ジェラール・ドゥカルージュ

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ジェラール・ドゥカルージュ(Gérard Ducarouge 、1941年 - )はフランス出身のレーシングカーデザイナー。

経歴[編集]

マトラ[編集]

大学で機械工学を専攻し、1964年に航空機メーカー、ノール・アビアシオンのミサイル開発部門に入社する。

翌年、モータースポーツの分野に転向し、マトラ・スポールに加入。F3F2およびスポーツカーなど数々のモータースポーツプロジェクトに参加し、マトラのル・マン24時間レース3連覇に貢献する。1974年のワークス活動停止に伴い、マトラを離れる。

リジェ[編集]

その後、F1参戦を目指すエキープ・リジェに加わる。1976年シーズン用に設計されたJS5は、マトラ12エンジンを使用し、ジタンのスポンサーなどマトラ時代とかかわりの深い組合せであった。エキープ・リジェは、参戦初年度ながら最高位は2位を獲得する。翌年の1977年には、空力を刷新したニューマシンJS7を投入、スウェーデングランプリにてチーム初勝利をあげた。1979年からマトラV12に代えてフォードDFVを搭載し、グランドエフェクトを取り入れたJS11で、開幕2連勝を含めシーズン3勝。1980年はJS11の改良型であるJS11/15を投入し、2勝ながらコンストラクター2位になった。1981年には、再びマトラV12を搭載したJS17にて 2勝。しかし、シーズン半ばにギ・リジェと仲違いを起こし、チームを去った。

アルファ・ロメオ[編集]

同年、アルファ・ロメオのワークスチーム「アウトデルタ」に加入した。マリオ・トレンティーノらと共に1981年のマシン179の改良を行い、チーム初のカーボンモノコックを開発した。1982年のマシン182は、第3戦アメリカ西グランプリにてポールポジションをもたらした。

1983年から、アウトデルタがエンジン供給に専念し、チーム運営をF3で実績のあるユーロレーシングに委託することになる。レギュレーション変更でフラットボトム化された183Tは好調であったが、フランスグランプリの予選中にデ・チェザリスのマシンに搭載されていた消火器が空だったことが判明。規定重量違反を問われ、責任を取らされる形で解雇される。

ロータス[編集]

1983年、ピーター・ウォーの招きによりロータスのテクニカル・ディレクターに就任する。当時のロータスは低迷期であり、前年の12月には、創設者のコーリン・チャップマンを失っていた。ドゥカルージュは1983年のベルギーグランプリ後にチームに合流し、短期間で製作された94Tは、久々のポールポジションを獲得するなど、チームの復調に貢献した。

ラルース[編集]

1988年にロータスを離れ、ラルースに移籍し、テクニカルディレクターを務める。1990年のマシンLC90鈴木亜久里のドライブにより日本グランプリにてチーム最高の3位入賞を果たす。

その後[編集]

1991年のシーズン途中に、古巣のリジェに復帰してテクニカルディレクターを務めた。1994年からはマトラに、2003年から2008年まではベンチュリに所属した。

外部リンク[編集]