ウィリアムズF1

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ウィリアムズ
エントリー名 Williams F1 Team
チーム国籍 イギリスの旗 イギリス
チーム本拠地 イギリスの旗 イギリスオックスフォード州グローヴStation Road,Wantage,OX12 0DQ
チーム代表者 フランク・ウィリアムズ
テクニカルディレクター マイク・コフラン
2013年のF1世界選手権
ドライバー パストール・マルドナド[1]
バルテリ・ボータス[1]
テストドライバー TBA
シャーシ FW35
エンジン ルノー
タイヤ ピレリ
F1世界選手権におけるチーム履歴
参戦年度 1975 -
出走回数 611 (1181台)
コンストラクターズ
タイトル
9 (1980, 1981, 1986,
1987, 1992, 1993, 1994,
1996, 1997)
ドライバーズ
タイトル
7 (1980, 1982, 1987,
1992, 1993, 1996, 1997)
優勝回数 114
通算獲得ポイント 2750
表彰台(3位以内)回数 297
ポールポジション 127
ファステストラップ 130
F1デビュー戦 1975年アルゼンチンGP[2]
初勝利 1979年イギリスGP
2012年順位 8位(76pts)
( ※ : 記録は2012年ブラジルグランプリ終了時 )
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ウィリアムズF1(ウィリアムズ・エフワン、Williams F1)は、イギリスに本拠地を置くF1のレーシング・チームで、1977年フランク・ウィリアムズパトリック・ヘッドにより設立された。正式名称はウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング(Williams Grand Prix Engineering)。それの前身は1966年に設立されたフランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ(Frank Williams Racing Cars)である。

目次

概要[編集]

1970年代に誕生したコンストラクターとしては最も成功を収め、過去にドライバーズタイトル7回、コンストラクターズタイトル9回(2010年時点)を獲得している。フェラーリマクラーレンと並び、F1を代表する名門チームである。

チームの特色は「頑固なエンジニア集団」と表現される。1980年代までは車作りは保守的で、ターボエンジンやカーボンファイバーモノコックの導入は他チームより遅かった。1990年代前半にはR&D能力を活かし、セミオートマチックトランスミッションアクティブサスペンションなどのハイテク競争をリードした。またドライバーとの契約時に技術知識に関する筆記テストを行うユニークな特徴がある[3][4]

チーム内に明確な序列を設けず「チャンピオンは独力で勝ち取れ」という方針のため、コンストラクターズチャンピオンを獲得してもドライバーズチャンピオンを獲得できなかったことが他チームより多く、チャンピオンを獲得したドライバーが契約を更新せずにチームを離脱することもあった(後述)。

チームの歴史[編集]

1966年〜1976年 チーム創設と苦闘時代[編集]

1969年イギリスGPにてカレッジがドライブするブラバム・BT26

1966年、フランク・ウィリアムズはプライベートチームの「フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ」を設立し、友人のピアス・カレッジマックス・モズレーなどと共にF3F2でレース活動を行った。1969年にはブラバムBT26Aを購入し、F1参戦を果たす。カレッジは1967年にデビューしていたが、この年ウィリアムズに移籍して2位表彰台を獲得した。

1970年はイタリアのスポーツカーメーカーデ・トマソと提携し、マネージメント面をウィリアムズが、技術面をデ・トマソが担当した(コンストラクター名は「デ・トマソ」)。この年は一転して苦戦することとなり、第5戦オランダGPでカレッジが事故死してしまう。その後、ブライアン・レッドマンティム・シェンケンがドライブするも予選落ちや途中リタイヤを繰り返し、結局1度も入賞どころか完走さえできなかった。

1971年はマーチのプライベーターとして参戦。コンストラクターとしての自立を目指して、1972年には玩具メーカーのポリトイの大型支援を受け、初の自製シャーシとなるポリトイFX-3を開発した。しかし、資金難により投入が遅れた挙句、デビューレースのイギリスGPでいきなりクラッシュしてしまい、次戦から再びマーチ721を使用した。終盤のイタリアGPで再び持ち込まれたが、サスペンション系に欠陥が見つかったため使用されなかった。

1973年には新たにイソマールボロがスポンサーになり、コンストラクター名「イソ・マールボロ」として参戦。1974年にはフランクのイニシャルを冠した最初のマシンFW01がデビューした。

1975年にはコンストラクター名も「ウィリアムズ」と改め、ドイツGPにてジャック・ラフィーが表彰台(2位)を獲得する。しかし、慢性的な資金難から抜け出せず、持参金つきドライバーにシートを売って遣り繰りする状態が続いた。フランク自身も破産寸前にまで追い込まれたため、カナダの大富豪であるウォルター・ウルフに株式の一部を売却し、1976年には共同オーナーという形をとった。しかし、両者は1年限りで袂を分かち、フランクはチーム資産を売却。このチームは1977年よりウルフとして参戦することになる。

1977年〜1983年 再出発から頂点へ[編集]

ウィリアムズFW06
ウィリアムズFW07 ・フォード・コスワースDFV

1977年、フランクはエンジニアのパトリック・ヘッドとともに新チームを設立。ウィリアムズが70%、ヘッドが30%を出資し「ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング」として再出発した。この年は一時的なつなぎとしてマーチ・761を購入して参戦した。

ヘッドは部下のフランク・ダーニーニール・オートレイロス・ブラウンらを指揮して、強力な技術部門を構築。1978年FW06ではコンサバティブな設計を採りつつ、1979年には最新のグラウンド・エフェクト理論を盛り込んだFW07を投入し、一気に優勝戦線に割り込んだ。

運営面でもサウジアラビア航空アルビラッドTAGなど複数のサウジアラビア企業のスポンサーを獲得し、長年の資金難から脱した。フランクは営業活動でサウジアラビアの王室関係者のオフィスへマシンを運び込み、「このマシンにあなた方の企業名が付いて走ります」と口説いたという。

1979年第9戦イギリスGPでクレイ・レガッツォーニがチーム初勝利を挙げ、残り6戦でFW07は4勝をあげた。そして、1980年には初のコンストラクターズチャンピオンを獲得するとともに、アラン・ジョーンズをドライバーズチャンピオンへと導いた。

1981年にはジョーンズとカルロス・ロイテマンにより2年連続のコンストラクターズチャンピオンを獲得したものの、両ドライバー間の確執をうまく調整できなかったことから、ブラバムネルソン・ピケに最終戦でドライバーズチャンピオンを奪われてしまった。

1982年はターボエンジン勢に馬力で劣るものの、熟成されたFW08を駆るケケ・ロズベルグが堅実にポイントを積み重ね、わずか1勝で年間チャンピオンを獲得した。また、リヤを4輪にした6輪車のテストを続けていたが、規定変更により実戦には持ち出せなかった。

1984年〜1987年 ホンダとの提携[編集]

1983年は1勝に終わるが、スピリットにエンジンを供給していたホンダと契約し、同年末よりV6ターボエンジンを搭載した。ウィリアムズがターボエンジンを使うのはこれが初めてだったことに加え、ホンダエンジンの燃費や過渡特性の悪さもあり、すぐにはその能力を発揮することはできなかった。そんな中、1984年のアメリカGPでロスベルグが優勝し、ホンダエンジンとしては17年ぶりの勝利をものにした。

ウィリアムズFW10・ホンダ、1980年代を象徴するキヤノンカラー

1985年にはナイジェル・マンセルが加入し、FW10はホンダの新設計エンジンを搭載した。決勝レース中のタイヤ磨耗に苦戦したが、シーズン終盤にはサスペンションを改善し、シーズン最後に3連勝を飾った。ちなみにマンセルはその口火となる地元イギリスでの第14戦ヨーロッパGPが初優勝、出走72戦目で当時としてはデビュー後最も遅い初優勝だった。

1986年にはピケが加入。ホンダエンジンを武器に9勝し、3度目のコンストラクターズタイトルを獲得する。しかし、チームオーナーのフランクが交通事故により半身不随となり療養している間に、チーム内ではピケ派とマンセル派のいさかいが生じた。自国ドライバーのマンセルをチームが支持したのに対し、ホンダはピケの契約金を一部負担していたことからピケを支持していた。両ドライバーの確執のため、マクラーレンアラン・プロストにドライバーズチャンピオンを奪われてしまった。

1987年はコンストラクターズを連覇し、ピケがマンセルとの戦いを制してチャンピオンを獲得した。また、ロータスに続いてアクティブサスペンションを投入し、イタリアGPで勝利している。ピケはこのシーズン限りでロータスに移籍し、また、ホンダも運営に不満を持ち、ウィリアムズとの契約を終了した。コース上では最速を誇ったものの、短期間に多くのものが失われる幕切れとなった。

1988年 ジャッド時代[編集]

ホンダターボを失った1988年は、ノンターボのジャッドエンジンを搭載した。「ウィリアムズがジャッドエンジンを使用するにあたってホンダがジャッドとウィリアムズへ資金援助をしているのではないか」と噂になったが、ホンダはこれを否定した。ジャッドエンジンの戦闘力不足、アクティブサスの熟成不足により成績は低迷。シーズン中盤のイギリスGP以降はノーマルサスペンションに戻す羽目になり、1978年シーズン以来の未勝利に終わった。

1989年〜1997年 ルノーとの黄金期[編集]

1989年にターボ禁止・NA統一が導入されるとルノーと契約し、マシンとエンジンの英仏共同開発路線を整えた。カナダGPではティエリー・ブーツェンが遅咲きの初優勝を達成しシーズン2勝を挙げた。1990年にはリカルド・パトレーゼがサンマリノGPで久々の優勝をし、ブーツェンもハンガリーGPでポール・トゥ・ウィンを果たした。シーズン途中にはレイトンハウスから前衛的な空力設計者エイドリアン・ニューウェイが加入。堅実なヘッドとの異なる個性が融合したFW14が生み出される。

ウィリアムズFW14B・ルノー(1992年)

1991年は信頼性不足や不運などでタイトルを逃すが、1992年アクティブサスペンション[5]トラクションコントロールを搭載したハイテクマシン、FW14Bが10勝を挙げ、マンセルと共にダブルタイトルを獲得した。しかし、契約交渉が決裂し、マンセルはアメリカのCARTへの転向を決意した。

1993年は改良型のFW15C[6]を投入し、1年間の休養から復帰したアラン・プロストと、テストドライバーから昇格したデイモン・ヒルがコンビを組んだ[9]。前年チャンピオン不在のためカーナンバーは"0"と"2"となるが、プロストはフランス語で無能を示唆する"0"ではなく"2"を選んだ。プロストは4度目のタイトル獲得を最後に現役を引退し、ヒルは初優勝をふくむ3勝を挙げた。ウィリアムズは1992年から1993年にかけて24戦連続ポールポジションという記録を残し、F1マシンの電子制御の進化を牽引した。

1994年ロスマンズが新メインスポンサーとなり、ウィリアムズ入りを熱望していたアイルトン・セナが加入した。シーズン開幕前からこの組み合わせでチャンピオンは決定していると言われたが、ハイテク禁止を受けてデザインされたFW16は不安定な特性をもち、ベネトンミハエル・シューマッハに開幕連勝を許した。さらに、第3戦サンマリノGPではセナがタンブレロコーナーのコンクリートウォールに激突し、帰らぬ人となった(この事故以降、ウィリアムズのマシンにはセナのSマークが刻まれている)。イタリアの検察過失致死の疑いでチーム首脳を告訴し、以後10年以上に渡り裁判が続くことになる(2005年に全員無罪が確定)。セナの後任にはテストドライバーのデビッド・クルサードが昇格したが、CARTの合間を縫ってマンセルもスポット参戦した。エースの重責を負うことになったヒルは、シューマッハが失格や出場停止となる間にポイント差を縮め、最終戦オーストラリアGPでの直接対決に持ち込んだが、シューマッハとの接触により涙を呑んだ(コンストラクターズは3連覇達成)。

1995年はベネトンもルノーエンジンを獲得し、同エンジンでの対決が注目された。予選の速さにおいてはベネトンを上回っていたが、チームの戦略ミスや両ドライバーのミス、シーズン序盤のマシンの信頼性などが災いし、ベネトンとシューマッハにダブルタイトルを許してしまった。またプロストも前述のチーム内に明確な序列を設けないチーム方針が、両タイトルを奪取できなかった敗因ではないかと当時メディアを通してコメントしている[10]

ウィリアムズFW18・ルノー、ウィリアムズの1990年代を象徴するロスマンズカラー
ウィンフィールドカラーに衣替えしたウィリアムズFW20・メカクローム

1996年はマクラーレンに移籍したクルサードに代わり、CARTチャンピオンのジャック・ヴィルヌーヴが加入し、ヒルと二世ドライバーコンビを組んだ。ヴィルヌーヴはデビュー戦からポールポジションを獲得し、F1ルーキーながらヒルとタイトル争いを繰り広げた。ヒルは史上初の親子二代チャンピオンを獲得したが契約延長交渉が決裂し、マンセルのケースと同様にチームを去ることになった[11]。なお、この件でヒルの盟友であったニューウェイが激怒し、マクラーレンへの移籍の理由の一つになったとも言われている[12]。ウィリアムズは年間12勝を挙げ、最強チームの座を奪回した。

1997年シーズンはヒルに替わりハインツ=ハラルド・フレンツェンが加入。「ヴィルヌーヴ+FW19の圧勝」という大方の予想に反してマシンのセッティングに苦慮し[13]、信頼性不足やチーム戦略のミス[14]もあって、ヴィルヌーブとフェラーリのシューマッハの激しいチャンピオン争いとなった。最終戦ヨーロッパGPの直接対決では、シューマッハとの接触を乗り切ったヴィルヌーヴがチャンピオンを獲得し、コンストラクターズタイトルも制した。このシーズン末をもってルノーエンジンはF1から一時撤退し、9年間に渡る蜜月関係にピリオドが打たれた。

1998年はスポンサーブランドがロスマンズからウィンフィールドに変更され、同チームでは珍しい赤いマシンカラーとなった。ルノーのカスタマー仕様エンジン(メカクローム)の戦闘力不足などによりよもやの0勝に終わり、ヴィルヌーヴとフレンツェンとの契約を終了する。

1999年はエンジン名をスーパーテックとし、新加入のラルフ・シューマッハが健闘したものの、優勝戦線からは遠ざかった。CARTチャンピオンとして迎え入れたアレックス・ザナルディは生彩を欠き、逆に、テストドライバーだったファン・パブロ・モントーヤがCARTでチャンピオンを獲得するという皮肉な状況になった。

2000年〜2005年 BMWとの提携[編集]

ウィリアムズFW26・BMW
いわゆる「セイウチノーズ」のマシン

ホンダ、ルノーに続くパートナーとして、F1に復帰したBMWと提携。ル・マン24時間レースでの共同プロジェクトを経て、2000年より2009年までの長期契約を締結した。登録名はBMWウィリアムズF1 (BMW Williams F1) となり、マシンカラーリングもBMWワークスの白と紺を基調としたものに変わった[15]。2000年はラルフ・シューマッハと、テストで抜擢した新人ジェンソン・バトンのコンビで戦い、ラルフが開幕戦を含む3回の3位表彰台を獲得し、コンストラクターズ3位となった。

2001年には同じく復帰したミシュランタイヤと組み、タバコスポンサーとの離脱を宣言する活動を進めた。ラルフが初優勝を含む3勝を挙げ、CARTから加入したファン・パブロ・モントーヤも初優勝するなど、新体制2年目で結果が表れ始めた。2002年はフェラーリに圧勝を許すも、公称1万9,000回転のBMWパワーを武器にモントーヤが7ポールポジションを獲得した。

2003年は序盤戦は低迷するも、FW25の改良とミシュランとのマッチングにより中盤以降4勝(ラルフ2、モントーヤ2)を挙げ、最終戦までフェラーリとコンストラクターズタイトルを争った。ちなみにラルフ・シューマッハのF1時代の優勝はすべてこの時期に達成されたものである。しかし、2004年FW26の特異なハイノーズ(通称「セイウチノーズ」)が失敗し、最終戦ブラジルGPでのモントーヤの1勝に留まった。この年にはパトリック・ヘッドがテクニカルディレクターを退き、後任にはサム・マイケルが就任した。

2005年シーズンはドライバーを一新してマーク・ウェバーニック・ハイドフェルドが加入したが、前年来のシャシー設計(特に空力部門)の失敗により2000年以来の未勝利、1999年以来のコンストラクターズ順位トップ4からの陥落(5位)という不本意なシーズンに終わった。成績の低迷とチーム運営への介入を巡ってBMWとの間に確執が生まれ、BMWはザウバーを買収してコンストラクターとして参戦することを決意。結果としてウィリアムズとの長期契約は2005年限りで打ち切りとなった。

また、この2年に渡りB・A・Rとの間で争われたジェンソン・バトンの契約問題(通称「バトン・ゲート」)は、バトン自身がウィリアムズに多額の違約金を支払いB・A・Rに残留するという結末となった。

2006年 コスワースへの変更[編集]

ウィリアムズFW28・コスワース

BMWとの離別後はトヨタやホンダとの交渉が噂されたが、どれも実現には至らなかった。V8・2400ccエンジンへ変更となる2006年コスワースと契約し、自動車メーカーのワークス化というF1界の潮流に逆らうように、「プライベーター」として参戦することとなった。また、タイヤメーカーもミシュランからブリヂストンへ変更された。ドライバーはウェバーが残留し、GP2初代チャンピオンであり、かつてウィリアムズでチャンピオンを獲得したケケ・ロズベルグの息子であるニコ・ロズベルグを起用した。

開幕戦でロズベルグがデビュー戦ファステストラップを記録するなど出だしは悪くなかったが、ワークスチームには遠く及ばず、コスワースエンジンも全くの信頼性不足でリタイヤが多く、現体制になって以来最悪のコンストラクターズランキング8位でシーズンを終えた。

2007年〜2009年 トヨタとの提携[編集]

ウィリアムズFW27・トヨタ(カラーはFW29)

2007年にはトヨタと契約し、2009年までカスタマーエンジンの供給を受けることになった。AT&Tがメインスポンサーになり、チーム名はAT&Tウィリアムズ (AT&T Williams) とされた。ドライバーはロズベルグが残留し、3rdドライバーのアレクサンダー・ヴルツがレースドライバーに昇格した。最終戦のブラジルGPではヴルツのF1引退を受け、トヨタ・ヤングドライバーズ・プログラム出身の中嶋一貴中嶋悟の息子)がF1デビューした。マクラーレンの失格やワークスチームの失速に伴い、最終的にトヨタを上回るコンストラクターズランキング4位を獲得した。

2008年はチーム創設30周年にあたり、シーズン中に出走500回(トルコGP)、決勝レース50000周回(スペインGP)を達成した[16]。ドライバーは3年目のロズベルグとレギュラーに昇格した中嶋という、ヒル・ヴィルヌーヴ以来の二世コンビ。ロズベルグが2度表彰台を獲得したものの入賞の機会は少なく、コンストラクターズランキング8位に後退した。また、2009年に導入されるKERSの開発を見越してオートモーティブ・ハイブリッド・パワー社の株式を少数取得し、「ウィリアムズ・ハイブリッド・パワー」に改称してチームファクトリーに移転した。

2009年は大幅なレギュレーション変更があったが、レギュレーションの穴を突き、2層ディフューザを投入し議論の的となった。しかし、最終的にFIAから許可が出されたため他チームもこれを追随する形となった。シーズン序盤は2層ディフューザもあり、ウィリアムズの成績も序盤は上向くかと思われたが、信頼性の不足や中嶋がノーポイントに終わる不調もあり、コンストラクターズランキング7位に終わっている。今シーズンから規約で認められたKERSであったが、ウィリアムズは全F1チームの中で唯一フライホイール式のKERSを開発していた。しかし、実戦に投入されることはなかった。

トヨタとのエンジン供給契約はあと1年残っていたが、2009年10月14日に2009年末に契約を前倒しして終了することを発表した。これに伴い、2010年に使用するエンジンはコスワースとなる事も後日発表された。

2009年12月にはウィリアムズの株式をトト・ヴォルフに少数売却したことを発表した。のちに、売却比率が全体の10%であり、フランクが63%、ヘッドが27%を引き続き所有していることが明らかにされた[17]

2010年〜2011年 再度コスワースと提携[編集]

2010年に投入したマシンFW32ではエンジンをトヨタからコスワースにスイッチした。また、ドライバーラインナップを一新し、ロズベルグとのトレードでブラウンGP(現メルセデス・グランプリ)からルーベンス・バリチェロを起用した。中嶋の後任にはテストドライバーから昇格したニコ・ヒュルケンベルグとなった。テスト・ドライバーにはバルテリ・ボータスと新しく契約した。ブラジルGPにてヒュルケンベルグがチームにとって5年ぶり、コスワースエンジンにとって11年ぶりとなるポールポジションを記録した。しかし最終戦アブダビGP終了後の11月15日に、ヒュルケンベルグがチームを離脱し、同時にバリチェロとの契約を翌年も継続することが発表された[18]

2005年以来、主要スポンサーとしてチームを支援していたRBS(ロイヤル・バンク・オブ・スコットランド)が2010年末をもってスポンサーから撤退することが明らかとなっている。これは2008年末からの金融危機が原因である[19]。その他にオランダ家電機器であるフィリップスもウィリアムズからスポンサー撤退する事を発表している[20]

2011年シーズンはバリチェロが残留する一方で、ヒュルケンベルグの後任としてベネズエラ人ドライバーのパストール・マルドナドを起用することを発表し、これに伴いPDVSA(ベネズエラ国営石油会社)などベネズエラ資本の複数のスポンサーを獲得。しかしそれでもRBS・フィリップスらの離脱による収入減少を補いきれない(一説には43%もの減収となったとされる[21])ため、チームはレーシングチームとしては異例となる自社の株式公開を計画し、2011年3月2日フランクフルト証券取引所に株式を上場することを発表した[22]。フランク・ウィリアムズは株式の過半数を保有し続けるものの、主にパトリック・ヘッドらの所有株を中心に、発行済株式の約27%が市場に放出される。

2011年は自社製超コンパクトギヤボックス(十分な信頼性は確保されていた)以外に目立った体制変更はなかったが、5ポイント・コンストラクターズランキング9位という2006年以上の不振のシーズンとなった。(2006年当時のポイントシステムに換算するとこの年のウィリアムズはノーポイントである。)このためテクニカルディレクターのサム・マイケルを始めとする首脳陣が責任を取る形でチームを離脱。またフランク・ウィリアムズと共に同チームを長年率いたパトリック・ヘッドも、関連会社の運営に専念することになりF1の現場を離れた[23]。さらに過去5年にわたりメインスポンサーを務めたAT&Tが2011年末をもってメインスポンサーを降り、10年以上スポンサーを務めたアリアンツも離脱・メルセデスチームのスポンサーとなった。

2012年 ウィリアムズ・ルノー復活[編集]

2012年シーズンからルノーが15年ぶりにエンジンを供給することが2011年7月に決定。契約は2013年までの2年間で、エンジンのレギュレーションが変更される2014年はオプションとなっている[24]。ルノーエンジンはレッドブル・レーシングが使用して好成績を挙げており、ウィリアムズの復調につながるかが注目される。ドライバーはバリチェロに代わりブルーノ・セナが起用された。また同年4月1日付でフランク・ウィリアムズはF1チームの取締役から退くことになった(ただし引き続きチーム代表を務め、役員会議には出席を続けるとのこと)。ウィリアムズ家の代表として、役員会には引き続きフランクの娘クレアが出席する。彼女はチームの広報部門に10年務めており、今回ドミニク・ライリーの退社を受けてマーケティング&コミュニケーションディレクターに昇進した[25]

第2戦マレーシアGP終了後の3月26日、フランク・ウィリアムズの後継者と見なされていたアダム・パーが3月30日付でウィリアムズ・グランプリ・ホールディングズPLCを退職することを発表。これを受け、ディアジオの前CFOで現在WPGHと2つのFTSE100企業の非常勤取締役を務めるニック・ロースが非総裁(Non-Executive Chairman、非常勤会長)に就任。支配株主のフランク・ウィリアムズが、株主で非常勤取締役のトト・ヴォルフ、経営最高責任者のアレックス・バーンズ、残りの取締役のサポートを受けながら会社の監督を続けていく[26]

第5戦スペインGPでは、パストール・マルドナドが自身初のポールポジションを獲得。決勝ではスタート時にフェルナンド・アロンソに抜かれ2位となったものの、ピットストップのタイミングが功を奏し1位に逆転。後半では2位となったアロンソからの追随をも守りきり、ウィリアムズにとって8シーズン・7年半ぶりとなる優勝を獲得した。しかし、レース終了後の優勝祝いの最中にガレージの燃料庫から出火、火災が発生という災難に見舞われた。幸いに命に関わるような重篤な負傷者はいなかったもののFIAによると、この火災で3チームの計31人が負傷したとのこと。貴重なデータを収めたコンピューターも廃棄となり、それらについて当面は他チームから借り受けて運用することになった。 その後、マルドナドは光る速さは持っていたものの、安定性に欠けていたが終盤には再び安定したドライビングをし、セナはマルドナドほどの速さはなかったものの予選下位から追い上げる粘り強さやクレーバーな走りで中団争いをすることもしばしばあり、76ポイントでランキング8位となった。同年11月にマルドナドの2013年シリーズ残留と、リザーブドドライバーだったバルテリ・ボータスをレギュラードライバーとして起用することが発表された[1]

F1以外の活動[編集]

ウィリアムズはF1以外にも過去に下記のような活動を行っている。

新人の登竜門[編集]

かつては、レギュラードライバーは30歳代のベテランしか起用しなかったり、技術も保守的といわれていたウィリアムズだが、1990年代半ば以降のドライバーに関しては、ザウバーミナルディジョーダンほどではないが、新人ドライバーを起用することがある。この傾向は新人を自分のチームでF1デビューさせることはめったにないフェラーリ、マクラーレンとは大きく異なる。ウィリアムズからF1デビューしたドライバーとしてクルサード、ジャック・ヴィルヌーヴ、バトン、モントーヤ、ニコ・ロズベルグ、中嶋一貴、ニコ・ヒュルケンベルグ、パストール・マルドナドがいる。 このうちヴィルヌーヴとバトンはワールドチャンピオンを獲得している。

なお、1983年にイギリスF3参戦中のセナをテストをさせており、早くからセナの才能に目をつけていた。ただし、当時のウィリアムズの方針では、セナはまだ若いということでレギュラードライバーの起用は見送られた。

ウィリアムズでF1初優勝を記録したドライバー[編集]

歴代のウィリアムズドライバーの中で10名がウィリアムズでF1初優勝を達成している。

ウィリアムズでドライバーズタイトルを獲得したドライバー[編集]

変遷表[編集]

エントリー名 車体型番 タイヤ エンジン 燃料
オイル
ドライバー ランキング 優勝数
1969年 フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ ブラバムBT26A D フォードDFV ガルフ ピアス・カレッジ - -
1970年 フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ デ・トマソ505-38 D

G

フォードDFV BP ピアス・カレッジ
ブライアン・レッドマン
ティム・シェンケン
- -
1971年 フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ マーチ701,711 G フォードDFV モチュール アンリ・ペスカロロ
ジャン・マックス
- -
1972年 チーム・ウィリアムズ・モチュール マーチ711,721
ポリトイ)FX-3
G フォードDFV モチュール アンリ・ペスカロロ
カルロス・パーチェ
- 0
1973年 フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ イソ)FX-3B,IR F フォードDFV フィナ アンリ・ペスカロロ
ハウデン・ガンリー
ジャッキー・イクス
10 0
1974年 フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ FW01
FW02
FW03
F フォードDFV フィナ アルトゥーロ・メルヅァリオ
ジャック・ラフィット
10 0
1975年 フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ FW02
FW03
FW04
G フォードDFV フィナ アルトゥーロ・メルヅァリオ
ジャック・ラフィット
9 0
1976年 フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ
Walter Wolf Racing(FW05)
Mapfre-Williams(FW04)
FW04
FW05
G フォードDFV フィナ ジャッキー・イクス
アルトゥーロ・メルヅァリオ
クリス・エイモン
ワーウィック・ブラウン
ハンス・ビンダー
- 0
1977年 ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング
Jolly Club of Switzerland (FW04)
マーチ761 G フォードDFV テキサコ パトリック・ネーヴェ - -
1978年 ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング FW06 G フォードDFV テキサコ アラン・ジョーンズ 9 0
1979年 アルビラド-ウィリアムズ・レーシング・チーム FW06
FW07
G フォードDFV モービル アラン・ジョーンズ
クレイ・レガッツォーニ
2 5
1980年 アルビラド-ウィリアムズ・レーシング・チーム
RAM/Penthouse-Rizla Racing(FW07)
RAM/Rainbow Jeans Racing(FW07)
RAM/Williams Grand Prix Engineering(FW07)
RAM/Theodore/Rainbow Jeans Racing(FW07)

Brands Hatch Racing(FW07)
FW07
FW07B
G フォードDFV モービル アラン・ジョーンズ
カルロス・ロイテマン
1 6
1981年 アルビラド-ウィリアムズ・レーシング・チーム FW07C M

G

フォードDFV モービル アラン・ジョーンズ
カルロス・ロイテマン
1 4
1982年 タグ・ウィリアムズ・チーム FW07C
FW08
G フォードDFV モービル ケケ・ロズベルグ
カルロス・ロイテマン
マリオ・アンドレッティ
デレック・デイリー
3 1
1983年 タグ・ウィリアムズ・チーム FW08C
FW09
G フォードDFV,DFY
ホンダRA163E
モービル ケケ・ロズベルグ
ジャック・ラフィット
4 1
1984年 ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング FW09
FW09B
G ホンダRA164E モービル ケケ・ロズベルグ
ジャック・ラフィット
6 1
1985年 キヤノン・ウイリアムズ・ホンダ FW10 G ホンダRA164E,RA165E モービル ナイジェル・マンセル
ケケ・ロズベルグ
3 4
1986年 キヤノン・ウイリアムズ・ホンダ FW11 G ホンダRA166E モービル ナイジェル・マンセル
ネルソン・ピケ
1 9
1987年 キヤノン・ウイリアムズ・ホンダ FW11B G ホンダRA167E モービル ナイジェル・マンセル
ネルソン・ピケ
リカルド・パトレーゼ
1 9
1988年 キヤノン・ウイリアムズ・チーム FW12 G ジャッドCV モービル ナイジェル・マンセル
リカルド・パトレーゼ
マーティン・ブランドル
ジャン=ルイ・シュレッサー
7 0
1989年 キヤノン・ウイリアムズ・チーム FW12C
FW13
G ルノーRS1 エルフ ティエリー・ブーツェン
リカルド・パトレーゼ
2 2
1990年 キヤノン・ウイリアムズ・チーム FW13B G ルノーRS2 エルフ ティエリー・ブーツェン
リカルド・パトレーゼ
4 2
1991年 キヤノン・ウイリアムズ・チーム FW14 G ルノーRS3 エルフ ナイジェル・マンセル
リカルド・パトレーゼ
2 7
1992年 キヤノン・ウイリアムズ・チーム FW14B G ルノーRS3C,RS4 エルフ ナイジェル・マンセル
リカルド・パトレーゼ
1 10
1993年 キヤノン・ウイリアムズ FW15C G ルノーRS5 エルフ アラン・プロスト
デイモン・ヒル
1 10
1994年 ロスマンズ・ウイリアムズ・ルノー FW16
FW16B
G ルノーRS6 エルフ アイルトン・セナ
デイモン・ヒル
デビッド・クルサード
ナイジェル・マンセル
1 7
1995年 ロスマンズ・ウイリアムズ・ルノー FW17
FW17B
G ルノーRS7 エルフ デイモン・ヒル
デビッド・クルサード
2 6
1996年 ロスマンズ・ウイリアムズ・ルノー FW18 G ルノーRS8 エルフ デイモン・ヒル
ジャック・ヴィルヌーヴ
1 12
1997年 ロスマンズ・ウイリアムズ・ルノー FW19 G ルノーRS9 カストロール ジャック・ヴィルヌーヴ
ハインツ・ハラルド・フレンツェン
1 8
1998年 ウィンフィールド・ウイリアムズ FW20 G メカクロームCG01 カストロール
ペトロブラス
ジャック・ヴィルヌーヴ
ハインツ・ハラルド・フレンツェン
3 0
1999年 ウィンフィールド・ウイリアムズ FW21 B スーパーテックFB01 カストロール
ペトロブラス
ラルフ・シューマッハ
アレックス・ザナルディ
5 0
2000年 BMW・ウイリアムズF1チーム FW22 B BMW E41 カストロール
ペトロブラス
ラルフ・シューマッハ
ジェンソン・バトン
3 0
2001年 BMW・ウイリアムズF1チーム FW23 M BMW P80 カストロール
ペトロブラス
ラルフ・シューマッハ
ファン・パブロ・モントーヤ
3 4
2002年 BMW・ウイリアムズF1チーム FW24 M BMW P82 カストロール
ペトロブラス
ラルフ・シューマッハ
ファン・パブロ・モントーヤ
2 2
2003年 BMW・ウイリアムズF1チーム FW25 M BMW P83 カストロール
ペトロブラス
ファン・パブロ・モントーヤ
ラルフ・シューマッハ
マルク・ジェネ
2 4
2004年 BMW・ウイリアムズF1チーム FW26 M BMW P84 カストロール
ペトロブラス
ファン・パブロ・モントーヤ
ラルフ・シューマッハ
マルク・ジェネ
アントニオ・ピッツォニア
4 1
2005年 BMW・ウイリアムズF1チーム FW27 M BMW P84/5 カストロール
ペトロブラス
マーク・ウェバー
ニック・ハイドフェルド
アントニオ・ピッツォニア
5 0
2006年 ウイリアムズF1チーム FW28 B コスワースCA2006 カストロール
ペトロブラス
マーク・ウェバー
ニコ・ロズベルグ
8 0
2007年 AT&Tウイリアムズ FW29 B トヨタRVX-07 ペトロブラス ニコ・ロズベルグ
アレクサンダー・ヴルツ
中嶋一貴
4 0
2008年 AT&Tウイリアムズ FW30 B トヨタRVX-08 ペトロブラス ニコ・ロズベルグ
中嶋一貴
8 0
2009年 AT&Tウイリアムズ FW31 B トヨタRVX-09 - ニコ・ロズベルグ
中嶋一貴
7 0
2010年 AT&Tウイリアムズ FW32 B コスワースCA2010 - ルーベンス・バリチェロ
ニコ・ヒュルケンベルグ
7 0
2011年 AT&Tウイリアムズ FW33 P コスワースCA2011 - ルーベンス・バリチェロ
パストール・マルドナド
7 0
2012年 ウイリアムズ FW34 P ルノー - パストール・マルドナド
ブルーノ・セナ
1

*太字はチャンピオンを獲得したドライバー
*斜体になっているチームに車体を供給(括弧内に供給した車体の型番を記載)
*斜体になっているドライバーはスポット参戦など

脚注[編集]

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  1. ^ a b c “ウィリアムズ、パストール・マルドナドとバルテリ・ボッタスの起用を発表”. F1 gate.com. (2012年11月28日). http://f1-gate.com/williams/f1_17511.html 2012年11月29日閲覧。 
  2. ^ FIAによる2007年エントリーリストによると、1978年アルゼンチングランプリとなっている。これは、同一人物による運営ではあるものの、ウルフに買収されるまでとその後新規に設立した現在のウイリアムズを別記録としていることによる。
  3. ^ GRAND PRIX SPECIAL』(ソニー・マガジンズ)2008年8月号 p.23
  4. ^ 『GRAND PRIX SPECIAL』がドライバーに対する筆記テストの有無について取材したところ、フェラーリ・BMWザウバーの2チームは「ノーコメント」、残る7チームは「筆記テストは行っていない」と答えている。
  5. ^ 商標の関係から当時チームでは「リアクティブサスペンション」と称していた
  6. ^ 1992年シーズン中にFW15の投入を予定していたが、FW14Bでも十分であったため見送り、1993年シーズンにFW15Cとして投入した。
  7. ^ F1速報』 7/16号「フランスGP号」 第9巻13号、ニューズ出版、1998年7月16日発行、39頁。
  8. ^ 「“フライング・フィン”飛んでしまったマクラーレン」『F1グランプリ特集』 1993年4月号、第5巻4号、ソニー・マガジンズ、79 - 81頁。
  9. ^ プロストのチームメイトにミカ・ハッキネンと契約したが、フランク・ウィリアムズは1993年シーズンのエントリーを忘れていたため、ウィリアムズが参戦するには他の全チームの承認が必要となった。ハッキネンを取り返したかったピーター・コリンズロータス)が認めなかったため、ウィリアムズはハッキネンを諦めることとなったという報道と[7]、ロータス側は「93年もハッキネンは残留」と発表したが、それは口約束という情報を掴んだウィリアムズがロータスと交渉。コリンズはハッキネンを手放す意思はなかったが、金銭的条件(6億円)次第では応じようと目論んでいた。しかしウィリアムズはその条件を受け入れるつもりはなく、結局1992年12月14日にデイモン・ヒルとの契約を発表したという報道がある[8]
  10. ^ フジテレビ 1995年 F1総集編のインタビューより
  11. ^ これは、1998年以降ルノー・エンジンを失うことが決定していたウィリアムズが、BMWエンジン獲得のためにドイツ人ドライバーとの契約を必要としていたためと言われる。1997年のドライバーとしてヒルの代わりにウィリアムズが契約したのは、ザウバーからの移籍のドイツ人ハインツ=ハラルド・フレンツェンだった。しかし、ウィリアムズは1998年にBMWエンジンを搭載することはできず、2000年まで待つことになる。
  12. ^ GPX(F1 Grand Prix Xpress)』 BELGIUM GP 山海堂、30-31頁、1997年。詳しくはエイドリアン・ニューウェイの項目を参照
  13. ^ 『F1 RACING 日本版』2010年3月号 三栄書房、31項
  14. ^ モナコGPベルギーGPではウェット路面でのタイヤ選択を誤り、シューマッハに勝利を許した。
  15. ^ スポンサー各社のロゴもこの配色に統一され、通常は赤いバドワイザーのロゴも紺色とされていた。
  16. ^ これらの記録は、1977年創設、1978年から参戦したウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリングの成績であり、1973年、1974年に参戦したイソ-ウィリアムズと1975年、1976年の旧ウイリアムズ(ウルフに売却)、1977年のマーチのシャーシで参戦した分は入っていない。
  17. ^ Struggling Williams' sale of stake was 10%(this is london)
  18. ^ ウィリアムズ、ニコ・ヒュルケンベルグの離脱を発表(F1TopNews.JP)
  19. ^ “RBS ウィリアムズとの提携は来年限り”. GPupdate.net. (2009年2月26日). http://f1.gpupdate.net/ja/news/2009/02/26/207402/ 2009年2月26日閲覧。 
  20. ^ “フィリップス、ウィリアムズのスポンサーを終了”. F1 Gate.com. (2010年11月6日). http://f1-gate.com/williams/f1_9856.html 2010年11月7日閲覧。 
  21. ^ ウィリアムズ、上場でスポンサー減少か - ESPN F1・2011年2月10日
  22. ^ F1ウィリアムズが上場へ=独フランクフルト市場 - 時事通信・2011年2月7日
  23. ^ ヘッド「F1離脱はウィリアムズにとってベスト」 - GPUpdate.net・2011年11月28日
  24. ^ ウイリアムズ・ルノー復活! 2012年から2年契約(オートスポーツweb 2011年7月4日)
  25. ^ ウィリアムズ卿、取締役退任へ(ESPN F1 F1ニュース、速報 2012年3月2日)
  26. ^ アダム・パー、ウィリアムズを退職(F1-Gate.com 2012年3月26日)
  27. ^ F2マシン「ウィリアムズJPH01」発表(F1-Gate.com)
  28. ^ 新設のF2王者、ウィリアムズのF1テスト参加へ - MSNスポーツ
  29. ^ ウィリアムズ、ポルシェにKERS技術を提供(F1TopNews.JP)
  30. ^ Williams Hybrid Power Chosen As Supplier By Audi Sport - Williams Hybrid Power・2012年3月1日

関連項目[編集]

外部リンク[編集]