フラビオ・ブリアトーレ

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フラビオ・ブリアトーレ
Flavio Briatore
生誕 1950年4月12日(64歳)
イタリアの旗 イタリア クーネオ県
職業 「Billinaire Couture」CEO
ルノーF1チーム元チーム代表
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フラビオ・ブリアトーレFlavio Briatore1950年4月12日 - )はイタリア出身の実業家ルノーF1チームの元チーム代表、およびマネージング・ディレクターである。

経歴[編集]

青年期[編集]

イタリアのマリチーム・アルプスに近いヴェルツオーロイタリアクーネオ県)の出身であるブリアトーレは、若い頃はスキー教習とレストラン経営に携わっていた。

ベネトン[編集]

1970年代にブリアトーレはイタリア証券市場に関わることになり、その頃にベネトンの創設者であるルチアーノ・ベネトンと出会った。彼らは友人となり、やがてビジネスパートナーとなった。1979年にベネトンがアメリカに最初の5店舗を開店した際、ベネトンはブリアトーレをアメリカ地区の責任者に指名した。

ベネトンは型破りなフランチャイズ手法によって、アメリカの大衆にちょっとしたブームを巻き起こすこととなった。1989年までに、ベネトンはアメリカ内に800店舗を数えるに至った。ブリアトーレはフランチャイズ契約ごとに歩合を受け取ったため、一挙に富豪となった。しかし店舗のオーナーが近隣のベネトン店舗との競合に関して不満を言い始め、やがて店舗数は200にまで減少した。そこでブリアトーレは新たなビジネスを探し始めた。

F1における経歴[編集]

ベネトンF1[編集]

ブリアトーレはそれ以前にフォーミュラ1 (F1) に関して特に興味は持っていなかったが、1988年オーストラリアグランプリからこのスポーツに関わることになった。ベネトンはブリアトーレを、自ら所有するF1コンストラクターであるベネトン・フォーミュラのコマーシャル・ディレクターに据えたのだった。ほどなくチームマネージャーのピーター・コリンズが解雇されると、ブリアトーレはマネージング・ディレクターに昇格しベネトンを競争力のあるチームに変えるべく活動を始めた。

ブリアトーレは1990年に、マクラーレンフェラーリ等で多くのマシンを手がけたデザイナーであるジョン・バーナードを獲得したが、翌1991年カナダGP直後に解雇した。同年には当時スポーツカー世界選手権(SWC)でジャガーチームを率いていたトム・ウォーキンショーを招聘。ジョーダンでデビューしたばかりの若いミハエル・シューマッハを引き抜くという先見の明を見せた。

1992年にはバーナードの後釜として、前年にベネトンからレイナードに移籍していたデザイナーのロリー・バーンを呼び戻し、これにウォーキンショーの部下として一緒にベネトンに移ってきたロス・ブラウンを加えた陣容は非常に強力なものとなった。シューマッハは1992年、1993年シーズンに勝ち星を重ね、ついに1994年にベネトンに初のドライバーズ・チャンピオンをもたらした。

リジェとミナルディ[編集]

1994年末、ブリアトーレは疲弊したリジェ・チームを買収し、同チームの持っていたルノーエンジンの権利を取得した。ルノーエンジン以外には興味のなかった彼は、チーム株式の50%をウォーキンショーに売却した(ただし残り半分は引き続き保有しリジェの共同オーナーとなった)。

ブリアトーレは引き続きベネトンの運営も取り仕切り、1995年にはコンストラクター(製造者)部門とドライバー部門(シューマッハ)のダブルタイトルを獲得した。しかし、シューマッハが1996年フェラーリへ移籍し、ロリー・バーンやロス・ブラウンといった主要エンジニアが後を追うようにフェラーリに移籍すると、チームはグリッド中団へと沈んでいった。

ブリアトーレは1996年にミナルディの所有権の一部を購入したが、それをブリティッシュ・アメリカン・タバコに売却することができなかったため、共同所有者のジャンカルロ・ミナルディガブリエレ・ルミに売却した。また同年にはリジェの株式もアラン・プロストに売却している。

ベネトンは1997年にブリアトーレを解雇し、後任にプロドライブデビッド・リチャーズを採用した。

スーパーテックとルノー[編集]

1998年に、カスタマー向けルノーV10エンジンの製造を行っていたメカクローム社と販売提携を行い、1999年から2000年にかけて、スーパーテックという名称で同エンジンを販売した。型名にイニシャル"FB"を付けたこのエンジンは、ウィリアムズ、ベネトン、B・A・Rアロウズに供給され、ベネトンは同社のスポーツグッズブランドである「プレイライフ」のバッジネームを付けて使用していた。

2000年にルノーがベネトンチームを買収すると、翌年にブリアトーレは再びマネージング・ディレクターに復帰した。当初はさしたる成績を上げられなかったものの、若きフェルナンド・アロンソを起用した2003年より、戦力が徐々にアップしていった。

そして2005年にルノーをコンストラクター部門とドライバー部門(アロンソ)のダブルタイトル奪取に導いた。チームは2006年も好成績をあげて、2年連続のダブルタイトルに輝くなど黄金時代を築くこととなり、ブリアトーレの手腕は高い評価を受けた。

また、ビジネスセンスを買われて、F1の商業面を管理するバーニー・エクレストンの後継者になるのではないかと噂された。2007年にはエクレストンと共同でイングランド2部リーグのサッカークラブを買収した(後述)。

F1界追放と和解[編集]

しかし、再びチームが低迷期に入り始めた2009年に、2008年シンガポールグランプリでのネルソン・ピケJr.の故意のクラッシュへの指示に関する疑惑が持ち上がり、FIA世界モータースポーツ評議会の臨時総会において公聴会が行われる予定であった。

しかし、その直前にルノーF1チームからパット・シモンズと共にチームから離脱することが発表され、国際自動車連盟(FIA)より「ドライバーマネージメントを含む今後のF1活動を禁止」する処分が下された。クラッシュ疑惑に関して、FIAの調査の結果とピケ本人の証言もあり「故意」であったことも判明、ブリアトーレへF1への無期限の関与禁止処分が下された。

ブリアトーレとシモンズは世界モータースポーツ評議会 (WMSC) が公正な審議を行わなかったとして、処分取り消しと賠償金を求める訴訟を起こした[1]。2010年1月、パリ大審裁判所はふたりの訴えを認める判決を下した[2]。FIAは上訴の構えをみせたが、同年4月に両者と和解し、F1では2012年末まで、FIA関連の他のレースでも2011年末までは運営への関与を認めないが、それ以降は復帰を認めると発表した[3]

これら一連の事件は「クラッシュゲート」と呼ばれている(※:ネルソン・ピケJr.#クラッシュゲートも参照)。

謹慎期間中もF1のパドックに「ゲスト」として公然と出入りする姿が目撃されたが[4]、謹慎期間が終わった2013年には別のビジネスに専念しているとして、F1の世界へ戻る意思は無いと語った[5]

代理人[編集]

ブリアトーレは、数多くのドライバーのマネージメントも担当していた。F1では、フェルナンド・アロンソ、マーク・ウェバージャンカルロ・フィジケラヤルノ・トゥルーリヘイキ・コバライネン、ネルソン・ピケ・Jrなどが挙げられる。

マネージメントビジネスに触手を伸ばしたのは1994年頃からで、最初のマネージメントドライバーはヨス・フェルスタッペンであった。これ以降、若い有望なドライバーを多数青田買いしている。契約ドライバーは自身の息のかかるチームへ売り込んだり、他チームへレンタルするなどしてシートを用意し、その見返りとして報酬の何割かを取り分とすることで、多額の利益を得ているといわれる。

F1以外の活動[編集]

GP2[編集]

2004年には、F1の商業権を管理するバーニー・エクレストンとリジェの元マネージャーだったブルーノ・ミシェルとともにGP2シリーズを設立。国際F3000選手権に代わるF1直下のカテゴリとして成功させた。その後、ミシェルはGP2およびGP3のオーガナイザーに就任している。

ファッションブランド[編集]

2005年には、ファッションデザイナーのアンジェロ・ガラッソと共同で、「世界最高峰」を標榜する紳士向けファッションブランド「Billionaire Couture」を創設。2006年10月には東京にも支店をオープンし、2007年現在ロンドン(2店舗)、東京、モスクワウィーンなどに店舗を展開している。

サッカークラブ[編集]

2007年11月にイングランドのサッカークラブであるクイーンズ・パーク・レンジャーズFCバーニー・エクレストンと共に買収した。同年12月にアルセロール・ミッタルCEOのラクシュミー・ミッタルを共同オーナーに迎えたが、引き続き同クラブの会長を務めた。

クラッシュゲート後の2010年2月に会長職を辞任し[6]、その後保有するクラブの株式をエクレストンへ売却した[7]

セレブリティ[編集]

1990年代の終盤には、ブリアトーレはナオミ・キャンベルアドリアーナ・ヴォルペハイジ・クラムといったスーパーモデルとの恋愛関係をヨーロッパタブロイド紙に書きたてられた。クラムは2004年にブリアトーレとの間に1女をもうけた。

エピソード[編集]

  • ベネトンチームを率いていた頃、当時参画していたトム・ウォーキンショーとの2ショット風景をして、古舘伊知郎が「F1界のポパイブルート」と呼んでいた。またその風貌や辣腕ぶりから、「イタリアン・マフィアのボス」として風刺されることが多い。ジョニー・ハーバートをベネトン時代に冷遇したことから、ハーバートのファンは、敵視する声もある。
  • フジテレビのF1特番で森口博子がフラビオのことを「ほら、あのラビオリみたいな名前の人」と言ったことがある。
  • ヘビースモーカーであり、マールボロを愛飲しているが、ベネトンチームに加入した際のスポンサーはライバルブランドのキャメルであったため、キャメルの箱にマールボロを詰め替えて吸っていた。1994年、日本たばこ産業が新たにスポンサーになると、外箱はマイルドセブンに変わった。
  • ベネトンチームはピット内でロックミュージックを響かせるのが常であったが、ある時マクラーレンのロン・デニスが「うるさいからボリュームを下げてくれ」と言ってきた。肯んじてトランスポーターに入ったフラビオは、アンプのボリュームを最大にしてきた。
  • 1991年、フジテレビ「F1ポールポジション」の収録中、司会の古舘伊知郎が同番組のステッカー(ごく小さなもの)をベネトンのマシンに貼らせて欲しいと半ば冗談で申し入れたところ、フラビオはポケットから電卓を取り出して本気の商談を始めてスタッフを慌てさせた。その時提示された額は1レース5万ドルであったと言われている。
  • マクラーレンがホンダの撤退に伴いフォードのカスタマーエンジンを使用していた1993年、執拗にワークスエンジンを要求するロン・デニスとアイルトン・セナに対して、当時フォードのワークスチームであったベネトンは強硬に反対した。この時フラビオはフジテレビのインタビューに応じて「昨年ロン・デニスは、我々にホンダエンジンを使うよう申し入れてきたが、我々はフォードとの契約を遵守するため断った」と発言した。記者が驚きかけた瞬間「契約とはそういうものだ」と、皮肉を込めた喩え話であったことを明かし、微笑んでみせた。しかし、第8戦フランスGPからは、マクラーレンにもベネトンと同様のワークス仕様のエンジン(フォード・コスワースHBシリーズVII・VIII)が供給されることになった。この背景には、ブリアトーレ・デニス・コスワースの3者間で金銭保証を含めた何らかの取引があったものと思われ、それ以降ブリアトーレもマクラーレンの搭載するエンジンについてとやかく言うことは無くなった。実際にドイツGPのパドックで取材を受けたブリアトーレは、「マクラーレンが我々と同じエンジンを使用することに文句は無い。同じエンジンを積んでいるということは、あとはシャシーとドライバーの勝負である。今日の予選でミハエルがマクラーレンより前のグリッドを獲得したということは、我々のシャシーとドライバーの方がマクラーレンが持っているものよりも優れている証拠になるね。」とそれまでとは180度異なるコメントを残している。
  • リジェのオーナーでもあった1996年、モナコGPのスタート時には通常通りベネトンのピットで陣頭指揮に当たっていたが、リジェのオリビエ・パニスがトップに立つとすぐさまリジェのユニフォームに着替え、優勝チームのマネージャーとして表彰式に出席した。

脚注[編集]

  1. ^ "ブリアトーレのFIAに対する訴訟の内容が明るみに。シモンズも訴訟に加わる". オートスポーツweb.(2009年11月13日)2013年5月20日閲覧。
  2. ^ "「ブリアトーレとシモンズへの追放処分は“違法”」と大審裁判所。賠償金支払いも命じる". オートスポーツweb.(2010年1月6日)2013年5月20日閲覧。
  3. ^ "FIAとブリアトーレ&シモンズが和解。2013年以降のF1復帰が可能に". オートスポーツweb.(2010年4月13日)2013年5月20日閲覧。
  4. ^ "フラビオ・ブリアトーレ、モナコのパドックへの出入りは自由". F1-Gate.com.(2010年5月15日)2013年5月20日閲覧。
  5. ^ "F1の世界に戻ることはないとブリアトーレ". Topnews.(2013年4月30日)2013年5月20日閲覧。
  6. ^ "ブリアトーレ フットボールクラブ会長職を辞任". GPUpdate.(2010年2月22日)2013年5月20日閲覧。
  7. ^ "フラビオ・ブリアトーレ、QPRの株式をバーニー・エクレストンに売却". F1-Gate.com.(2010年12月17日)2013年5月20日閲覧。

関連項目[編集]