ベネトン・フォーミュラ

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ベネトン
参戦年度 1986 - 2001
出走回数 260
コンストラクターズ
タイトル
1 (1995)
ドライバーズタイトル 2 (1994, 1995)
優勝回数 27
通算獲得ポイント 851.5
表彰台(3位以内)回数 102
ポールポジション 15
ファステストラップ 36
F1デビュー戦 1986年ブラジルGP
初勝利 1986年メキシコGP
最終勝利 1997年ドイツGP
最終戦 2001年日本GP
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ベネトン・フォーミュラ (Benetton Formula Ltd) は、1986年〜2001年にかけてF1に参戦していたコンストラクター。1995年にコンストラクターズチャンピオン獲得。長きに渡って4強の一角を占め、1980年代後半から1990年代のF1を代表するチームとなった。

歴史[編集]

F1への参戦〜トップチームへ[編集]

1986年[編集]

B186(1986年)

それまでもティレルアルファ・ロメオのスポンサーを務めるなどF1に関係の深かったベネトン社が、トールマン・チームを買収。「ベネトン・フォーミュラ」として1986年開幕戦より参戦。初年度からテオ・ファビによりポールポジションを2回獲得し、ゲルハルト・ベルガーはタイヤ無交換作戦を決めメキシコGPで初優勝を飾った。

1987年[編集]

エンジンをBMWターボからフォードTEC V6ターボに変更。これは前年にハース・ローラチームに搭載されていたものを改良したエンジンである (実質的な開発はコスワースが担当)。チームに初優勝をもたらしたベルガーがフェラーリに移籍したことに伴い、アロウズからティエリー・ブーツェンを迎えた。この年はファビがファステストラップと3位を1回、ブーツェンが3位を1回記録した以外は振るわなかった。しかし、完走率は41パーセントから50パーセントと向上しており、コンストラクター順位でもひとつ上がって5位となった。

1988年[編集]

B188(1988年)

翌年からの3.5リッター自然吸気エンジンへの一本化を見越し、コスワースDFRエンジンを使用した。これはDFVをルーツとするエンジンで、1988年はコスワースのワークスエンジンとしてベネトンだけに供給された。このエンジンには当初、ヤマハの「5バルブヘッド」の導入が予定されていたが、テストの段階でパフォーマンス不足と判断され、実戦には採用されなかった。

DFRを搭載したB188は、マクラーレンホンダフェラーリなどのターボエンジン勢に迫る速さを見せ、コンストラクターズランキング3位となり、自然吸気エンジンを使用したチームでは最上位となった。この年はテオ・ファビに代わり、ミナルディからアレッサンドロ・ナニーニが加入した。

この年には、後にマネージングディレクターとなるフラビオ・ブリアトーレがチームに加入した。

1989年[編集]

ブーツェンがウィリアムズに移籍。ピーター・コリンズの後押しで新人ジョニー・ハーバートが加入。開幕戦で優勝争いを演じるなど完全にトップグループの仲間入りを果たすかと思われたが、チームの政治的な動きに巻き込まれたコリンズはチームを追われ、コリンズという後ろ盾を失ったハーバートは足の傷が悪化し、第6戦カナダGP終了後、エマニュエル・ピロと交代させられた。シーズン序盤に投入される予定だったB189だったが、新型のフォードHBエンジンに欠陥が発見された関係で投入が遅れ[1]、第7戦のフランスGPでエースドライバーのアレッサンドロ・ナニーニに、第8戦のイギリスGPから2台ともB189が投入された。第15戦日本GPで、アイルトン・セナアラン・プロストの同士討ちの間隙を縫って、ナニーニが自身初優勝を飾った。ランキングではナニーニがチームのほとんどのポイントを獲得する活躍を見せランキングは4位を確保した。

この年の暮れには、F3選手権に参戦していたミカ・ハッキネンB189をテストするチャンスを与えた。ハッキネンは、レギュラードライバーであるアレッサンドロ・ナニーニより速いタイムを叩き出し、注目された[2]

1990年[編集]

ピロに代わり、チーム初のチャンピオン経験者としてネルソン・ピケが加入し、完全にトップチームの仲間入りを果たした。ナニーニはフェラーリ移籍寸前までいったが最終的に移籍は断念し、チームは翌シーズンのシートを確約したが、第15戦日本GP直前にヘリコプターの事故に遭いナニーニは右腕切断の重傷を負った。その日本GPではピケが優勝し、ナニーニの代役として参戦したロベルト・モレノも2位に入り、チーム初の1-2フィニッシュを果たした。最終戦オーストラリアGPでもピケが連勝。この2勝が効いてチームはランキング3位を獲得した。事故のナニーニに代わる翌シーズンのドライバーとして鈴木亜久里とも交渉をしていた。

マネージメント面では、新たにマクラーレン・フェラーリ等で活躍したデザイナーのジョン・バーナードを獲得したが、代わりにトールマン時代からチーフデザイナーを務めてきたロリー・バーンがチームを離脱した。

シューマッハを引き抜きチャンピオンへ[編集]

1991年[編集]

B191に乗るロベルト・モレノ

1991年にはメインスポンサーにR.J.レイノルズ・タバコ・カンパニーのタバコブランドである「キャメル」が付き、チーム名は「キャメル・ベネトン・フォード」となる。ジョン・バーナードがマシンのデザインを担当し、画期的なニューマシンB191を開発。タイヤをグッドイヤーからピレリへ変更し、通常より幅を1インチ狭めたフロントタイヤを導入した。しかしピレリタイヤの性能がグッドイヤーを上回る事は無く、この年の勝利は最終ラップでトップを独走していたナイジェル・マンセルがストップしてネルソン・ピケが優勝したカナダGPのみだった。イタリアGPからはロベルト・モレノと入れ替わりにミハエル・シューマッハジョーダンから移籍し、ピケに迫る速さを見せた。前戦でF1デビューしたばかりのシューマッハは、2レース目にして5位入賞を果たした。このシーズン終了後、ピケはチームを去った。

なおカナダGP直後にジョン・バーナードがチームを離脱。後釜にはレイナードに移籍していたロリー・バーンが復帰した。

1992年[編集]

モナコグランプリでB192をドライブするシューマッハ

前年をもってピレリタイヤがF1から撤退する事になり、1992年以降はグッドイヤータイヤのワンメイクとなる事になった。シューマッハをファーストドライバーとして、チームメイトにマーティン・ブランドルが加入した。マシンは第4戦までは前年までのB191Bで戦い、第5戦からバナナノーズが特徴的なB192を導入した。マニュアルギアボックスとパッシブサスペンションの「ノンハイテクマシン」であったが、エンジンとマシンの信頼性を武器に戦い、2人合わせて10回の表彰台に上がった。特に雨のベルギーGPではシューマッハが、既にワールドチャンピオンを決めていたナイジェル・マンセルをタイヤ交換で抜いて初優勝を飾ったほか、ドライバーズランキングもマクラーレンアイルトン・セナゲルハルト・ベルガーを上回り3位を獲得。完全にトップドライバーの仲間入りを果たした。コンストラクターズでは2位のマクラーレンにわずか及ばず3位に終わるが、2人のドライバーで全戦ポイント獲得(どちらか1人が必ず入賞)という快挙を達成している。ブランドルは自身初の表彰台に上がるなどポイント獲得に貢献したが、この年限りでチームを去った。

この年エンジニアリングディレクターとして、それまでスポーツカー世界選手権(SWC)のジャガーチームで監督を務めていたトム・ウォーキンショーがチームに加入。またウォーキンショーの部下としてロス・ブラウンもチームに加入、ロリー・バーンの復帰などで、後のシューマッハ・バーン・ブラウンという黄金トリオが成立していた。

1993年[編集]

ブランドルに代わり、ウィリアムズからリカルド・パトレーゼを迎えてチャンピオン争いに加わるためにハイテクマシンの開発に力を注ぐ。第2戦までは前年のB192を1993年のレギュレーションに併せたB193Aを投入。第3戦のヨーロッパGPからハイテク装備のB193Bを投入した。ホンダが撤退し、同じフォードエンジンを搭載する事になったマクラーレンとの最新エンジン獲得戦争に注目が集まった。結果的にシーズン開幕当初はワークス・チームであるベネトンに最新のエンジンが供給され、「カスタマー」のマクラーレンはベネトンより1ランク下のエンジンが供給されていたにもかかわらず、マクラーレンがベネトンを上回る活躍を見せたため、フランスGPからはベネトンと同じワークスエンジンがマクラーレンにも供給される事となった。それでもシューマッハはシーズン中盤から終盤にかけてはセナを上回る走りを見せ、ポルトガルGPで優勝を果たすが、それでもウィリアムズルノーの前には歯が立たなかった。コンストラクターズランキングもセナによる5勝を挙げたマクラーレンに敗れ3位に終わった。パトレーゼはマシンに慣れる事が出来ずこの年限りでF1を去る。なお、この年からオイルサプライヤーをモービルからエルフ(実質は子会社のエルフミノール)に変更している。

1994年[編集]

キャメルの撤退に伴い、メインスポンサーとして日本たばこ産業と契約。銘柄もマイルドセブンに変わり、チーム名も「マイルドセブン・ベネトンフォーミュラ」となった。前年までのフォードHBエンジンから、同じV8ではあっても全くの新設計のZETEC-Rエンジンを搭載したB194を投入、セナを獲得したウィリアムズルノーに挑んだ。シューマッハは開幕2戦で完全にセナを凌駕し2連勝。セナの死後も優勝を重ねるが、イギリスGPではフォーメーションラップでシューマッハがデイモン・ヒルを追い越し5秒のペナルティストップが課せられ黒旗掲示されるが、レース終了後の5秒加算ペナルティと判断したチームは、すぐにはシューマッハをピットインさせなかった。シューマッハは2位でゴールしたが、規定の周回数以内にペナルティストップを行わなかったことが黒旗無視とみなされ失格とされ、2レースの出場停止処分が課された(ペナルティはベルギーGP後に実施された)。翌ドイツGPではヨス・フェルスタッペンの再給油中に、給油口から漏れ出したガソリンが高温のエキゾーストパイプにかかり出火したが、ドライバー、メカニックとも軽傷で済んだ。この火災の原因は、チームが給油口を改造した事が原因とされているが、処分は不問になった。ベルギーGPではシューマッハは先頭でゴールしたがレース後の車検でマシンの規定違反(ステップド・ボトムが規定以上に削られていた)で失格処分を受けた。ベネトンはこの処分に対し、レース中にスピンして縁石を乗り越えた際に削られたものだと主張した(不可抗力で削られた場合は規定以上に削られていても認められる)が、処分は覆らなかった。それでもシューマッハはヒルを振り切りドイツ人初のドライバーズチャンピオンを獲得した。もう1人のドライバーについてはミケーレ・アルボレートとのシート争奪戦を制したJ.J.レートが起用されるも開幕前のテストでクラッシュし、テストドライバーのヨス・フェルスタッペンが開幕2戦でドライブ。第3戦でレートが復帰するも成績不振でフェルスタッペンと代わられる。シューマッハの出場停止時に再びレートにチャンスが与えられるが結果を残せず結局シーズン途中で解雇。フェルスタッペンもシューマッハには遠く及ばず最終2戦はリジェから出向の形でジョニー・ハーバートが加入。コンストラクターズ獲得のための切札とも言われたが決勝ではトラブルもありポイントは獲得できず。結局セカンドドライバーが活躍できずコンストラクターズではウィリアムズに逆転で敗れ2位に終わるも、ベネトンとしては最上位を獲得した。なお、シューマッハは2年契約で残留を決めるも度重なるチームを廻るスキャンダルに嫌気がさしたか、契約年数を1995年までの1年に短縮している。またシーズン中に片山右京とも交渉をしていたがスポンサーの問題から合意には至らなかった。

1995年[編集]

B195をドライブするシューマッハ。1995年のドライバーズ、コンストラクターズのダブルタイトルを獲得。

当初の予定では1995年も引き続きフォードエンジンを使う筈であったが、1994年のシーズン途中にフォードがF1からの撤退をチームに通告(その後フォードはF1からの撤退という決定を覆し、エンジンの供給先をザウバーに変更した)したことでチームもそれに伴いエンジン探しを行い、チームマネジャーのブリアトーレがリジェチームのオーナーとなった事でこの年のエンジンをルノーに変える事に成功した。リジェチームの買収は、ルノーエンジン獲得のために行ったものとも報道された。ルノー仕様のB195は安定性に欠き相当ドライビングがしづらいマシンで、特にリアの挙動が過敏であった。それでもウィリアムズの両ドライバーの自滅にも助けられ、シューマッハは2年連続ワールドチャンピオンを獲得、前年終盤に加入したハーバートが残留し、「シューマッハスペシャル」のマシンを最後まで乗りこなすことは出来なかったが初優勝を含む2勝をあげ、近年のシューマッハのチームメイト達と比べると最高の成績を残したことでチームとしても初のコンストラクターズチャンピオンに輝く。ダブルタイトルを置き土産にシューマッハはフェラーリに移籍。ハーバートはチーム批判をして、この年限りでチームを去る。

一方でオーナーのベネトン一族との不仲がささやかれるようになったトム・ウォーキンショーが、ブリアトーレからリジェの株式を譲り受けてリジェのオーナーに就任しベネトンから離脱するなど、徐々にマネージメントスタッフの問題が表面化し始めた年でもあった。

シューマッハ、ブラウン、バーンらの移籍により低迷へ[編集]

1996年[編集]

イギリスチームとして活動してきたベネトンは、この年からイタリアチームへと国籍を変更した[3]

フェラーリからゲルハルト・ベルガージャン・アレジをドライバーに迎え、これまでのシューマッハ完全優先主義からジョイント・ナンバーワンへの体制変更を発表しさらなるチームの飛躍を誓った。ロリー・バーンは両ドライバーがドライブしやすいマシンを目指してB196を開発するも、任されたアレジの開発能力は全くと言っていい程あてにならず、開発能力の高いベルガーも長身が災いして十分なポテンシャルを得る事ができなかったどころか、リヤの特性を極端に嫌い、開発どころではなかった。結果的「シューマッハスペシャル」の残像が残るマシンに手を焼いた両ドライバーは思うような活躍ができなかった。モナコGPではアレジがトップに立つもマシントラブルでリタイア。ベルガーもドイツGPで残り3周までトップに立つもエンジンブローでリタイアするなど不運もあり優勝はゼロ。88年以来の優勝なしに終わり、シーズンを通してウィリアムズには遠く及ばず、シューマッハが3勝を挙げたフェラーリにも抜かれ、コンストラクターズは3位に後退。アレジは移籍、ベルガーは引退の噂が1年通して燻り続けた。

また1997年をもってルノーがF1ワークス活動を停止する事がフランスGPで発表された。さらにオイルサプライヤーのエルフもこれに前倒しして1996年限りでF1を撤退。この年に限ってはオイルはエルフ本体のサポートを受けていた。

同年のシーズン終了後、チーフデザイナーのロリー・バーン、テクニカルディレクターとなっていたロス・ブラウンの両名が、ジャン・トッドのオファーで、シューマッハの後を追ってフェラーリに移籍。マネージメントスタッフの弱体化がいよいよ決定的となった。

1997年[編集]

イギリスグランプリで3位となったヴルツとB197

ロリー・バーンがデザインしたB197ゲルハルト・ベルガーを中心に開発が進められ、シーズン前のテストではウィリアムズを大きく引き離すなど期待が寄せられたが、設計者のバーンとブラウンがフェラーリに移籍しており、シーズン開始後は開発は思うように進まずに苦戦を強いられた。さらにベルガーは蓄膿症の手術のため3戦欠場。テストドライバーのアレクサンダー・ヴルツがベルガーの代わりに出場している。ドイツGPで病み上がりのベルガーが亡き父に捧げるポールトゥーウィンを挙げたのが自身およびベネトンチームのF1での最後の勝利となった。この年限りでルノーが撤退し、翌年はメカクロームエンジンを使用する事が決まっていたが、ワークスエンジンを求め無限フォードとも交渉していたがまとまらなかった。また翌年のドライバーとしてジャンカルロ・フィジケラを契約するもジョーダンから法廷戦争に持ち込まれるが勝訴するほか、チーム売却の噂も立つなど政治的動きも事欠かなかった。この年をもってベルガー・アレジの両ドライバーはチームを去り、シーズン終了後、チームはブリアトーレを解雇した。なお、オイルサプライヤーはイタリアのAgipに変更。ルノーが復帰する2000年までサポートを務めた。

ただブリアトーレはこの頃メカクロームエンジンの販売代理権を獲得しており、ベネトンに供給されるエンジンにも関わっていたことから、エンジン供給側のスタッフとして引き続きチームと関わりを持つこととなった。

コンストラクターズはウィリアムズフェラーリには大きく離され、さらに今シーズン3勝を挙げたマクラーレンに追い上げられるも3位を確保。この2年ベルガーとアレジは成績的には満足いくものではなかったが、ベルガーはこの年唯一の優勝を果たしたほか、同郷のヴルツを発掘。テスト・ドライバーとしてチームに迎い入れ、さらに自らの後任としてレギュラー・ドライバーに推薦している。ジャン・アレジはマシン自体に信頼性があったことから完走率がフェラーリ時代に比べて高くなり、コンスタントにポイントを獲得した。このシーズンからアレジが堅実的にマシンを完走させる走りを見せるようになった。

1998年[編集]

ドライバーは、ジョーダンから獲得したジャンカルロ・フィジケラと、ゲルハルト・ベルガーの推薦でテスト・ドライバーから昇格したアレクサンダー・ヴルツの若手コンビに一新。ブリアトーレに代わりチーフエクゼクティブとしてプロドライブ社の代表のデビッド・リチャーズを招聘。ワークスエンジンは確保できなかったが、いずれルノーがワークス活動再開時には再度ルノーワークスとなる事を見越した政治的判断もありルノーのカスタマーエンジンとなるメカクローム(1999年からスーパーテックバッジネームはプレイライフ)エンジンを使用。タイヤもマクラーレンと共にブリヂストンにスイッチ。マシンはこれまでのコンセプトを改めたB198を投入するなど根本的にチーム改革に進んだ。シーズン序盤はマシンの信頼性もあり、フィジケラがモナコGPカナダGPで連続表彰台。さらにオーストリアGPで自身初のポールポジションを獲得するなど前半戦は2人のドライバーがポイントを稼ぐも、他のチームの開発が進んだ後半戦は失速。最終戦日本GPではジョーダンにポイントで逆転されコンストラクターズ5位に転落。トップ4から転落すると言う屈辱を味わった。チームマネージャーのリチャーズは成績不振に加え、フォードへの株式売却を企てた事がベネトン一族の逆鱗に触れる格好となり、その年の日本GP前に解任され、ベネトンの創設者のルチアーノ・ベネトンの子息であるロッコ・ベネトンがチーフエクゼクティブに就任する。両ドライバーは将来性もあることと関係もうまくいっていたことから揃って残留。

1999年[編集]

フィジケラがドライブするB199。このカナダグランプリで2位表彰台を獲得

ロッコ・ベネトンがチームに加入し、チーム史上初めてベネトン直轄の体制が敷かれたが、苦戦を強いられた。この年のB199は競争力に劣り、フィジケラはカナダGPで2位に入る健闘を見せたが、表彰台獲得はこの1回だけに終わり、コンストラクターズランキングは6位に留まった。獲得ポイント数は5位ウィリアムズ(35ポイント)の半分以下の16ポイントに終わった。この年のヨーロッパGPではタイヤ交換のタイミングをうまく見計らいフィジケラが一時トップを走行したが、スピンアウトしてリタイアした。

ルノーの買収〜チーム消滅へ[編集]

2000年[編集]

第1戦オーストラリアGP後の2000年3月15日、ルノーがベネトン・フォーミュラを買収する形でコンストラクターとしてのF1復帰を発表。あわせてブリアトーレがチームマネージャーに復帰することになった。ブリアトーレは大幅な人事異動を行い体制を強化。シーズン途中にはジョーダンからテクニカルデレクターとしてマイク・ガスコインを引き抜く。マシンのB200も昨年の反省を踏まえシンプルなマシンとなり、スーパーテックエンジンはルノーの手が入った事で昨年より向上し前半戦はフィジケラが頑張りポイントを獲得した。後半はシンプルさゆえに開発は停滞し成績は低迷するも、前半戦の頑張りと前年まで上位にいたジャガージョーダンの不振によりコンストラクターズ4位に復帰する。しかしアレクサンダー・ヴルツはこの年も大不振でこの年限りでチームを去り、オリビエ・パニスに代わりマクラーレンにサードドライバーとして加入。なおこの年はテストドライバーとして光貞秀俊が在籍していた。

2001年[編集]

ベネトン・フォーミュラ最後のF1マシンであるB201。ドライバーはジェンソン・バトン。

ルノーは本格的なF1復帰にあたり、2001年にはワークスエンジンをベネトンに供給し、スーパーテックエンジンの供給中止を決定した。同時に、オーナーのベネトン一家が離脱し、ベネトン体制は終焉を迎えたが、このシーズンのみはベネトン・フォーミュラとして戦う事になった。また、ルノーの長年のパートナーであるオイルサプライヤーエルフも復帰した。エンジンは新設計のRS21を投入するが、111度のVバンクなど革新的な要素の多いこのエンジンは信頼性に欠け、マシンの競争力に苦しんだ。ドライバーはフィジケラに加えウィリアムズからレンタルの形でジェンソン・バトンを獲得したが、ベルギーGPでの3位(フィジケラ)を最上位に10ポイントを獲得したに留まり、コンストラクターズランキングではチーム史上最低の7位に終わった。

ベネトンに4年間在籍したジャンカルロ・フィジケラはこのシーズン限りでヤルノ・トゥルーリと交換の形でジョーダンに移籍し、バトンは入賞がドイツGPの1度のみ(5位)であったが、翌2002年シーズンもルノーチームの一員として残留することになった。

2002年からは「100%ルノー」である「ルノーF1チーム」として参戦を開始するに至り、16年にわたるベネトン・フォーミュラの歴史は幕を閉じ、その名前はF1から消えた。

変遷表[編集]

エントリー名 車体型番 タイヤ エンジン 燃料・オイル ドライバー ランキング 優勝数
1986年 ベネトン・フォーミュラ B186 P BMW M12/13 モービル ゲルハルト・ベルガー
テオ・ファビ
6 1
1987年 ベネトン・フォーミュラ B187 G フォードGBA モービル ティエリー・ブーツェン
テオ・ファビ
5 0
1988年 ベネトン・フォーミュラ B188 G フォードDFR モービル ティエリー・ブーツェン
アレッサンドロ・ナニーニ
3 0
1989年 ベネトン・フォーミュラ B188,B189 G フォードDFR,HB1,2 モービル アレッサンドロ・ナニーニ
ジョニー・ハーバート
エマニュエル・ピロ
4 1
1990年 ベネトン・フォーミュラ B189B,B190 G フォードHB3,4 モービル ネルソン・ピケ
アレッサンドロ・ナニーニ
ロベルト・モレノ
3 2
1991年 キャメル・ベネトン・フォード B190B,B191 P フォードHB4,5,6 モービル ネルソン・ピケ
ロベルト・モレノ
ミハエル・シューマッハ
4 1
1992年 キャメル・ベネトン・フォード B191B,B192 G フォードHB6,7 モービル ミハエル・シューマッハ
マーティン・ブランドル
3 1
1993年 キャメル・ベネトン・フォード B193A,B193B G フォードHB6,7,8 エルフ ミハエル・シューマッハ
リカルド・パトレーゼ
3 1
1994年 マイルドセブン・ベネトン・フォード B194 G フォードZETEC-R エルフ ミハエル・シューマッハ
J.J.レート
ヨス・フェルスタッペン
ジョニー・ハーバート
2 8
1995年 マイルドセブン・ベネトン・ルノー B195 G ルノーRS7 エルフ ミハエル・シューマッハ
ジョニー・ハーバート
1 11
1996年 マイルドセブン・ベネトン・ルノー B196 G ルノーRS8 エルフ ジャン・アレジ
ゲルハルト・ベルガー
3 0
1997年 マイルドセブン・ベネトン・ルノー B197 G ルノーRS9 Agip ジャン・アレジ
ゲルハルト・ベルガー
アレクサンダー・ヴルツ
3 1
1998年 マイルドセブン・ベネトン・プレイライフ B198 B プレイライフCG01 Agip アレクサンダー・ヴルツ
ジャンカルロ・フィジケラ
4 0
1999年 マイルドセブン・ベネトン・プレイライフ B199 B プレイライフFB01 Agip アレクサンダー・ヴルツ
ジャンカルロ・フィジケラ
6 0
2000年 マイルドセブン・ベネトン・プレイライフ B200 B プレイライフFB02 Agip アレクサンダー・ヴルツ
ジャンカルロ・フィジケラ
4 0
2001年 マイルドセブン・ベネトン・ルノー B201 M ルノーRS21 エルフ ジャンカルロ・フィジケラ
ジェンソン・バトン
7 0

*太字になっているドライバーはそのシーズンのドライバーズチャンピオン
*斜体になっているドライバーはスポット参戦など

チームカラー[編集]

初期のチームカラーは、親会社同様アバンギャルドな印象を与えた。ブラシでマシンに直接描いたようなデザイン(B186)、赤・青・黄・緑の極彩色を用いた大胆なカラーリング(B187〜B190)。果てはタイヤにまでカラーリングを施したほどであった。ちなみにティレルやアルファ・ロメオのスポンサーだった頃は緑地に白のスポンサーネームとロゴとシンプルだったが、トールマン最後のマシンとなるTG185では白地に万国旗をちりばめたデザインを採用し、後のハイセンスなカラーリングデザインを髣髴とさせている。 またB186を駆ったベルガー、ファビのヘルメットのカラーリングデザインも当時はマシンカラーに合わせたものとなっていた。

大胆なのはカラーリングのみではなかった。マシンデザイナーのロリー・バーンは、空力が現在ほど重要視されなかった当時のF1において、トールマン時代にスポーツカーノーズを採用したTG183B、細く先鋭なペンシルノーズを採用したB187B190、NAエンジン用エアインテークをマシン側方に配置したB188、高く持ち上がったバナナノーズを持ったB192など前衛的なデザインのマシンを次々と開発。現代F1への影響は少なくない。

しかし、バーンがチームを離脱した1997年以降は、成績の下降もあってコンサバティブな方向性にシフト。

カラーリングにおいても、1991年からキャメル(黄色)、1994年からマイルドセブン(青色)がスポンサーについたことで、初期の独自性を失っていた。

脚注[編集]

  1. ^ 『F1グランプリ年鑑 1989-90』 アラン・ヘンリー、バベル・インターナショナル・訳、CBSソニー出版、1990年、28頁。ISBN 4-7897-0502-1
  2. ^ AS+F-'96年モナコGP号』 三栄書房1996年、29-31頁。
  3. ^ New Benetton launched today” (英語) (1996年2月5日). 2008年6月28日閲覧。

関連項目[編集]