片山右京
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| F1での経歴 | |
|---|---|
| 国籍 | |
| 所属チーム | '92ヴェンチュリー・ラルース '93-'96ティレル '97ミナルディ |
| 活動時期 | 1992 - 1997 |
| 出走回数 | 97(95 starts) |
| 優勝回数 | 0 |
| 通算獲得ポイント | 5 |
| 表彰台(3位以内)回数 | 0 |
| ポールポジション | 0 |
| ファステストラップ | 0 |
| 初戦 | 1992年南アフリカGP |
| 初勝利 | - |
| 最終勝利 | - |
| 最終戦 | 1997年ヨーロッパGP |
| タイトル | 0 |
片山 右京(かたやま うきょう、1963年5月29日 - )は、日本のレーシングドライバー、元F1ドライバー、登山家。神奈川県相模原市出身(東京都新宿区の慶應義塾大学病院で出生したことから「東京都出身」とすることもある)。大阪産業大学工学部客員教授。通称「カミカゼ・ウキョウ」。登山・レーシング活動にはTeamUKYOで参加する。
目次 |
[編集] プロフィール
[編集] 生い立ち
小学生のころから、自転車や登山にいそしむ。中学・高校は、日本大学第三中学・高等学校に進学。陸上部に入部し、長距離選手として活躍。バイクの転倒事故を起こし、大学進学を断念する。ちなみに日大三高で福王昭仁(現読売ジャイアンツ1軍内野守備走塁コーチ)と落語家の立川志らくは同期生。
[編集] レースデビュー
筑波サーキット前のレースガレージで寝泊りしながら、パチンコ店店員、トラック運転手などで費用を準備し、1983年にFJ1600筑波シリーズでデビューを果たす。この年の同シリーズでシリーズチャンピオンに輝き、翌1984年も鈴鹿FJ1600Aクラスでシリーズチャンピオンを果たすなど好成績を残す。
[編集] 「カミカゼ・ウキョウ」
1985年には全日本F3選手権にステップアップし、ランキング6位の成績を残す。またこの年の8月にフランスへと渡り、フォーミュラ・ルノースクール(ウィンフィールド・レーシングスクール)を受講し、アラン・プロストの持っていたコースレコードを更新する。首席での卒業のため、本来であればエルフのスカラシップを獲得するところだが、日本でF3の出走経験があったことからスカラシップの対象外とされ、次席のエリック・コマスがスカラシップを獲得した。
1986年はフォーミュラ・ルノーのフランス国内選手権に出場し、第3戦マニクールでポールポジションを獲得し2位入賞を果たす。同年シリーズ途中から1987年までチーム・デュケンからフランスF3に参戦。リタイヤを恐れない攻撃的なドライブで注目を集めた。レース中のクラッシュで瀕死の重傷を負い、日本へ「片山右京 死亡」の誤報が流れたこともあった。その恐いもの知らずの走りから「カミカゼ・ウキョウ」と呼ばれた。
[編集] 全日本F3000時代
[編集] 1988年
1988年から、日本のトップカテゴリーである全日本F3000選手権に出場。この年は、アパレルメーカーの「BA-TSU」からの資金を元に、自前チームの片山企画から参戦した為、ドライバーとチームマネージャーの二束のわらじを履くこととなり苦戦を強いられたが、シーズンランキング11位の成績を残した。またル・マン24時間レースにフランスのクラージュ・コンペティションから出場した。
[編集] 1989年
1989年は、前年の苦労から由良拓也率いる有力チームの1つであるムーンクラフトへ移籍するも、マシンバランスが悪く、戦闘力に欠けるオリジナルシャーシでの参戦であったために結果が出なかった。また同チームより国際F3000選手権にもスポット参戦したが、こちらも同様の理由から低迷した。
併せて全日本ツーリングカー選手権にも「出光石油 with Footwork」からエントリーし、村松栄紀とともにホンダ・シビックをドライブした。常に上位争いに顔を出し、第4戦ではクラス優勝を飾った。
[編集] 1990年
1990年には名門のヒーローズレーシングへ移籍し実力を開花させ、一躍トップドライバーの仲間入りを果たしシーズンランキング5位となるも、黒旗無視による失格など出入りの激しいレース展開は変わらずであった。なおこの年にF1のブラバム・ヤマハのテストドライバーに抜擢された。
[編集] 1991年
1991年には同チームで安定したドライブを見せ、ライバルであった星野一義や黒澤琢弥、エディ・アーバインらを下し、バブル景気で参戦台数が多く上位争いが激しかったこの年のチャンピオンとなる。ちなみに、この年の8月に中嶋悟の引退が発表されたため、「今年チャンピオンを取る片山が次のF1最有力」との話が一人歩きし始め、右京へのプレッシャーを高めることとなり本人を苦しめたと言われる。
[編集] F1時代
[編集] 1992年
全日本F3000チャンピオンとしての実績が認められ、前年まで日本人2人目のF1レギュラードライバーである鈴木亜久里が在籍していた、ラルースチームから日本人3人目のF1レギュラードライバーとして参戦した。なお、F1参戦には日本たばこ(当初は「CABIN」、後に「MILD SEVEN」ブランドで右京がF1を引退するまでスポンサーした)によるバックアップも大きく影響している。
カナダGPではレース終盤までポイント圏内走行の健闘を見せる場面もあった(結果はリタイア)が、ラルースチームの戦闘力不足によりノーポイントに終わる。因みにこの年、予備予選落ちも経験している。
- 出走回数:14戦
- 獲得ポイント:0
- 予選最高位:11位(カナダGP)
- 決勝最高位:9位(ブラジルGP、イタリアGP)
[編集] 1993年
1993年に、ヤマハエンジンを得た中堅チームのティレルに移籍した。チームメイトは前年からティレルに在籍していたベテランのアンドレア・デ・チェザリスであった。なお、1990年からブラハム・ヤマハのテストドライバーを務めていた。
この年は新車「ティレル・021」の投入が遅れた上、その新車がマシンバランスを欠いた失敗作だったため見るべきところがなかった。なお、開幕から数戦に渡り使用した020Cのモノコックは、1991年に中嶋悟が使用したものそのものであったという。
- 出走回数:16戦
- 獲得ポイント:0
- 予選最高位:13位(日本GP)
- 決勝最高位:10位(ハンガリーGP)
[編集] 1994年
1994年はマシンバランスに優れたニューマシン「ティレル022」を駆り随所で速さを見せる。開幕戦ブラジルGPで5位入賞し初ポイントを獲得、その後ローランド・ラッツェンバーガーとアイルトン・セナの死亡事故が起きたサンマリノGPで5位、イギリスGPでも6位にそれぞれ入賞し、ドイツGPでは予選で当時日本人最高位となる5位を獲得、スタートで2位にジャンプアップし、マシントラブルでリタイアするまで3位をキープするなど、日本人初のF1優勝の夢を現実的なものにした。
しかし、資金不足でテスト回数も制限され開発が思うように進まず、それゆえ信頼性が上がらずにトラブルが多く、入賞したレース以外では途中リタイアという展開が多かった。チームメイトのマーク・ブランデルがスペインGPで3位表彰台を獲得し、自身もドイツGPでの2位走行、ヨーロッパGPではスタート直後のエンジンストールで最後尾まで落ちながら入賞圏内には僅差の7位の激走を見せるなど、印象的な走りを見せていただけに惜しまれるシーズンとなった。
後に、1994年に印象的な走りを見せた理由として、実姉が出産時の事故で他界したことと、自らが癌であると診断された事(後に誤診と判明)を理由に挙げている。
- 出走回数:16戦
- 獲得ポイント:5
- 予選最高位:5位(ドイツGP、ハンガリーGP)
- 決勝最高位:5位(ブラジルGP、サンマリノGP)
[編集] 1995年
1995年は「今年の注目ドライバーはウキョウ・カタヤマだ」と、当時フランスのTF1テレビで解説をしていたアラン・プロストに言わしめた程に大きな期待を持って迎えたシーズンとなった。
右京はチームに「チームメイトはとにかく速いヤツにしてくれ」とオーダーしていたが、チームメイトにミカ・サロを迎えると、サロの母国のフィンランドの携帯電話メーカー「NOKIA」がメインスポンサーになり、サロが結果を出すにつれてチーム体制がサロ寄りになっていったことと、油圧形式ダンパーのハイドロリンク・サスペンションを独自開発したが開発体制が脆弱で熟成できず、通常のサスペンションへ戻すといった開発の迷走もあり低迷した。
ポルトガルGPではスタート直後に宙を舞う大クラッシュを起こし、次のヨーロッパGPはドクターストップがかかり欠場する。これら様々な要因でシーズンを通じて低迷。その原因の一端は右京のトレーニング方法に問題があったとの話もある。
右京は1994年の戦績を上回るべくシーズン前にハードなトレーニングを行ってきた。無暗に重い負荷を掛け筋力を増強する方法だった。当時の右京は「10Kgを10回上げるのと100kgを一回上げるのは同じ」と考えていたらしい。体が一回り大きく見えるほどに筋肉を付けたが、引き替えに敏捷性を奪う結果となった。F1ドライバーに必要なのは300Km走りきる間、同じ動作を正確に繰り返す筋肉であり、筋肉の性質を考慮せずにトレーニングを行ったことは自分の首を絞める結果となった。
- 出走回数:16戦
- 獲得ポイント:0
- 予選最高位:11位(ブラジルGP)
- 決勝最高位:7位(ドイツGP)
[編集] 1996年
1996年は前年のチームの成績が良くないのと、広告面での成果が予想以上に悪かった事でメインスポンサーの「NOKIA」が撤退してチームは資金難になる(ティレルが1996年のスポンサーフィー倍額を要求して「NOKIA」を怒らせてしまったとの説がある)。
また1996年の右京の契約がチームとなかなか合意できない間にシャーシ(ティレル024)の開発が進んでしまい、既にチームと契約済みであったミカ・サロの体型に合わせてコクピット形状が決められてしまう。その為、右京には大きすぎるコクピットに成ってしまい対策として、シートを嵩上げし従来よりも径の大きなステアリングを使用する事になった(シーズン前の体制発表の場でこのシャーシに乗ったら右京の体が見えない程すっぽりとハマってしまい同席していたジャーナリストからは爆笑された)。
その結果、実際にステアリングを切った量と右京がイメージする切り角にズレが生じてしまう事になった。(右京はこの現象を「手アンダー」と呼んでいた)右京用のシャーシが製作されたシーズン中盤までこの現象に悩まされる事になる。この様に辛いシーズンを送る事になり、ドイツGPの予選では前後のタイヤを同じフロントタイヤを装着して少しでも空気抵抗を減らそうとした「奇策」まで飛び出した。
- 出走回数:16戦
- 獲得ポイント:0
- 予選最高位:12位(イギリスGP)
- 決勝最高位:7位(ハンガリーGP)
[編集] 1997年
1997年はミナルディに移籍。当時チームオーナーとなっていたベネトンのフラビオ・ブリアトーレに、チーム立て直しのためのリーダー的存在感を期待されての起用であった。しかし、マシンの性能が決定的に劣ることもあり目立った成績は残せず、右京自身も闘志が薄れ、守りの姿勢を嫌い、この年限りでF1を引退した。引退の決断に関しては、「この年がデビューシーズンとなったチームメイトのヤルノ・トゥルーリの急激な成長に対し、自分にはすでに伸びシロが無くなっていたことを認識させられたからであった」と後に語っている。
- 出走回数:17戦
- 獲得ポイント:0
- 予選最高位:15位(オーストラリアGP)
- 決勝最高位:10位(モナコGP、ハンガリーGP)
[編集] F1後
[編集] ル・マン24時間レース
その後、1998年からはトヨタよりル・マン24時間耐久レースにワークス参戦し、特にトヨタTS020 GT-ONEを駆った1999年の同レースは、優勝車BMW V12 LMRを終盤にファステストラップの連続で追い詰め、結局タイヤバーストで惜しくも2位に甘んじたものの、その鬼神のごとき走りは内外のレース関係者に深い印象を残した。
しかも、バースト時の速度は約204mph(=328km/h)であったが、スピンすることなく体勢を立て直すなど、まさに「カミカゼ・ウキョー」の健在とその実力が未だトップレベルにあることを証明するレースとなった。
[編集] その他のカテゴリー
その後は、同じく関係に深いトヨタ系チームから全日本GT選手権や、ダカールラリーなどにも参戦している。他にも、F1現役時代から、FJ1600やフォーミュラ・トヨタなどのジュニアフォーミュラや、F3を中心に活動するレーシングチーム「ル・ボーセ・モータースポーツ」を運営している。また、2007年11月からスタートしたスピードカー・シリーズにも参戦している。
[編集] 登山
F1現役当時から登山を趣味としており、キリマンジャロなどに登頂。F1引退後は登山をライフワークと位置づけ活動。2001年にはチョ・オユー登頂に成功。2002年にはエベレスト登頂にチャレンジしたが、悪天候のためにあと100mのところで断念している。2006年にはマナスルの登頂に成功した。
[編集] その他の活動
また、近年はam/pmなどのテレビCMや様々なバラエティ番組、ドラマ『水戸黄門』に出演するなど、タレントとしての活動も行っている。現役時代には子供番組「ウゴウゴルーガ」にも出演して人気を博す。また最近は自転車関連の事業も手がけており、佐渡ロングライド、エタップ・デュ・ツール[1]等の大会出場、オリジナルマウンテンバイクの開発や、今中大介のインターマックスとも提携している。
[編集] エピソード
[編集] F1参戦前
- 『右京』の名前は、慶應義塾大学教授で叔父の片山左京が出産見舞いに来た際に命名されたものである。
- キャリア初レースとなったFJ1600でのデビュー戦でポールトゥウィンの離れ業を見せた。トップのまま戻ってきた1周目にミラーを見ると誰も写り込んで来ず、レース後のインタビューでは『オレは天才かと思った』とコメントした。
- 思い立ったら行動するのが信条。フランス行きを決めた時、即座に成田空港に行きエールフランスのカウンターで「すいません、パリまで大人1枚」とチケットを所望し係員を唖然とさせた。「チケットの取り方とか、全然知らなかったもんで。(鉄道の)駅みたいにすぐ行って買えるもんだと思ってました」とのちに語っている。
- フランスでのレース活動は資金難に喘いだが、レースで250kmのスピードから壁にクラッシュし、病院のベッドで目を覚ました右京は、入院費の心配から点滴を持って病院から何度も逃げ出し、その度に「検査が終わるまでは」と連れ戻れされた。
- F1にステップアップを決めた際、全日本F3000で所属していたヒーローズレーシングの田中弘監督は、「出来ればもう1年手元に置いて修行させたい。でも、アイツは素直に人の助言聞けるからどこでもやっていけるだろうなぁ・・・」と語っていた。
[編集] F1参戦中
- ラルースチームと契約した際チームオーナーのジェラール・ラルースから、「1年目はサーキットまでの道を覚えなさい。2年目はサーキットを覚えなさい。勝負は3年目からだ」と言われた。移籍によってチームこそ変わったが、この助言の通り3年目にみごと花を咲かせることになった。
- 1992年F1デビュー戦後のインタビューで、目を泳がせながら「えらいところに来てしまった…」と思わずつぶやいた。初レースを終え、想像以上の厳しい世界だったと衝撃を受けたとのこと。当初はF1マシンの強烈な横Gに首が耐えられず、コーナリング時にヘルメットがぐらぐらと揺れるシーンが度々テレビ中継に映し出されたため、その様子を古舘伊知郎に「張子の虎走法」「赤べこ走法」と称されていた。
- デビュー2戦目のメキシコGPでは、酸素濃度の薄い海抜2,200m以上の高地でのレースであった上、食あたりを起こしながらのレースを強いられた。酸欠状態のまま胃の中のモノを吐き続け、最後は胃液と血でレーシングスーツを赤黒く染めながら根性でレースを完走し、フラフラの状態でコクピットから降りてきた。
- レース後のインタビューでは顔面蒼白のまま、あまりの腹部の痛みに涙を流しながら顔を歪めていたため、心配したジャーナリストがインタビューの中止を進言したが、本人の「このまま帰ったら、(仕事を放り出してしまったことに対し)悔しくて眠れないから」との申し出により敢行することとなった。数秒前まで苦痛に顔を歪めていた右京は、「大変なレースでしたね」のインタビュアーの問い掛けに「そんなに辛そうですか?何ともないですよ」とおどけて見せた。
- 1992年のフランスGPで、レース中盤にトップを独走するマンセルに周回遅れにされたが、レース終盤までマンセルの背後を追走。本人は『エストリルコーナーは自分の方が速かった。つまりあのコーナーはその年自分が世界一速かったんだ!』と川井一仁とのインタビューで語った。
- 「F1に来てナイジェル・マンセルを見た時、自分の走りは間違ってなかった……と思った。アクセル踏んでケツが流れたらカウンターを当てる、これで良いんだと。」
- 1993年、イギリスのゴーカート場に遊びに来たが、お遊びのはずが、乗り込んだ途端に本気で走り好タイムを連発。すると、カート場のオーナーに少年と勘違いされ「おい若いの。うちと契約しないか」と誘われた。
- 1994年の快進撃が高く評価され、トップチームであったベネトンのフラビオ・ブリアトーレから「来年うちに来ないか」とオファーを受けた。契約寸前まで行ったが、オプション権を行使したティレルとの翌年の契約を破棄するには違約金が発生することと、スポンサーの日本たばこに注意されたこと(日本たばこ内部では95年は2チーム4台のサポート体制で承認が取れており、今さらこれを覆すことは出来ないと言われた)であきらめた経緯がある。「あの時ベネトンに行ってたら、ぼくのF1はもっと違っていたかも…」と後に右京自身が語っている。
- あるインタビューで「ぼくのインタビューより、みんなはマイケル(ミハエル・シューマッハ)とかのほうに行きたいんじゃない?ぼくは付け合せのサラダみたいだから」と語り、さらにコメントを求めた記者には、「まだぼくの話が聞きたいの?よっぽどサラダが好きなんだね」と返した。そのことでシューマッハは「ウキョウのインタビューは面白い」と語っている。このエピソードが象徴するように、若いころから海外で活躍し、外国人とのやり取りに慣れている上に洒脱な右京のインタビューは、外国のジャーナリストやドライバー仲間から人気が高かった。
- 現役時代の火傷のあとが残っているニキ・ラウダのその火傷を揶揄するかのようなコメントをしてしまった際も、問題とはならず、むしろ爆笑をとった。ラウダの懐の深さもさることながら、いかに右京自身が好意的に受け止められていたかを示している。
- アイルトン・セナもフライデー5等の合同記者会見の場で「ねぇ、今日はウキョウ居ないの?」と言ってしまうほど、右京の話すインタビューを気に入っていた。
- ミナルディ所属の時代にイタリア国内のイベントに参加した際、女性司会者にマイクを向けられたた右京はステージ上で『チャオ、○○○』と放送禁止用語を織り交ぜイタリア語で挨拶し、場内を騒然とさせた。右京自身は、「チームのスタッフに言えと言われたから…」と釈明していたが、実は言葉の意味はしっかりと理解していたらしい。しかし、その場の雰囲気に動じないキャラクターに対して騒然はやがて『ウゴォ!ウゴォ!(イタリアでの右京のニックネーム)』と連呼される喝采へと変わり、ステージ上で右京は誇らしげな表情で敬礼をしてみせた。
- 現役時代、外国人ファンから漢字のサインを頼まれ、「どうせ『片山右京』と書いたところで、分からないだろうから」と、面白がって『広東風炒飯』と書いたことがある。またティレル在籍中には、マーク・ブランデルとでたらめな言葉で会話して「マークが日本語をしゃべってる!」と周囲を驚かせるいたずらをしばしば行っていた[2]。
[編集] F1引退後
- 1999年のル・マン24時間レースに参戦した際、レースシーズン前の岡山国際サーキットでのGTテスト中に発生したアクシデントで不慮の死を遂げた舘信吾の形見の品であるレーシンググローブを着用して出走した。結果は総合2位、優勝は果たせなかったが、舘がかなえることができなかった夢を、片山は果たした。
- 2006年F1第3戦オーストラリアGP、予選PPを奪ったのはホンダのジェンソン・バトンであったが、セーフティーカー明けのラップで、後続ドライバーに次々オーバーテイクされるシーンを見て、TV解説をしていた右京は「バトン、何やってんだ」や「バトン、ヘタクソですね」とコメント。またバトンのエンジンがファイナルラップでブローし、次戦でのペナルティーを避けるため5位4ポイントをあえて捨ててレースを終えた(結果10位)姿勢に「スポーツマンシップという観点から見ていかがなものか」と疑問を呈した。
- 2006年には、解説者という立場を忘れ、同年限りで引退したミハエル・シューマッハ(フェラーリ)寄りのコメント(というより本音)が頻繁に出た。
- イタリアGPの予選の最終ピリオド、終盤トップタイムを出し、ポールポジションの可能性が高まったシューマッハだが、直後にマクラーレンのキミ・ライコネンが好タイムで最終セクターを迎えた。そして、ライコネンがコントロールラインを通過する直前、右京は、「個人的にはミスってほしい」と本音を言ってしまう(このレースの終了後に、シューマッハが自身の進退を発表するとコメントしていたため)。結局右京の願いは届かず、ライコネンがポールを獲得した。
- 日本GP決勝の終盤、ルノーのフェルナンド・アロンソと僅差のチャンピオン争いを展開するシューマッハが、トップ走行中に突然エンジンブローでリタイアしてしまい、タイトル獲得が絶望的となってしまう。このシーンを目の当たりにした右京は思わず、「くっそーっ!」と連呼し、実況の塩原恒夫アナに「右京さんも思わず悪態をついてしまう。」と言われてしまった。
- F1引退後はトヨタの支援を受けてレース活動をしていたこともあってか、F1のTV解説では同じ日本チームのホンダよりもトヨタ寄り、特にかつてのチームメイトで、友人のヤルノ・トゥルーリに対してはサポートするコメントを行うことが多い。またホンダに対して苦言を呈することも多い。
- 2004年春のオールスター感謝祭において「赤坂5丁目F1グランプリ」に招待選手として出場、女性芸能人相手に現役さながらの闘志をむき出しにして強烈にアタック、大幅なハンディキャップを跳ね返して優勝した。レース内容は出演者からは大好評だったが、優勝インタビューでは「大人気ないことをしてしまった」としきりに恐縮、反省した。
- 母校(相模原市立鹿島台小学校)を訪れ、自分の職業分野に関する講義を行なうというNHKの番組「課外授業 ようこそ先輩」に出演した際は、児童らをトヨタ・アルテッツァに乗せてドリフトを体感させたあと、体育館に富士スピードウェイのミニチュアコースを作り、そのコースを児童らに自分の足で走らせ、「コースを早く走るためのコツと意味」を体感を通じて理解させる、といった内容の授業を行なっていた。
- 近年は登山家としても有名だが、事務所のスタッフの中には、「本業」のモータースポーツでなく登山に熱中する彼に納得できず退社する者も出た。
- バイク三ない運動には批判的で、以前自身のブログで「運動は子どものバイクやメカに対する興味を奪っている。」という趣旨のコメントを発表した。
- スピードカー・シリーズに参戦の際、併催されるGP2の吉本大樹をマネージャー兼メカニックとして連れている。これはスピードカー・シリーズの参戦者にはスタッフの旅費などの経費負担がされ資金不足の吉本大樹を支援出来るからである[要出典]。
[編集] ミナルディとの関係
- 実は移籍前まで「ミナルディに来る様になったら(F1人生の)終わり」と右京自身思っていた。
- F1時代に最後に所属したミナルディには思い入れがあるようで、中継の解説時にコメントを寄せることがある。
- 2005年のF1実況中に、過去在籍したミナルディがあまりにも遅かったため「レースする資格なし」と言ってしまった。しかしこれは決してミナルディを嫌っていたわけではなく、逆にミナルディがリタイヤした際に解説の川井一仁が「ああ、そうですか。ミナルディですか」と言ったときには、ゲスト解説の立場を忘れた怒りをのぞかせた。やり取りは以下の通り。
- 川井「えっと、今ホームストレートで1台止まってませんか?フェラーリですか?」
アナ「ミナルディのルカ・バドエルですね。」
川井「ああ、そうですか。ミナルディですか。」
右京「あの、川井さん。ミナルディならリタイアしてもいいんですか?」
川井「いや、どの車かなって思っただけで……。」
アナ「片山さん、そんな事言わないで下さいよ…。」(1999年開幕戦オーストラリアGPにて)
- 川井「えっと、今ホームストレートで1台止まってませんか?フェラーリですか?」
- 2008年の第14戦イタリアGPでは、ミナルディの後継チームであるスクーデリア・トロ・ロッソ所属のセバスチャン・ベッテルの、自身及びチーム(前身のミナルディ含む)にとって初めてのポールポジション及び優勝を記録した(F1史上最年少優勝も同時に記録)レースに解説者として出演。
- 「夢を諦めなければ扉が開かれることが分かった」
「(表彰式時に)こらえていないと涙が出そう」
と感無量のコメントを残した。
- 「夢を諦めなければ扉が開かれることが分かった」
[編集] 経歴年表
- 1983年 - FJ1600クラスデビュー
- 1984年 - 筑波FJ1600 Aクラスチャンピオン
- 1985年 - 全日本F3(チーム:ハセミモータースポーツ)(マシン:ハヤシ322日産)最高位4位、1FL シリーズ6位
- 1986年 - フランス フォーミュラ・ルノー参戦
- 1987年 - フランス フォーミュラ・ルノー参戦 フランスF3 スポット 参戦
- 1988年 - 全日本F3000参戦(チーム:バツレーシング)(マシン:マーチ87B&ローラT88/50無限)最高位5位 シリーズ11位
- 1989年 - 全日本F3000(チーム:フットワーク)(マシン:ムーンクラフト040&041無限)最高位7位。国際F3000スポット参戦 同チーム同マシンにより参戦。
- 1990年 - 全日本F3000(チーム:ヒーローズ)(マシン:ローラT90/50無限&DEV)最高位2位、1FL シリーズ5位
- 1991年 - 全日本F3000(チーム:ヒーローズ)(マシン:ローラT90/50&T91/50DEV)2勝、2PP、2FL シリーズチャンピオン
- 1992年 - F1参戦(チーム:ラルース)(マシン:ベンチュリLC92ランボルギーニ)最高位9位
トヨタTS010にてルマン24時間レース出場 決勝15時間後/192周回目にエンジントラブルでリタイヤ
- 1993年 - F1(チーム:ティレル)(マシン:ティレル020C&021ヤマハ)最高位10位
- 1994年 - F1(チーム:ティレル)(マシン:ティレル022ヤマハ)最高位5位 シリーズ17位
- 1995年 - F1(チーム:ティレル)(マシン:ティレル023ヤマハ)最高位7位
- 1996年 - F1(チーム:ティレル)(マシン:ティレル024ヤマハ)最高位7位
- 1997年 - F1(チーム:ミナルディ)(マシン:ミナルディM197ハート)最高位10位、F1引退表明。
- 1998年 - ルマン24時間耐久レース参戦(チーム:トヨタ・チーム・ヨーロッパ)(マシン:トヨタTS020 GT-ONE)総合9位
- 1999年 - ルマン24時間耐久レース参戦(チーム:トヨタ・チーム・ヨーロッパ)(マシン:トヨタTS020 GT-ONE)総合2位
- 2000年 - JGTC(GT500)参戦(チーム:NISMO)(マシン:日産・スカイラインGT-R(R34))シリーズ11位 非選手権セパン戦で優勝。
- 2001年 - JGTC(GT500)TeamUKYOを設立(マシン:トヨタ・スープラ)
- 2002年 - ダカールラリー参戦(チーム:アラコ)(マシン:トヨタ・ランドクルーザー100)リタイア JGTC(GT500)(チーム:TeamUKYO)(マシン:トヨタ・スープラ)シリーズ27位 シーズン中下田隼成にシートを譲り降板。
- 2003年 - ダカールラリー参戦(チーム:アラコ)(マシン:トヨタ・ランドクルーザー100)リタイア ルマン24時間耐久レース(チーム:KONDO Racing)(マシン:童夢S101無限)総合13位
- 2004年 - ダカールラリー参戦(チーム:アラコ)(マシン:トヨタ・ランドクルーザー100)リタイア
- 2005年 - ダカールラリー参戦(チーム:トヨタ車体)(マシン:トヨタ・ランドクルーザー100)総合30位、クラス3位 大阪産業大学工学部交通機械工学科の客員教授に就任。交通機械工学を講義する。
- 2006年 - アジアクロスカントリーラリー参戦(チーム:TeamUKYO)(マシン:トヨタ・ランドクルーザー100)バイオディーゼル燃料を利用して完走。総合14位
- 2007年 - ダカールラリー参戦(チーム:TeamUKYO)(マシン:トヨタ・ランドクルーザー100)使用済み天ぷら油をリサイクルして燃料としたディーゼル車にて完走。総合68位、クラス19位
- GP2アジアシリーズとの併催で2007年冬より新たにスタートするストックカーレース、スピードカーシリーズへの参戦を発表。F1時代からの友人であるジャン・アレジやジョニー・ハーバートから熱心に誘われ、実際にテストをしてみてから本人が決断したとのことで、久々にサーキットレースへの復帰を果たす。
[編集] 関連項目
- LUNA SEA
- モータースポーツ
- 日本人ドライバー一覧
- F1ドライバーの一覧
- TOYOTA Presents 片山右京のShall We Drive?~ドライブしようよ!~ - 2005年10月より2009年3月まで放送された放送ラジオ番組
- feel the mind〜最上の出会い〜 - 2009年4月6日放送開始のラジオ番組。
- NEXCO中日本 DRIVE ON THE HEART - TOKYO FMのラジオ番組。NEXCO中日本管轄エリアで放送。
- TBS「いのちの響」
[編集] 外部リンク
[編集] 脚注
- ^ 片山右京がエタップ・デュ・ツールで日本人最高の284位
- ^ 『F1ワハハ読本3』(川井一仁著、ソニー・マガジンズ)p.53
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