ジャガー・レーシング

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
ジャガー
参戦年度 2000 - 2004
出走回数 85
コンストラクターズ
タイトル
0
ドライバーズタイトル 0
優勝回数 0
通算獲得ポイント 49
表彰台(3位以内)回数 2
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
F1デビュー戦 2000年オーストラリアGP
初勝利
最終勝利
最終戦 2004年ブラジルGP
テンプレートを表示

ジャガー・レーシングJaguar Racing)は、2000年から2004年までF1に参戦していたコンストラクター。

概要[編集]

1999年フォードは活動を支援してきたジャッキー・スチュワート率いるスチュワート・グランプリを買収し、同社傘下のジャガーブランドで2000年からF1参戦を開始した。そのマシンは往年のナショナルカラーのブリティッシュ・レーシング・グリーンを纏い、「ビッグキャット」と呼ばれたジャガーのデザインが描かれた。当初は長年コスワースとともにF1に参戦してきたフォードがついに本気で参戦を開始するというふれこみで、大々的なプロモーション活動が注目された。しかしフォードの業績不振に伴い2004年シーズンをもってF1から撤退を発表するまで、チーム代表が頻繁に交替し、下記の様にわずか5年の間に8人のドライバーを起用するなど、常に政治的な動きに翻弄された結果、肝心のマシン開発が疎かとなり、散発的な入賞を記録するも、全く成功とは程遠い惨憺たる有様であった。

2005年シーズンへ参戦するのかが注目されていたが、結局チームはそれまでザウバーチームなどのスポンサーでモータースポーツとの関わりを深めていたオーストリア栄養ドリンクメーカー レッドブルへ売却された。結果として、ジャガーが2005年用のマシンとして開発していたマシンで参戦を始めたレッドブルが、2005年にそれなりの成績を収めたことから、ジャガーがいかに方向性を失っていたかが明らかとなったのである。 この時の買収金額は「1ドル」と言われているが、これは買収金額が一番多い会社への売却をフォードが求めたのではなく、従業員の雇用確保と安定した参戦資金の確保を条件とした結果、レッドブルが選ばれたためである。

2004年の最終戦では、各チームで恒例となっている全スタッフによる記念撮影が行なわれたが、チームの売却先が決まっていないタイミングでの撮影であったため、「FOR SALE」のプラカードが掲げられていた[1]

歴史[編集]

参戦当初[編集]

ジャガー最後のマシンになったR5

参戦当初、ジャガー・レーシングのチーム代表にはニール・レスラーが就任した。レスラーは、友人であったボビー・レイホールマネージングディレクターとして据えた。レイホールが技術スタッフを人選すると、スチュワート時代からの技術陣は崩壊し、多くが解雇されたり、自らジャガーを去っていった[要出典]撤退発表の時点で、スチュワート時代から残っていたスタッフは、チームマネージャーのデビッド・スタッブスとメカニックが数名だけだった[要出典]。撤退までの5年間で、技術部門のトップであるテクニカルディレクターは、アラン・ジェンキンスゲイリー・アンダーソンスティーブ・ニコルズと代わった。

レイホール時代[編集]

レスラーは、2000年で引退し、2001年からレイホールがチーム代表兼CEOに就任した。この年の6月、ジャガーのテクニカルディレクターとして、レイホールは友人であったエイドリアン・ニューウェイ(当時マクラーレンメルセデス在籍、現在レッドブル・レーシング在籍)と契約したものの、ニューウェイが在籍していたマクラーレン・メルセデスのチーム代表ロン・デニスに説得され、ジャガー入りを翻意したというこの事件で、レイホールは失脚。また、この頃テクニカルディレクターだったニコルズもチームを離脱しており、代役をチーフ・エンジニアであるジョン・ラッセルが務めた。

ラウダ加入と怪人事[編集]

レイホールに代わり、2002年からはウォルフガング・ライツレが事実上の責任者となる。この時点で、ジャガー・レーシング内部からアメリカ陣営は撤収。ヨーロッパ組が全指揮を執ることとなる。ライツレは、親しかったニキ・ラウダをチーム代表に据え、レイホールをアメリカに戻すという口実で、ラリー部門出身のギュンター・シュタイナー(前レッドブル・レーシング テクニカルディレクター、2006年4月1日付でNASCARのレッドブルチーム(2007年から2011年まで参戦)のテクニカルディレクターに就任)を技術部門のトップに据えた。しかし、2002年半ば、フォードはジャガー・レーシングをデトロイト本社の傘下に戻すことを決定。ライツレはあえなく解雇されてしまう。また、ラウダもこの時の不可解な人事によってシュタイナーと共に解雇されている。ちなみにこの時ラウダはフォード本社に問い合わせても全くコンタクトが取れず、自分の解雇をニュースで知ったという有様だった。この解雇が原因で、ラウダは相当なイギリス人嫌いになったという。また、この時のラウダの"置き土産"となったのが、アントニオ・ピッツォニア(ジャガー→ウィリアムズ第3ドライバー)である。

撤退までの混迷[編集]

ライツレの後任には、リチャード・パリー・ジョーンズが就任。早速ジョーンズはフォード傘下でレース用の電子システムなどを手がけるPIリサーチから、辣腕として知られていたトニー・パーネルをチーム代表に、デビッド・ピッチフォースをマネージングディレクターとして招聘。改革に着手する。しかし、極端な予算削減を本社から言い渡されたチームは、2003年2月のバルセロナ・テストの最中に120名ものスタッフを突如解雇した。さらにこの時はテストを途中で切り上げさせ、チームを強引にイギリスへ戻している。この結果、チームは30%強もの人材を失ってしまう。さらに、パフォーマンス条項を理由にシーズン途中でピッツォニアを解雇。スポンサーから資金援助を受けているために、サラリーが発生しないジャスティン・ウィルソンミナルディから獲得する。ピッツォニアは、もともとラウダが契約したということで目の敵にされていたという。

さらにこの頃フォード本社でも問題が発生する。それがファイアストンとの問題である。99年から40件以上、警察に記録されていたフォードのSUVエクスプローラータイヤバースト事件において、エクスプローラーにはミシュラン製のタイヤも供給されていたにも関わらず、当時フォード本社のCEOであったジャック・ナッサーはファイアストンの技術的欠陥だと公然と指摘してしまう。これが大きな波紋を呼び、ファイアストンがフォードを提訴。この訴訟は、ファイアストンの圧勝で終わり、フォードは多額の賠償金を支払う羽目になる。当然、この訴訟の引き金となる発言をしたナッサーは解雇された。後任のCEOには、フォード家出身のウィリアム・フォードが就任する。これがジャガー撤退への決定打となってしまう。実はフォード家自体は多額の資金が必要なF1活動に反対しており、ナッサーが15年に渡りフォード家の反対を押し切ってF1活動を続けてきた張本人だったのである。パーネルが採用したテクニカルディレクターのマーク・ギラン博士は、限られた予算の中でマシンを作ったものの、デトロイト本社の首脳の気持ちを変えることはできなかった。結局2004年9月17日、フォードのモータースポーツ部門のプレミア・オートモーティブ・グループの代表であったリチャード・パリー・ジョーンズがジャガー撤退を発表。ジャガー・レーシング本体と共にレースエンジン製作の老舗コスワース・エンジニアリングとレース用電子システムなどを製作するPIリサーチも売却された。最後までビッグ・キャット(ジャガーの愛称)とブルーオーバル(フォードの愛称)は、ワークスとしての勝利を挙げることはできないまま、F1から消えていった。

ダイヤモンド紛失事件[編集]

2004年モナコGPでは、ワーナーのスポンサードで映画『オーシャンズ12』カラーのマシンを走らせた。PRの目玉として、フロントノーズにイスラエルダイヤモンドメーカーシュタインメッツ社の時価25万ドルの同社製“ピンクダイヤモンド”(en)を埋め込んで出走したが、クリスチャン・クリエンの駆るマシンが1周目のロウズヘアピンでクラッシュ。壊れたフロントノーズはレース中コース脇に撤去されていたが、後でチームが回収するとダイヤが無くなっていた。

戦績[編集]

マシン エンジン タイヤ ドライバー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 ポイント ランキング
2000 R1 コスワース・CR-2 B AUS BRA SMR GBR ESP EUR MON CAN FRA AUT GER HUN BEL ITA USA JPN MAL 4 9位
エディ・アーバイン Ret Ret 7 13 11 Ret 4 13 13 Inj 10 8 10 Ret 7 8 6
ルチアーノ・ブルティ 11
ジョニー・ハーバート Ret Ret 10 12 13 11 9 Ret Ret 7 Ret Ret 8 Ret 11 7 Ret
2001 R2 コスワース・CR-3 M AUS MAL BRA SMR ESP AUT MON CAN EUR FRA GBR GER HUN BEL ITA USA JPN 9 8位
エディ・アーバイン 11 Ret Ret Ret Ret 7 3 Ret 7 Ret 9 Ret Ret DNS Ret 5 Ret
ルチアーノ・ブルティ 8 10 Ret 11
ペドロ・デ・ラ・ロサ Ret Ret Ret 6 8 14 12 Ret 11 Ret 5 12 Ret
2002 R3 コスワース・CR-4 M AUS MAL BRA SMR ESP AUT MON CAN EUR GBR FRA GER HUN BEL ITA USA JPN 8 7位
エディ・アーバイン 4 Ret 7 Ret Ret Ret 9 Ret Ret Ret Ret Ret Ret 6 3 10 9
ペドロ・デ・ラ・ロサ 8 10 8 Ret Ret Ret 10 Ret 11 11 9 Ret 13 Ret Ret Ret Ret
2003 R4 コスワース・CR-5 M AUS MAL BRA SMR ESP AUT MON CAN EUR FRA GBR GER HUN ITA USA JPN 18 7位
マーク・ウェバー Ret Ret 9 Ret 7 7 Ret 7 6 6 14 11 6 7 Ret 11
アントニオ・ピッツォニア 13 Ret Ret 14 Ret 9 Ret 10 10 10 Ret
ジャスティン・ウィルソン Ret Ret Ret 8 13
2004 R5 コスワース・CR-6 M AUS MAL BHR SMR ESP MON EUR CAN USA FRA GBR GER HUN BEL ITA CHN JPN BRA 10 7位
マーク・ウェバー Ret Ret 8 13 12 Ret 7 Ret Ret 9 8 6 10 Ret 9 10 Ret Ret
クリスチャン・クリエン 11 10 14 14 Ret Ret 12 9 Ret 11 14 10 13 6 13 Ret 12 14

参照 [編集]

  1. ^ http://www.f1fanatic.co.uk/wp-content/uploads/2008/03/jaguar_shang_2004_470313.jpg

関連項目[編集]