クライスラー

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クライスラー
Chrysler Group, LLC
(新会社ロゴに変更された)
種類 リミテッド・ライアビリティ・カンパニー
市場情報 非上場
本社所在地 アメリカ合衆国ミシガン州オーバーンヒルズ
設立 2009年
業種 製造業
事業内容 乗用車の製造・販売等
代表者 ロバート・キダー会長、セルジオ・マルキオンネCEO、ジム・プレス副CEO
主要株主 UAW VEBA (67.69%)
フィアット (20%)
US連邦政府 (9.85%)
カナダ政府 (2.46%)[1]
主要子会社 クライスラー、ダッジENVIジープ、モパー
関係する人物 ウォルター・クライスラー(創業者)
リー・アイアコッカ(旧会社元会長)
外部リンク Chrysler Group LLC(英語)
クライスラー日本
特記事項:2009年4月連邦倒産法第11章の適用申請しフィアット主導での新会社として再編
  
クライスラー
Chrysler LLC
種類 リミテッド・ライアビリティ・カンパニー
市場情報 非上場
本社所在地 アメリカ合衆国ミシガン州オーバーンヒルズ
設立 1925年6月6日-2009年
業種 製造業
事業内容 乗用車の製造・販売等
代表者 ロバート・ナルデリ 会長兼CEO(最終)
主要子会社 クライスラー、ダッジジープ、モパー、クライスラーファイナンシャル
関係する人物 ウォルター・クライスラー(創業者)
リー・アイアコッカ(元会長)
外部リンク Chrysler LLC(英語)
クライスラー日本
  

クライスラーグループChrysler Group, LLC)は、アメリカ合衆国ミシガン州オーバーンヒルズに本社を置く自動車メーカーである。 クライスラーの歴史は、1925年ウォルター・クライスラーが設立したクライスラーコーポレーション(Chrysler Corporation)から始まった。クライスラーは、永年、自動車産業ビッグスリーと賞賛されたが、アメリカの金融危機を発端とした世界的な不況の影響から2009年4月30日連邦倒産法第11章の適用申請を行うに至る。同年6月10日法的手続きが完了。約1ヶ月というスピードで再建した。再編後の新クライスラーは優良事業を引継いだが、相当数の既存資産の清算を余儀なくされた。新生クライスラーの株式は、その大半を全米自動車労組(UAW)の退職者健康基金であるVolunteer Employee Benefit Association (VEBA)が取得[1]。次いでイタリアフィアット(再建の進捗による増資オプション有)さらに約66億米ドルの融資を行った米政府、約40億カナダドルの融資を行ったカナダ政府が融資返済まで少数株主に就く。

目次

[編集] 歴史

[編集] 設立

70 ツーリング(1924年)
エアフロー(1934年)
タウン・アンド・カントリー(1948年)

1925年6月6日ウォルター・クライスラーが前年に発表した6気筒エンジン自動車クライスラー・シックスを製造販売する会社として、当時のマックスウェル、チャーマーズ両社を統合の上に設立した。

その後、1928年に「プリムス 」と上級車種を擁する「デソートブランドを設立、翌1929年にはダッジ・ブラザーズ社を買収してラインナップを充実させ、GMとフォードに次ぐアメリカのビッグ3のひとつに成長する。またこの頃よりヨーロッパ日本への輸出を積極的に行い、その販路を拡大した。

[編集] 先進技術の導入

設立後よりフレデリック・ジーダー(Frederick Zeeder)らの有能な技術者を擁し、クライスラーは技術面でGMやフォードに先んじた姿勢を取っていた。大衆車では例がなかった4輪油圧ブレーキシステム、「フローティングパワー」と呼ばれる新方式のエンジンマウント、木骨を使わない全鋼製ボディの採用、エンジン位置を前進配置させて直進性を高める重量配分、油圧式パワーステアリングなど、1920年代後期から1950年代までにクライスラーが市場に先駆けて導入・実現した重要な新技術は非常に多い。

その自負のもと、1930年代初頭には、先進技術(前傾型重量配分、スケルトン構造ボディ)と流線形の斬新なデザインを合わせた新型車「エアフロー」を導入したが、先進的過ぎたために市場に受け入れられず、商業的には成功できなかった。しかしこれ以降アメリカやヨーロッパ、日本では流線形のデザインが主流となっていく。

パワーステアリングやエアバッグを初めて導入している。

[編集] 第二次世界大戦

1930年代には戦車ウエポンキャリアなどの軍用車の製造にも進出した。以後軍用車部門は同社の収益の多くをあげる重要部門に成長し、第二次世界大戦中は戦争特需で同社の経営の安定に大いに貢献した。

また、第二次世界大戦中は一般向けの乗用車の開発が中止され、新車の販売も極度に制限されたものの、終戦後の1940年代後半は、帰還兵による特需で乗用車の売り上げを伸ばした上に、1950年に勃発した朝鮮戦争による特需で、再び軍用車部門の売り上げが増えることとなった。

[編集] ヘミエンジンとモパー

300F(1957年)
インペリアル(1966年)
コルドバ(1978年)
「ミニバン」の代表的車種である「ヴォイジャー」(1984年)
「Kカー」の代表的車種である「ニューヨーカー」(1987年)
「DSM」で生産された「プリムス・レーザー」(1991年)
ネオン(1994年)
300C(2005年)
ダッジ・ラム(2009年)

1950年代に「ヘミエンジン」と呼ばれる高性能エンジンを導入し、NASCARなどのアメリカ国内のモータースポーツに積極的に参加。マッスルカーの流行につれ、これらの車はMoparモパー/モゥパー)の愛称で親しまれ、クライスラーブランドの高性能なイメージを市場に植えつけることに成功した。

またこの頃は、アメリカ経済が絶頂期にあり年々販売台数が伸びていたことや、輸入車との販売競争もほとんど存在しなかったもあり、テールフィンがつき、高馬力エンジンを積んだ利幅の大きい大型車(フルサイズ)が人気を博し、高性能な大型車が得意なクライスラーにとっての絶頂期でもあった。

[編集] 拡張路線

この頃、クライスラーを率いていたリン・タウンゼンド(Lynn Townsend)の元で1960年代初めには、まずスペインの商業車メーカー、バレイロスの経営権を掌握、続いて1963年にフランスシムカを強硬な資本介入で乗っ取り、さらに1967年にはイギリスルーツ・グループを買収し、これら3社を「クライスラー・ヨーロッパ」として組織し、フルラインナップでの展開を行った(これらは1981年PSA・プジョーシトロエンへ売却)。

これらに先立つ1960年には、オーストラリアに生産拠点を設けた(のちに日本三菱自動車に売却)他、既に現地で生産を行っていたシムカの設備を利用してブラジルでもトラックを含むフルラインナップの生産を開始するなど(1980年ドイツフォルクスワーゲンに売却)、本格的な世界進出を開始した。

[編集] 経営危機

しかし、これらは「負け組連合」と称されたような各国の弱小メーカーの寄せ集め的な買収の繰り返しであり、吸収合併による合理化やスケールメリットすらもたらすことのない有様であった。

また、日本やドイツの小型車との競争が激化するにもかかわらず、当時アメリカ国内で行われた無理な生産拡大が、結果的に品質低下と販売不振による過剰在庫、リコールの多発をもたらした。

さらに1979年に起きたイラン革命以降の第二次石油危機と、その後の石油価格の上昇を受けたアメリカ国内における日本車の急激なシェア拡大、それに反比例した利幅の大きい大型車の販売不振が追い討ちをかけた結果、1970年代後半には深刻な経営危機となり、運営資金が枯渇する状況に陥った。

[編集] アイアコッカ時代

経営危機の真っ只中の1978年に、フォード・モーターの社長をつとめていたものの、同社会長のフォード2世との対立から同年に解雇の憂き目にあっていたリー・アイアコッカが新たに社長に就任した。1979年にアイアコッカは、連邦政府と議会からストックオプションと引き換えに、15億ドルのローン保証を得ることに成功した。

しかし、アイアコッカの就任直後に運営資金が底をついたことから、第二次世界大戦以前より同社の収益の大きな柱であった軍事産業部門の売却を余儀なくされた他、大規模な人員削減を行うなど、苦難の時を迎えることとなった。

しかし、アイアコッカの就任後より開発を進め、1980年に早くも発売を開始した前輪駆動の小型車「Kカー」シリーズの導入と、全ラインナップの小型化、前輪駆動化の推進や、1984年に販売されたミニバンの導入、肥大化した組織の見直し、海外拠点や子会社を含む不採算部門の売却や閉鎖などの大々的な改革を行い、1980年代半ばには、数年前までは倒産寸前だった同社を完全に立て直すことに成功した。なお、1987年には黒字化を達成した。

1987年には、アイアコッカの指示のもと当時フランスルノー傘下で、「ジープ」ブランドを所有するアメリカ第4位の自動車会社であるAMC(アメリカン・モーターズ)を買収したが、AMCが深刻な販売不振に陥っていたこともあり、シェアにおいてビッグ3の他2社を上回ることはできなかった。

しかし、同社の販売網を組み込むことでアメリカ国内の販売網が拡充した上に、同社が展開していた「ジープ」ブランドの各車は、その後クライスラーに大きな売り上げをもたらすことになる。

[編集] 他社との提携

AMC買収に先立つ1985年には三菱自動車と提携し、「ダイアモンド・スター・モータース(DSM)」を設立した。1988年からイリノイ州に建設した工場で共同生産を開始し、「イーグル」ブランドなどで発売された。また三菱自動車が日本で生産した小型車をクライスラーやダッジ、イーグルのブランドで販売した。

その後、イタリア系のアイアコッカの指示のもとで、アイアコッカの友人でアルゼンチン系イタリア人のアレッサンドロ・デ・トマソが経営するイタリアの高級車メーカー・マセラティとも提携し、1988年には共同開発した高級2シーター車「TC」を少数生産した。また同時期にはイタリアの高級自動車メーカーであるランボルギーニを買収した。

1990年代にはオーストリアのシュタイヤー・プフ(現マグナ・シュタイヤー)がチェロキーとグランドチェロキーの生産を開始し、再びヨーロッパ市場に進出した。ちなみに、三菱自動車ギャランΣエテルナΣデボネアなどの中型車に搭載していたサイクロンV6を供給した。

その後1992年にアイアコッカは引退したものの、1994年には、三菱自動車などとの提携から学んだ小型車開発のノウハウを生かして、最低価格が1万ドルを切る安価な小型車「ネオン」を開発し話題を呼んだ。同車はその後「日本車キラー」と呼ばれ、アメリカ市場で人気を博した。

[編集] 「ダイムラー・クライスラー」時代

1998年に、ドイツダイムラー・ベンツ社と合併してダイムラークライスラー・AGとなった。この合併は対等合併ではあるが、事実上ダイムラーによる買収であった。しかしながら合併後、メルセデス・カーグループとクライスラー・グループの両方で好業績をあげたのは初年度だけで、以後はどちらかが不振に陥っている。

クライスラー・グループに関しては一時、「PTクルーザー」や「300C」などの予想外の好調な販売に助けられた時期があったものの、中・大型車中心のラインアップが災いして、イラク戦争後の深刻な原油高の影響で再び業績低迷に陥った。2006年決算では営業損益の赤字が11億1800万ユーロ(約1770億円)に達した。

[編集] サーベラス傘下へ

2007年5月、ダイムラークライスラーはクライスラー部門をアメリカの投資会社サーベラス・キャピタル・マネジメントに株式の80.1%を55億ユーロ(約9000億円)で売却し、クライスラーは新会社「クライスラー・LLC」となった。

2008年に世界金融危機が本格化すると、クライスラーの資金繰りは完全に行き詰るようになった。アメリカ政府はクライスラーの倒産を防ぐために、つなぎ融資として40億ドルを提供した。アメリカ政府は更なる追加融資の条件として、クライスラー経営陣や全米自動車労働組合(UAW)に、4月末という時期を区切って、提携相手候補のフィアットや債権者団との間で、債務(レガシーコスト等)削減の交渉をまとめるように通告した。

倒産直前の2009年4月末、ダイムラーは残りの株の全持分をサーベラスに売却した。最後の数日間の間に、アメリカ政府はさらに追加融資として5億ドルを提供した。

[編集] 経営破綻、フィアット傘下へ

クライスラー経営陣、全米自動車労働組合(UWA)、フィアット、債権者団などの間で、有担保債務(工場や不動産等)69億ドルの圧縮、医療保険基金への支払い義務の106億ドル削減等の交渉が続けられたが、債権者団のうち少数の中堅ヘッジファンドなどが最後まで条件を受け入れなかったために、交渉は時間切れとなった(クライスラーとフィアットの提携交渉はまとまった)[2]

アメリカ時間 2009年4月30日、クライスラーは連邦倒産法第11章の適用をニューヨーク市のニューヨーク州南部地区連邦倒産裁判所に申請した[3]

破産法手続により、大株主サーベラスが保有する株式は事実上失効し、新たな持ち株比率は、全米自動車労働組合(UWA)が55%、フィアットが20%、アメリカ政府が8%、カナダ政府が2%となった。フィアットは将来的に持ち株比率を35%まで引き上げることが可能で、さらに、米政府から受けた公的資金を完済すれば、発行済み株式の最大51%を取得して子会社化できる条項も盛り込まれた[4]

クライスラーのナルデリ最高経営責任者(CEO)は1ヶ月~2ヶ月後の法的手続き終了時に辞任し、新たに、政府とUAWから6人、フィアットから3人の総勢9人で構成される取締役会が新生クライスラーの経営を指揮する。新生クライスラーは、アメリカとカナダ両政府から総額100億ドル(約1兆円)余りの公的資金と、フィアットから小型車開発などの技術支援と経営・開発面での人材支援を得て、経営再建を目指す[4]。また、5月4日までにアメリカ国内22カ所すべての工場で当面操業を停止すると発表[5]

6月9日、米連邦最高裁判所が一部債権者によるクライスラー資産売却の差し止め請求を却下[6]。この決定により、翌10日には新会社への資産売却が完了し再建手続きが終了した。新生クライスラーのCEOにはフィアットCEOのセルジオ・マルキオンネが、会長には、ボーデン・ケミカルズ会長、デュラセル・インターナショナル会長などを歴任し、現モルガン・スタンレー社外取締役であるロバート・キダーが就任した[7]

[編集] 日本でのビジネス

生産においては、1970年三菱重工業との合弁により、三菱自動車工業を設立。合弁契約は1985年に合意の上、解約、クライスラーの出資分の大部分は三菱重工業が買収し、資本提携に転じた(三菱自動車工業はその後上場)。1993年に三菱自動車工業との資本提携を解消し、日本での生産からは完全に撤退した。

販売においては、1920年代より、日本への輸入が開始され、第二次世界大戦前までは八洲自動車が輸入するクライスラーやデ・ソートが上流階級や富裕層に、安全自動車が輸入したダッジや、やはり八洲が扱ったプリムスがタクシー等に愛用されていた。その後は国際興業や麻布自動車等、幾つかのインポーターの変遷を経て1988年セゾングループ大沢商会との共同出資で、日本法人「クライスラージャパンセールス」が設立された。1990年には本田技研工業と販売提携を結び、ホンダ販売店にて「ジープ」車の販売を始めた(1997年に提携終了)。

1990年代の輸入車ブームになると、日本でのビジネスにいよいよ本腰を入れ始めた。1995年、クライスラーがセゾングループ側の出資株を全て買い取り、西武自動車販売を吸収合併、クライスラー100%出資の新生「クライスラージャパンセールス」として再スタート。独自での日本販売網を構築した。また、ビッグスリーの中で最も右ハンドル車の販売に積極的であり、現在日本で販売されている車種の多くが右ハンドルのみの設定となっている。

「ダイムラー・クライスラー」誕生に伴い、1999年には「メルセデス・ベンツ日本」と合併、「ダイムラー・クライスラー日本」となり、2007年にはダッジブランドの展開を開始した。2007年にダイムラーとクライスラーとの協業解消に伴い、同年11月1日に、「ダイムラー・クライスラー日本」は「メルセデス・ベンツ日本」として元の社名に戻り、その子会社としてクライスラー・ダッジ・ジープブランドを取り扱う「クライスラー日本」として新たに発足の運びとなった。

[編集] 現在のブランド

2009年現在、「クライスラー」、「ジープ」、「ダッジ」、「モパー」の4ブランドを擁している。

「クライスラー」はセダンミニバンスポーツカーと、幅広いニーズに対応できる乗用車を揃えたブランド。

ジープ」は、四輪駆動車代名詞となるほど有名なブランドで、様々なバリエーションのSUVを展開している。

ダッジ」はアメリカで人気の高いピックアップトラックが主軸、個性的なセダンのラインアップもある。

モパー」は部品とカーアクセサリーのブランドである。

4ブランドは社内組織として独立しており、それぞれに社長兼CEOが配置されている。

[編集] 過去のブランド

[編集] 車種

[編集] 広告出演

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

[編集] 外部リンク

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