ミカ・ハッキネン
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| F1での経歴 | |
|---|---|
| 国籍 | |
| 所属チーム | ’91 – ’92 ロータス ’93 – ’01 マクラーレン |
| 活動時期 | 1991 – 2001 |
| 出走回数 | 161 |
| 優勝回数 | 20 |
| 通算獲得ポイント | 420 |
| 表彰台(3位以内)回数 | 51 |
| ポールポジション | 26 |
| ファステストラップ | 25 |
| F1デビュー戦 | 1991年アメリカGP |
| 初勝利 | 1997年ヨーロッパGP |
| 最終勝利 | 2001年アメリカGP |
| 最終戦 | 2001年日本GP |
| タイトル | 2(1998, 1999) |
ミカ・パウリ・ハッキネン(Mika Pauli Häkkinen, 1968年9月28日 - )はフィンランド出身の元レーシング・ドライバーである。
目次 |
[編集] 概説
1998年、1999年と2年連続でF1ワールドチャンピオンを獲得して、現役時代には「フライング・フィン」と形容されていた。
日本では「北欧の貴公子」、「白夜の国の王子様」などの美称でも呼ばれ、ロータスをスポンサーしていたタミヤ、イエローハット、小松製作所の関係で、F1デビューしたシーズンから日本向けの露出が多く、日本GPのイベントである前夜祭にゲスト出演したり、マクラーレンのスポンサーであったロイヤル・ダッチ・シェルの日本法人である昭和シェル石油のCMにも出演していた。
そのようなことと、彼の走りと人柄の良さで多くのファンに愛され、『AS+F[注釈 1]』の人気投票では1992年から引退する2001年まで、10年連続で1位を獲得したほどの人気がある。
2009年現在、メルセデス・ベンツとジョニー・ウォーカーのキャンペーン活動の他に、エーシズ・マネージメント・グループ社に加わりドライバー・マネージメント業として、若手ドライバーの発掘と養成にも携わっている。
[編集] F1までの道程
[編集] 生い立ち
ヘルシンキ市近郊のヴァンター(Vantaa)市で、短波無線通信士の父ハリーと秘書である母アイラの長男として生誕。家族は他に姉ニーナがいる。6歳のとき、父親が勤めるヘルシンキ・ラジオ局に行った際、近くのケイモラ・サーキットを見学したが、そこでカートに乗りたいと言いだし、たちまち夢中になりその才能を磨いていった。ハッキネンがカートを続けていくレース資金の捻出を、父親がパートタイムのタクシー運転手も勤め、手書きの企画書でスポンサーを探し、母親は毛皮の競売会社で倉庫管理とスーパーのレジを掛け持ちして、行なっていた。
[編集] カート
- 1981年
- F-ミニクラス国内チャンピオン。
- 1982年
- ロニー・ピーターソンメモリアル選手権チャンピオン。
- 1983年~1986年
- 4年連続でFNクラス国内チャンピオンに輝く。1986年末、この活躍に注目したケケ・ロズベルグがマネジャーとなり、ハッキネンがF1を引退するまで支援した。
[編集] ジュニア・フォーミュラ
- 1987年
- フィンランド、スウェーデン、スカンジナビアのフォーミュラ・フォード1600の3シリーズで、全てチャンピオンを獲得。
- 1988年
- イギリスへ拠点を移し、ドラゴン・モータースポーツに所属してGM・ロータス・シリーズとオペル・ロータス・ユーロシリーズでそれぞれチャンピオンを獲得。
[編集] F3
[編集] 1989年
ドラゴン・モータースポーツからF3選手権へステップアップし、参戦。チームの戦闘力に問題があったため、ハッキネンの1年目は決して順調ではなく、選手権7位であった。しかし、この年の暮れにベネトンからF1のテストを行なうチャンスを与えてもらい、B189を走らせたハッキネンは、ベネトンのドライバーであるアレッサンドロ・ナニーニより速いタイムを叩き出し、注目された。
[編集] 1990年
ウエスト・サリー・レーシングに移籍。全17戦の選手権は同国人であるミカ・サロとの激しい争いになり、ミカ・ミカ対決と呼ばれ、話題となった。開幕戦はハッキネンが制し、第2戦をサロと、勝ち星を分け合う展開だったが、再びハッキネンが2連勝した直後にサロが3連勝。中盤からはハッキネンが5連勝と圧倒的強さで差を広げる。最終的にはハッキネンは9勝をあげ、イギリスF3チャンピオンとなった。ジャッキー・スチュワートはイギリス人が活躍しない同選手権に対して「ハッキネンとサロをイギリスから追い出してしまえ」とぼやいていた[1]。
イギリスF3を制したハッキネンは、F3の世界王者決定戦ともいえるマカオGPに参戦。予選ではそれまでセナが7年間保持していたコースレコードの2分22秒02をあっさり破り、2分20秒08でポールポジションを獲得した。予選2位にはドイツF3チャンピオンのミハエル・シューマッハが入った[注釈 2]。
決勝レースは、第1レグと第2レグの結果を総合して順位が決まる。第1レグでは圧倒的なタイム差でハッキネンが優勝し、2位にシューマッハが入賞した。続く第2レグでハッキネンは、シューマッハにわずかながら先行される。このレースでシューマッハに次ぐ2位でも、ハッキネンは第1レグのタイム差から総合優勝できるはずであった。しかし、ハッキネンは最終ラップでトップを走るシューマッハを抜きにかかる。シューマッハはラインを変えてブロックし、両者は接触した。ハッキネンはリタイアとなったが、シューマッハはリアウィングを失いながらもそのまま走り続け、第2レグを優勝。結果、総合優勝はシューマッハが獲得した。
翌週に富士スピードウェイで行われた「インターナショナルF3レース」でもシューマッハが優勝してマカオGPから連勝を飾る一方、ハッキネンは予選から続くエンジントラブルによるリタイアでF3のレースを終えた。
この年ハッキネンはシューマッハが参戦していたドイツF3やイタリアF3において、スポット参戦ながらいずれも勝利を収めており、実力的にF3ではほぼ敵なしの状態にあった。
[編集] F1
[編集] ロータス時代
[編集] 1991年
1991年は、F1グランプリの現実を知り、大苦戦で過ごしたシーズンであった。
ロータス・ジャッドからデビューを果たす。当時、予選は30台エントリーで走り、26台枠に絞り込むルールであったが、ハッキネンはデビュー戦アメリカGPで予選13位に入った。決勝では走行中にステアリングが外れるトラブルに見舞われたが、ピットで修復後そのまま走り続け、60周目にオイルユニオンの破損でリタイアとなった。このシーズンのロータスは、前年までのタイトルスポンサーであるキャメルを失い、代わりのメインスポンサーはみつからず、資金難で運営していた。基本設計が2年前から変わっていないマシンにハッキネンは乗っていたが、第3戦サンマリノGPでは予選25位から5位入賞を果たし、初ポイントを獲得した。
しかし、その後はハッキネン自身の力では如何ともし難く、予選落ちも経験し、散々なシーズンを過ごした。資金が乏しく、思うように開発が行えないロータスではマシンの戦闘力アップも見込まれないため、それが精一杯の結果であった。最終的には選手権15位となり、ティレル・ホンダの中嶋悟とブラバム・ヤマハのマーティン・ブランドルと同点であった。
[編集] 1992年
1992年は、前年よりマシンの性能は上がったものの、チーム運営は不安定のままであった。エンジンがフォード・コスワースに変わり、ジョニー・ハーバートをチームメイトとして迎える。このコンビは公私ともによい関係で、お互い良い成績を収めることができた。序盤は3年落ちになっていた旧車102D駆り、第2戦メキシコGPでハッキネンは6位入賞した。
第5戦サンマリノGPから、ハーバートのみにニューマシンロータス107が与えられ、ハッキネンは第6戦モナコGPから同マシンを与えられた。クリス・マーフィーがデザインした107はセミ・アクティブ・サスペンションを搭載していた。実際にはアクティブサスのスイッチは切っていることが多かったが、ハンドリングは良好であった。
ロータスの将来に不安を抱いていたハッキネンは、シーズン終了後ウィリアムズと契約した。ところが、フランク・ウィリアムズは1993年シーズンのエントリーを忘れていた為、ウィリアムズが参戦するには他の全チームの承認が必要となった。ハッキネンを取り返したかったピーター・コリンズが認めなかった為、ウィリアムズはハッキネンを諦めることとなる[2]。ロータス残留かと思われたが、ハッキネンはマクラーレンと契約した。
[編集] マクラーレン時代
[編集] 1993年
1993年のドライバーのひとりはマイケル・アンドレッティで決定していたが、ハッキネンがチームに加入した時点でアイルトン・セナが残留するかどうかは不確定であった。しかしセナは残留し、ハッキネンはテストドライバーとしてシーズンを過ごすこととなる。その憂さを晴らすようにF1の前座レースとして開催されていたポルシェスーパーカップに参戦し、格の違う速さで2戦2勝した。そして、レギュラードライバーのアンドレッティが、成績不振及びレース環境の違いに馴染めなかったことからアメリカに帰国することとなった為、代役として第14戦ポルトガルGPから実戦復帰した。復帰初戦にいきなりエースのセナを予選で上回り、強烈な印象を与えた。そして第15戦日本GPでは3位に入り、初の表彰台に立った。
[編集] 1994年
1994年は、セナに代わるエースとして期待されたが、前半戦はプジョーエンジンの性能や信頼性に悩まされたことが、終盤まで響いたシーズンとなった。
エンジンを前年のフォード・コスワースからワークスのプジョーへと乗せ換えたMP4/9はドライバビリティが悪いマシンであった。ハッキネンはウィリアムズ、ベネトン、フェラーリに対して、苦戦を強いられることとなる。シーズン前半戦は、プジョーエンジンの信頼性が低く、トラブルが多発した。特に第5戦スペインGPでは完走していれば優勝の可能性もあったが、トップ走行中にエンジンブローでリタイア。第11戦ベルギーGP以降は2位1回、3位3回と4戦連続入賞し、信頼性はあがってきたものの、結果的にはドライバーズランキング4位で終わった。
これまでマクラーレンは、提携エンジンメーカーを1992年にホンダ、1993年にフォード・コスワースと変更し、マシンの戦闘力を上げるのに苦労してきた為、プジョーとも複数年契約を結んでいた。しかし、そのプジョーとの契約をこのシーズンのみで打ち切り、翌年はイルモアが開発するメルセデス・ベンツへと4回目のエンジン変更をする。ハッキネンは、また一からエンジン開発をし直していく事となった。
[編集] 1995年
1995年は、メルセデス・ベンツと試行錯誤しながらマシンを仕上げるシーズンとなった。
チームメイトにマーク・ブランデルとナイジェル・マンセルを迎えたが、予選でハッキネンはどちらに対しても上回る速さをみせた。しかし、メルセデス・ベンツエンジンとのマッチングに苦労していたMP4/10は、MP4/10B、MP4/10Cとモディファイされるほど、改善に追われたマシンであった。その為、メカニカルトラブルが続き、第12戦イタリアGPで2位入賞したが、同シーズン3回目の完走及び入賞であった。第15戦パシフィックGPでは虫垂炎のため、欠場。復帰した第16戦日本GPでは2位入賞を果たした。
しかし、最終戦オーストラリアGPの予選で、タイヤのパンクが原因でコンクリートウォールに激突。衝撃で舌を噛み切ってしまうなど選手生命を左右する瀕死の重症を負い、ハッキネンは1ヵ月半の入院。辛いシーズンを最悪の形で終えることとなる。なお、この事故をきっかけにコクピットのサイドプロテクターを義務化するレギュレーションが、翌シーズンから導入された。
[編集] 1996年
1996年は、選手生命を危ぶんだ周囲に対し、自らの実力を示すことで復帰への杞憂を見事に払拭した。
1月のテストをウィリアムズから移籍してきたデビッド・クルサードと前年末からアドバイザーになっていたアラン・プロストで進めていた。ハッキネンは2月に戻ってきて3ヶ月半ぶりにドライブし、いきなりフェラーリのミハエル・シューマッハを凌ぐタイムを叩き出した。前半戦はMP4/11のハンドリングに悩まされたが、後半戦からサーキットによりショートホイールベース仕様のMP4/11Bを駆り、シーズン終了時には完走13回、表彰台4回、予選でもクルサードに対して12勝4敗と上回った。
このシーズンをもってマクラーレンは、23年間メインスポンサーだったマールボロとの関係が終了。この訣別により、同シーズンで契約を終了するハッキネンがマールボロの後押しでフェラーリへ、ウィリアムズのデイモン・ヒルが加入するという移籍話も出ていた[3]が、結局第15戦ポルトガルGPでマクラーレンはハッキネンの残留を発表した。
[編集] 1997年
1997年は、チームがレームツマ社(インペリアル・タバコグループ)と契約して、ドイツ向けタバコブランドであるウエスト(West)をタイトルスポンサーとして新たな出発をしたが、ハッキネンはMP4-12の信頼性に苦しめられた。
トップ走行中の第9戦イギリスGPでは残り7周でエンジンブロー。第13戦イタリアGPでは参戦92戦目で初のファステストラップを獲得して、続く第14戦オーストリアGPではフロントローからスタートしてトップを奪ったが、わずか1周でエンジントラブル。次の第15戦ルクセンブルクGPでも、エンジントラブルが原因でリタイア。ハッキネンは度重なる優勝の機会を失ってきた。このままシーズンが終わるかと思われたが、最終戦ヨーロッパGPで念願の初優勝を果たし、シーズン最後を有終の美で飾った。
ポイントランキングではチームメイトのデビッド・クルサードに及ばなかったが、予選では17戦中11戦でクルサードを上回った。今宮純は「純粋なドライビング・パフォーマンスではハッキネンのほうがクルサードより上[4]」と評価し、川井一仁は自身が選ぶ「'97 BEST 10 DRIVERS.」でフェラーリのミハエル・シューマッハを1位、ハッキネンを「幾度なく勝利を落としながらも『また次があるさ』と気持ちの切り換えができたのは、自分の速さを疑っていなかったのだろう。シーズン中盤以降の予選順位の平均は3.5番手までという抜群の速さがあり、本来なら3~4勝あげてもおかしくなかった」という理由で2位、ワールドチャンピオンになったウィリアムズのジャック・ヴィルヌーヴを3位とした[4]。
[編集] 1998年
1998年は、シーズン序盤からMP4-13で順調にポイントを重ねていった。
開幕戦オーストラリアGP、第2戦ブラジルGP、第5戦スペインGP、第6戦モナコGPの4勝はポールポジション、ファステストラップも獲得したハットトリックの完璧な勝利であった。一方、フェラーリのミハエル・シューマッハは、マシン(F300)とグッドイヤー(タイヤ)の進化、エディ・アーバインのサポート、そしてロス・ブラウンの卓越した戦略を結集させ、ハッキネンと争っていく。こうした後押しがシューマッハを、第9戦イギリスGP終了時点でハッキネンに対し、2ポイントの差まで近づけた。
だが、ハッキネンは第10戦オーストリアGPでシューマッハを抑え、第11戦ドイツGPと連勝した。シューマッハも負けじと、第12戦ハンガリーGPと第14戦イタリアGPで勝ち、ふたりは一進一退の激しいチャンピオン争いを繰り広げる。そして、イタリアGP終了時点でハッキネンとシューマッハが同ポイントで並ぶ展開となり、シーズンは残り2戦となっていた。第15戦ルクセンブルクGPでシューマッハとのマッチレースに勝ち、チャンピオン争いの主導権を奪い返した。
その勢いを保持したまま、最終戦日本GPでも鬼神の如き走りを見せ、見事に初のワールドチャンピオンを獲得した。この1998年は、グッドイヤータイヤを装着するフェラーリとブリヂストンタイヤを装着するマクラーレンが熾烈な争いを繰り広げたが、ブリヂストンにとって初のドライバーズタイトルとコンストラクターズタイトルを獲得した年でもあった。
[編集] 1999年
1999年は、予選ではポールポジション11回と速さをみせたが、決勝では5勝にとどまった。MP4-14の信頼性不足と、チーム戦略・作業のミスに苦しめられたシーズンであった。
MP4-14のメカニカルトラブルは、開幕戦オーストラリアGPでスロットルリンケージの異常によるリタイア、第4戦モナコGPではステアリング異常でコースアウトし順位を落とし、第8戦イギリスGPでは左リアホイール脱落と第10戦ドイツGPでは給油リグの故障とタイヤバーストで、共にリタイアと足を引っ張られた。第2戦ブラジルGPは勝利したものの、4周目で突然ギアが4速に入らなくなるトラブルも発生している。
またフェラーリがイギリスGP迄はミハエル・シューマッハ、第9戦オーストリアGPからエディ・アーバインと、優先するドライバーを明確に決定していたことに対し、マクラーレンではチャンピオンになったハッキネンとデビッド・クルサードを第14戦ヨーロッパGP迄、平等に扱う戦略を採っていた。結果的にオーストリアGPと第12戦ベルギーGPで両者接触を招き、アーバインにポイントを献上することとなった。
ハッキネンも第3戦サンマリノGPでは、トップ走行中の18周目にかかる右回りの最終コーナーで、左前後のタイヤを縁石に乗せた瞬間、アウト側(左側)にスピンし、MP4-14の左前方からコンクリートウォールにクラッシュしてリタイア。当初、ハッキネンは「自分のミス」と答えてたが、後日ビデオを見て「スピン状態に入るときには、コーナーのイン側に巻き込む形でスピンするのが通常なのに、イモラの場合はアウト側へスピンした。芝生にタイヤを落としたわけではないのに理解しがたい[5]」と発言している。また、このリタイアをデファレンシャルのトラブル[6]とも伝えられた。また、第13戦イタリアGPでもリタイアした。
最終戦日本GP直前のインタビューでシーズンを振り返り「今年のベストレースは、カナダGP(第6戦)とフランスGP(第7戦)ぐらいだ」と答えている。カナダGPではポイントで首位に立ち、フランスGPはハッキネンが14位スタートから、他マシンを次々とオーバーテイクし、2位に入賞したレースであった。
日本GPは、アーバインに4ポイント差を付けられていたが逆転優勝をし、2年連続でドライバーズタイトルを獲得した。連続タイトル獲得はアルベルト・アスカリ、ファン・マヌエル・ファンジオ、ジャック・ブラバム、アラン・プロスト、アイルトン・セナ、ミハエル・シューマッハ以来のことであった。
[編集] 2000年
2000年も、1999年と同様にシーズン序盤からつまづく展開となった。
ハッキネンのMP4-15は、開幕戦オーストラリアGPはニューマティクバルブが壊れ、第2戦ブラジルGPではエンジンの油圧トラブルで連続リタイヤに見舞われた。両レース共にトップ走行中の出来事であった。第3戦サンマリノGPでは2位入賞したものの、走行中に一瞬エンジンストールが発生するトラブルに悩まされながらであった。一方、フェラーリのミハエル・シューマッハは順調にポイントを重ね、第8戦カナダGP終了時にはハッキネンに対して、24ポイントの差をつけていた。しかし、ハッキネンは勝ちに行けない時には2位を、それを狙えないピンチに追い込まれれば、第7戦モナコGP6位、第8戦カナダGP4位が証明するようにファステストラップを樹立しながら、1ポイントでも取ろうと疾走を重ね[7]、サンマリノGPから第14戦イタリアGPまで連続入賞して、シューマッハを追い上げた。
第6戦ヨーロッパGPではチームの戦略&ピット作業ミスに足を引っ張られ、グリッドが重要なモナコGPでは、予選のアタック全てに黄旗[注釈 3]が振られるという不運に見舞われた。カナダGPから使用されたリアディフューザーがハッキネンのドライビングにマッチせず、第9戦フランスGP終了後、エイドリアン・ニューウェイらと対策を講じていた。そして、レースの合間に行なうテストやプロモーション活動はハッキネンを疲れさせていた。ロン・デニスが「もっと早く対処すべきだった」と認め、ようやく第10戦オーストリアGP前に1週間の休暇を取った。
その効果もあり、オーストリアGPはポールトゥーウィン。第12戦ハンガリーGPで逆転を果たし、ポイントリーダーとなった。第13戦ベルギーGPでもシューマッハと熾烈な争いを繰り広げ、連勝した。
2ポイントリードで迎えた第15戦アメリカGPでは、序盤こそミハエル・シューマッハに16秒差をつけられていたが、ハッキネンは10周の間にミハエル・シューマッハとの差を4秒までに縮める追い上げをした。しかし、26周目にエンジンブローでリタイア。シューマッハはこのレースで勝ち、ハッキネンは逆に8ポイントリードされることになった。
メルセデス・ベンツエンジンを製作するイルモアのマリオ・イリエンは「私たちは鈴鹿ではなく、インディアナポリスでタイトルを失ったといえるだろう。保証するが、ハッキネンは本当に最強だ[8]」と語るほど、残りで2戦でこの差の影響は大きく、ハッキネンはあきらめずに挑戦し続けたが、惜しくもファン・マヌエル・ファンジオ以来の3年連続のチャンピオン獲得はならなかった。
[編集] 2001年
2001年は、度重なるMP4-16のトラブルでリタイアを重ね、チャンピオンシップ争いから脱落するシーズンとなった。
開幕戦オーストラリアGPでは2位走行中の26周目に右フロントサスペンションアームが突然折れ、タイヤバリヤに激しくクラッシュした。後にハッキネンはF1引退を考えるきっかけになったと告白している。開幕戦を3年連続リタイアで始まり、第7戦モナコGPでは15周目にトランスミッションの破損で離脱。第3戦ブラジルGPでクラッチ、第6戦オーストリアGPでラウンチコントロール、第10戦フランスGPでギアボックスと、この3つのグランプリは決勝スタート直後に1周も走れずにリタイアした。なかでも第5戦スペインGPのリタイアは悔やんでも悔やみきれないものとなった。
第10戦フランスGP終了時点でマシントラブルによる2戦に1戦の割合でリタイアをしていた。これでは、信頼性の高いF2001に乗るフェラーリのミハエル・シューマッハに対抗するのが困難となり、ハッキネンのモチベーション低下も顕著になっていた。また、レースウィークの合間に世界中を飛び回るプロモーション活動にも疲れを感じていた。これらの原因でハッキネン自身は引退の意思を固めていたといわれるが、ロン・デニスの説得もあり、第15戦イタリアGPで、翌2002年シーズンを休養することを発表。同郷のキミ・ライコネンにシートを譲ることとなった。
ここ4年で最低なシーズンであったが、悔やまれたスペインGP、第11戦イギリスGPでシューマッハとのバトルを制して優勝し、第16戦アメリカGPと2勝をあげて、速さを示した。そして最終戦の日本GPでは3位を走行していたが、ドライバーズランキング2位を、チームメイトのデビッド・クルサードとフェラーリのルーベンス・バリチェロが争っていた。ハッキネンは4位にいたクルサードを自分の前に先行させ、クルサードは3位入賞を果たし、ランキング2位を獲得することができた。
結果的にこれがハッキネンのF1GPラストランとなった。
[編集] 2002年
第7戦モナコGPで夫人と息子を連れて、元気な姿をみせた。周囲は復帰への期待を寄せたが、その意思がないと改めて決意したハッキネンは、メルセデス・ベンツの地元である第12戦ドイツGPで正式にF1引退を発表した。その後、コメンテーターとしてF1に関わることになり、母国フィンランドのF1デジタルTVと契約を締結。アメリカGPから新たなキャリアをスタートさせた。
[編集] F1引退後
[編集] 2003年
ハッキネンはヨーロッパラリー選手権のイベントのひとつである北極圏ラリー(Arctic Lapland Rally)に三菱ランサーエボリューションVII(WRC2)でスポット出場。わずかな期間をテスト走行しただけで出場するも見事9位。引退直後からラリー転向の噂があったが、あくまで昔からの夢を叶えたかっただけだと否定した。
[編集] 2004-2005年
2004年は、ジェンソン・バトンが抜けると云われていたBARホンダとマーク・ウェバーのチームメイトを探していたウィリアムズからオファーがあり、“いよいよF1復帰?!”とストーブリーグの話題となった。一方でメルセデス・ベンツがハッキネンをDTMに誘っていた。結局、『AMG-メルセデスCクラス』からDTMへ参戦することを決め、これにより2005年以降、F1復帰する可能性はほぼ消滅した。ハッキネンは「DTMのテストに参加し、F1とは違う面白さを味わった」と参戦理由を語っている。年が開け、DTMが開幕。わずか第2戦ユーロスピードウェイでファステストラップを叩き出し、第3戦スパ・フランコルシャンでは初ポールポジションを獲得。決勝でもファステストラップで初優勝を果たした。
[編集] 2006-2007年
2006年11月30日にはバルセロナ合同テストで2001年以来になるF1マシンを走行した。また、この年からDTM参戦の他、マクラーレンのスポンサーであるジョニー・ウォーカーのF1プログラム大使にも任命された。
2007年もDTMに参戦し続け人気を博し、2勝あげたが、同年11月にドイツ・シュツットガルトで行われたメルセデス・ベンツの「スターズ&カーズ」記念イベントで、2007年のシーズン終了をもってレーシングドライバーとしての全てのキャリアを終える事を正式に発表した。このイベントでは、ハッキネンがF1グランプリにおいてチャンピオンを獲得した、マクラーレン・メルセデスMP4-13がメルセデス・ベンツ・モータースポーツからサプライズとして提供され、これを駆ってパレードラップを行う栄誉を与えられた。
[編集] 人物
身長:178センチメートル 体重:67キログラム 血液型:A型Rh+[9]。
ファン・マヌエル・ファンジオ、ジム・クラーク、ジャッキー・スチュワートら、卑怯な手段を用いずともチャンピオンになれるということを身をもって示し、フェアな戦いぶりが記憶に残るドライバーと同様にクリーンファイターの代表格で、汚い手がどういうものかさえ知らない、そんな清々しいドライビングスタイルが印象的であった[10]。
素顔のハッキネンは素朴で人が良く、取材関係者の間でもファンが多い[11]。日本人プレスでは津川哲夫、西山平夫、今宮雅子がファンであることを公言している。
柴田久仁夫は「ハッキネンはとびきり速いことは速いが、F1の世界では珍しい“普通の人”である。とびきりのエゴイストでなければ、ワールドチャンピオンになれないと僕は思い込んでいた。直接この目で見て接してきたアラン・プロスト、アイルトン・セナ、ナイジェル・マンセル、ミハエル・シューマッハ、デイモン・ヒル、ジャック・ヴィルヌーヴらが多かれ少なかれ、みんなそうだったからだ。1996年アルゼンチンGPでハッキネンと食事する機会があったとき、“フェアプレイの大事さ”を聞かされたことがある。また、1997年の開幕戦オーストラリアGPで前年チャンピオンのヒルがぼろぼろの状態にあったとき、それを冷笑するシューマッハやヴィルヌーヴをたしなめる、そんなまともな感覚をハッキネンは持っている。まるで騎士道物語の主人公のように勝敗よりも潔さを尊ぶ心根で、シューマッハたちがとうの昔に捨ててしまった“勝つ為には余計なもの”を、ハッキネンはまだ大事に抱えているのに、ワールドチャンピオンとなった[11]」と述べている。
[編集] ライバルや関係者の証言
[編集] ライバル
[編集] ミハエル・シューマッハ
ミハエル・シューマッハは、ハッキネンを“最大のライバル”と常々公言してきた。
| “ | 悪魔のように速い | ” |
| “ | ミカは非常に速くて、常に限界ギリギリのところにいる。チャンピオンシップを戦う相手として不足はない。もし彼を倒せば、最速のドライバーを倒すことになるから。つまりそれは……。とにかく、僕は彼以上のドライバーを知らない[12] | ” |
| “ | マクラーレンのマシンは状況によってはものすごく運転しにくいクルマに見える。それをあそこまで仕上げるミカの能力は並大抵のものではない。脱帽だよ……[11] | ” |
| “ | 何度も言ってるけれど、ミカのようなライバルを持つことができて、僕はとても光栄なんだ。彼は速い。予選でもレースでも本当に速い。そして、同時にとても誠実な対戦相手だ。レースで戦っているときも、彼ならバカげた行動は決してしないと確信が持てる。ここ何年か、彼とは常にタイトルを競い合ってきた。だけど僕らに問題があったことは一度もない。それは僕がほかのドライバーについて、あるいは一個人としてだれかを判断する上で、とても重要なポイントなんだ[13] | ” |
[編集] ロータス
[編集] ジョニー・ハーバート
ロータス時代のチームメイトであったジョニー・ハーバートは、ハッキネンを“変わってしまったけど、僕に対してはいい人”と言う。
| “ |
ミカは素晴らしい。文句なしに素晴らしい。でも、彼はマクラーレン入りしてから大きく変わったんだ。どう振舞わなければならないのか頭に叩き込まれてしまい、そのせいで一部のジャーナリストからの評判が悪くなってしまった部分がある。でも一対一で話してみると、以前と同じで何も変わっていない。間違いなく、ナイスガイだよ。 そしてコース上での彼は、ミスタークリーンなんだ。彼は一度も、他のドライバーをコース外に押し出したりしていない。決してそんなことはしないし、根に持つタイプでもない。1992年で最初はセッティング[注釈 4]を教えあっていたが、競争力のあるロータス・107が投入されると僕は同じことをしていたのに、彼は返してくれなくなった。それでお互いに教えあわなくなったけど、情報を隠すというものではなかったからOKだった。だから、友達関係は続いていたよ[14] |
” |
[編集] マクラーレン
[編集] ロン・デニス
1998年シーズンを振り返った際に、ロン・デニスは第12戦ハンガリーGPでのハッキネンのドライビングが印象的だったと語る。
| “ | 見事と言うよりなかった。今シーズンのベストドライブだったと言って良いだろう。普通に考えてマシンがあんな状態[注釈 5]になったら、次のコーナーでどんな動きをするのか全く予測がつかないから、ドライビングなんてできるはすがないんだ。それでもミカはスピンすることもなく、精一杯スピードをキープして6位に入賞した。トラブルの原因は100%チームの責任だが、損失を最小限に食い止めてくれたのはミカ・ハッキネンというドライバーだった[15] | ” |
[編集] エイドリアン・ニューウェイ
マクラーレン在籍時のハッキネンとの関係を、エイドリアン・ニューウェイはこのように述懐した。
| “ | マシンの挙動に関するミカのレポートは簡潔かつ正確で、テクニカルフィードバックとしてはきわめて良質だった。彼はマシンをどのように変えてくれとは言わない。彼がレポートするのは、現在どういう挙動であるかだけだ。したがって、それを基にマシンをどういじるかは、エンジニアの手に任される。私はこの役割分担が非常に気に入っている[15] | ” |
[編集] デビッド・クルサード
デビッド・クルサードは、ハッキネンをミハエル・シューマッハと比較して次のように評する。
| “ |
ミカの優れた点はF1ドライバーの中でも屈指の速さを持っていることだ。僕らは何年も一緒だけど、自分より速いチームメイトほど、やる気にさせてくれる存在はないからね。ミハエルが尊敬の目で見られているのは、自分自身をどんな時でもハードでアグレッシブでハングリーのように演出してるからで、実際に走るとミカのほうが速いことが多い。ミハエルのほうが激しいレースをしているように見えるケースが多いかも知れないけど、独走していたら攻めの走りをする必要がないからね。ミカは今でもドライバーとしては別格なんだ。それにもし僕がオーナーだったら、ミハエルよりミカを先に雇うね。 レーシングドライバーと言えば、速さと成績が問題になる。その両方を考えるよね。速さに関してミカとミハエルの間に大きな差はないと思うけど、ふたりが持つ速さは正反対にあると思う。だけど、僕はミカのほうが速いと思うよ。ミカはかなり大きなプレッシャーが掛かっても平気みたいだね。ミカは自分を隔離して、気持ちを集中させるているんだ。それに対してミハエルがプレッシャーに強いとは思えない。 ミハエルは、かつて1994年オーストラリアGPや1997年ヨーロッパGPで、他人からみれば首をひねるような、やけっぱちな行動に出ただろ。1998年日本GPでもポールポジションにいながら、エンストをさせたこともあった。彼は追い込まれると文句ばかり言う。人が文句を言う時は、何かに脅威を感じているからなんだ。ミハエルの戦歴は認めるけど、彼も他人にあれこれ言われるようなこと、やらなくてもいいのにね[16] |
” |
[編集] メルセデス・ベンツ
メルセデス・ベンツエンジンを製作するイルモアのマリオ・イリエンは、コンピューターが『これ以上速く走ることは出来ない』とはじき出したタイムを、ハッキネンは上回ったとコメントしている。
| “ | 一般的にドライバーのタイムがシミュレーションを破ることは稀なのだが、ミカはしばしばマクラーレン・メルセデスのシミュレーションを超えてしまう。シミュレーションタイムはミカとデビッド・クルサードの間にあるのだ(笑)。ミカのドライビングスタイルはデビッドと比べて、スロットルの使い方が明らかに違うよ。ミカはコーナーの中、そして出口でマシンを操縦するためにスロットルを使っていて難しいコーナー、たとえばスパのオー・ルージュではデビッドとの違いが顕著に表れてる。何故あんなにアクセルを踏み込めるのか、僕にもわからない。何と言って良いのか……ものすごく繊細なアクセル操作をしているのだろう……[17] | ” |
[編集] ブリヂストン
ブリヂストンの浜島裕英と市川良彦が、タイヤエンジニアとして証言した。
[編集] 浜島裕英
| “ | タイヤテストで例えば12周のロングランをやる場合、シューマッハは手を抜くことなく12周を全力疾走してくれるが(そうでないとテストの意味がない)、ハッキネンは最初と最後は全力疾走するが途中は流してしまうことが多かった[18] | ” |
この点について
| “ | 1998年開幕戦をぶっち切りで勝ち『今年はチャンピオンがとれそうだ』という流れになってくると、タイヤテストにもしっかり取り組んでいた。ピットインしてもマシンから降りないし、ロングランテストのラップタイムの中だるみも無くなった[19] | ” |
ハッキネンの引退発表時には
| “ | (引退は)もったいないですねぇ。休養中にテストをしてもらいたかったが実現しなかった。ミカのタイヤの使い方は素晴らしく、あの豪快な走りを見ると、さもタイヤを酷使してボロボロになるような印象を受けるでしょうが、限界ギリギリで走り、タイヤを壊さない。ミカの凄いところは気合が入った時の集中力と一撃の速さ。スパッとしたカミソリの切れ味で予選もレースも途切れない。そうなるとミハエル(シューマッハ)も手がつけられなかった。ミハエルに対抗できるのはいまでもミカひとりだけだと私は思ってます[20] | ” |
[編集] 市川良彦
ブリヂストンのワンメイクで行なわれた1999年と2000年シーズンに、テクニカルマネージャーとして全ドライバーと接していた。
| “ | ミカは人のせいにしない。そして非常に速い。テストは様々な形で情報を得れるし、経験の多いドライバーは細かいコメントをくれる。でも、基本的に速くないとダメなんです。1ラップ1秒の差でもタイヤにかけている負担が違うわけですから。速く走ることによって、タイヤ自体が豊富な情報をもたらし、そのための負担をかけてくれる。そういう意味で彼はもっとも評価すべきドライバーだと思います。また、テストの時に負担をかけ、レースの時には丁寧にという使い方ができ、速さのわりにタイヤにかかる負担が小さい[17] | ” |
| “ | 何故、あんなに速いのかという質問にタイヤ・エンジニアの立場で言えることは、ミカが比較的硬いコンパウンドを好むからですね。上手くないドライバーの場合、柔らかいコンパウンドはスリップ・アングルを大きくつけられるし、反応が尖っていない分、操縦が楽になる。それに対して硬いコンパウンドは、最適のスリップ・アングルを外すとアンダーステアやオーバーステアが出る。彼には尖った反応に対応する高いコントロール能力があるから、硬いタイヤでも綱渡りのように最適の部分を使いこなせるんです[17] | ” |
| “ | 僕個人としては、ミカのファンですから(笑)。フェラーリの、勝利に対する貪欲さには感心します。でも、いい意味でのミカの不器用さ、極論すると腕ひとつで戦っていくような姿勢には、大きな敬意を感じます。僕は本当に速いのはハッキネンだと思ってますし、これからもずっと、一緒に仕事を続けたいドライバーです[21] | ” |
[編集] 特筆されるグランプリ
[編集] 1997年第15戦ルクセンブルクGP
第14戦オーストリアGPではフロントローからスタートしてトップを奪ったにも関わらず、エンジントラブルでリタイアした。翌週に続けて第15戦ルクセンブルクGPが開催され、ハッキネンは金曜日のフリープラクティス走行(FP)から1位もしくは2位で順調にセッティング[注釈 4]を進め、予選ではポールポジション(PP)を獲得した。これはハッキネンが参戦94戦目で初のPPであり、マクラーレンには1993年、そしてメルセデス・ベンツにとっては、1955年以来であった。
今シーズンのハッキネンは第9戦イギリスGPでもトップ走行中の残り7周でエンジンブロー、先週のオーストリアGPでも既述の結果となった。翌日の決勝レースはハッキネンの29歳の誕生日でもあった。今度こそ優勝と誓い、ハッキネンは決勝レースに挑んだ。スタートで強烈なダッシュを決め、2位に上がってきたチームメイトのデビッド・クルサードにも25周目には12秒もの差をつけての快走であった。1回目のピットストップも滞りなく終わらせ、順調に走り続けた。ところが42周目にクルサードが突然エンジンブローを起こし、メインストレートのピット出口の先で止まった。そして翌43周目にハッキネンのマシンからおびただしい白煙が排出され、スローダウン。メインストレートを過ぎ、右側の芝生にマシンを入れ、止めた。「なんともいいようがない。これがモーターレースというものだから……」とハッキネンは悔しさを噛み締めていた。
[編集] 1997年第17戦ヨーロッパGP
ウィリアムズのジャック・ヴィルヌーヴとフェラーリのミハエル・シューマッハが、チャンピオン争いをしていた最終戦でハッキネンは予選5番手にいた。しかし、決勝前のウォームアップ走行でトップタイムを叩き出したハッキネンは、レースセッティング[注釈 4]が上手く仕上がっていた。
レースはヴィルヌーヴとシューマッハが48周目に「ドライサックヘアピン」への進入で接触。シューマッハは弾き出されグラベルに嵌り、後輪が空転して脱出できずにリタイアした。5位入賞でチャンピオンが決定するヴィルヌーヴはシューマッハとの接触後、クルマの状態を心配して様子を窺いながら走行していたが、フロントタイヤのブリスターに悩まされ始めた。ハッキネンはこの機会を逃さずに1周およそ1秒のペースで追い上げ、ファイナルラップでヴィルヌーヴを抜き、トップでチェッカーを振られ、初優勝を果たした。ハッキネンは「一度でも勝てば、絶対に勝ち続ける自信がある。2年前の最終戦の事故で生死の境をさまよったが、同じ最終戦で勝利を得た。全てが巡ってきて、ようやく元に戻っているように感じられるよ[4]」と、以後の活躍を誓った。
[編集] 1998年第10戦オーストリアGP
ポイントリーダーのハッキネンとフェラーリの2位ミハエル・シューマッハの差は2ポイントでオーストリアGPが開幕。スターティンググリッドはフロントローをベネトンのジャンカルロ・フィジケラとザウバーのジャン・アレジが抑え、ハッキネンが3位、シューマッハが4位であった。
決勝がスタートし、ハッキネンがオープニングラップでフィジケラとアレジを抜きトップ、シューマッハも2位で続く。2ストップ作戦で燃料の軽いシューマッハは、1ストップ作戦で燃料の重いハッキネンより前に出たいことから、コース全域テール・トゥー・ノーズの攻防となった。特にゴッサー・カーブでシューマッハは、激しいブレーキングによる白煙を上げながら、フィジケラを攻略した同じやり方で外に内にマシンを振り、ハッキネンを抜こうと何度も挑戦した。しかし、ハッキネンはコース幅を最大に使い切り、シューマッハをその都度、抑えきった。このバトルが17周目まで続いたが、シューマッハがヨッヘン・リントコーナーを曲がりきれずにコースアウトし、決着した。ハッキネンは優勝。シューマッハはチームメイトのエディ・アーバインに譲ってもらい、3位に入賞した。
[編集] 1998年第15戦ルクセンブルクGP
ルクセンブルクGPと最終戦日本GPの残り2戦で、ハッキネンとミハエル・シューマッハは80対80の同点。予選はポールポジションをシューマッハに奪われ、2番手は同じフェラーリのエディ・アーバイン。ハッキネンは3番手スタートであった。決勝ではアーバインのブロックでシューマッハが逃げ切った第8戦フランスGPの再現という展開予想が大勢を占め、絶対絶命の状況にハッキネンは追い込まれていた。
決勝スタート後、2位アーバインが3位ハッキネンをブロックしている間に1位シューマッハは、8周終了時にはハッキネンとの差を8.5秒迄、広げた。しばらく3番手に甘んじていたハッキネンだったが14周目、ブロック優先の走りをしていたアーバインが「追い越された時はビックリしたよ。ヴィードルシケインの手前150メートルから一気に近づいてきて、レコードラインを走っていた俺のインに入ってきたんだからね[22]」と語った状況で抜き去る。それからは、ファステストラップ連発で1位シューマッハを追いかけ、差を縮め出す。シューマッハのピットストップ後もその走りを維持し、自身1回目のピットイン時間分の差を稼ぎ出し、逆転に成功した。
2位シューマッハとのテール・トゥー・ノーズをかわし平均4秒~6秒の差をつけ、ハッキネンは首位をキープ。2回目のピットインでも順位は変わらず、ハッキネンはそのまま首位を守りきり、決勝前の予想を翻した逆転優勝を果たし、チャンピオン争いの主導権を奪い返した。
[編集] 1999年第6戦カナダGP
ポールポジションをミハエル・シューマッハ、2位ハッキネンとフロントローを分け合い、決勝がスタート。スターティンググリッドのポジションを維持しながらレースは1位シューマッハと2位ハッキネンが、交互にファステストラップの応酬をする展開となり、緊迫感が続いていたが、突然途切れた。シューマッハが30周目に最終コーナーを曲がりきれずに、コンクリートウォールへ激突し、リタイアしてしまったのだ。
シューマッハのリタイア前後にもジャック・ヴィルヌーヴ、デイモン・ヒルが同じ場所で同じように激突していた。ハッキネン以外の現役ワールドチャンピオンが、コンクリートウォールの餌食となり、後年この壁は“チャンピオンズウォール”と名が付けられ、名物コーナーの一つとなった。また、セーフティカー出勤4回という荒れたレースでもあったが、ハッキネンは終始安定した走りで優勝。ポイント争いでシューマッハを逆転し、首位に出たレースでもあった。
[編集] 1999年最終戦日本GP
フェラーリのエディ・アーバインに4ポイント差を付けられ、2年連続の最終戦までタイトル争いが持ち込まれた。
予選は、第15戦マレーシアGPでアーバインを逃がすためにハッキネンをブロックし続けたミハエル・シューマッハと、タイトル争いをしているハッキネンのふたりで、最速タイムを出し合う展開となった。1回目はシューマッハとハッキネンが、1,000分の1秒単位で同じラップタイムをマーク。2回目はハッキネンが逆転。それをまたシューマッハが抜き返す。さらに再逆転しようとハッキネンがコースに出て行ったら、アーバインがヘアピンでスピンして両前輪を吹っ飛ばし、予選は赤旗[注釈 6]中断となった。再開された後、順位は1位シューマッハ、2位ハッキネンで、アーバインは5位であった。
決勝スタートは、シューマッハが幅寄せをしてハッキネンにブロックを試みるが、シューマッハは発進時にホイールスピンをしていた為、抜かれる。ハッキネンはそのまま1コーナーをトップで入り、首位をキープ。オーバーステアに悩むシューマッハを10周で7秒差をつける速さで逃げた。その後もハッキネンは安定した走りでシューマッハにつけいる隙を与えない。そのまま逆転優勝し、2年連続のワールドチャンピオンに輝いた。
[編集] 2000年第12戦ハンガリーGP
ポイント争いをしている上位4人、フェラーリのミハエル・シューマッハが56ポイント、ハッキネンとマクラーレンのデビッド・クルサードが54ポイント、フェラーリのルーベンス・バリチェロが46ポイントと拮抗していた。スターティンググリッドはポールポジションがシューマッハ、2位クルサード、3位ハッキネン、5位バリチェロであった。
決勝スタート直後、ハッキネンがクルサードを抜き、シューマッハの背後につきスリップストリームを使う。完璧な反応時間の素早さと全てピタリと決めたマシンコントロールで[7]、1コーナーの手前でイン側からシューマッハに並ぼうとする。シューマッハはインにステアリングを切り、抑えようとした。しかし、ハッキネンは一瞬早くかわして1コーナーを制し、1位ハッキネン、2位シューマッハ、3位クルサードと続いた。4周目迄シューマッハもハッキネンについていったが、その後1周平均0.3秒のペースでハッキネンから引き離されていく。ハッキネンはファステストラップもたたき出し、先行。スタートと1コーナーでの攻防が分岐点となりハッキネンが優勝。シューマッハ、クルサードを抜き、一気にポイントリーダーに躍り出た。
なお、ハッキネンはこのレースの他に、スターティンググリッドが第11戦ドイツGPの4位から、第6戦ヨーロッパGPの3位、1998年も既述のオーストリアGPの他、第14戦イタリアGPの3位から、それぞれブラックアウト[注釈 7]直後に、秀でた反応と加速で首位に躍り出て、スタートの上手さを示した。
[編集] 2000年第13戦ベルギーGP
雨はやんでいたが路面が濡れていたことから「ウェットレース[注釈 8]」と宣告され、セーフティカー先導でローリングスタートで始まった[注釈 9]。セーフティカーの先導は1周のみで、レースが始まった。
ポールポジションだったハッキネンは1回目のピットストップ後も首位をキープしていたが、13周目にスタブローの濡れた縁石でハーフスピンをした。コースには問題なく戻れたが、2位を走っていたミハエル・シューマッハが抜き、トップに躍り出る。その後、シューマッハは22周目に最後のピットストップをした。ハッキネンは27周目に最後のピットストップをし、通常作業(タイヤ交換、燃料補給)の他にフロントウィングの調整も行った。この時点で順位はそのままだが、ハッキネンはピットアウト後、1周平均0.5秒もシューマッハより速いペースで、追い上げ始める。徐々に差が縮まっていき、40、41周目でオー・ルージュ、ラディオンからケメル・ストレート・エンドまで区間で激しい攻防がはじまった。40周目はハッキネンがシューマッハのスリップストリームに入り、右に動き抜こうとしたが、シューマッハも右に動き、ハッキネンの左フロントウィングとシューマッハの右リアタイヤが接触するバトルとなり、シューマッハはブロックに成功する。翌41周目は周回遅れのBARホンダのリカルド・ゾンタがおり、ゾンタを左からシューマッハが追い抜こうとすると、シューマッハのスリップストリームに入っていたハッキネンは、ゾンタの右に動き、ゾンタを挟んでシューマッハをオーバーテイクするという離れ業をやってのけた。この追い抜きは「20世紀最高のオーバーテイクだ」とジャーナリストから絶賛された。レースはそのままハッキネンが、残り3周をトップをキープしてチェッカーを受けた。なお、ハッキネンがシューマッハと攻防した40、41周目のオー・ルージュからラディオンを抜けるときのスピードは、当時として初の300キロメートルオーバーとなった[23]。
第14戦イタリアGPの記者会見でゾンタは「2台に挟まれて抜かれた瞬間」の事を聞かれた。「ぼくはミハエル(シューマッハ)の分はスペースを左側(外側)に空けておいたが、ミカ(ハッキネン)が右側(内側)から抜くとは想定していなかった」と言い、続けて「驚いた…。あいつらクレイジーだと無線で言ったよ」と答えた。その場は、レースと同じ位置で両サイドにハッキネンとシューマッハが座っており、二人は微笑んでゾンタのインタビューを聞いていた[24]。
[編集] 2000年第16戦日本GP
金曜日のフリープラクティス走行(FP)からハッキネンとミハエル・シューマッハのみでタイム更新をし合ったまま、土曜日の予選に突入した。この年も3年連続でふたりのみが最速タイムを出し合う展開となる。シューマッハがトップタイムを出すと、ハッキネンが上回る展開を2回繰り返した。シューマッハがまた逆転し、ハッキネンが最後のアタックで「最終シケインの出口で理想的な加速ができず、そこでタイムを稼げなかった」と言い、0秒009の差でグリッドは、ポールポジションにシューマッハ、2番手ハッキネンと、フロントローを分け合った。
日曜日の決勝では去年同様、スタートでシューマッハが幅寄せをしてハッキネンをブロックしようとしたが、ハッキネンのスピードが上回り、シューマッハをオーバーテイクした。序盤は1位ハッキネン、2位シューマッハで走り続け、平均4秒前後の差を広げたり縮めたりする緊迫な展開でレースは進行していき、両者(両チーム)のピット戦略で雌雄を決することになる。結果的に、1回目、2回目のピットストップをそれぞれハッキネンより後に入ったシューマッハには、天候も味方して勝負の明暗を分けることとなった。
特にハッキネンは2回目のピットアウト時に雨が降り始め、暖まっていないタイヤ、戻った位置にはペドロ・デ・ラ・ロサを含め周回遅れが4台いた。少し勢いを増した雨で周回遅れのマシンたちが濡れてきた路面でラインを維持するのを、燃料が重い状態で抜いていくハッキネンに対して、ピットストップをしておらず燃料が軽いシューマッハには、前に周回遅れのマシンもおらず、自身3周後に備えていた2度目のピットイン迄、スパートを掛けマージンを稼ぐことができ、逆転に成功した[21]。
13周を残し、首位を守るシューマッハにハッキネンは必死に追い上げるが、平均3秒前後の差のままで状況は変わらない。しかし、ハッキネンはファイナルラップの53周目に降雨の中で1分39秒577のタイムを叩き出し、これはドライ路面で自らが出した最速ラップに0.4秒しか違わず、ブリヂストンのエンジニアたちに「驚異的に速い」と感激させた[21]。
最後まで諦めずレースをしたハッキネンだったが、シューマッハが首位を守り優勝。2000年のワールドチャンピオンを獲得し、ハッキネンの3年連続ワールドチャンピオンを阻んだ。だが、ハッキネンは改めてシューマッハと並ぶ偉大なドライバーであることを、この日本GPで証明した[25]。
[編集] 2001年第5戦スペインGP
第4戦までマシントラブルで2戦をリタイアしていたハッキネンは、第5戦の過去3連覇しているスペインGPで挽回するつもりだった。予選でポールポジションはフェラーリのミハエル・シューマッハに譲ったものの、僅かな差でハッキネンは2位。不発に終わった中の1アタックなど、数台のスローカーを抜きまくりながらポールタイムとコンマ4秒余りしか変わらず[26]、フロントローを分け合った。
決勝スタートからポジションは変わらないまま、2人の王者は他を寄せ付けないスピードで圧倒。ハッキネンはシューマッハの平均4秒以内で追走していた。1回目のピットストップ後も順位は変わらない。シューマッハは2回目のピットストップを43周目に行う。一方、ハッキネンは1分21秒台を連発して、2度目のピットストップを7周遅くして入り、順位を逆転してトップに躍り出た。そのまま首位をキープして、2位シューマッハに40秒の差をつけてファイナルラップに入ったが、3コーナー通過後、突然ハッキネンがスローダウン。マシン下部から火を噴き、ギアボックストラブルにより、半周残したところで止まってしまい、優勝を逃した。結局2位のシューマッハが優勝したが、最後の最後にハッキネンは悲劇に襲われたグランプリとなった。
ハッキネンはチームメイトのデビッド・クルサードのマシンに乗りピットに戻ってきて、優勝したシューマッハを祝福したが、インタビューでは「いまここにサンドバッグがあったら、思い切り不満を打ち込んでやるのに! もうプッシュする必要はなくて、残り10周からクルージングしてマシンを労わって走ってきたんだ。それがこんなことになるなんて……。スピードが落ちていった時に“何とかゴールまで持ってくれ”と祈り、それまで以上に早めのブレーキ、優しくアクセルを踏んで……。もうダメだと思った瞬間、何とも言えない気持ちになったけど、これは誰のせいでもないんだ。今の気持ちを言葉で言い表すのは難しい。この結果を受け入れるのには時間がかかりそうだ[26][27]」と答えた。シューマッハも「コース脇にミカのマシンが見えたときショックだったよ。こんな勝ち方は僕の望んでいるものではないけれど、これもレースなんだ。ミカは本当に気の毒だった[26]」と語った。
[編集] 2001年第11戦イギリスGP
2戦に1回の割合でマシントラブルを被ってきたハッキネンだが、第11戦イギリスGPの予選ではミハエル・シューマッハとポールポジション(PP)を争い、結果は0.082秒差でPPをシューマッハに譲り、ハッキネンはフロントローを確保した。チームメイトのデビッド・クルサードは更に0.398秒差の3位であった。決勝前のウォームアップではクルサード、ジョーダンのヤルノ・トゥルーリに続く3番手だったが、1分23秒台のタイムを何周も揃えているという点で最も安定していたのは、ハッキネンだった[28]。
レースはスタートし、1位シューマッハ、2位ハッキネンのまま1コーナー(コプス)を通過していった。後続はクルサードとトゥルーリが接触事故を起こし、一部のマシンにその影響を与えたが、それ以外のマシンは追走してきた。2周目からシューマッハとハッキネンは後続を引き離し、両者の対決となった。シューマッハは必死に逃げるが、テール・トゥー・ノーズでハッキネンは背後に張り付いていた。この攻防は5周目のコプスでシューマッハがラインを乱し、大回りをしてしまう。ハッキネンは素早くシューマッハの横に並び、その次のコーナー(マゴッツ)でオーバーテイクした。その後のハッキネンはファステストラップ(FL)連発でシューマッハを突き放す。ハッキネンとシューマッハの差は、10周目に12秒弱、20周目には26秒まで広がった。22周目でハッキネンは1回目のピットストップ後、1分23秒台にタイムを揃えて、周回を続けていた。2回目のピットインを39周目に行い、それからは後続との差を考慮し、1分24秒台にタイムを揃えて周回を重ね、そのままトップでチェッカーを受けた。60周レースで2位シューマッハに33.646秒も差をつけての優勝であった。FLはハッキネンの1分23秒405。2番手はシューマッハが0秒523でつけ、23秒台はハッキネンとシューマッハだけであった。
ハッキネンは最終ラップの最終セクターで極端にスローダウンした。記者会見時に「それはスペインGPのファイナルラップのことが頭によぎったのか?」という質問に対して、「いや、マシンを止めて紅茶を一服してたんだ[28]」と語り、笑いを誘っていた。
[編集] エピソード
[編集] 故郷
生まれ育ったヴァンター(Vantaa)市マーティンラークソには、カート時代からのライバルで2歳年上のミカ・サロも住んでいて、それぞれの生家は道路を1本挟んだだけの近さであった。現在、彼らが少年時代を過ごしたこの地域は MIKA-MIKA-LAND と呼ばれ、ヘルシンキ市近郊ではちょっとした有名な観光スポットになっている。尚、2人が通学したマーティンラークソ小学校の前に1999年末、2年連続でワールドチャンピオンに輝いた時に記念碑が建てられ、『Mika Häkkinen SQUARE』という広場も作られた。
[編集] 一輪車
ハッキネンは一輪車が得意で、ロータス時代にはパドックで共同記者会見へ一輪車で駆けつけたり、ワールドチャンピオン獲得後、母国フィンランドのサーカスで一輪車に乗って登場するなど、天真爛漫な一面を見せていた。
[編集] 大事故と結婚
1995年オーストラリアGP予選では瀕死の重傷を負うクラッシュに見舞われた。このクラッシュで入院中に献身的に看病をしてくれた同郷の恋人のイリヤ・ホンカネンと1998年に結婚。その後、グランプリ開催毎にイリヤ夫人が腕組みをしながらモニターを観ている姿を、F1中継で映し出される頻度が増えた。真偽はともかくメディアは、ハッキネンを恐妻家として取り上げてきた。また、欧州で放送されるメルセデス・ベンツのテレビCMでも「イリヤの尻に敷かれるハッキネン」という設定のものが放送されていた。2008年2月に各国のメディアで「ハッキネン夫妻が離婚」と報じられた[29]ほか、後述する別荘の火災の際に新たなガールフレンドの存在が明らかになるなど、本人の公式コメントこそないものの既に離婚したことは確実と見られている。なおイリヤとの間には二人の子供がいるが、親権の所在などは明らかにされていない。
[編集] デイモン・ヒルは語る
1996年日本GPで3位に入賞したハッキネンはレース後の記者会見の席上、このレースで優勝してワールドチャンピオンを決めたデイモン・ヒルはハッキネンに「君にも同じ日が来るよ」と言った。2年後の1998年にハッキネンが初のワールドチャンピオンを決め、同じ記者会見場で「あの時は想像できなかったけど、ついにこの日が来たよ」と語った。なお、ヒルは「今年のミカのタイトルは、まだ最初の一歩に過ぎない。彼はこれから何度もワールドチャンピオンに輝く力を持っている」とハッキネンのタイトル獲得を賞賛した[30]。
[編集] 悔し泣き
1999年イタリアGPでトップ走行中の33周目、1コーナー進入時にシフトを2速に入れるところを1速に入れ、ハーフスピンしてグラベルにつかまりリタイアした。ハッキネンはステアリングを放り投げてマシンから降り、手袋を叩きつけた。その後、ピットに戻る途中の森で、しゃがんで泣く姿が映し出された。
ただし、このリタイアの原因はミッショントラブルとも伝えられている[31]。
[編集] ユーモア
2000年第7戦モナコGPのハッキネンは予選のアタック中、全てに黄旗[注釈 3]が振られ、まともなタイムアタックをできず、グリッドは5番手という不本意なものだった。にも関わらずモナコに住んでいたハッキネンは、セーフティ・クルー[注釈 10]の男とも顔見知りであることから、予選後に黄旗を振ったその男に近づき、彼の背中をこれ見よがしに覗き込み「もう黄旗は持ってないよね」とジョークを言い、その場にいた周囲の人々を爆笑させた。
また、同年の第16戦日本GPでミハエル・シューマッハに惜敗し、ワールドチャンピオンを失ったハッキネンだが、川井一仁に「ミカ、お疲れ様。ちょっといい? このあと、ミハエルにログキャビン[注釈 11]に誘われたら、どうする? ほら、カラオケバーだよ」と聞かれ、「ああ、もちろん行くよ。でも、支払いはミハエル持ちだけどね」と答え、ここでもその場にいたジャーナリストやチーム関係者を爆笑させていた[8]。
[編集] 息子ヒューゴ
2000年に誕生した長男はヒューゴ(Hugo)と名付けられた。その由来は、現在に至るまで長年のマクラーレンのスポンサーであるHUGO BOSSである。誕生直後にFOA(Formula One Administration)より永久パドックパスがプレゼントされ、史上最年少の保持者となった。
[編集] 火災
2008年5月に南フランスのプロヴァンス地方にあったハッキネンの3階建て別荘が、火災に遭った。怪我人は無かったが、ふたつの階が大きな損害を受けた。原因はトロフィ陳列キャビネットの電気故障であるとされている。この邸宅は1,200万ドル(12億4,848万円)相当の10寝室の規模で、完成したばかりであった。
[編集] 戦歴
[編集] 全記録
| シーズン | カテゴリー | 所属チーム | 参戦数 | PP | 勝利数 | FL | ポイント | ランキング |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1974–1986 | カート | ? | ? | ? | ? | ? | ? | フィンランドチャンピオン6回獲得 |
| 1987 | フィンランド、スウェーデン、スカンジナビアのフォーミュラ・フォード1600 | レイナード | 15 | ? | 9 | ? | 40 | チャンピオン |
| 1988 | GM・ロータス | ドラゴン・モータースポーツ | 10 | 4 | 3 | ? | 127 | チャンピオン |
| オペル・ロータス・ユーロシリーズ | ドラゴン・モータースポーツ | 10 | 2 | 4 | ? | 126 | チャンピオン | |
| 1989 | イギリスF3 | ドラゴン・モータースポーツ | 17 | 2 | 0 | ? | 18 | 7位 |
| セルネット F3 SuperPrix | ウェスト・サリー・レーシング | 1 | 1 | 1 | ? | N/A | チャンピオン | |
| マカオGP | ドラゴン・モータースポーツ | 1 | 0 | 0 | 0 | N/A | リタイア | |
| 1990 | イギリスF3 | ウェスト・サリー・レーシング | 17 | 11 | 10 | ? | 121 | チャンピオン |
| イタリアF3 | ウェスト・サリー・レーシング | 1 | 0 | 1 | ? | 9 | ? | |
| ドイツF3 | ウェスト・サリー・レーシング | 1 | 1 | 1 | ? | 9 | ? | |
| マカオGP | ウェスト・サリー・レーシング | 1 | 1 | 0 | ? | N/A | リタイア | |
| インターナショナルF3レース | ウェスト・サリー・レーシング | 1 | 0 | 0 | ? | N/A | リタイア | |
| 1991 | F1 | チーム・ロータス | 15 | 0 | 0 | 0 | 2 | 16位 |
| 1992 | F1 | チーム・ロータス | 15 | 0 | 0 | 0 | 11 | 8位 |
| 1993 | F1 | マールボロ・マクラーレン | 3 | 0 | 0 | 0 | 4 | 15位 |
| ポルシェ・スーパーカップレース | ? | 2 | 2 | 2 | 2 | ? | ? | |
| 1994 | F1 | マールボロ・マクラーレン・プジョー | 15 | 0 | 0 | 0 | 26 | 4位 |
| 1995 | F1 | マールボロ・マクラーレン・メルセデス・ベンツ | 15 | 0 | 0 | 0 | 17 | 7位 |
| 1996 | F1 | マールボロ・マクラーレン・メルセデス・ベンツ | 16 | 0 | 0 | 0 | 31 | 5位 |
| 1997 | F1 | ウエスト[注釈 12]・マクラーレン・メルセデス・ベンツ | 16 | 1 | 1 | 1 | 27 | 6位 |
| 1998 | F1 | ウエスト・マクラーレン・メルセデス・ベンツ | 16 | 9 | 8 | 6 | 100 | チャンピオン |
| 1999 | F1 | ウエスト・マクラーレン・メルセデス・ベンツ | 16 | 11 | 5 | 6 | 76 | チャンピオン |
| 2000 | F1 | ウエスト・マクラーレン・メルセデス・ベンツ | 17 | 5 | 4 | 9 | 89 | 2位 |
| 2001 | F1 | ウエスト・マクラーレン・メルセデス・ベンツ | 17 | 0 | 2 | 3 | 37 | 5位 |
| 2005 | DTM | AMG-メルセデス・ベンツ | 11 | 1 | 1 | 2 | 30 | 5位 |
| 2006 | DTM | AMG-メルセデス・ベンツ | 10 | 0 | 0 | ? | 25 | 6位 |
| 2007 | DTM | AMG-メルセデス・ベンツ | 10 | 2 | 2 | ? | 22 | 8位 |
[編集] F1
[編集] シーズン別
| 年 | チーム | シャーシ | エンジン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 順位 | ポイント |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1991年 | ロータス | 102B | ジャッドEV(V8) | 13 |
9 |
5 |
Ret |
Ret |
9 |
DNQ |
12 |
Ret |
14 |
Ret |
14 |
14 |
Ret |
Ret |
19 |
16位 | 2 | |
| 1992年 | ロータス102D | フォードHB5(V8) | 9 |
6 |
10 |
Ret |
DNQ |
8位 | 11 | |||||||||||||
| ロータス107 | Ret |
Ret |
4 |
6 |
Ret |
4 |
6 |
Ret |
5 |
Ret |
7 |
|||||||||||
| 1993年 | マクラーレン | MP4/8 | フォードHB5,7,8(V8) | Ret |
3 |
Ret |
15位 | 4 | ||||||||||||||
| 1994年 | MP4/9 | プジョーA10(V10) | Ret |
Ret |
3 |
Ret |
Ret |
Ret |
Ret |
3 |
Ret |
EX |
2 |
3 |
3 |
3 |
7 |
12 |
4位 | 26 | ||
| 1995年 | MP4/10 | メルセデス・ベンツFO110(V10) | 4 |
Ret |
5 |
Ret |
Ret |
Ret |
7位 | 17 | ||||||||||||
| MP4/10B | 7 |
Ret |
Ret |
Ret |
Ret |
2 |
Inj |
2 |
DNS |
|||||||||||||
| MP4/10C | Ret |
8 |
||||||||||||||||||||
| 1996年 | MP4/11 | メルセデス・ベンツFO110(V10) | 5 |
4 |
Ret |
8 |
8 |
6 |
5 |
5 |
5 |
3 |
Ret |
4 |
3 |
3 |
Ret |
3 |
5位 | 31 | ||
| 1997年 | MP4-12 | メルセデス・ベンツFO110E,FO110F(V10) | 3 |
4 |
5 |
6 |
Ret |
7 |
Ret |
Ret |
Ret |
3 |
Ret |
DSQ |
9 |
Ret |
Ret |
4 |
1 |
6位 | 27 | |
| 1998年 | MP4-13 | メルセデス・ベンツFO110G(V10) | 1 |
1 |
2 |
Ret |
1 |
1 |
Ret |
3 |
2 |
1 |
1 |
6 |
Ret |
4 |
1 |
1 |
1位 | 100 | ||
| 1999年 | MP4-14 | メルセデス・ベンツFO110H(V10) | Ret |
1 |
Ret |
3 |
1 |
1 |
2 |
Ret |
3 |
Ret |
1 |
2 |
Ret |
5 |
3 |
1 |
1位 | 76 | ||
| 2000年 | MP4-15 | メルセデス・ベンツFO110J(V10) | Ret |
Ret |
2 |
2 |
1 |
2 |
6 |
4 |
2 |
1 |
2 |
1 |
1 |
2 |
Ret |
2 |
4 |
2位 | 89 | |
| 2001年 | MP4-16 | メルセデス・ベンツFO110K(V10) | Ret |
6 |
DNS |
4 |
9 |
DNS |
Ret |
3 |
6 |
DNS |
1 |
Ret |
5 |
4 |
Ret |
1 |
4 |
5位 | 37 |
[編集] 合計
| 出走 | 予選通過 | ポールポジション | 優勝 | ファステストラップ | 獲得ポイント |
|---|---|---|---|---|---|
| 164 | 161 | 26 | 20 | 25 | 420 |
[編集] DTM
| Year | Team | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | Pos | Points |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 2005年 | AMG-メルセデス・ベンツ | HOC 8 |
EUR 3 |
SPA 1 |
BRN 13 |
OSC Ret |
NOR Ret |
NUR 4 |
ZAN 12 |
EUR 12 |
IST 2 |
HOC 15 |
5位 | 30 |
| 2006年 | AMG-メルセデス・ベンツ | HOC 4 |
EUR 3 |
OSC 9 |
BRA 11 |
NOR 3 |
NUR 12 |
ZAN 11 |
CAT 11 |
BUG 2 |
HOC Ret |
6位 | 25 | |
| 2007年 | AMG-メルセデス・ベンツ | HOC 10 |
OSC 17 |
EUR* 1 |
BRA 4 |
NOR 9 |
MUG 1 |
ZAN 7 |
NUR 10 |
CAT DSQ |
HOC 17 |
8位 | 22 |
* オフィシャルがいくつかのジャッジミスをしたため、半ポイントの獲得となった。
[編集] 注釈
- ^ 三栄書房から出版されていたF1雑誌で1988年~20004年に発行されていた。現在は休刊中。
- ^ ミハエル・シューマッハもアイルトン・セナのタイムを破るが、ハッキネンからは更にコンマ5秒離されていた。
- ^ a b イエローフラッグともいい、レース中や予選のクラッシュや事故、マシン停止、マシンがコースを塞いだりしてる場合、後続のドライバーにその事故を前もって知らせるために提示、または振られる旗のことである。この旗が提示されると追い越し禁止になり、この旗が振られるとさらにスローダウン(減速)、徐行をするようにという指示になる。
- ^ a b c サーキットのコンディションにより、マシンをより速く走らせるために各パーツを調整すること。パーツにはサスペンションの強弱、ウイングの角度、車高、タイヤの空気圧、ギア比、エンジンのトルクなどその他、いろいろある。
- ^ ネジの締め忘れで、フロントサスペンションのリンケージトラブルが発生していた。
- ^ レッドフラッグ。マシンを走行停止する指示の旗である。クラッシュなどでレース続行不可能な時などに振られる。即停止、又は最徐行でピットもしくはスターティンググリッドに戻らなければいけない。
- ^ F1レースのスタートの合図のこと。マシンがスターティンググリッドに着き、安全が確認された後、グリッドの先頭にある5連のランプが1つずつ赤に点灯していき、オールレッド(5連のランプが赤に全点灯)して、ブラックアウト(全消灯)でスタートする流れとなっている。
- ^ コースが濡れている状態でレースが行なわれること。コースの状態によりドライレース(乾いている状態)とウエットレースに分けられる。スタート前にどちらの状態のレースなのか宣言され、ウエットレースが宣言された場合は天候の変化でレースが中断されることはない。
- ^ 1998年の同GPもウェットレースであったが、スタート直後の1コーナー過ぎてから、オー・ルージュ手前のストレートで多くのマシンが接触する大事故が起きた。このことを再現せぬよう、主催者が考慮した。
- ^ サーキットでコースの安全を担当する係員のこと。コースの各ポイントに多数配置され、クラッシュやコースアウトしたマシンを排除したり、状況に応じた各フラッグを提示、振るなどして危険を知らせたりする。またコースにオイル漏れなどの異常がないかも絶えずチェックしている。
- ^ 鈴鹿サーキット内に設置されているログキャビンハウスのこと。毎年レース終了後、ここでパーティが開かれるが、ワールドチャンピオン決定の時にはチームメンバーや関係者が朝までどんちゃん騒ぎをしている。
- ^ レームツマ社(インペリアル・タバコグループ)のドイツ向けタバコブランド。
[編集] 脚注
- ^ 今宮純 『F1ドキュメント』 山海堂、2000年、62頁。
- ^ 『F1速報7/16号「フランスGP号」』 第9巻13号、ニューズ出版、1998年、39頁。
- ^ 『AS+F(注釈1参照)-'96年ポルトガルGP号』 三栄書房、1996年、18-19頁。
- ^ a b c 『'97F1総集編-AS+F』 三栄書房、1997年、27頁、74頁、124-125頁。
- ^ 『F1速報6/3号「モナコGP号」』 第10巻10号、ニューズ出版、30-31頁、1999年。
- ^ 『F1速報-1999総集編』 ニューズ出版、1999年、97頁。
- ^ a b 『F1グランプリ特集』 10月号、ソニー・マガジンズ、2000年、101頁。
- ^ a b 『F1グランプリ特集』 12月号、ソニー・マガジンズ、2000年、11頁。
- ^ 「聞いたもん勝ち100の質問」『AS+F-'95年パシフィックGP号』 三栄書房、1995年、26-27頁。
- ^ 『F1速報「イギリスGP号」』 第17巻25号、ニューズ出版、2006年、23頁。
- ^ a b c 『GPX(F1 Grand Prix Xpress)』 Japanese GP issue/225、山海堂、1998年、8頁、11頁。
- ^ 『定例記者会見』 Rd15 Luxembourg Grand Prix, Nurburgring, Germany. 24 September 1998.
- ^ 『GPX』 Round 4 SAN MARINO GP 、山海堂、2001年、18頁。
- ^ 『F1グランプリ特集』 2月号、ソニー・マガジンズ、2001年、29頁。
- ^ a b 『F1グランプリ特集』 12月号、ソニー・マガジンズ、1998年、21-22頁、63頁。
- ^ 『F1倶楽部』34号、双葉社、2000年、30-33頁。
- ^ a b c 『Sports Graphic Number』「November-482・483合併」号、文藝春秋、1999年、40-42頁。
- ^ 『GRAND PRIX SPECIAL』 ソニー・マガジンズ、2月号、2008年、96頁。
- ^ 「クールで、熱く、優しいミカ・ハッキネン」 ブリヂストン、2004年7月20日。
- ^ 『F1速報8/22号「ドイツGP号」』 ニューズ出版、2002年、9頁。
- ^ a b c 『F1グランプリ特集』11月号、ソニー・マガジンズ、2000年、14頁。
- ^ 『GPX』 Luxembourg GP issue/224、山海堂、1998年、7頁。
- ^ 『GPX』 Round 13 Belgian GP 、山海堂、2000年、5頁、11頁。
- ^ 『GPX』 Round 14 Italian GP 、山海堂、2000年、24-25頁。
- ^ 「FOCUS! MIP-Most Impressive Person in SUZUKA」『AS+F-日本GP号』 三栄書房、2000年、13頁。
- ^ a b c 「F1速報-スペインGP号」 ニューズ出版、2001年、4-5頁、65頁。
- ^ 『GPX』 Round 5 Spanish GP、山海堂、2001年、4頁。
- ^ a b 「F1速報-イギリスGP号」 ニューズ出版、2001年、4-5頁、62-65頁。
- ^ ハッキネン夫妻、破局か - F1-Live.com
- ^ 『AS+F-F1-1998総集編』 三栄書房、1998年、6頁。
- ^ 「F1速報-開幕直前号」 ニューズ出版、2000年、23頁。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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