ミナルディ
| 参戦年度 | 1985 - 2005 |
|---|---|
| 出走回数 | 340 |
| コンストラクターズ タイトル |
0 |
| ドライバーズタイトル | 0 |
| 優勝回数 | 0 |
| 通算獲得ポイント | 38 |
| 表彰台(3位以内)回数 | 0 |
| ポールポジション | 0 |
| ファステストラップ | 0 |
| F1デビュー戦 | 1985年ブラジルGP |
| 初勝利 | - |
| 最終勝利 | - |
| 最終戦 | 2005年中国GP |
ミナルディ(MINARDI)は、1985年から2005年までF1に参戦していたレーシングチームである。本拠地はイタリアのファエンツァにあった。
1990年代半ば以降は「万年テールエンダー」などと呼ばれていたが、有能な新人を発掘する能力と資金難でもレースを続ける気概については一目置かれる存在であり続けた。
目次 |
[編集] 概要
自動車メーカーの支援を受けないプライベーターチームの1つであり、1990年代後半頃からは毎年のようにチーム存続の危機が囁かれ、スポンサー持ち込みのドライバーを採用することも多かった。F1で表彰台に上ったことは無く、参戦後期の印象から「万年テールエンダー」と揶揄されたが、1990年代前半頃までは中堅であり、予選で上位を占めることや入賞することも多かった。さらに、「現代のF1では他にみられない家庭的な雰囲気と、F1への愛と情熱を感じさせるチームである」と評価する向きもあった。
イタリアのチームだけあって、イタリア人ドライバーを多く起用していた時期があったが、1990年代終盤からは様々な国籍のドライバーを起用するようになった。また、日本人ドライバーの片山右京、中野信治が最後にF1をドライブしたチームでもあることから、日本人のファンも多かったチームの1つである。
[編集] 歴史
イタリアで老舗のフィアットディーラーを営むミナルディ一族のジャンカルロ・ミナルディによって1979年にF2チームとして設立された。1979年はマーチ792を使用したが、1980年にはオリジナルマシン、GM75をヨーロッパF2選手権に投入した。GM75を設計したのはジャコモ・カリーリである[1]。
[編集] F1参戦
- 1985年
この年より、ジャンカルロの甥であり、F2時代にもステアリングを握った経験があるピエルルイジ・マルティニと共にF1に進出。初年度は、マルティニのみの1カー体制だった。エンジンは開幕2戦はフォードエンジンだったが、第3戦サンマリノGPよりモトーリ・モデルニのV6ターボエンジンを使用した。
しかし、マシンの信頼性の低さやマルティニの経験不足からリタイヤが続き、初完走は第9戦ドイツGPでのことだった(11位)。その後も状況は好転せず、この年の完走は計3回に留まった(最高位:8位)。また予選でも例外なく下位に沈み、決勝進出が20位グリッドまでだった第4戦モナコGPでは予選落ちを喫している。
- 1986年
この年より2カー体制となるが、資金難から一旦マルティニを放出し、スポンサーを持ち込んだアンドレア・デ・チェザリスとアレッサンドロ・ナニーニを起用。しかしこの年もエンジンの信頼性が低く、共にリタイヤを連発。前年同様、第4戦モナコGPでは揃って予選落ちを喫している。
第15戦メキシコGPにて、チェザリス8位・ナニーニ14位でダブル完走を果たすが、結局各ドライバーともこれがシーズン唯一の完走となり、ポイントは獲得できなかった。
- 1987年
離脱したチェザリスに代わってナニーニがNo.1ドライバーに昇格し、No.2にはスペイン人のエイドリアン・カンポスを起用。しかしこの年もエンジンの信頼性が低く、完走はナニーニが2回(共に11位)、カンポスが1回(14位)に終わり、ダブル完走は1度もなかった。
- 1988年
この年より、信頼性皆無のモトーリ・モデルニエンジンに見切りを付け、フォード・コスワースの自然吸気エンジンユーザーとなる。ドライバーは共にスペイン人のカンポスとルイス・ペレス=サラであり、イタリア人ドライバーを起用せずにシーズンを開始した初の年となった。
順調に予選を通過していたペレス=サラに対し、カンポスは第3戦モナコGPから3連続で予選落ちを喫し、第5戦カナダGPをもって解雇された。後任として第6戦デトロイトGPより、マルティニがチームに復帰、復帰初戦のデトロイトGPにて完走9台のサバイバルレースを生き残って6位入賞、チームに初のポイントをもたらした。その後の入賞は叶わず、第9戦ドイツGP・第11戦ベルギーGPでは揃っての予選落ちも味わったが、完走はペレス=サラ6回(最高位8位)、マルティニは10戦のみのエントリーにもかかわらず5回と、モトーリ・モデルニエンジン時代と比較し遥かに増加した。コンストラクターズランクは10位。
この頃を境に、成績は向上してゆくこととなる。
- 1989年
引き続きマルティニとペレス=サラを起用し参戦。開幕から共にリタイヤが続いたが、ポイントを獲得しなければ予備予選組に落とされるという状況の中、背水の陣で挑んだ第8戦イギリスGPにて、マルティニ5位がペレス=サラ6位に入り、チーム初のダブル入賞を果たす。
マルティニはその後も第13戦ポルトガルGPで5位、最終戦オーストラリアGPで6位となり、計3度入賞。また、予選でも好位置につけるようになり、オーストラリアGPでは3位グリッドを獲得している。計6ポイントを獲得し、チームはランク10位となった。
- 1990年
No.1にはマルティニが残留、No.2には前年の日本GPでマルティニの代役として出走したパオロ・バリッラが正式加入した。開幕戦アメリカGPでは、ピレリタイヤが公道にマッチしたこともあり、マルティニが予選2位に入り、チーム及び自身初(結果的に唯一)のフロントローを記録。しかし決勝は7位に終わり、その後もポイントは獲得できなかった。
またバリラは予選落ちを連発し、特に第12戦イタリアGPから第14戦スペインGPまでは3連続予選落ちとなる。結局スペインGPをもって離脱し、終盤2戦はジャンニ・モルビデリが後任となるが、どちらもリタイヤに終わった。
シーズン終盤にはスポットスポンサーとして日本のパイオニアの支援を受け、カウル部分にロゴが掲出されている。
- 1991年
フェラーリからV12エンジンの供給を受け、ジャンカルロ・ミナルディが運営したスクーデリア・エベレストが1976年にフェラーリ・312Tを貸与されて以来、F1をめぐって15年ぶりにフェラーリとの関係を結んだ。ドライバーは前年終盤から引き続き、マルティニとモルビデリだった。
上位陣が総崩れとなった第3戦サンマリノGPにて、マルティニが4位に入賞。その後双方とも度々シングルフィニッシュを記録し、第13戦ポルトガルGPにて、マルティニが再び4位に入賞した。また第15戦日本GPでは、予選でマルティニが7位、モルビデリが8位につけ、四強の一角であったベネトン勢を共に上回った。決勝は共にリタイヤとなるが、一時はマルティニ5位、モルビデリが7位を走行している。
この年はチーム最高のコンストラクターズ7位を獲得したが、チームマネージャーであった佐々木正曰く、「エンジンの使用料がチームの財政を圧迫した」こともあり、1年で手放す事となる。また、前年終盤からスポンサーについており大型支援を期待していたパイオニアが支援先をフェラーリに切り替えてしまうなど、資金面のつけが後々響くことになる。またフェラーリのアラン・プロスト解雇に伴い、最終戦オーストラリアGPのみモルビデリはフェラーリから参戦、代役としてロベルト・モレノが出走した。
- 1992年
残留したモルビデリと、前年の国際F3000チャンピオンであるクリスチャン・フィッティパルディを起用して参戦。エンジンはランボルギーニを搭載した。しかし好位置にはつけるも入賞に結びつかず、更に第7戦フランスGP予選にて、フィッティパルディが脊髄に罅が入る重傷を負い一時離脱、アレッサンドロ・ザナルディが代役となるが、予選落ち2回・リタイヤ1回と結果は残せなかった。
その後復帰したフィッティパルディは、第15戦日本GPにて6位入賞。これがこの年チーム唯一の入賞となった(ランキング11位)。また前年のフェラーリエンジン同様、ランボルギーニエンジンも1年で手放した。
- 1993年
フォードエンジンを搭載し、フィッティパルディとファブリツィオ・バルバッツァを起用して参戦。完走7台の開幕戦南アフリカGPにて、フィッティパルディが4位に入賞と、幸先の良いスタートを切る。その後はバルバッツァが6位2回、フィッティパルディが5位1回と、前半戦に計4度の入賞を記録した。
スポンサーマネーの支払い滞りから、バルバッツァは第7戦フランスGPをもって解雇され、第8戦イギリスGPよりマルティニがチームに復帰。しかし後半戦は各数回シングルフィニッシュを記録したが、入賞は出来なかった。また、第15戦日本GPから、フィッティパルディに代わり、持参金付きドライバーのジャン=マルク・グーノンを起用した(完走なし)。この年はランキング8位だった。
この頃より、参戦チーム数が減少の一途をたどるようになった。下位チームが次々と撤退・消滅していく中で、ミナルディ・チームの位置付けも、中堅から下位へと相対的に変化していった。
- 1994年
1994年には、同じイタリアのプライベーターであるスクーデリア・イタリアと合併。翌年までの2シーズンに渡り「ミナルディ・スクーデリア・イタリア」のチーム名で参戦した。
この年のドライバーは、マルティニと、ベテランのミケーレ・アルボレートを起用。リタイヤが多かったものの、マルティニが5位2回、アルボレートが6位1回を記録して計5ポイントを獲得。ランキング10位となった。
- 1995年
無限エンジンの契約を巡りリジェと法廷闘争になるが、結局それまで通りフォードエンジンでの参戦となる。当初のドライバーはマルティニとルカ・バドエルだったが、第9戦ドイツGPよりペドロ・ラミーがマルティニに代わって参戦、長年ミナルディのステアリングを握ったマルティニは、そのままF1から引退することとなった。
ラミーが最終戦オーストラリアGPにて6位入賞、これによりチームはランク10位となる。またポイントは獲得出来なかったが、マルティニは最高位7位(2回)、バドエルは最高位8位を記録した。
- 1996年
スクーデリア・イタリアとの合併を解消。単独チームとして参戦するが資金難は深刻であり、終盤にはベネトンのマネージャー、フラビオ・ブリアトーレが所有権の一部を得てチーム代表となった。以降、ジャンカルロ・フィジケラに始まり、ミナルディはブリアトーレがマネージメントする新人ドライバーのF1デビューの場となった。
ラミーは全16戦に参戦したが、もう1台はフィジケラ(8戦)、タルソ・マルケス(2戦)、ジョバンニ・ラバッジ(6戦)の3人がドライブした。最上位は、第8戦カナダGPにおけるフィジケラの8位だった。
- 1997年
フォンドメタル社が経営参加し、ガブリエル・ルミが新代表となる。この年は、片山右京が全戦に参戦、第7戦カナダGPまではヤルノ・トゥルーリがコンビを組んだ。カナダGPでプロスト・グランプリのオリビエ・パニスが、両足骨折の重傷を負い離脱すると、トゥルーリはその代役としてプロストに引き抜かれ、以後はマルケスが最終戦オーストラリアGPまで参戦した。しかし、この年もノーポイントとなった。
[編集] 身売りまでのカウントダウン
1999年には復帰したデザイナー、グスタフ・ブルナーが優れたアイデアを発揮し、以後は低予算の手本ともいえるマシン開発が評価された。しかし、チームには幾度となく身売り話が浮上した。
2001年にはヨーロピアン航空社長のポール・ストッダートがチームを買収し新オーナーになる。ちなみに、創始者ジャンカルロ・ミナルディはストッダートにチームを売却した後もチームに残っていた。ストッダートは、高騰し過ぎたF1参戦費用の改善を求めバーニー・エクレストンや他チーム(特にフェラーリ)首脳に対し過激な発言を繰り返していた。
また、同じくプライベーターF1チームであるジョーダンのオーナーであったエディ・ジョーダンとは対照的に、個人資産を削ってまでミナルディチームを参戦させ続けた。
しかし、ストッダートの奮闘も虚しく、2005年をもってレッドブル社にチームを売却し、20年に渡るチームの歴史に幕を下ろした。2006年からはレッドブル・レーシングのジュニアチームのスクーデリア・トロ・ロッソとして参戦することとなった。
最後のレースとなった2005年の最終戦である中国GPまでに通算340戦参戦を果たした。これは当時の記録として、フェラーリ、マクラーレン、ロータス、ウィリアムズ、ティレル、ブラバムに次ぐ、歴代7位となるものである。
[編集] F1撤退後
チーム創設者のジャンカルロ・ミナルディは、2006年よりイタリアのGPレーシングと共にユーロ3000選手権(旧・イタリアF3000選手権)に「Minardi Team」の名称で参戦を開始し、「ミナルディ」の名称は引き続きモータースポーツ界に残されることとなった。また2007年からはネルソン・ピケ率いるピケ・スポーツとのジョイントによりミナルディ・ピケスポーツを設立。GP2参戦を開始した(2007年限り)。
またポール・ストッダートは、2006年3月29日に「ヨーロピアン・ミナルディF1リミテッド」の名称で2008年のF1世界選手権へのエントリー申請を行ない、結果却下されたが、その後新たなレース活動をアメリカのチャンプカーに求めた。キース・ウィギンス率いるCTEレーシングHVMの株式の半数を取得する形で、2007年よりミナルディチームUSAの名称で参戦することが決定した。これにより、ヨーロッパではジャンカルロ・ミナルディが率いるミナルディ、アメリカではポール・ストッダート率いるミナルディと、2つのミナルディがそれぞれ異なるカテゴリーでレースに参戦することになった。
しかし、前述の通りGP2でのジョイントは1年で終了、チャンプカーシリーズが2008年よりIRLへ統合され、IRLへの転向も見送ることとなったため、再びミナルディの名はレースシーンから消えることとなってしまった。
が、2011年にフォーミュラ・ルノー3.5世界選手権にジャンカルロ・ミナルディの息子、ジョバンニ・ミナルディ率いるBVMターデットチームが参戦することが、オートスポーツWebの2010年10月12日付の記事で報じられた。それによると、BVMチームはすでにイタリアF3選手権などに参戦はしていたが、世界転戦型のモータースポーツカテゴリーに参戦するのはこれが初めてであった。
[編集] 新人ドライバー発掘
ミナルディチームは上記の通り有力ドライバーを雇えない一方で、新人発掘には優れていた。古くは、ミナルディから計6シーズンに参戦したマルティニをはじめ、アレッサンドロ・ナニーニもミナルディからF1デビューしている。特に1990年代後半からは、マーク・ウェバー、フェルナンド・アロンソ、ジャンカルロ・フィジケラ、ヤルノ・トゥルーリといった有力ドライバーがミナルディからデビューを果たしてトップチームへとステップアップしていった。中でもアロンソは2006年にミナルディ出身ドライバーとして2年連続ワールドチャンピオンを獲得した。まさに若手の登龍門的存在といえるであろう。
また、その他のミナルディ出身者の中には片山右京や中野信治、アレックス・ユーンやステファン・サラザンなど、F1以外のモータースポーツで活躍するドライバーもいる。
[編集] ミナルディ出身のF1優勝者
ここではミナルディでデビューして後にF1で優勝を記録したドライバーを初優勝の記録順に挙げる。(カッコ内は初優勝GPと当時の所属チーム)
- アレッサンドロ・ナニーニ(89年日本GP、ベネトン)
- ジャンカルロ・フィジケラ(03年ブラジルGP、ジョーダン)
- フェルナンド・アロンソ(03年ハンガリーGP、ルノー)
- ヤルノ・トゥルーリ(04年モナコGP、ルノー)
- マーク・ウェバー(09年ドイツGP、レッドブル)
- (補足)08年イタリアGPでミナルディの後継チームのトロ・ロッソで初優勝したセバスチャン・ベッテルはBMWザウバーでのF1デビューであった。そのベッテルは、2010年に、最年少のF1世界チャンピオンとなった。
[編集] エピソード
ミナルディは弱小チームであったが、それゆえに愛すべきエピソードが数々ある。以下にその一部を紹介する。
- 食事はポディウムの頂点
- ミナルディのモーターホームで供される食事は非常に美味しいことで有名であった。特にパスタとエスプレッソが絶品といわれており、他チームのドライバーやメディア関係者が食事目当てにしばしば遊びに来ていた。アイルトン・セナがパスタの常連客だったことは有名である。また、ミナルディはこの食事を振る舞うために、他のチームよりも比較的大きく食材運搬などのためのコストを割いていると言われていた。そうした基本姿勢が縁になった訳では無いと言われているが、パスタ製造で世界有数の食品企業であるバリラ社の御曹司、パオロ・バリッラ(バリッラ自身はバリラ社の直接の支援は受けていない)がミナルディをドライブ(1989年-1990年参戦)していたこともある。
- "Ferrarldi"が本家フェラーリを追い回す
- 1991年、フェラーリエンジンを搭載したミナルディ。第13戦ポルトガルGP決勝で3位を走っていたフェラーリのジャン・アレジを、ミナルディを駆るピエルルイジ・マルティニが追い回すという展開が見られた。結局アレジがそのまま逃げ切り、表彰台は逃したがマルティニは4位でチェッカーを受けた。結局、これがF1でのミナルディのチーム史上最上位の成績だった。
- 自動タイヤ洗浄機開発
- 2000年のイタリアGPで、自社開発した自動タイヤ洗浄機を発表。“SPEED WASH 2000”と銘打ち、他のチームに1台160万円で販売しようとした。しかし評判は「時間がかかる・うるさい・手洗いのほうが圧倒的に綺麗になる」という最悪三拍子で、結局1台も売れなかった。「そんなものを作る暇があるならマシンの開発をしろ」などと揶揄されたことは言うまでもない。ちなみに、2002年の同GPで改良版が発表された。
- ストッダートによる買収とアロンソの活躍
- 毎年のように撤退がささやかれたミナルディであったが、2000年オフから2001年にかけてが一番消滅に近づいた時期だった。当時のオーナーガブリエーレ・ルミは必死に売却先を探していたが2001年になっても見つからず、チームスタッフも消滅を察知してかファエンツァを去り始めていた。そこへ救いの手を差し伸べたのが、過去にティレルやアロウズでスポンサー活動を経験し、自らも下位カテゴリーにチームを持っていたポール・ストッダートだった。買収時点でドライバー集めやマシン製作などでに割く時間は限られており、開幕からの参戦は危ぶまれていたが、奇跡ともいわれる短期間でニューマシンPS01を製作し、ドライバーも元ミナルディのテストドライバーでこの年はベネトン(ルノー)のテストドライバーとして契約していたフェルナンド・アロンソを招き入れた。アロンソはしばしばベネトンを予選で上回り、決勝では追い掛け回すほどの走りを見せ、その後の活躍への片鱗を見せた。
- シャンパンファイト
- 2002年開幕戦オーストラリアGP、地元でのF1デビューとなったマーク・ウェバーは決勝で5位入賞を果たし、ミナルディに3年ぶりのポイントをもたらした。オーストラリアは当時のチームオーナーであるポール・ストッダートの地元であったこともあり、正規の表彰式終了後にミナルディのスタッフはわざわざFIAに許可を取って表彰台に上り、シャンパンファイトを行った。
- ポールポジション獲得
- 2003年第10戦フランスGP予選1回目のことであった。セッションの序盤は、雨で路面はウェット状態だったが徐々に乾いていき、後になればなるほど有利な状況となった。このセッションは獲得ポイントが多い順にアタックするものであり、最後にドライタイヤを履いてアタックした(つまりこの時点で最も獲得ポイントが少なかった)ミナルディのヨス・フェルスタッペンが暫定ポールポジションを獲得。暫定とはいえ、ミナルディにとって初の快挙だった。もうひとりのジャスティン・ウィルソンも2番手タイムをマークしたが、メカニックのミスで重量規定違反となりノータイム扱いだった。しかしこれは土曜予選の出走順を決めるためだけのものであり、結局決勝レースは指定席からのスタートとなった。
- 自慢の2シーターカー
- ミナルディは世界各地で2シーターカーの乗車イベントを開いていた。2001年8月にイギリスで開かれた2シーターの模擬レースでは、元F1チャンピオンのナイジェル・マンセルが後ろにゲストを乗せ参加。自身のトレードマークである赤いゼッケン5のマシンを駆ったマンセルは、何とゴール寸前の車に追突。マシンが宙を舞う派手なクラッシュだったが、幸いケガ人はいなかった。マンセルらしいエピソードではあるが、ゲストは肝を冷やしたことだろう。ちなみにこのとき追突されたマシンをドライブしていたのはフェルナンド・アロンソで、レースの勝者はオーナーのストッダートだった。
- 2005年アメリカGP
- インディアナポリスで行われた2005年のアメリカGPは、フリー走行でのラルフ・シューマッハーのミシュランタイヤバーストによるクラッシュを皮切りに、ミシュランがタイヤの安全性を保障できないという通達を出したため、ミシュラン勢が決勝レースを棄権するという異常事態が発生した。これにより決勝レースに事実上出走したのはブリヂストンタイヤを履くフェラーリ、ジョーダン、ミナルディの6台のみ。つまり、完走さえすれば必ずポイントゲットというレースであった。ミナルディはクリスチャン・アルバース、パトリック・フリーザッハーの順で5、6位フィニッシュで計7ポイントを獲得した。しかし、それでも首位のフェラーリ勢から2周遅れでのチェッカーであった。
- 後進による優勝
- ミナルディの後身であるスクーデリア・トロ・ロッソは、ミナルディ最大の弱点であった資金問題を克服して、2008年にホーム・グランプリであるイタリアGPでポールトゥウィンで初勝利を飾った。このときのドライバーのセバスチャン・ベッテルは、2010年に史上最年少のF1世界チャンピオンとなった。
[編集] 記録
- 出走 - 340レース(歴代7位)
- 総獲得ポイント - 38ポイント
- 予選最高位 - 2位(1990年第1戦アメリカGP)
- 決勝最高位 - 4位(1991年第3戦サンマリノGP、1991年第13戦ポルトガルGP、1993年第1戦南アフリカGP)
- コンストラクターズ・ランキング最高位 - 7位/18チーム中(1991年、6ポイント)
[編集] チーム首脳
- チーム代表(オーナー):
- 1985年 - 2000年 ジャンカルロ・ミナルディ
- 1996年 フラビオ・ブリアトーレ
- 1997年 - 2000年 ガブリエル・ルミ
- 2001年 - 2005年 ポール・ストッダート
- 1985年 - 2000年 ジャンカルロ・ミナルディ
- 若手ドライバー育成担当ディレクター:
- 2001年 - 2005年 ジャンカルロ・ミナルディ
- テクニカル・ディレクター:
- 1985年 - 1988年 ジャコモ・カリーリ
- 1989年 - 1995年 アルド・コスタ
- 1996年 - 1998年 ガブルエル・トレドッツィ(1996年と1997年はマウロ・ジェッナーリと協同)
- 1999年 - 2000年 グスタフ・ブルナー
- 2001年 - 2005年 ガブルエル・トレドッツィ
また、1990年代前半まで、チームマネージャーとして日本人の佐々木正が所属していた。佐々木は後に帰国し、日本のレーシングカーコンストラクターの童夢と契約するが、このことより「童夢の車がミナルディで走るのでは」と噂になったこともある(この噂に当時童夢側は激怒し、噂を報じた雑誌に抗議している。しかし後に佐々木は、2000年頃に童夢が投資家グループと共にミナルディ買収に動いたことを、童夢公式サイトで連載したコラムにおいて認めている)。
[編集] 歴代ラインナップ
- 太字のドライバーはその年ミナルディからデビュー(決勝初出走)。「*」が付いているドライバーは欠場あり。
| 年 | エントリー名 | 車体*1 | タイヤ | エンジン*2 | ドライバー | ランキング /参戦総数, pts.*3,*4 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1985年 | ミナルディ・チーム | M185 | P | フォード DFV V8 モトーリ・モデルニ615-90 V6ターボ |
12位 / 18 |
|
| 1986年 | ミナルディ・チーム | M185B M186 |
P | モトーリ・モデルニ615-90 V6ターボ | 12位 / 14 |
|
| 1987年 | ミナルディ・チーム | M186 | G | モトーリ・モデルニ615-90 V6ターボ | 14位 / 16 |
|
| 1988年 | ロイス・ミナルディ・チーム | M188 | G | フォード DFZ V8 | 10位 / 18 |
|
| 1989年 | ミナルディ・チーム | M188B M189 |
P | フォード DFR V8 | 11位 / 20 |
|
| 1990年 | SCM・ミナルディ・チーム | M189B M190 |
P | フォード DFR V8 | 13位 / 19* |
|
| 1991年 | ミナルディ・チーム | M191 | G | フェラーリTipo036,037 V12 | 7位 / 19* |
|
| 1992年 | ミナルディ・チーム | M191B M191L M192 |
G | ランボルギーニ3512 V12 | 12位 / 16 |
|
| 1993年 | ミナルディ・チーム | M193 | G | フォードHB6 V8 | 8位 / 13 |
|
| 1994年 | ミナルディ・スクーデリア・イタリア | M193B M194 |
G | フォードHB6,7 V8 | 10位 / 14 |
|
| 1995年 | ミナルディ・スクーデリア・イタリア | M195 | G | フォードED V8 | 10位 / 13 |
|
| 1996年 | ミナルディ・チーム | M195B | G | フォードED V8 | 10位 / 11 |
|
| 1997年 | ミナルディ・チーム | M197 | B | ハート830 AV7 V8 | 11位 / 12* |
|
| 1998年 | ミナルディ・チーム | M198 | B | フォードP6(ZETEC-R) V10 | 10位 / 11 |
|
| 1999年 | フォンドメタル・ミナルディ・フォード | M01 | B | フォードVJ(ZETEC-R) V10 | 10位 / 11 |
|
| 2000年 | テレフォニカ・ミナルディ・フォンドメタル | M02 | B | フォンドメタル (フォード VJ(ZETEC-R) V10) | 10位 / 11 |
|
| 2001年 | ヨーロピアン・ミナルディ・F1 | PS01 PS01B |
M | ヨーロピアン (フォード VJ(ZETEC-R) V10) | 11位 / 11 |
|
| 2002年 | KL・ミナルディ・アジアテック | PS02 | M | アジアテックAT02 V10 | 9位 / 11 |
|
| 2003年 | ヨーロピアン・ミナルディ・コスワース | PS03 | B | コスワースCR-3 V10 | 10位 / 10 |
|
| 2004年 | ミナルディ・コスワース | PS04B | B | コスワースCR-3L V10 | 10位 / 10 |
|
| 2005年 | ミナルディ・コスワース | PS04B PS05 |
B | コスワースCK2004,TJ2005 V10 | 10位 / 10 |
- *1 車体:1980年代の車体形式番号について、日本では「M185」のように数字3桁で、その他の国では「M85」のように数字2桁で書く傾向がある。
- *2 エンジン:1985年は開幕戦と第2戦のみフォード・コスワースDFVエンジンを使用し、第3戦以降はモトーリ・モデルニに変更した。
- *3 参戦総数:1990年は19チームがエントリーしたが、ライフが全戦予備予選落ち(途中撤退)、コローニが全戦予備予選/予選落ちしているため、決勝を走ったのは17チームである。1991年もエントリーは19チームだったが、コローニが全戦予備予選落ち、実質的には18チームである。同様に、1997年は12チームがエントリーしたが、復活参戦のローラが開幕戦で予選落ちして決勝を一度も走ることなく撤退したため、決勝を走ったのは11チームのみである。
- *4 順位:無得点に終わった年については、デッドヒート制により、順位を求めている。無得点の年を最下位タイと考えず、かつ1997年を除外すると、ミナルディがF1で最下位となった年は2001年、2003年、2004年、2005年の4回である(史上最多)。
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
- ^ 『CAR GRAPHIC 別冊 レーシングカー '80』 株式会社 二玄社、1980年、pp.128-129。
[編集] 外部リンク
- 公式サイト
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