アラン・プロスト

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アラン・プロスト
Alain Prost 2009 MEDEF cropped .jpg
基本情報
フルネーム アラン・マリー・パスカル・プロスト
国籍 フランスの旗 フランス
出身地 フランスの旗ロワール県ロレット
生年月日 1955年2月24日(56歳)
F1での経歴
所属チーム '80,'84-'89 マクラーレン,
'81-'83 ルノー,
'90-'91 フェラーリ,
'93 ウィリアムズ
活動時期 1980 - 1991 , 1993
出走回数 200
優勝回数 51
通算獲得ポイント 798.5
表彰台(3位以内)回数 106
ポールポジション 33
ファステストラップ 41
初戦 1980年アルゼンチンGP
初勝利 1981年フランスGP
最終勝利 1993年ドイツGP
最終戦 1993年オーストラリアGP
タイトル 4 (1985,1986,1989,1993)

アラン・マリー・パスカル・プロストAlain Marie Pascal Prost, 1955年2月24日 - )は、フランス人の元レーシングドライバー1985年1986年1989年1993年と4度のF1ドライバーズチャンピオンに輝いた。

1999年国際モータースポーツ殿堂The International Motorsports Hall of Fame)入り。レーシングドライバーのニコラ・プロストは長男。

目次

[編集] 人物

F1において51勝をあげている。これは、1987年ジャッキー・スチュワートの27勝を更新してから、2001年ミハエル・シューマッハが更新するまで、最多勝記録であった。通算4度のドライバーズチャンピオン獲得は、シューマッハの7回、ファン・マヌエル・ファンジオの5回に次いで、歴代3位の記録である。2009年現在、フランス人で唯一のF1ドライバーズチャンピオンである。

現役時にはその走りから「プロフェッサー」の異名をもっていた(名前の“プロ”にもかけている)。

ネルソン・ピケナイジェル・マンセルアイルトン・セナとは、1980年代から1990年代前半を代表するドライバーとして共に「四強」もしくは「F1四天王」と称される。特に、再三チャンピオン争いを演じたセナとのライバル関係は度々話題に挙がり、日本では2人の対決は「セナ・プロ対決」と呼ばれた。

通算4度のF1ワールドチャンピオンシップ獲得がつとに有名だが、実はシーズンランキング2位も4回あり、しかもその相手がネルソン・ピケ(1983年)ニキ・ラウダ(1984年)アイルトン・セナ(1988年、1990年)といずれも通算3度のF1ドライバーズチャンピオン獲得者である。

[編集] 初期の経歴

[編集] レーシングカート

1972年にヨーロッパ・ジュニア・カート選手権でチャンピオンに輝くなど、1974年までに、フランス及びヨーロッパの幾つかのジュニアカート選手権で優勝。1975年には、フランスのシニアカート選手権を制覇。

[編集] ジュニアフォーミュラ

1976年ジュニアフォーミュラに転向しフォーミュラ・ルノー・フランス選手権に参戦。全13戦中ガス欠でリタイアした最終戦を除き12勝、ポールポジション6回、ファステストラップ11回の成績でチャンピオン獲得。1977年、フォーミュラ・ルノー・ヨーロッパ選手権にステップアップし、6勝、3ポールポジション、7ファステストラップでチャンピオン。またこの年はノガロエストリルF2にもスポット参戦し、それぞれ10位、リタイアという結果を残している。

[編集] F3

1978年、ヨーロッパF3選手権にマルティニMk21B・ルノーで参戦したが、全11戦中1勝、1ポールポジション、1ファステストラップ、3リタイア(原因は全てエンジントラブル)と振るわず、ポーで行われたF2にもシェブロンB40・ハートで出走したが、こちらもエンジントラブルでリタイアであった。この年はフランスF3選手権にも参戦し、こちらではチャンピオンを獲得している。1979年、前年に引き続きヨーロッパF3にマルティニMk27・ルノーで参戦。全13戦中9勝、4ポールポジション、8ファステストラップでチャンピオンを獲得した。この年にもフランスF3選手権に参戦し、これを連覇している。

翌年からマクラーレンでのF1参戦が決まった。

フォーミュラクラスへ転向後、F3までのレースにおいてドライビングミスや他車との接触によるリタイアは2回しかない。

[編集] F1における経歴

[編集] マクラーレン時代(第1期)

1980年

開幕戦アルゼンチンGPでマクラーレンからF1にデビューし、6位に入賞した。続く第2戦ブラジルGPでも5位入り連続入賞したが、その後は第8戦イギリスGPと第11戦オランダGPで6位入賞したのみで、結果的にブラジルGPでの5位がこの年の最高位であった。その他のレースは7位2回、11位1回、リタイア5回、予選での事故による怪我などで決勝への不出走が2回あった。チームメイトのジョン・ワトソンに対し、予選では13勝1敗と大きく勝ち越している。

この頃のマクラーレンは丁度低迷期であり、車体は信頼性不足に悩まされ、事故も数回経験した。その間にルノーからオファーを受ける。マクラーレンとは複数年契約していたがロン・デニスによる組織改革が進められている状況だったことから「これまでのチーム・マクラーレンとデニスによるマクラーレン・インターナショナルは別組織である」という論理で契約を破棄し、移籍した。

[編集] ルノー時代

ルノーRE40(1983年)
1981年

開幕から2戦連続で他車と接触してリタイア。第3戦アルゼンチンGPでは初の表彰台を獲得する活躍を見せるが、マシンの信頼性不足にも悩まされ、第7戦イギリスGPまでにリタイアは6回を数えた。しかし、第8戦の母国フランスGPで初優勝を遂げると、第12戦オランダGPと第13戦イタリアGPを連勝した。

この年計3勝を上げ、完走した6レースでは全て表彰台を獲得している。

1982年

開幕戦南アフリカGP・第2戦ブラジルGPと2連勝を果たし[1]、タイトル争いで先行したが、マシンの信頼性不足や自身のミスにより、以降の7戦では5回のリタイアなど入賞すらできないレースが続く。予選では5回のポールポジションを含め、フロントローを9回獲得する速さを見せたが、結局優勝は序盤の2回にとどまった。

また、チームメイトのルネ・アルヌーとの確執が噂された。この年の第11戦フランスGPでは、タイトルの可能性のあったプロストを先行させるようチームオーダーが出ていたが、アルヌーはこれを無視して優勝してしまった。

この年、共に親友であったフェラーリのジル・ビルヌーブディディエ・ピローニのチームメイト同士の確執、その結末としてのビルヌーブの死、また、ピローニを再起不能とした雨の事故といった出来事がその後のレース人生に影響を与えた。

1983年

開幕から2戦は入賞すらできなかったが、第3戦の母国フランスGPハットトリックを達成すると、第6戦ベルギーGPポールトゥウィンを飾るなど4戦連続で表彰台を獲得し、タイトル争いをリードする。以降も第9戦イギリスGPと第11戦オーストリアGPで優勝、オーストリアGP終了時点ではブラバムのネルソン・ピケに対し、14ポイントのリードを築いていた。

しかし第12戦オランダGPにて2位走行中、トップのピケへの追い抜きを試みて接触し、シーズン初リタイヤを喫す。押し出されたピケも同様にリタイヤだったが、ピケのマシンは接触前の時点で既にトラブルを抱えており、プロストは数周待てば自動的にトップが転がり込んでくる状況だった。ここから流れが変わってしまい、続く第13戦イタリアGP・第14戦ヨーロッパGPを2連勝し猛追してきたピケに対し、プロストはイタリアGPでも連続でのリタイヤ、ヨーロッパGPでも2位と先行され、2ポイント差にまで縮められた状況で最終戦南アフリカGPを迎えた。南アフリカGPでも流れを変えることはできず前半戦にリタイヤ、3位でフィニッシュしたピケに逆転され、結局2点差でチャンピオンを逃した。

この年を最後にチームとの確執もあって、マクラーレンへ戻ることとなった。

[編集] マクラーレン時代(第2期)

1984年

既に2度のドライバーズチャンピオンを獲得していたニキ・ラウダがチームメイトとなり、この年は完全にマクラーレンによって支配されるシーズンとなった。予選では16戦中15戦でラウダを上回るなど、純粋な速さのみでは圧倒したが、タイトル争いは、プロストが勝てば次はラウダ、ラウダが勝てば次はプロストと常に一進一退の緊迫した展開となった。

しかし優勝以外でも確実に上位入賞しポイントを稼ぐラウダが次第に差を広げ、プロストは第14戦イタリアGPをリタイヤした時点で自力チャンピオンの可能性を失う。第15戦ヨーロッパGPで優勝、自身が優勝しラウダが3位以下なら逆転という状況下で、最終戦ポルトガルGPも優勝したが、ラウダは最終周に2位に上がり、軍配はラウダにあがった。最終的にシーズン7勝という当時歴代1位タイの記録をあげながらも、5勝のラウダに0.5ポイント差という、史上最小得点差でチャンピオンを逃した。

この頃までのプロストは若さからの速さを前面に押し出す激しいスタイルだったが、2年連続僅差でチャンピオンを逃したこと、特にこの年ラウダの走りの強さを身をもって体感したことが教訓となり、後のプロストのドライビングスタイルに大きく影響したシーズンとなった。

また、激しい雨により短縮された第5戦モナコGPで優勝した際の出来事が、チャンピオン争いに影響したとしばしば話題に上がる。短縮された場合でも、規定周回数を満たしていれば入賞者へ与えられるポイントは本来のままであるが、半分以下の段階で打ち切られたモナコGPではポイントが半分となり、優勝したプロストには4.5ポイントが与えられた(正規は9ポイント)。

このレースではアイルトン・セナステファン・ベロフの追い上げを許しており、最大で30秒以上あった2位セナとの差が、赤旗中止となったレース最終周では7秒差にまで縮まっていた。もしレースが続行され正規のポイントが与えられていたと仮定すると、ゴールまでにアイルトン・セナかステファン・ベロフ、あるいはその両人に抜かれていたとしても[2]、2位で6ポイント(ベロフはこの年、所属していたティレルがいわゆる『水タンク事件』を起こして、後にポイントを剥奪されてしまう。その為、プロストは仮にセナとベロフの後ろの3位でフィニッシュしたとしても、繰上げで2位・6ポイントを獲得することができた)を獲得することになり、ニキ・ラウダは無得点であったため、その場合にはプロストがチャンピオンを獲得していたことになる。

危険なコンディションであるためにレースの早期終了を自ら促し、レースを短縮させたことが、プロスト自身のチャンピオン争いに影響を与えることとなった。

1985年
マクラーレン時代(1985年)

開幕戦ブラジルGPで優勝し幸先の良いスタートを切り、フェラーリのミケーレ・アルボレートとチャンピオン争いを展開した。共に安定した成績を収めており、アルボレートがランクトップに立つこともあるなど拮抗していた。しかし第12戦以降からアルボレートの成績は突如乱れて終盤6戦ノーポイントとなり、対するプロストは終盤まで安定した成績を残した。

終盤の差が明暗を分け、最終的には20ポイント差でチャンピオンを獲得、フランス人として初の栄誉となった。5勝を含め11回の表彰台を獲得し、特に中盤から後半戦で着実にポイントを重ねていた。

1986年

ウィリアムズホンダ勢のマンセルピケとチャンピオン争いを展開・第3戦サンマリノGPと第4戦モナコGPで連勝、優勝できない際でも第6戦カナダGPから第9戦イギリスGPまで4戦連続で表彰台を獲得するなど、確実にポイントをあげていった。ウィリアムズ勢が共にリタイアとなった第12戦オーストリアGPでは、少ないチャンスを確実に生かして優勝を飾った。

結局、最終戦オーストラリアGPまでタイトル争いはもつれ込んだ。しかし、プロストがタイトルを獲得するには優勝が最低条件であり、尚且つマンセルが4位以下でなければならないという圧倒的に不利な状況だった。レースでもゲルハルト・ベルガーと接触し32周目に予定外のピットインを強いられるなど苦しい展開だったが、この際プロストのタイヤの摩耗が予想を下回っていたため、グッドイヤーのタイヤエンジニアが他チームに「タイヤ交換の必要なし」という判断を伝え、これが結果的に争いに影響を及ぼす。

まず、最も王座に近かったマンセルが、3位走行中の64周目に左リアタイヤをバーストさせ、リタイヤした。この時点では首位に立ったピケがタイトル獲得に最も近い位置にいたが、ウィリアムズ・チームはピケへの危険性を考慮し、65周目に急遽タイヤ交換を行い、プロストが首位に立った。ピケはその後猛追し、最終ラップの82周目にファステストラップを記録して追い上げたが届かず、プロストは6ポイント差を逆転しチャンピオンとなった。2年連続王座は1959年と1960年のジャック・ブラバム以来26年ぶりの快挙だった。

この際、レース中燃費計は終始マイナスを指していた。終盤、猛追するピケを背後に感じながらも燃料をセーブすべくペースを極端に落としたが、チェッカーを受けた段階でも燃費計はマイナスを指していた。マシンを停めたプロストは「多分、コンピュータが壊れていたんだと思うけど」とチームに報告した。

1987年

前年と同じくウィリアムズ勢がシーズンを支配し、プロストは年間3勝を上げたものの、ピケ、マンセルに対し、マシン戦闘力の差から苦戦を強いられ、ランキングは4位に留まった。しかし、第12戦ポルトガルGPでのシーズン3勝目は、自身通算28度目の勝利となり、ジャッキー・スチュワートの持つ最多優勝記録を破るものとなった。また、堅実にポイントを稼ぐことでシーズン終盤、第14戦メキシコGPまでタイトルの可能性を残していた。

第15戦日本GPでは、序盤のタイヤバーストで一旦は最後尾(26位)まで順位を落としながらも猛追して7位まで挽回。このレース中にプロストが記録したベストタイムは、優勝したフェラーリのベルガーよりも1.7秒速いものだった。

1988年

チームがホンダと提携し、V6ターボに合わせて開発したニューマシンMP4/4を投入。チームメイトにはアイルトン・セナを迎え、セナと共にシーズンを完全に席巻した。

開幕戦ブラジルGPを優勝で飾ると、第7戦フランスGPまでに4勝をあげ、それ以外の3戦でも2位表彰台を獲得し、安定感に欠けるセナに対して一歩リードしていた。しかし、第8戦イギリスGPからセナが4連勝を記録、プロストはその4戦の中でも2位3回と勝てないレースでもポイントを確保していたが、第11戦ベルギーGPでは一旦「敗北」宣言をすることとなった。

しかし、両者がノーポイントとなった第12戦イタリアGP以降、セナの成績が再度乱れ始め、プロストは第13戦ポルトガルGP・第14戦スペインGPを連勝し、タイトル争いが終盤までもつれ込んだ。第15戦日本GPではセナがスタートに失敗し大きく後退、プロストがトップを走る有利な展開となったが、マシンにブレーキトラブルが発生したこともあり、28周目に追い上げてきたセナに抜かれて2位に終わり、そのままセナのタイトル獲得が決定した。

この年、プロストが7勝・セナが8勝を挙げ、ふたりで全16戦中15勝をマーク、開幕からは11連勝を記録していた。また15勝中の10勝は1-2フィニッシュであり、3位以下を全て周回遅れにしたこともあった。チームが他を圧倒したシーズンだったが、チャンピオン争いの最中だった第13戦ポルトガルGPでは、赤旗再スタートの直後にプロストがセナに幅寄せを行い、1周目終了のメインストレートではセナが報復するかのように幅寄せを行っていた。これを機に、それまで良好な関係を築いていたセナとの関係が変わっていく。

1989年

セナとの確執は、この年の第2戦サンマリノGPに決定的となる。ゲルハルト・ベルガークラッシュ炎上事故後の再スタート前にセナとプロストの間には、『スタート直後の最初のコーナーを抜けるまではお互い勝負しない』という曖昧な表現の「紳士協定」が結ばれていた。スタートで先行したプロストではあったが、最初のコーナーをタンブレロとするかトサとするかで2人の解釈に齟齬が生じ、セナはトサコーナーであっさりとプロストを抜き去ってしまった(1回目のスタート時はセナが先行したため問題は発生しなかった)。紳士協定を反故にしたとして怒ったプロストは3位までの入賞者に義務づけられている記者会見をボイコットして自家用ヘリで退去。後日罰金を科せられている。この紳士協定に関して、フジテレビNEXTのF1解説を勤める今宮純は「F1 Legends」の中で、プロストからもちかけたもので、セナははっきりとした返答をせず「まぁ…やってみようか」といった内容のものだったと語っている。

チーム崩壊を恐れたロン・デニス(彼はこの紳士協定に関知していなかった)を交えた翌週の三者会談で、セナは「紳士協定は1回目のスタートのみ」とか「協定はトサ・コーナー入り口のブレーキングポイントまでだ」と抗弁したが、デニスに促され、最後は渋々ながら非を認め謝罪した。これにより両者は一旦和解した。しかし、今度は「和解時の話し合いの内容を口外しない」という紳士協定をプロストが破り、セナの不誠実さに対する非難を交えながら仏紙レ・キップの記者にリーク。これにより、両者の間の溝は決定的になってしまった。

その後、ロン・デニスの懸命の説得にもかかわらず、プロストはシーズン中盤の地元フランスGPを前にマクラーレン離脱を発表し、決勝レースでは一度もトップを譲らず完勝する。ルノーエンジンを擁するウィリアムズから巨額の契約金をオファーされるが、最終的にフェラーリへの移籍を決断。フェラーリの地元イタリアGPを前にこれを発表して、そのレースでも優勝を飾る。ホンダの記念すべき50勝目は、既にフェラーリドライバーとしてイタリアの観衆に熱烈歓迎されるプロストが達成したという皮肉な結果となった。表彰式の時に契約上チームの所有物である優勝トロフィーを地元のファンに投げ与えてしまい、ロン・デニスが不快感を示した。また、度重なるエンジン待遇差別発言に業を煮やしていたホンダの怒りも頂点に達し、プロストへのエンジン供給停止を通告してきた。後日プロストは、トロフィーをレプリカで「弁償」するとともに、ホンダにも謝罪した。

日本GPの予選では、セナに1秒以上の差をつけられ2位になる。プロストはウィングを若干寝かせストレートでのスピードを伸ばすセッティング変更を、ダミーグリッド上で決断する(本人は日曜午前のフリー走行で決めたと語っている)。 決勝レースでは、スタートでセナの前に出たプロストは、セナがコーナーで接近しても直線で引き離す、という展開が続く。このような状態が47周目まで続いたが、この周回の最終コーナー手前のシケイン、イン側に寄せて追い抜こうとしたセナと、アウトからコーナーにアプローチしたプロストが接触。両者は並んでコース上に停止し、即座に車を降りたプロストは、コントロールタワーへ向かい、接触の原因はセナの無謀な追い越しにあると非難した。一方コースに復帰しトップでチェッカーを受けたセナは、レース後の再裁定でコース復帰時のシケイン不通過を理由に失格となった。

その後多くのドライバーから「シケインを通過できなかったとき、マシンをUターンさせコースに戻るのは危険であり、エスケープから安全にコースに復帰したセナの行為を危険と見なすのはおかしい。」という抗議がなされたため、セナの失格の理由は「押しがけ」(これは元々レギュレーションで禁止されている)に変更された。 最初から押しがけを失格理由にしなかったのは、それに加担したマーシャルの管理責任を問われることを恐れたためである。

この接触によりチャンピオンが決定したこともあり、プロストとセナのどちらが悪いかでメディアやファンの間で論争が続いたが、FIAのF1公式サイトでは、プロストの故意によるものだとされている、これはオンボード映像でプロストがシケインをショートカットする勢いでステアリングをセナの方に切っていたからである。(両者リタイアだとプロストがチャンピオンが決定。)[3]

プロストは最終戦オーストラリアGPの決勝を「豪雨のため危険」だとして走らなかったが、タイトルを争うセナがリタイアしノーポイントに終わったため、日本GPでのセナの失格裁定の行方にかかわらず、3度目の世界王座を獲得した。

[編集] フェラーリ時代

1990年

プロストはチャンピオンに与えられるカーナンバー"1"を手土産にフェラーリに加入し、マクラーレンに残ったセナと3年連続でチャンピオン争いを繰り広げることとなる。

ニューマシンフェラーリ641で迎えた開幕戦アメリカGPは散々な結果だったものの、続く第2戦ブラジルGPでは、セナと中嶋悟の接触事故の後に首位にたち、移籍後初勝利をあげる。第6戦メキシコGPでは13位スタートながら、タイヤ無交換作戦で順位を上げ、逆転優勝した。ここから3連勝、特に第7戦フランスGPでの母国優勝は、フェラーリにとってF1通算100勝目であった。第8戦イギリスGP終了時点では一旦ランキングトップに立つが、この年はセナも安定して成績を収めており、第9戦ドイツGP以降は再度リードを許した。

第14戦スペインGPでシーズン5勝目を挙げて望みを繋ぎ、セナが9ポイントをリードした状況で第15戦日本GPを迎える。スタートではプロストが先行したが、第1コーナーへ進入する際に、アウト側のプロストとイン側のセナが接触してリタイアとなり、チャンピオンを逃すこととなった。同じサーキットで同じドライバー同士が、2年連続で接触してのチャンピオン決定となった。後にセナは「故意にぶつけた」ことを認めている。

1991年
フェラーリ時代(1991年)

1991年はフェラーリがレギュレーション改正に対応したマシン製作に失敗したことから低迷してゆくことになる。チームは前年のマシン641/2レギュレーションに合わせて642として改良した。

テストで好調であったため、開幕戦から実践投入したが、641/2がベストハンドリングマシンと言われたが、642ではウイング幅の縮小や、ディフューザーの縮小などでダウンフォースが減少したため、持ち味のハンドリングのよさが失われてしまい、戦闘力を欠くこととなった。エンジンが重く馬力が劣ることも不利に働いた。第3戦サンマリノGPでは、濡れた路面でフォーメーションラップ中にスピンしてコースアウト。復帰できず、そのままDNS(未出走)となった。慌てたチームは第7戦フランスGPより、アップデートマシンの643を投入したが根本的な解決にはならなかった。

更に、度重なるチーム批判で、チェーザレ・フィオリオ監督やチーム首脳陣との関係が険悪になっていく。第4戦モナコGP後にプロストはフィオリオを解雇に追い込んだが、その後も首脳陣との関係は悪化。「今のフェラーリは赤いカミオン(大型トラック)だ」と発言したことで、最終戦を残してチームを解雇される結果となった。

終わってみれば「デビューイヤー以来11年ぶりのシーズン未勝利」という不本意な成績で、フランスGPでマンセルと争った以外、優勝争いに絡むことすら出来なかった。

[編集] 休養

1992年

シーズン開幕前には、ジョン・バーナードと共にトムスを母体としたF1チームの設立を試みたり、オールフランスチームの夢をかけて開幕前にリジェチームのマシンのテストを実施するなどの動きを見せたが、パフォーマンス等に納得するものがなく、結局1年間の休養を表明。地元フランスのテレビ局で解説者として過ごした。

その間に1993年からのウィリアムズ・ルノーのシートを獲得し、F1ドライバーに復帰を発表。周囲には「最強マシンを得て快進撃するのではないか」という意見と、「さすがのプロストも1年もの休養を取った後、すぐ活躍するのは難しいのではないか」という意見があった。

[編集] ウィリアムズ時代

1993年

前年に圧倒的なマシン性能差を見せつけたチームと、3度のチャンピオンという組み合わせが誕生したが、開幕前の予想とは裏腹に、プロストにとって決して楽な展開にはならなかった。シーズン序盤に雨が連続したこともあり、セナは、ウィリアムズと比べると見劣りするマクラーレンフォード(ホンダエンジンを失いフォードのカスタマー仕様エンジンに変更)で、予想以上の健闘を見せる。さらにプロストの同僚のデイモン・ヒルが成長し、3シーズン目のミハエル・シューマッハも活躍したためである。

プロストの独走とならなかった要因としては、初めて経験するアクティブサスペンションの挙動に慣れるのに時間を要したことや、ウィリアムズが1993年用に用意したFW15Cは実は1年落ちの設計(暫定マシンだった前年のFW14Bが独走したため、FW15の投入を1年延ばした)であったためである。

プロスト最後の勝利となったドイツGPも、ヒルが終盤でタイヤバーストによりリタイヤしたことで1位に繰り上がった結果である(ただしその後の第13戦イタリアGPでは両者の立場が入れ替わったかのようなレースとなっている)。年間タイトルを目標とするために個々のレースでは保守的な戦略を取ることもあったが、母国フランスGPやフランス語圏であるカナダGPでは縁石に大きく乗り上げるような攻撃的な走りを見せた。

そんな中、所属するウィリアムズに翌年からセナが移籍することが確実になった事や、自らのモチベーションの低下を悟った事などから、第14戦ポルトガルGPで、当季限りでの引退を発表。レースでは2位に入賞し、4回目の世界チャンピオンの座を獲得した。プロストの現役引退時点ではファンジオの5回に次ぐ歴代2位の記録だった。チェッカーを受けた後、コース上にやって来たファンから手渡されたフランス国旗を掲げて走行した。

その後の第15戦日本GPと最終戦オーストラリアGPでは共にセナ優勝、プロスト2位で終わった。オーストラリアGPでの表彰台ではセナと握手をしてみせた。この表彰式直前、パルクフェルメ内ではデニスを含めた3人で握手をしていた。

[編集] F1ドライバー引退後

1994年はTF1のテレビ解説者としてサーキットに帯同。サンマリノグランプリでは、フリー走行中のセナに無線でインタビューしている。セナの死後にプロスト復帰説が流れた事もあったが、プロストは『絶対にない』と否定した。

ドライバー引退後、ルノーのアドバイザーとして働いていた。この頃、プロストはルノー親善大使を拝命。自身が出演したルノー・ルーテシアのテレビCMが日本でも放映されていた。すれ違いできないような細く曲がりくねった一方通行の道を間違って対向してきた女性ドライバーのために、プロスト(もルーテシアに乗っていた)がその女性ドライバーのルーテシアを猛スピードでバックさせてあげるという内容のCMだった。

ルノーとの契約を1995年半ばで打ち切り、プロストは同年のイタリアGP終了後、マクラーレンのテストドライブに参加する。“現役復帰か!?”と騒がれるが、結局テクニカル・アドバイザー兼テストドライバーとしてチームに加入した。1996年には新車MP4/11シェイクダウンや同シーズンのテストを担当し、チームに貢献した。

一方、1995年末には、フェラーリの監督で、以前より親交のあったジャン・トッドから、ミハエル・シューマッハのサポート役として現役復帰を持ちかけられていたが、辞退したことが最近になって本人の口から明かされている。

[編集] F1チーム設立

プロスト・無限ホンダJS45(1997年)

1997年にリジェを買収しF1チームのオーナーとなり、プロスト・グランプリと改名しグランプリに参戦した。参戦2戦目で表彰台を獲得し、翌3戦目には予選3位を獲得するなど、デビューイヤーとしては一定の活躍を見せた。1998年にはプジョーと手を組んでオールフレンチチームの実現を目指したが成績は振るわなかった、またこの前年から既に契約が決まっていたプジョーの関係者をファクトリーに招き無限エンジンを無限の了解を得ずに見せるなどし無限首脳を激怒させた。 その後も不振に喘ぎスポンサー不足もあり2002年初めにチームは破産。政治的な観点でエンジンサプライヤーやスポンサーなどと様々な問題で事実上喧嘩別れに至る事が少なくなく、ドライバー時代の輝かしい経歴とは対照的な結果となり、「一流のドライバーが、一流のオーナーになれるとは限らない」実例に挙げられてしまうことにもなった。

この頃、Number誌によるインタビューの「ドライバーとしてのプロストは、チーム監督としてのプロストから見てどうか?今になって欠点はあるか?」の問いに対し「ない。彼はすばらしいドライバーだ、すぐにでも雇いたい。」と答えている。

F1ドライバーでプロスト・グランプリにも所属していた中野信治は、チーム監督としてのプロストの姿勢を批判していた。同時期にチームメイトであったオリビエ・パニスは、中野に対するあまりの冷遇に耐えかね(当のパニス自身は非常に優遇されていた)、待遇を改善するよう進言していたというが、結局最後まで待遇を改善する事はなかった。

[編集] F1撤退後から現在

2003年からはフランスの氷上レース、アンドロス・トロフィーにオペル・アストラで参戦。2004年はフランストヨタの支援を得て、トヨタ・カローラで参戦している。トヨタとの関係が出来たことから、トヨタF1チームのアドバイザー就任が囁かれたこともあったが、実現はしていない。

2005年、プレゼンターとしてフランスGPを訪問。久々にF1の舞台に姿を現し、優勝したルノーフェルナンド・アロンソにトロフィーを手渡した。アロンソはこの年、プロストが果たせなかった「ルノーのコンストラクターチャンピオン獲得」に貢献している。

またこの年は「Exagonエンジニアリング」よりクライスラーバイパーGTS-Rで、ジャン・ピエール・ジャブイーユをパートナーとしてフランスGT選手権に参戦。9月のル・マンと10月のマニ=クールでは、ジャブイーユに代わり実子のニコラス・プロストをパートナーとしている。

2006年には、ルノーF1日産ブランドへの変更とは別の話として、日産とプロストが組んでF1に参戦するのではないかと噂された[4]

2007年には、マクラーレン・チームのドライバー間の対立(ロン・デニスがチャンピオンのフェルナンド・アロンソを差し置いて、ルーキーでデニスと同じイギリス人のルイス・ハミルトンに肩入れしているとされた問題)に関し、「以前にもデニスは自分を差し置いてセナを依怙贔屓していた」と、自らの経験に基づいた発言が幾度かメディアに流れた。

2009年にはダチアと手を組み、再びアンドロス・トロフィーに参戦。ダスターで2009-2010シーズンは総合2位の成績をおさめた。

[編集] ドライビングスタイル

1984年迄は、予選グリッドを重視した走りであったが、ニキ・ラウダとチームメイトになり(ラウダはマクラーレン在籍中の4年間ポールポジションを1度も取れなかったが、1984年にチャンピオンを獲得した)、1985年以降から、スムーズな加減速と追い抜きを武器にポイントを重ねるレース戦略を採るようになった。ライバルの動向も含めたレース展開を考慮し、安全マージンを取りつつも、必要に応じてペースを上げるようなレース展開から、「プロフェッサー」と呼ばれるほどになった。この頃よりファステストラップも多く獲得するようになった。

ニュートラルステアのセッティングを好み、少ない操作でタイヤを傷めにくい走りを身につけていた。そのタイヤを労わって走る技術を生かし、1987年と1988年のブラジル・グランプリでは猛暑の中、ライバルよりも1回少ないタイヤ交換で優勝している。1989年の同グランプリでは、予定されていた2回目のタイヤ交換が出来ず(クラッチトラブルの影響)、序盤に交換したタイヤで最後まで走り切り、2位を獲得した。このレースについてプロストは「優勝より嬉しい2位」と語っている。

かつてのチームメイト、ケケ・ロズベルグの解説によれば、傍目にはスムーズに見えるプロストのコーナリングは、ブレーキをかけないまま曲がっていき、曲がりながらロック寸前までブレーキをかけ一気に転回し、そこから全開で加速するという独特なもので、ロズベルグ自身も真似しようとしたがどうしても出来なかったという。

プロストは「チームメイトがセットアップしたマシンでそのまま走れたのはセナとラウダだけだった」と発言しており、マシンの最大の性能を引き出すセッティングは3人同じであった。最後のチームメイト、デイモン・ヒルは、同じセッティングで走っていたプロストのハンドル操作が極めて少ないことをデータから知り、プロストの走法を学ぶようになった[5]

後藤治はプロストについて、「“プロフェッサー(教授)”と呼ばれていましたが、あれほど実像からかけ離れたニックネームも珍しいですよ。プロストは若い時からいいクルマに乗り続け、いい体験をいっぱいしてきたから、どういう方向にセットアップすればいいかが経験的にわかっている。それがプロストの財産でね。1989年にプロストは加速でセナに負けたから、ホンダを“エンジン操作している”と批判してきた。でも、データを見るとセナが高回転まで使っているのに対してプロストは使っていない。この時はもうNAになっていて、燃費は関係ないから回転を抑えて走っても全く意味がない。でもプロストは理屈を分からずに走っているから、ターボ時代同様に回転を抑えて走っていた。ホンダが技術的なことを説明しようとしても聞こうとしないし、興味がない。我々も困って、あの当時はまだアナログタコメーターでしたから、“この回転数まで必ず引っ張るように”という目盛り代わりのステッカーを貼ってあげたんです。もちろん、非常に速いドライバーですよ。タイヤの使い方も抜群だし。でも、今の時代ならチャンピオンになれないでしょうね[6]」と評している。

[編集] 雨嫌い

プロストは雨を極端に苦手としている、と評されることが多い。雨を嫌うようになったのは、後述するディディエ・ピローニとの事故が契機となっている。本人によるとピローニの事故に遭遇するまでは、雨の方が得意だった。また、滑ることが問題なのでは無く、前車の水煙が前方視界を奪ってしまうリスクを恐れている、と語っている。それを証明するように、1988年のイギリスGPでは豪雨の中、良いところなく自主的にリタイヤしたが、次のドイツGPでは視界に影響しない程度のウエット・コンディションであったため、セナに次ぐ2位でフィニッシュしている。1989年のオーストラリアGPでは豪雨だということで、他のドライバーに出走を取りやめるよう働きかけを行い、自身も1周で走行を取りやめた。その他、1991年サンマリノGPや1993年ブラジルGP、ヨーロッパGPで勝利を逃している。

1982年のドイツグランプリの予選は視界が極端に悪い霧雨の中で行われたが、スローダウンした前車をプロストが追い抜いたところ、後ろからアタック中だったディディエ・ピローニがこれを視認できず、ピローニ車の前輪がプロスト車の後輪に乗り上げる事故が発生。ピローニ車はプロスト車を飛び越えて前方の路面に叩きつけられ、ピローニが両足を切断寸前の複雑骨折しレース生命を絶たれるという惨事に発展してしまう。プロストに過失は一切なかったが、事故直後に目の当たりにした親友ピローニの惨状が、その後のレース人生において大きなトラウマとなった。

[編集] エピソード

  • 父は家具職人で裕福ではなかった。そのためレース人生で自費で出走したのは「初めて参戦するレースに必要な中古のカートを、アルバイトをして貯めた800フランで買った時だけだ」という。
  • 鼻が曲がっているが(そのために少々ぼそぼそとした鼻声)、これは、小学生の頃サッカーの試合中に怪我をしたことが原因だという。
  • 子どもの頃はサッカー選手を目指していた。レーサーとなった後もサッカー好きは続き、98年W杯仏大会の折にはプロストGPのピットに大型モニターを持ち込んで観戦した。他所のチーム関係者も詰めかけて大盛況となった。なお、この関係でレースデビューは15歳の時と他のトップドライバーに比べると遅かった。
  • 爪を噛むクセがある。眉間にシワを寄せ、タイミングモニターを見つめながら爪を噛んでいる姿がしばしば捉えられた。
  • 自転車の愛好家であり、ツール・ド・フランス開催期間中のレース休息日に当年開催ステージの一つを走る市民レーサー参加型サイクリングイベント「エタップ・デュ・ツール」や、フランスの自転車ロードレーサーでツール・ド・フランスにおいて7度の山岳賞(史上最多)に輝いたリシャール・ヴィランクの引退レース等を走っている。
  • 出走回数は199が最も多く流布している数字だが、プロストが予選を通過し決勝に進出したレースは201であり、199はこれから「豪雨のため出走を拒否した」1989年オーストラリアGPと「フォーメーションラップ中のスピン」でスタート出来なかった1991年サンマリノGPを引いた数字である。当時はこのようなケースでは出走数に含まれないのが一般的だったが、現在はマシントラブル等でフォーメーションラップに出られなかったり、フォーメーションラップ中にストップした場合でも、出走回数としてカウントすることが多くなりつつある。このため、史家の中にはプロストの出走回数を200あるいは201と記録する者もいる。FIAの公式データでは200であり、本項ではこれに従っている。
  • 1983年、ルノーとの契約で、同社の小型車に乗ることを義務づけられていたプロストは、その年の暮れに解雇されるやメルセデス・ベンツ560SECを注文した。12年後の1995年、ルノー親善大使の契約を打ち切ったプロストがドライブしたのはメルセデス・エンジンを搭載したマクラーレンMP4/10であった。
  • 1987年、マクラーレンのデザイナーだったゴードン・マレーと共に初めてホンダの施設を訪問した際に、行く先々でエンジニアたちが2人をジロジロと見るので、「お前みたいな大男は日本にいないからだ」「いや、お前みたいに鼻の曲がった奴は日本にいないからだ」と互いにからかいあったという。
  • 1993年末にパリで開催されたチャリティ・カート大会では、他のドライバーが派手なドリフトでコーナーを曲がっているのにプロストは一切テールスライドをしないスムーズな走りを披露した。それを見たセナが、「どうしてあの走りであのタイムが出るんだ!」と驚愕した。プロストとセナは熾烈なトップ争いを展開。最後の対決に会場は大いに沸いた。結果は、エンジントラブルからスローダウンしたセナを、後ろからぴったりつけていたプロストがかわして優勝という、最後までプロストスタイルでの完勝であった。
  • 1993年を限りに引退を表明していたが、シーズンオフにマクラーレンの要請に応える形でプジョー・エンジンを搭載したMP4/9をテストドライブした。このことにルノー首脳陣は激怒し、後にプロスト自身がチームを所有した際にエンジン供給を拒否したと言われている。
  • プロストがテレビ解説を務めていた1994年ドイツ・グランプリで、リジェの2台が表彰台を獲得したが、リジェのマネージャーは、フェラーリ時代に反目したチェーザレ・フィオリオだった。マイクのスイッチが入っていないと思っていたプロストは「あのクソ野郎、ついてやがるぜ」と呟き、そのまま生放送されてしまった。しかしその後自身のチームプロストGPではそのフィオリオを招聘している。
  • ジャン・アレジとは、フェラーリ時代チームメイトであったり結婚式の立会人を務めるなど公私共に友人であったが、現役中は一緒に表彰台に立つことはなかった。

[編集] F1での年度別成績

所属チーム 獲得ポイント ランキング 決勝最高位・回数 表彰台回数 *予選最高位・回数
1980年 マクラーレン 5 15位 5位・1回 1回 7位・2回
1981年 ルノー 43 5位 1位・3回 6回 1位・2回
1982年 34 4位 1位・2回 4回 1位・5回
1983年 57 2位 1位・4回 7回 1位・3回
1984年 マクラーレン 71.5 2位 1位・7回 9回 1位・3回
1985年 73 1位 1位・5回 11回 1位・2回
1986年 72 1位 1位・4回 11回 1位・1回
1987年 46 4位 1位・3回 7回 2位・3回
1988年 87 2位 1位・7回 14回 1位・2回
1989年 76 1位 1位・4回 11回 1位・2回
1990年 フェラーリ 71 2位 1位・5回 9回 2位・5回
1991年 34 5位 2位・3回 5回 2位・3回
1993年 ウィリアムズ 99 1位 1位・7回 12回 1位・13回

*予選順位はペナルティなどを反映した決勝グリッド

[編集] 脚注

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  1. ^ ブラジルGPは、トップでチェッカーを受けたピケの失格による繰り上がり。
  2. ^ ベロフは後に水タンク事件で年間のリザルトを剥奪されたため。
  3. ^ The Officila Formula 1 Website - HALL OF FAME
  4. ^ Nissanとプロスト、F1参戦を考慮(F1.-live.com 2006年10月3日記事)
  5. ^GRAND PRIX SPECIAL』(ソニー・マガジンズ)1996年6月号 p.27
  6. ^ 柴田久仁夫 「究極のドライバー比較論-元ホンダF1プロジェクトリーダー後藤治が10年たった今、語る」『AUTO SPORT-アイルトンセナ没後10年特別企画』 三栄書房、50頁-55頁、2004年。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

スポーツのタイトル
先代:
ヤン・ラマース
ヨーロッパF3チャンピオン
1979
次代:
ミケーレ・アルボレート
先代:
ニキ・ラウダ
F1ドライバーズチャンピオン
1985-1986
次代:
ネルソン・ピケ
先代:
アイルトン・セナ
F1ドライバーズチャンピオン
1989
次代:
アイルトン・セナ
先代:
ナイジェル・マンセル
F1ドライバーズチャンピオン
1993
次代:
ミハエル・シューマッハ


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