ランボルギーニ

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ヌオーヴァ アウトモービリ フェルッチオ ランボルギーニ S.p.a
Nuova Automobili Ferruccio Lamborghini S.p.a
種類 株式会社
本社所在地 イタリア
サンターガタ・ボロニェーゼ
設立 1962年
業種 自動車製造
事業内容 自動車の製造,販売
代表者 ステファン・ヴィンケルマン,CEO
主要株主 アウディ
関係する人物 フェルッチオ・ランボルギーニ(創業者)
外部リンク Lanmborghini.com
  

ランボルギーニLamborghini )は、イタリアの自動車メーカー。正式名称はヌオーヴァ・アウトモービリ・フェルッチオ・ランボルギーニ SpANuova Automobili Ferruccio Lamborghini SpA )。1999年以降、独フォルクスワーゲングループに属する。

本部はボローニャ県サンターガタ・ボロニェーゼであり、ライバル関係にあるフェラーリの拠点モデナ県マラネロとは、直線距離にして僅か20Km程度しか離れていない。

目次

[編集] 歴史

[編集] 自動車メーカーとしての成り立ち

ランボルギーニ社のトラクター

第二次世界大戦後、イタリアにトラクターが不足していることに目を付けたフェルッチオ・ランボルギーニは、タダ同然で手に入れた軍放出車両のモーリスエンジンと自ら開発した石油を気化するイン・パボリザトーレというシステムを使って高性能なトラクターを作った。彼の作ったトラクターは、高価なガソリンをエンジンの始動と暖気に使うだけでよく、後は安い石油で十分に動かせた。このトラクターが大ヒットし巨万の財を築いたフェルッチオはエキゾチックカーを買い集めるようになる。しかし、どの車も暑すぎたり、スピードが十分でなかったり、狭すぎたりしたため、彼を満足させる物ではなかった。のちにエキゾチックカーの生産に乗り出したフェルッチオは、「(汗で)助手席に座るレディのメイクアップが落ちないような快適な車を作りたい」と語ったという)。

やがてフェルッチオは富の象徴、フェラーリオーナーとなるが、当時のフェラーリにはクラッチに決定的欠陥があった。

所有するフェラーリの度重なるクラッチの故障に頭を痛めたフェルッチオは、修理のために車をフェラーリ社に持ち込んだ際、面会したエンツォ・フェラーリに「あなたの車はゴミだ」とぶちあげた。これに対してフェラーリは「自分の作ったトラクターでも走らせていればいいじゃないか、あなたにはフェラーリは乗りこなせない」と返したという。フェルッチオ自身がフェラーリはとても紳士的な対応をしてくれたと語ったという説もあるが、推測の域を出ない。エンツォ・フェラーリ自身の語る所によると、フェルッチオが文句をつけたのは自分ではなく、マセラティだという事である。このことに腹を立てたフェルッチオは、自社のトラクター工場でフェラーリを修理する事を思いつく。

いざクラッチを分解してみると、使われていたのはなんと自社のトラクター用パーツと同型のボーグ&ベック製クラッチ板。しかも、全く同一のパーツにフェラーリはトラクター用の十倍の値段を付けていた。

元々は優秀なメカニックで、自分でヘッドチューンしたフィアットでレースに出場した事もあるフェルッチオは、クラッチ修理と同時にフェラーリに装着されていたダウンドラフト型ウェーバー(Weber)社製キャブレターをサイドドラフト型に組替え、エンジンヘッドをオリジナルのSOHCから当時どの市販のフェラーリも採用していなかったDOHCに改造した。完成した車は公道でのテスト走行中の新型フェラーリをカモに出来るほど速かったという。

既存のエキゾチックカーに少なからず不満を抱いていたフェルッチオは、これがきっかけで自動車ビジネスに乗り出す決意をしたと言われる。 前述のフェラーリ社の高額なパーツ販売をみて、「この商売は儲かる」と踏んでもいた。

トラクターの他にヘリコプターも作ったが、認可が下りず結果的に、プロトタイプの2台しか現存していない。

イタリア・モデナにあるトニーノ・ランボルギーニ・ムゼオにフェルッチオが関わったランボルギーニ製品が展示されている。

[編集] エンブレムの由来

ランボルギーニ社のエンブレムは猛牛であるが、由来については創設者のフェルッチオ・ランボルギーニの星座が牡牛座だったからという説、また、フェラーリの跳ね馬のエンブレムに対抗したという説もある。

[編集] 販売

[編集] 世界

2006年の総納車台数は2,087台。2007年では10月25日時点でこの数字を超え、2,580台となった。

[編集] 日本での販売

現在、正規輸入・販売はアウディ・ジャパンの事業部として2001年に設立されたランボルギーニ・ジャパン(Automobili Lamborghini Japan、東京都世田谷区)が行っている。2006年の年間販売台数は、176台(統計資料、JAIA日本自動車輸入組合)。2007年3月には、ランボルギーニ大阪を経営する光岡自動車の顧客情報(ランボルギーニ大阪店)がインターネット上に公開されてしまう事件が起きた[1]

[編集] 車種一覧

ランボルギーニ・ムルシエラゴ
ランボルギーニ・ガヤルド
ランボルギーニ・ウラッコ
ランボルギーニ・カウンタック LP500S

[編集] 現行車種

[編集] コンセプトカー

[編集] 過去の主な車種

[編集] モータースポーツ

かつては創業者のフェルッチオが「レースには出ない」ことを社是としていた。これは当時のフェラーリがレースを本業として市販車はそのための資金稼ぎと位置づけ、そのためユーザーをないがしろにしていた事に対し、反発したためとも言われている。上記のフェラーリとの因縁にからんだ話であり、その因縁話自体が真偽が定かではないので、社是に関する話も同様に真偽は定かではない。

[編集] F1

クライスラー傘下に入った後の1989年に、ラルースチームへのエンジン供給の形で、F1グランプリ参戦を開始した。

1990年に、メキシコで結成されたチーム「グラスF1」向けにF1マシンを含めて製作を行っていた。エントリーが認められたものの、グラスF1設立を提言したメキシコ人の富豪が資金を持ち逃げしたこともあり、資金が底をつき参戦困難となった。これによる参戦キャンセルによる違約金支払を回避するために、ランボルギーニが実質的なワークス・チーム、モデナに再編成して参戦した。しかし、マウロ・フォルギエリが設計したマシンは時代遅れもはなはだしいもので、目立った成績をあげることはなく、同年に撤退した。

エンジンのレイアウトはV12で、独特な高音のエキゾーストノートを奏でた。それについては、同じV12エンジンを搭載したフェラーリへの評価を上回るものだった。

1993年にはエンジンを再設計しパワーアップ、翌年のエンジン供給を考慮してマクラーレンがテストを実施したものの、マクラーレンはプジョーとの提携を選び、この結果ランボルギーニはF1を去ることとなった。

なお、鈴木亜久里日本グランプリで日本人としてはじめて3位入賞した時のエンジンがランボルギーニだった。

[編集] 供給したチーム

[編集] SUPER GT

SUPER GTには、JLOC(Japan Lamborghini Owner's Club)より、全日本GT選手権の初期から参戦している。当初は漫画家の池沢さとしがドライバーを務めた。参戦時のマシンはカウンタックだったが、1995年2004年にディアブロ、2004年からはムルシエラゴにて参戦している。ランボルギーニ社も全面的に協力しており、このレースのためにディアブロ以降のマシンをワンオフ作成している。2005年からはGT300クラスにエントリーし2006年第1戦にて初優勝した。ランボルギーニがFIAの国際格式レースで優勝したのはこれが初めて。 2007年よりガヤルドも参戦。

[編集] ル・マン24時間レース

上記のJLOCが、2006年ル・マン24時間レースにメーカーワークスチームとして初参戦。2時間を残してチェッカーを受けられず完走とはならなかったが、クラス8位と健闘した。

[編集] 人物

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ


ランボルギーニ S.p.A. ロードカータイムライン 1962-
タイプ 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代
0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9
MR V12

ミウラ カウンタック ディアブロ ムルシエラゴ
V8/V10 シルエット ジャルパ ガヤルド
2+2 ウラッコ
FR GT 350GT
2+2 400GT イスレロ ハラマ
エスパーダ
SUV LM002
オーナー フェルッチオ・ランボルギーニ ロゼッティ, レイマー イタリア政府管理下 ミムラン クライスラー メガテック, Vパワー アウディ
レーシングカー: ランボルギーニ・イオタ(1969)
コンセプトカー: ランボルギーニ・エストーケ(2008)
人物: フェルッチオ・ランボルギーニマルチェロ・ガンディーニルーク・ドンカーヴォルケ
公式WEBサイト: Automobili Lamborghini Holding Spa