗議してひとりボイコットし、レースでは実際に観客死傷事故が発生した。

コパスカー・フィッティパルディ[編集]

1976年

1976年は兄のウィルソン・フィッティパルディが設立し、自らも運営に関与するコパスカー・フィッティパルディ[4]に移籍した。

ブラジルの国営精糖・精銅会社「コパスカー (Copersucar)」から多額の資金援助を得るなど、国家的英雄としてまさに国を挙げたサポートを受けた参戦であった。また「コパスカー」がスポンサーを降りた1980年からは、ブラジルでも高いシェアを持つ国際ビールブランド「スコール」からのスポンサーも受けた。

移籍後は1978年にブラジルGPで2位を獲得した他、1980年には自らと第2ドライバーのケケ・ロスベルグがそれぞれ1回ずつ3位に入賞するなどところどころで活躍を見せた。しかし、マシンの戦闘力がそれほど高くないため、入賞は多いものの優勝争いに絡むことはなかった。

若くしてチャンピオンに登りつめたものの、F1キャリアの後半をファミリーチームの立ち上げと運営に費やす形となり、3度目のチャンピオン獲得は成らなかった。1980年シーズンをもって引退を表明し、その後は1982年までチームを運営し、チームの撤退後はブラジルで一族の果樹園と自動車アクセサリー事業を営んだ。

1983年春に現役復帰し、IMSA GT選手権にスポット参戦した[5]

インディカー・ワールドシリーズ[編集]

パトリック時代[編集]

1984年からはアメリカでCARTの主催するインディカー・ワールドシリーズに参戦した。38歳の最初のシーズンはパトリックレーシングに参加するまで2チームに所属した。パトリック・レーシングには5年間所属し、1985年のミシガン500でインディカー初勝利を獲得。1986年は1勝、1987年1988年はそれぞれ2勝を挙げるとともに、高い完走率を示した。

1989年には5勝をあげ、すべてのレースで5位以内完走することによって、シリーズチャンピオンを獲得。シリーズ初のアメリカ人以外のチャンピオンであり、F1とインディカーという欧・米のトップカテゴリ両方を制覇したのはマリオ・アンドレッティに続き2人目であった[6]同年のインディ500英語版では200周のうち158周をリードし、終盤アル・アンサーJr.と激しいトップ争いを繰り広げた。両者接触によりアルアンサーJr.はリタイアしたがエマーソンには大きな損傷はなく、結果的に2位以下に2周差をつけて伝統のイベントを初制覇した。

ペンスキー時代[編集]

1994年インディ500

1990年から強豪チームの1つであるペンスキー・レーシングに移籍。1993年1994年には2年連続ランキング2位になるなど、その後も安定した好成績を保ち続けた。

1993年には2度目のインディ500英語版の優勝を果たした。その際、勝者の伝統である「ミルク飲み」の前に自身の経営する農園で作られたオレンジジュースを飲んだため批判を受けたばかりかミルク飲みが規定のタイムスケジュールを外れたためそのぶんのスポンサー賞金を受け取り損ねるという珍しい出来事があった。

50歳近くまで一線ドライバーとして活躍したが、1996年のミシガン500出場中にハイスピードオーバルで大クラッシュを喫して首を負傷し、長期欠場に追いやられた。復帰を目指していたが、翌年には自家用機の墜落事故でまた負傷し、現役引退を決意した。

引退後[編集]

引退後(2006年)

2003年にレーシングチーム「フィッティパルディ=ディングマン・レーシング」のオーナーとして、CARTに参戦した。2005年にはグランプリマスターズに出場した。また、A1グランプリでブラジルチームを率いて若手ドライバーの育成にも励んだ。

2016年、ブラジルのテレビ局レコールが2700万レアル(約8億1000万円)に上る借金を抱え、60件を超える訴訟を起こされて財産が差し押さえられたと報じた。
関係者は地元紙エスタド・ジ・サンパウロに対し、フィッティパルディ氏の財政状況は2012年から2014年にかけて財政難のFIA世界耐久選手権(FIA World Endurance Championship、WEC)をブラジルに誘致したことにより悪化したと語っており、WECは2015年にブラジルから撤退し、その後、同氏の債権者は訴訟を起こしている[7]
ブラジル財務省が押収した動産の中には、1976-77シーズンにF1で使用したマシンや、1989年にインディ500で優勝したときのレーシングカーも含まれていた[8]

人物・エピソード[編集]

ブラジル人ドライバーの先駆者[編集]

フィッティパルディはF1でもインディカー(CART)でもブラジル人として最初のチャンピオンになった。彼の成功体験を追って、ブラジルから海外に渡って挑戦する者たちが現われ、その中からネルソン・ピケアイルトン・セナといったブラジル人F1チャンピオンが誕生した。CARTやIRLでもジル・ド・フェランクリスチアーノ・ダ・マッタトニー・カナーンといったチャンピオンを輩出し、ブラジル人ドライバーは様々なカテゴリで確固たる地位を築いている。

先駆者であり、人格者でもあるフィッティパルディは後輩たちから慕われた。セナが1993年にF1休養を検討した際には、ペンスキーのインディマシンをテストする機会を与えた。またブラジルでは当時ナショナルヒーローであり、1972年のチャンピオン獲得時にはブラジル郵政省から記念切手が発行された。

1983年に2年のブランクを置いて現役復帰した理由に、前夫人との離婚で慰謝料のために金を稼ぐ必要性に迫られたという説もある[5]

縁戚[編集]

実兄ウィルソン・フィッティパルディもレーシングドライバーとしてF1まで進出した実績がある。甥のクリスチャン・フィッティパルディ(ウィルソンの息子)もF1とCARTのレギュラードライバーとして1990年代から活躍した。

孫のエンツォ・フィッティパルディが2016年12月25日にフェラーリ・ドライバー・アカデミーへ加入した[9]。エンツォの兄のピエトロ・フィッティパルディ2018年よりスーパーフォーミュラに参戦。2020年にはF1に2戦出場した。

レース戦績[編集]

F1[編集]

エントラント シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 WDC ポイント
1970年 ロータス 49C フォード・コスワース DFV 3.0 V8 RSA ESP MON BEL NED FRA GBR
8
GER
4
AUT
15
10位 12
72C ITA
DNS
CAN USA
1
MEX
Ret
1971年 RSA
Ret
ESP
Ret
6位 16
72D MON
5
NED FRA
3
GBR
3
GER
Ret
AUT
2
CAN
7
USA
NC
ワールド・ワイドロータス 56B P&W STN76 tbn ITA
8
1972年 ロータス 72D フォード・コスワース DFV 3.0 V8 ARG
Ret
RSA
2
ESP
1
MON
3
BEL
1
FRA
2
GBR
1
GER
Ret
AUT
1
CAN
11
USA
Ret
1位 61
ワールド・ワイドロータス ITA
1
1973年 ロータス ARG
1
BRA
1
RSA
3
2位 55
72E ESP
1
BEL
3
MON
2
SWE
12
FRA
Ret
GBR
Ret
NED
Ret
GER
6
AUT
Ret
ITA
2
CAN
2
USA
6
1974年 テキサコマクラーレン M23 ARG
10
BRA
1
RSA
7
ESP
3
BEL
1
MON
5
SWE
4
NED
3
FRA
Ret
GBR
2
GER
Ret
AUT
Ret
ITA
2
CAN
1
USA
4
1位 55
1975年 マクラーレン ARG
1
BRA
2
RSA
NC
ESP
DNS
MON
2
BEL
7
SWE
8
NED
Ret
FRA
4
GBR
1
GER
Ret
AUT
9
ITA
2
USA
2
2位 45
1976年 フィッティパルディ FD04 BRA
13
RSA
17
USW
6
ESP
Ret
BEL
DNQ
MON
6
SWE
Ret
FRA
Ret
GBR
6
GER
13
AUT
Ret
NED
Ret
ITA
15
CAN
Ret
USA
9
JPN 17位 3
1977年 ARG
4
BRA
4
RSA
10
USW
5
ESP
14
MON
Ret
SWE
18
12位 11
F5 BEL
Ret
FRA
11
GBR
Ret
GER
DNQ
AUT
11
NED
4
ITA
DNQ
USA
13
CAN
Ret
JPN
1978年 F5A ARG
9
BRA
2
RSA
Ret
USW
8
MON
9
BEL
Ret
ESP
Ret
SWE
6
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
4
AUT
4
NED
5
ITA
8
USA
5
CAN
Ret
10位 17
1979年 ARG
6
BRA
11
USW
Ret
ESP
11
BEL
9
MON
Ret
FRA
Ret
GBR
Ret
21位 1
F6 RSA
13
F6A GER
Ret
AUT
Ret
NED
Ret
ITA
8
CAN
8
USA
7
1980年 F7 ARG
NC
BRA
15
RSA
8
USW
3
BEL
Ret
MON
6
FRA
Ret
15位 5
F8 GBR
12
GER
Ret
AUT
11
NED
Ret
ITA
Ret
CAN
Ret
USA
Ret

USAC[編集]

チーム 1 2 ランク ポイント
1983-84年 GTS・レーシング DQSF INDY
32
37位 5

CART インディカー・ワールドシリーズ[編集]

チーム シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 ランク ポイント
1984年 WIT・レーシング マーチ・83C コスワース DFX V8t LBH
5
PHX
12
15位 30
マーチ・84C INDY
32
MIL POR
H&R・レーシング MEA
7
CLE
20
MCH ROA POC
パトリック・レーシング MDO
4
SAN
18
MCH
12
PHX LAG CPL
13
1985年 マーチ・85C LBH
2
INDY
13
MIL
8
POR
3
MEA
2
CLE
8
MCH
1
ROA
5
POC
6
MDO
8
SAN
25
MCH
13
LAG
24
PHX
8
MIA
26
6位 104
1986年 マーチ・86C PHX
3
LBH
16
INDY
7
MIL
24
POR
12
MEA
2
CLE
13
TOR
17
MCH
20
POC
19
MDO
21
SAN
3
MCH
3
ROA
1
LAG
7
PHX
5
MIA
20
7位 103
1987年 マーチ・87C シボレー 265A V8t LBH
19
PHX
18
INDY
16
MIL
7
POR
14
MEA
3
CLE
1
TOR
1*
MCH
7
POC
18
ROA
18
MDO
6
NAZ
21
LAG
20
MIA
10
10位 78
1988年 マーチ・88C PHX
21
LBH
16
INDY
2
MIL
3
POR
3
7位 105
ローラ・T88/00 CLE
19
TOR
4
MCH
19
ローラ・T87/00 MEA
14*
POC
21
MDO
1*
ROA
1*
NAZ
8
LAG
16
MIA
20
1989年 ペンスキーPC-17 PHX
5
LBH
3
1位 196
ペンスキーPC-18 INDY
1*
MIL
16
DET
1
POR
1*
CLE
1*
MEA
2
TOR
2
MCH
14
POC
19
MDO
4
ROA
5
NAZ
1*
LAG
5
1990年 チーム・ペンスキー ペンスキーPC-19 PHX
5
LBH
2
INDY
3*
MIL
3
DET
7
POR
9
CLE
3
MEA
6
TOR
20
MCH
17*
DEN
18
VAN
6
MDO
12
ROA
2
NAZ
1*
LAG
6
5位 144
1991年 ペンスキーPC-20 SRF
19
LBH
17
PHX
3
INDY
11
MIL
8
DET
1*
POR
2
CLE
2*
MEA
7
TOR
21
MCH
20
DEN
2
VAN
17
MDO
2
ROA
6
NAZ
8
LAG
4
5位 140
1992年 ペンスキーPC-21 シボレー 265B V8t SRF
1
PHX
3
LBH
3
INDY
24
DET
8
POR
2
MIL
4
NHA
21
TOR
19
MCH
13
CLE
1*
ROA
1*
VAN
19
MDO
1
NAZ
7
LAG
19
4位 151
1993年 ペンスキーPC-22 シボレー 265C V8t SRF
2*
PHX
14
LBH
13
INDY
1
MIL
3
DET
23
POR
1*
CLE
2
TOR
2
MCH
13
NHA
3
ROA
5
VAN
7
MDO
1*
NAZ
5
LAG
2
2位 183
1994年 ペンスキーPC-23 イルモア 265D V8t SRF
2
PHX
1*
LBH
21
MIL
2
DET
2
POR
2
CLE
20
TOR
3
MCH
10
MDO
3
NHA
3*
VAN
9
ROA
3
NAZ
3
LAG
4
2位 183
メルセデス・ベンツ 500l V8t INDY
17*
1995年 ペンスキーPC-24 メルセデス・ベンツ IC108B V8t MIA
24
SRF
18
PHX
3*
LBH
20
NAZ
1
INDY
DNQ
MIL
23
DET
10
POR
21
ROA
15
TOR
10
CLE
25
MCH
5
MDO
21
NHA
5
VAN
7
LAG
16
11位 67
1996年 ホーガンペンスキー ペンスキーPC-25 メルセデス・ベンツ IC108C V8t MIA
13
RIO
11
SRF
25
LBH
20
NAZ
4
500
10
MIL
4
DET
25
POR
20
CLE
22
TOR
14
MCH
25
MDO ROA VAN LAG 19位 29

インディ500[編集]

シャシー エンジン スタート フィニッシュ チーム
1984年 マーチ コスワース 23位 32位 WIT
1985年 5位 13位 パトリック
1986年 11位 7位
1987年 シボレー 33位 16位
1988年 8位 2位
1989年 ペンスキー 3位 1位
1990年 1位 3位 ペンスキー
1991年 15位 11位
1992年 11位 24位
1993年 9位 1位
1994年 イルモアメルセデス 3位 17位
1995年 ローラ 予選敗退

デイトナ24時間レース[編集]

チーム コ・ドライバー 車両 クラス 周回数 総合
順位
クラス
順位
1985年 アメリカ合衆国の旗 ラルフ・サンチェス・レーシング アメリカ合衆国の旗 トニー・ガルシア
コロンビアの旗 マウリシオ・デ・ナルバエス
マーチ・85G-ビュイック GTP - DNS DNS

FIA 世界耐久選手権[編集]

チーム クラス 車両 エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 ランク ポイント
2014年 AFコルセ LMGTE Am フェラーリ・458 Italia GT2 フェラーリ 4.5 L V8 SIL SPA LMS COA FUJ SHA BHR SÃO
6
23位 8

脚注[編集]

  1. ^ F1王者フィッツパルディがイタリア上議選に=先祖の国で極右政党から出馬へ”. ブラジル日報 (2022年8月17日). 2022年8月17日閲覧。
  2. ^ 『Racing On アーカイブス Vol.05 ロータスとティレル』 イデア、2012年、p.75。
  3. ^ アラン・ヘンリーの回想録 その3”. ESPN F1 (2010年4月15日). 2012年4月24日閲覧。
  4. ^ コンストラクターとしてのエントリー名は、1979年まではスポンサーである「コパスカー」を用い、1980年から1982年にかけては「フィッティパルディ」を用いた。
  5. ^ a b 「Racing On」 No.509、p.63、三栄、2020年。
  6. ^ アンドレッティとフィッティパルディの他には、ナイジェル・マンセルジャック・ヴィルヌーヴが両シリーズチャンピオンとなっている。
  7. ^ AFPBB News. “元F1王者フィッティパルディ氏、借金で財産差し押さえ”. 2022年4月12日閲覧。
  8. ^ SHOWBIZZ daily. “全財産を失ったミリオネア選手たち”. 2022年4月12日閲覧。
  9. ^ エマーソン・フィッティパルディの孫がフェラーリのアカデミーに加入”. F1-Gate.com (2016年12月25日). 2016年12月26日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

先代
ジャッキー・スチュワート
F1ドライバーズチャンピオン
1972年
次代
ジャッキー・スチュワート
先代
ジャッキー・スチュワート
F1ドライバーズチャンピオン
1974年
次代
ニキ・ラウダ
先代
ダニー・サリバン
インディ500優勝者
1989年
次代
アル・アンサーJr.
先代
アル・アンサーJr.
インディ500優勝者
1993年
次代
アル・アンサーJr.