イタリアグランプリ

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Flag of Italy.svg Italian Grand Prix
モンツァ・サーキット
Monza track map.svg
レース情報
周回 53
コース長 5.793 km (3.600 mi)
レース長 306.720 km (190.596 mi)
開催回数 83
初回 1921年
最多勝利
(ドライバー)
ドイツの旗 M.シューマッハ (5)
最多勝利
(コンストラクター)
イタリアの旗 フェラーリ (19)
最新開催(2013年):
ポールポジション ドイツの旗 S.ベッテル
レッドブル-ルノー
1:23.755
決勝順位 1. ドイツの旗 S.ベッテル
レッドブル-ルノー
1:18:33.352
2. スペインの旗 F.アロンソ
フェラーリ
+5.467s
3. オーストラリアの旗 M.ウェバー
レッドブル-ルノー
+6.350s
ファステストラップ イギリスの旗 L.ハミルトン
メルセデス
1:25.849

イタリアグランプリ(イタリアGP、: Italian Grand Prix: Gran Premio d'Italia)は、イタリアで行われる自動車レース。現在はF1世界選手権の1戦として開催されている。

イタリア国内で行われた、イタリアGP以外の名称をもつF1レースも本項目で記述する。

概要[編集]

モンツァ・サーキット

ヨーロッパ発祥の国際グランプリとしては、フランスグランプリ(1906年-2008年)に次いで1921年に創設された伝統あるイベントであり、途中中断を挟みながら継続開催され続けている。1950年以降は、同年に発足したF1世界選手権に組み込まれ、F1において同一名称のグランプリが1年も欠かさず開催されているのは、このイタリアGPとイギリスGPのみである。

初開催の1921年にはブレシア、1937年にはリボーノ(現モンテネーロ・サーキット)、1948年にはヴァレンチノパーク、1980年にはイモラで開催され、途中1929年~1930年と1939年~1946年には中断されているが、それ以外は毎年モンツァ・サーキットで開催されている。

1981年から2006年まで同国内のイモラサーキットでもグランプリが開催されていたが、こちらはサンマリノ共和国から名称を拝借する形で、サンマリノGPとして行われていた。グランプリには「1ヶ国につき1年に1開催」が原則とされているためこのような措置が取られていた。

現行のカレンダーではヨーロッパラウンドの最終戦にあたる。シーズン終盤の秋口に行われることから、次のシーズンに関しての重大発表が行われることが多い。

イタリアグランプリ以外のF1レース[編集]

イタリア国内で実施されながら、別の名称が付与されたレースがある。1957年には1国で年内に2回の開催を行ったが、1国1開催の原則等の理由により、国名ではなく開催地の名を取ってペスカーラGPという名称が付与された。

サンマリノGP(イモラ・サーキット)
サンマリノGPの項目を参照のこと。
ペスカーラGP(ペスカーラ)
1957年に開催。イタリア共和国アブルッツォ州ペスカーラ県ペスカーラ・サーキットで開催された。この年、このペスカーラGPの2週間後にはイタリアGPが開催されており、イタリア国内で連戦となっている。ヴァンウォールスターリング・モスが優勝している。
ペスカーラは海岸沿いの田舎町であるが、バイクの製造工場がありモータースポーツとまったくの無縁ではない。このコースは全長25,572mあり、F1GPが開催されたサーキットとしては最長である。1960年頃から安全対策が叫ばれ、あまりに大きいサーキットでは事故等の救助活動に支障をきたすため今後この様な大きなサーキットは建造される見込みがなく、この最長記録は更新されない公算が非常に大きい。海岸沿いに設置されたこのサーキットでは1924年から1961年までF1GP以外にも様々なレースが開催された。海岸側にはひとつの直角コーナーを挟み合計10km近くものふたつの直線があり、山側は大小さまざまなカーブの連続となっているにもかかわらず優勝平均速度は153.964km/hと極端に低くはない。

特筆すべきレース[編集]

  • 1956年のイタリアGPは最終戦開催となった。優勝したのはマセラティ・250Fのスターリング・モスだが、自分の車を壊したあとピーター・コリンズから車を譲り受けたランチア・フェラーリ・D50ファン・マヌエル・ファンジオが2位に入り、ファンジオが3年連続の選手権王者を手中にしている。当時はレース中にマシンの乗り換えが許されており、1台の車に複数のドライバーが交代で乗って入賞しポイントを獲得した場合、獲得ポイントを人数で割って配分されるルールであった。この時点で唯一ファンジオ以外に王者の可能性を残すコリンズが、すでに車を降りているファンジオに対し交代を申し出たことで実現した。当時は3台以上、ときには5台以上の車を出走させるコンストラクターが1人のエースを勝たせるというスタイルが一般的であったため、現在のチームオーダー批判のような議論は起きていない。
  • 1961年にはF1が前年から排気量が減り1.5リットルエンジンで実施されたが、このイタリアグランプリは最終戦で実施された。前年2.5リットルエンジンで開催された際には、当時使用されていたモンツァ・サーキットのバンク区間が車体に過大な負荷をかけるとして一部ボイコットするという騒動になったが、この年は開始前にそのようなトラブルは起こらなかった。このレースでは混乱を避けるために当時まだ珍しかった2列縦隊スタートが導入されたが、この時点で選手権ランキングトップで予選でも1位のウォルフガング・フォン・トリップス(フェラーリ)がスタートに失敗、大混乱となった。2周目にはフォン・トリップスがジム・クラークを抜こうとして接触、この事故でフォン・トリップスは死亡する。このレースを制したのはフォン・トリップスと同じフェラーリに乗るフィル・ヒルで、この年のチャンピオンをも獲得した。この年以降F1でバンクが使用されることはなく、その後閉鎖された。
  • 1967年のイタリアGPでは、スタート手順に不手際があり大変混乱したレースとなった。この混乱で一番割を食った形の、予選1位であったジム・クラークは大きく出遅れたうえに13周目に右後輪のパンクにも見舞われたにもかかわらず一時は首位を走る活躍を見せたが、結局ガス欠で3位に終わっている。レースは前戦カナダGPを欠場してまで新車を作って持ち込んだホンダジョン・サーティースが、ジャック・ブラバムをわずか0.2秒差で振り切って優勝した。
  • 1970年は年間13戦で争われた選手権の第10戦として行われ、前戦までに5勝して選手権をリードしていたヨッヘン・リント(ロータス)がここで勝てば年間総合優勝が決まるはずであった。最終予選走行中、マシントラブルのためコース・アウトしたリントのマシーンはガードレールの支柱に激突し、ミラノ市内の病院に搬送される救急車の中でリントは息を引き取った。その後リントの得点を上回る者がいなかったため、チャンピオンはリントのものとなった。2010年現在、リントは死後にチャンピオンになった唯一のドライバーである。
  • 1971年にはBRMピーター・ゲシンが優勝を飾っているが、2位との差はわずか0.01秒、5位までが0.61秒の集団状態のままゴールするという激しいレースで、ラップリーダーが延べ26回入れ替わる展開であった。ゲシンが優勝したのはこのレースただ1回であるが、このときゲシンが記録した優勝平均速度242.616km/hは、2003年のイタリアGPでミハエル・シューマッハが破るまで32年間も守られた。
  • 1978年のイタリアGPでは、残り3戦でともにロータスマリオ・アンドレッティロニー・ピーターソンの2人のみが選手権王者の可能性を残す状態で開催されたが、スタート直後の多重衝突事故で赤旗中断、ドライバーら自らがピーターソンとヴィットリオ・ブランビッラの救出にあたったが、翌日未明にピーターソンは死亡。結局ブラバムニキ・ラウダが優勝したが、アンドレッティがこの年の選手権王者を獲得した。
  • 1979年は、フェラーリの2台がワンツーフィニッシュを果たし、ドライバーズチャンピオン(ジョディ・シェクター)とコンストラクターズチャンピオンのダブル制覇を決めた。シェクターの同僚のジル・ヴィルヌーヴもチャンピオンの可能性を残していたが、チームプレーに徹してシェクターを抜こうとせず、優勝したシェクターに次ぐ2位でフィニッシュした。
  • 1987年のイタリアGPでは、油圧スプリングを用いた簡易アクティブ・サスペンションを装備した新車を持ち込んだウィリアムズのネルソン・ピケと、年頭からアクティブ・サスペンションを使用しつづけていたロータスのアイルトン・セナのトップ争いが展開された。ピケは従来通り中盤にタイヤ交換をし、セナはアクティブ・サスと持ち前の技術を活かしタイヤ無交換で優勝を狙ったが、セナはトップ走行中で残り7周の43周目に周回遅れを抜こうとして失敗、スピンしてしまう。結局そのスピンのあいだにピケがセナを抜き、そのままセナの追走を振り切って優勝した。また、このレース開催期間中に、ホンダが翌年からマクラーレンへエンジン供給を開始することと、ウィリアムズへのエンジン供給を打ち切ることを発表し、ちょっとした騒動になった。
  • 1988年には、それまで開幕11連勝と圧倒的な強さを発揮していたマクラーレン・ホンダチームがシーズン唯一の敗北を喫することとなった。レース終盤にアイルトン・セナが、周回遅れで走行していたウィリアムズジャン=ルイ・シュレッサー(病欠のナイジェル・マンセルの代役としてこのレースのみ出場)と接触してしまったことによるもので、これによりフェラーリゲルハルト・ベルガーがトップに立ち、チームメイトのミケーレ・アルボレートと1-2体制でフィニッシュを果たした。この勝利はマクラーレン・ホンダを倒したことに加え、グランプリ直前に死去したフェラーリの総帥、エンツォ・フェラーリに捧げる勝利として、ティフォシたちを喜ばせることとなった。
  • 1991年は、前戦のベルギーグランプリでデビューしたミハエル・シューマッハが電撃的にベネトンに移籍し、5位に入賞しキャリア初ポイントを記録した。それまでベネトンに在籍していたロベルト・モレノは、シューマッハとトレードとなる形でジョーダンに移籍した。
  • 1994年は、フェラーリのジャン・アレジがF1キャリア初のポールポジションを獲得し、2位には同僚のゲルハルト・ベルガーでフェラーリ勢がフロントローを独占した。レースは、初優勝を狙うアレジがトップを快走をしていたが、マシントラブルでリタイアした。代わってベルガーがトップとなったが、ピットストップでトラブルが生じ、優勝争いから陥落した。その後、ウィリアムズのデーモン・ヒルとデビッド・クルサードの1-2体制となったが、ファイナルラップのパラボリカ前でクルサードのマシンにトラブルが生じ、リタイア(6位完走扱い)となった。レースは、ヒルが勝ち、チャンピオン争いでリードしている(当GPから2戦出場停止中の)ミハエル・シューマッハとのポイント差を縮めた。
  • 1995年は、チャンピオン争いをしていたベネトン・ルノーのミハエル・シューマッハとウィリアムズ・ルノーのデイモン・ヒルがレース中盤にアクシデントによりともにリタイアした。これにより、地元フェラーリ勢のジャン・アレジとゲルハルト・ベルガーによるワンツー走行となったが、ベルガーはアレジ車から落下した車載カメラが直撃する珍しいアクシデントでリタイアし、その数周後にはアレジもマシントラブルでリタイアした。レースは、シューマッハのチームメイトのジョニー・ハーバートが自身F1での2勝目を飾ることとなった。
  • 1999年は、マクラーレン・メルセデスミカ・ハッキネンがチャンピオンに向けてレースをリードしていたが、レース中盤にスピンしリタイアした。マシンを降りたハッキネンがひざまずいて涙するシーンがテレビ中継された。ジョーダン無限ハインツ=ハラルド・フレンツェンがシーズン2勝目を飾った。
  • 2000年は、レース1周目に、フェラーリのルーベンス・バリチェロ、マクラーレン・メルセデスのデビッド・クルサードら7台が絡む事故が発生したが、この事故によりコースマーシャルの1人が犠牲になるという痛ましい事態になった。この事故を受け、レーストラックだけでなく、コース外の安全性にも一層の配慮がされることになった。レースは、ミハエル・シューマッハが制してアイルトン・セナと並ぶ41勝目を挙げた。レース後の記者会見ではミハエルへの最初の質問で「これで勝ち星がセナと並びましたね。今日の勝利はあなたにとって大きな意味を持つものですか」に、「そうだね。この勝利は僕にとってすごく大きな意味を持つものなんだ。ごめん・・・・・・」とミハエルが泣き崩れた為、インタビュアーが2位ミカ・ハッキネンと3位ラルフ・シューマッハを先にインタビューするハプニングが起きた。テレビ中継後の会見で再び同じ質問が出されると「そんなの言わなくたってわかるだろ。ここはイタリアだよ。そして僕はここ数戦ずっといい結果が残せていなかった。でも、今日やっと復活したんだ。この41勝には多くの人々の支えがあったんだ。だから、1998年に優勝したときよりもすごくうれしいんだ」と答えた[1]
  • 2001年は、レース直前に発生したニューヨークでのアメリカ同時多発テロ事件の犠牲者を悼み、フェラーリがノーズ部分を黒くペイントし、一切のスポンサーロゴを外すなど、各チームが追悼ムードに包まれた。レースではウィリアムズ・BMWファン・パブロ・モントーヤが自身F1初優勝を果たすが、恒例のシャンパンファイトは行われなかった。
  • 2003年、前戦ハンガリーGPでフェルナンド・アロンソに周回遅れにされるなどして不振を極めていたミハエル・シューマッハが、復活の勝利を果たし、このままこの年の王座に輝くことになる。またこのレースで、32年ぶりに優勝スピードが更新され、247.585km/hを記録した。
  • 2005年には、出走した20台がすべて完走したが、これは1961年オランダGP(この時は15台出走)以来、実に44年ぶりの「大記録」であった[2]。また、キミ・ライコネンが最高速370km/hオーバーを記録した。
  • 2006年は、2位スタートのミハエル・シューマッハがポールポジションからスタートしたキミ・ライコネンを破ってフェラーリの地元で逆転優勝を果たし、レース後の公式記者会見で2006年シーズン限りでの彼自身のF1ドライバー引退を表明した(その後、2010年に復帰。後任のドライバーはレース直後の会見で2位を獲得し彼の隣に座っていたライコネン)。
  • 2008年は、雨に足を掬われ予選を失敗したルイス・ハミルトンキミ・ライコネンを尻目に、トロ・ロッソセバスチャン・ベッテルが好走し、最年少ポールポジション(21歳72日)の記録を更新。予選と同様の雨中決戦となった決勝も、タイヤ交換時以外は首位を最後まで守り切りポールトゥーウィン。F1史上最年少表彰台と最年少優勝(21歳73日)を記録した。フェラーリ以外のイタリア国籍チームが優勝したのは1957年ドイツGPマセラーティ以来のことで、イタリア系チームとしては半世紀振り(ただし、これは基本的にイギリスに本拠地を置いていたが、一時期はイタリア国籍のチームとして参戦していたベネトンの1997年ドイツGP優勝を除外した場合)となった。また、フェラーリのカスタマーエンジンを搭載したチームの初優勝(=フェラーリエンジンがフェラーリ以外のチームで挙げた初優勝)となった。
  • 2010年は、週末を通して好調だった、フェラーリフェルナンド・アロンソがポールポジションを獲得。決勝ではフロントローにつけたマクラーレンジェンソン・バトンにスタートで先行を許すもピットストップで逆転、その後はファステストラップを刻みながら他を寄せ付けない走りで優勝を果たした。フェラーリ移籍初年度でお膝元であるモンツァを勝利したドライバーは1996年のミハエル・シューマッハ以来14年ぶり、ハットトリックを決めたドライバーとしては1950年からフェラーリがF1に参戦してから史上初となる歴史的快挙である。フェラーリの母国凱旋でのハットトリックはこの年のドライバーズチャンピオンシップに望みを繋ぐだけでなくチームの士気をさらに高める大きな勝利となった。

過去の結果と開催サーキット[編集]

各グランプリの結果は下記の通り。

イタリアGP[編集]

決勝日 ラウンド サーキット 勝者 所属チーム 結果
1950 9月3日 7 モンツァ ジュゼッペ・ファリーナ アルファロメオ 詳細
1951 9月16日 7 モンツァ アルベルト・アスカリ フェラーリ 詳細
1952 9月7日 8 モンツァ アルベルト・アスカリ フェラーリ 詳細
1953 9月13日 9 モンツァ ファン・マヌエル・ファンジオ マセラティ 詳細
1954 9月5日 8 モンツァ ファン・マヌエル・ファンジオ メルセデス 詳細
1955 9月11日 7 モンツァ ファン・マヌエル・ファンジオ メルセデス 詳細
1956 9月2日 8 モンツァ スターリング・モス マセラティ 詳細
1957 9月8日 8 モンツァ スターリング・モス ヴァンウォール 詳細
1958 9月7日 10 モンツァ トニー・ブルックス ヴァンウォール 詳細
1959 9月13日 8 モンツァ スターリング・モス クーパー 詳細
1960 9月4日 9 モンツァ フィル・ヒル フェラーリ 詳細
1961 9月10日 7 モンツァ フィル・ヒル フェラーリ 詳細
1962 9月16日 7 モンツァ グラハム・ヒル BRM 詳細
1963 9月8日 7 モンツァ ジム・クラーク ロータス 詳細
1964 9月6日 8 モンツァ ジョン・サーティース フェラーリ 詳細
1965 9月12日 8 モンツァ ジャッキー・スチュワート BRM 詳細
1966 9月4日 8 モンツァ ルドヴィコ・スカルフィオッティ フェラーリ 詳細
1967 9月10日 9 モンツァ ジョン・サーティース ホンダ 詳細
1968 9月8日 9 モンツァ デニス・ハルム マクラーレン 詳細
1969 9月7日 8 モンツァ ジャッキー・スチュワート マトラ 詳細
1970 9月6日 10 モンツァ クレイ・レガツォーニ フェラーリ 詳細
1971 9月5日 9 モンツァ ピーター・ゲシン BRM 詳細
1972 9月10日 10 モンツァ エマーソン・フィッティパルディ ロータス 詳細
1973 9月9日 13 モンツァ ロニー・ピーターソン ロータス 詳細
1974 9月8日 13 モンツァ ロニー・ピーターソン ロータス 詳細
1975 9月7日 13 モンツァ クレイ・レガツォーニ フェラーリ 詳細
1976 9月12日 13 モンツァ ロニー・ピーターソン マーチ 詳細
1977 9月11日 14 モンツァ マリオ・アンドレッティ ロータス 詳細
1978 9月10日 14 モンツァ ニキ・ラウダ ブラバム 詳細
1979 9月9日 13 モンツァ ジョディー・シェクター フェラーリ 詳細
1980 9月14日 12 イモラ ネルソン・ピケ ブラバム 詳細
1981 9月13日 13 モンツァ アラン・プロスト ルノー 詳細
1982 9月12日 15 モンツァ ルネ・アルヌー ルノー 詳細
1983 9月11日 13 モンツァ ネルソン・ピケ ブラバム 詳細
1984 9月9日 14 モンツァ ニキ・ラウダ マクラーレン 詳細
1985 9月8日 12 モンツァ アラン・プロスト マクラーレン 詳細
1986 9月7日 13 モンツァ ネルソン・ピケ ウィリアムズ 詳細
1987 9月6日 11 モンツァ ネルソン・ピケ ウィリアムズ 詳細
1988 9月11日 12 モンツァ ゲルハルト・ベルガー フェラーリ 詳細
1989 9月10日 12 モンツァ アラン・プロスト マクラーレン 詳細
1990 9月9日 12 モンツァ アイルトン・セナ マクラーレン 詳細
1991 9月8日 12 モンツァ ナイジェル・マンセル ウィリアムズ 詳細
1992 9月13日 13 モンツァ アイルトン・セナ マクラーレン 詳細
1993 9月12日 13 モンツァ デイモン・ヒル ウィリアムズ 詳細
1994 9月11日 12 モンツァ デイモン・ヒル ウィリアムズ 詳細
1995 9月10日 12 モンツァ ジョニー・ハーバート ベネトン 詳細
1996 9月8日 14 モンツァ ミハエル・シューマッハ フェラーリ 詳細
1997 9月7日 13 モンツァ デビッド・クルサード マクラーレン 詳細
1998 9月13日 14 モンツァ ミハエル・シューマッハ フェラーリ 詳細
1999 9月12日 13 モンツァ ハインツ=ハラルド・フレンツェン ジョーダン 詳細
2000 9月10日 14 モンツァ ミハエル・シューマッハ フェラーリ 詳細
2001 9月15日 15 モンツァ ファン・パブロ・モントーヤ ウィリアムズ 詳細
2002 9月15日 15 モンツァ ルーベンス・バリチェロ フェラーリ 詳細
2003 9月14日 14 モンツァ ミハエル・シューマッハ フェラーリ 詳細
2004 9月12日 15 モンツァ ルーベンス・バリチェロ フェラーリ 詳細
2005 9月4日 15 モンツァ ファン・パブロ・モントーヤ マクラーレン 詳細
2006 9月10日 15 モンツァ ミハエル・シューマッハ フェラーリ 詳細
2007 9月9日 13 モンツァ フェルナンド・アロンソ マクラーレン 詳細
2008 9月14日 14 モンツァ セバスチャン・ベッテル トロ・ロッソ 詳細
2009 9月13日 13 モンツァ ルーベンス・バリチェロ ブラウンGP 詳細
2010 9月12日 14 モンツァ フェルナンド・アロンソ フェラーリ 詳細
2011 9月11日 13 モンツァ セバスチャン・ベッテル レッドブル 詳細
2012 9月9日 13 モンツァ ルイス・ハミルトン マクラーレン 詳細
2013 9月8日 12 モンツァ セバスチャン・ベッテル レッドブル 詳細

ペスカーラGP[編集]

決勝日 ラウンド サーキット 勝者 所属チーム 結果
1957 8月18日 7 ペスカーラ スターリング・モス ヴァンウォール 詳細

脚注[編集]

  1. ^  『GPX』 Round 14 Italian GP 、山海堂、2000年、3頁。
  2. ^ 1961年のオランダGPの予選には17台が参加し、この内予選10位を記録したロータスマステン・グレゴリーと、予選14位を記録したクーパークライマックスイアン・バージェスがエントリーから外されての決勝に参加15台全完走記録である(つまりこの両ドライバーはDNS(Did Not Starting:走行せずの意)扱いになる)。したがって2005年のイタリアグランプリの場合は『予選に参加した全車両が揃って完走した』というF1史上初の快挙であった。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]