ゲイリー・アンダーソン

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ゲイリー・アンダーソン(Gary Anderson)は、イギリスレーシングカーデザイナーF1チームのジョーダンジャガーでテクニカルディレクターを務めた。

経歴[編集]

初期[編集]

アイルランド島北部出身。レーサーを目指してイングランドに渡るが、メカニックの職に就く。モーターレーシング・ステーブルスを経てブラバムに加入。チーフ・メカニックに昇格し、ゴードン・マレーの下で働く。

1976年、メカニック仲間のボブ・シンプソンと共に独立し、アンソン (Anson) のF3マシンを開発するが、資金難で活動が頓挫する。アンダーソンは程なくF1チームに戻り、マクラーレンエンサインで働く。1983年、アンソンで再出発し、F3やフォーミュラ・スーパー・ビー (Formula Super Vee) で成功を収める。

1985年、アメリカに渡ってCARTのギャレス・レーシングのチーフ・エンジニアに就任し、ドライバーのロベルト・モレノと親しくなる。1988年、Bromley Motorsportのテクニカル・ディレクターとして、モレノの国際F3000選手権チャンピオン獲得に貢献する。チームがレイナードのシャシーを使用していた縁でレイナードに招かれ、1989年と1990年にF3000マシンを設計した。

ジョーダン(第1期)[編集]

1990年、国際F3000の強豪チームであるエディ・ジョーダン・レーシング (EJR) の依頼を受け、マーク・スミスらとジョーダン・191を開発する。翌1991年ジョーダン・グランプリがF1に初参戦すると、191は美しいデザインと高い戦闘力により注目を浴びる。アンダーソン自身も1992年にはジョーダンのテクニカルディレクターに就任する。

以後、エディ・ジョーダンの堅実なチーム運営と、アンダーソンが率いる開発部門の力により、ジョーダンは着実にチーム力を伸ばしていく。アンダーソンの元では前述のマーク・スミス(ケータハムのテクニカルディレクター)やアンドリュー・グリーンフォース・インディアのテクニカルディレクター)、ニコロ・ペトルッキ(元トヨタのチーフエアロダイナミシスト)ら若いエンジニアが育った。

1994年ベルギーグランプリではルーベンス・バリチェロが初ポールポジションを獲得。1998年ベルギーグランプリではデイモン・ヒルのドライブにより初優勝を達成する。しかし、アンダーソンはその瞬間を見届けることなく、1998年シーズン途中にジョーダンを離脱する(後任はマイク・ガスコイン)。

スチュワート / ジャガー[編集]

1998年末にスチュワート・グランプリに加入し、アラン・ジェンキンスが設計したSF-3の熟成に関わる。1999年ヨーロッパグランプリではジョニー・ハーバートのドライブにより初優勝を達成する。

スチュワートはフォードに買収され、2000年よりジャガー・レーシングに移行する。アンダーソンはジャガーのF1初マシンとなるR1をデザインしたが失敗作となり、2000年末にチームを追われる(後任はスティーブ・ニコルズ)。その後しばらくはレイナードのCARTプログラムに関わる。

ジョーダン(第2期) / その後[編集]

2002年、古巣のジョーダンに復帰し、エグバル・ハミディ設計のEJ12の改良を担当。2003年はアンリ・デュランと共にEJ13を開発した。2003年ブラジルグランプリジャンカルロ・フィジケラが勝利を獲得するが、チームの資金難により成績は上向かなかった。 その後、レースエンジニアとしてGP2チームに短期的に関わるなどした後、現在はメディアでのレース中継の解説などの仕事をしている。

外部リンク[編集]