鈴木亜久里

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鈴木 亜久里
Aguri Suzuki 2008 Super GT.jpg
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都
生年月日 1960年9月8日(53歳)
F1での経歴
所属チーム '88,'90-'91 ラルース
'89 ザクスピード
'92-'93 フットワーク
'94 ジョーダン
'95 リジェ
活動時期 1988-1995
出走回数 64
優勝回数 0
通算獲得ポイント 8
表彰台(3位以内)回数 1
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
初戦 1988年日本GP
最終戦 1995年日本GP
タイトル 0
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鈴木 亜久里(すずき あぐり、1960年9月8日 - )は、元レーシングドライバーで実業家、株式会社アルネックス代表取締役埼玉県所沢市出身。身長:180cm

中嶋悟に次ぐ日本人2人目のF1フルタイムドライバー。

経歴[編集]

生い立ち[編集]

埼玉県で生まれる。父親はフランス領マルティニーク諸島出身のフランス人と日本人の間に生まれたハーフで、亜久里自身はクォーターになる。名前の"亜久里"は、根本進の漫画『クリちゃん』に登場する兄弟(「アッちゃん」と「クリちゃん」)が由来である[1]

父の鈴木正士(愛称:ジャッキー[2])はレーサーの浮谷東次郎と親友で、浮谷から教わったレーシングカートの普及に携わることになる。また、生沢徹本田博俊日本大学の同窓生であり、学生結婚で生まれた亜久里は、博俊の父である本田宗一郎に可愛がられた。

所沢市立東中学校埼玉県立新座高等学校卒業。城西大学理学部中退。

国内時代[編集]

カート時代[編集]

1972年カートレースデビュー。亜久里はカート協会の実力者だったとの二人三脚で国内カート界を代表する若手に成長していくが、亜久里と競り合った相手を父親が「うちの息子をつぶす気か」と殴るなど、亜久里本人に責任は無いもののその過程にはかなり強引な面もあったと言われる。[要出典]1978年1981年に全日本カート選手権A2クラスのチャンピオンに輝く。

F3[編集]

1979年から当時の最年少デビュー(18歳)で全日本F3選手権に参戦。しかしF3ではなかなか好成績を挙げられず、1983年1985年にはシリーズ2位に入るものの、結局8年間もF3にとどまってしまう。この時期、同年齢の高橋徹が驚異の新人と騒がれた一方で、「カートでのしてきた鈴木亜久里もこれまでか」と見る向きもあった。

1983年レース活動資金が底をつき、引退を考えた時期がある。その相談をトムス舘信秀に持ちかけたところ、舘は「自分のところで走らせることはできないが他で走れるところを探してやる」と、トヨタ系の舘が日産系セントラル20のオーナー柳田春人柳田真孝の父)を紹介した。

グループA/グループC[編集]

その縁で亜久里は1984年に日産のF3エンジン開発を任され、1985年、ワークス活動を再開した日産のワークスドライバーに抜擢され、全日本ツーリングカー選手権(グループA)にニスモからスカイラインRSターボで参戦、また全日本耐久選手権(グループC)にも柳田とのコンビでローラ・T810/日産で参戦することになった。亜久里は初めて資金を気にしないでレースに専念できることになったのである。

1986年、テスト中の事故で死去した萩原光の後任としてニスモの一員としてル・マン24時間レースに初参戦。この年はグループAにてチャンピオンとなった。カートからフォーミュラカーに進んだが、初タイトルを取ったカテゴリーはツーリングカーレースとなった。

F2/F3000[編集]

またこの頃オイルの輸入業により活動資金を得たことにより富士GCシリーズ参戦の機会を得、そこでの走りがヤマハエンジンの名チューナーとして名を馳せた松浦賢、ムーンクラフトの由良拓也の目に留まり、1986年のF2最終戦からムーンクラフトのシートを得ることとなる。

1987年に入ると、新装なった全日本F3000選手権に参戦。大手運送会社フットワークという大口スポンサーをつかんだのに加え、上述の松浦賢とのつながりからヤマハがコスワースDFVをベースに開発したコスワース・ヤマハOX77エンジン(5バルブ仕様)のワークスとなったことで強力な体制を得て、1987年にはシリーズ2位、翌1988年にはシリーズチャンピオンを獲得した。

F1時代[編集]

F1デビュー[編集]

既に翌年からのF1デビューを決めていた亜久里であったが、1988年10月に行われた日本GPに、中耳炎により急遽欠場となったヤニック・ダルマスの代役として、ラルースチームからスポット参戦という思わぬ形でF1デビューを飾ることとなった。

この時、亜久里はフジテレビF1中継の解説者として鈴鹿入りする際の新幹線内でスポット参戦決定を知らされ、急遽後発のスタッフに自身のヘルメットを持参させ、ヤニック・ダルマスのレーシングスーツを着用してレースに臨んだというエピソードが残っている。しかし、この時は非力なマシンでの急な参戦ということもあったうえにマシンのセッティングも万全ではなくレース中に数回のスピンを喫し、16位完走に終わっている。

全戦予備予選落ち[編集]

1989年には満を持してザクスピード・ヤマハでF1にフル参戦を開始。しかし、この年のザクスピードのマシンは致命的に戦闘力が不足しており、ヤマハOX88・V8エンジンもパワーが不足していた。また、スタッフの技術力もミッションの順番を間違えて組んでしまうほどの未熟さで、亜久里はこの年「シーズン全16戦全て予備予選落ち」という不名誉な記録を作ってしまう。

予備予選落ちを繰り返し、思うようなタイムが出せない、走らない車に「捨てちゃえよ、そんな車」とはき捨てたこともあった。ちなみにチームメイトのベルント・シュナイダーは、開幕戦のブラジルGP日本GPで2回予備予選を通過している。

日本人初の表彰台[編集]

ローラLC90・ランボルギーニ

1990年は、自身のパーソナル・スポンサーであった伊東和夫(エスポ社長)が、この年よりチームオーナーとなっていたラルースチームに移籍。

出来の良いローラ製のシャーシにパワーのあるランボルギーニV12エンジンを搭載したラルースのマシンは、シーズンが進むにつれて戦闘力を発揮するようになる。この年ラルースは予備予選を課せられていたのだが、チームメイトのエリック・ベルナールともども前半戦は全戦通過。前半戦でのポイント獲得で後半戦の予備予選が免除となった。また、この予備予選の1時間も戦闘力アップのための格好なテストとなっていた。

まずまずの戦闘力を持つマシンを手にし、「これでダメなら引退」との思いで臨んだシーズン中盤のイギリスGPで6位初入賞し、終盤のスペインGPでも再び6位入賞を記録。次戦日本GPでは上位勢が自滅する波乱のレースを、一時はファーステスト・ラップを記録して生き残り、ついに3位初表彰台を獲得した。これは2004年アメリカGP佐藤琢磨が3位入賞するまで、長い間アジア人(および日本人)ドライバーとして唯一のF1における表彰台だった。母国日本グランプリにおいても、2012年小林可夢偉が表彰台に上がるまで唯一の日本人ドライバーであった。

この日本GP前には、ベネトン代表のフラビオ・ブリアトーレからオファーを受け、1991年からの3年契約に合意していた[3]。しかし、ラルースとの2年契約がもう1年残っており、本人は「何とかなると思っていた」というが、結局ベネトンへの移籍話は実現しなかった。

また、1990年は経験不足を補うため、F1のほかにトヨタから世界スポーツプロトタイプカー選手権(WSPC)にもエントリーをして二足の草鞋を履くという努力をしている。当時のWSPCはほぼF1と同じサーキットで開催されており、予備予選の僅かな時間しか走行できないハンデをWSPCに出場する事で補っていた。

苦難の始まり[編集]

1990年シーズンが終わる頃には、バブル景気の崩壊からエスポの業績は悪化、以降ラルースへの支援は大幅に縮小された[要出典]

また、1991年のシーズン開幕前に、チームは前年のコンストラクターズポイントの剥奪処分を受けた。ローラ製シャシーを使用していたにも関わらず、コンストラクター名を「ラルース」と誤った名称でエントリーしたことが理由とされた。また、ポイントを失ったことにより予備予選の対象とされるとも発表された(その後の裁定で、実際には予備予選の対象からは外された)[4][5]。この処分によって前年のコンストラクターズランキング10位までのチームに与えられる移動手段(FOCA便)の使用権が剥奪されたが、ラルースの移動費用はFOCAにより補填された[5]。この処分をめぐっては、前年のコンストラクターズランキングで11位に終わり、ラルースの処分によってFOCA便の使用権を得ることができるリジェによる訴えがあったと見られた[5]

このような厳しい状況に置かれたラルースチーム(エンジンはコスワースDFR)から引き続き参戦。開幕戦のアメリカGPでは中嶋悟に次ぐ6位に入賞するも、それ以降はベルギーGPをはじめとする4度の予選落ちを含め、一度も完走することができなかった。

フットワークへ移籍[編集]

1992年に亜久里はかつてF3000時代のスポンサーだったフットワークを頼り、前年にアロウズを買収したフットワークチームに移籍。ホンダV10をベースとする無限エンジンを積んだフットワークのマシンに期待が集まったが、最高位はスペインGPの7位、入賞はおろか完走すらおぼつかないと言う結果に終わる。シーズン前半には「コクピットが狭く、自身のドライビングポジションが取れない」旨を繰り返し訴えてはいたが、この点を改良したシャーシ投入後も亜久里は精彩を欠いていた。[6]

チームメイトのミケーレ・アルボレートは11戦連続完走を見せ、他チームの信頼性が乏しかった序盤戦に何度か入賞した。この年チームは6ポイントを獲得、コンストラクターズランキングで7位に入るが、全てアルボレートが1人で稼いだものだった。

1993年は新たにデレック・ワーウィックをチームメイトに迎えた。シーズン途中にマクラーレン製のアクティブサスペンションを購入してからマシンバランスに起因するハンドリング不良を打ち消すことに成功し、予選ではトップ10に入ることが多く、ベルギーGPでは当時の日本人予選最高位タイの6番手[7]に入った。しかし、FA14はギアボックスのトラブルが多く、第9戦イギリスGPから第15戦日本GP日本GPまで7戦連続でリタイアしてしまった。最終戦オーストラリアGPで7位に入ったものの、2年間で1度も入賞することができなかった。

チームオーナーの大橋渡が計画したチーム監督ジャッキー・オリバーの更迭失敗による確執や、フットワーク本体の経営不振に伴うチーム運営からの撤退に伴い、1993年のシーズンオフにはとうとうF1のシートを失ってしまう。

F1浪人[編集]

1994年には、かつての恩人・舘信秀の誘いを受け、亜久里の提示する条件[8]トヨタが飲む形でトムスから全日本ツーリングカー選手権(JTCC)に参戦した。

だが、F1への復帰は諦めておらず、3レース出場停止中であったエディ・アーバインの代役として、第2戦パシフィックGPに、ジョーダンから1戦のみスポット参戦した。リタイア直後、ピットリポーターの津川哲夫が「次…(じゃあ、頑張って下さい)」と発すると、「次、ないんだ」との返答をしている。当意即妙ではあったものの、このシーズンの亜久里の立場をよく表すものであった。

元々亜久里自身はスポット参戦には否定的であった。その理由は、スポット参戦と言う僅かな時間で実力を発揮する事の難しさと自身の責任に依らないリタイア等でキャリアに傷を付けてしまうリスクが非常に高い故であった。ルーキーなら兎も角、すでにキャリアを積んでいる亜久里にとってはデメリットの方が大きかった。しかしそれを覆しスポット参戦したのは周りからの強い要望(特にパシフィックGPのスポンサーからの要望)があったゆえである。また、この時ジョーダンに持ち込まれたスポンサー資金は、マールボロからの5,000万円と言われる。[要出典][9]

F1復帰と引退[編集]

リジェJS41・無限ホンダ

1995年には無限エンジンを積むリジェチームと、オリビエ・パニスのチームメイトとして契約した。しかし、マネージングディレクターのトム・ウォーキンショーが推すマーティン・ブランドルとシートをシェアする形になり、わずか6戦に参戦するに留まった。ウォーキンショーが必要としたのは無限エンジンであり、その為に日本人ドライバーである亜久里を起用したに過ぎなかったためである。また、トム・ウォーキンショー・レーシング (TWR) が運営していた耐久レースのジャガー (自動車)チームで活躍したブランドルを優先させたいという思惑もあった。

亜久里サイドは全戦契約のつもりであったようだが、契約締結後、日本に帰国した時にはブランドルとのシートシェアがチームから発表されているなど、チーム側(特にウォーキンショー)の不可解な契約解釈もあり、ブランドルでさえ日本にいる自身のファンの反応を気にするなど、亜久里の扱いに同情が集まることとなった。[10]

こうした逆風の中、ドイツGPでは実に4年振り(51戦振り)となる6位入賞を果たした。

ひそかに亜久里は最後の花道を飾るつもりで、その年の日本GPに臨んだ。予選後には引退会見を行うつもりだったが[3]、予選2日目のアタック中にS字コーナーでクラッシュを喫して肋骨骨折肺挫傷の重傷を負った。翌日のレースを走ることなく、亜久里はF1から引退することになった。

ドライバーからオーナーへ[編集]

SUPER GTに参戦するARTAのガライヤ
IRLに参戦するスーパーアグリ・フェルナンデス・レーシングの松浦孝亮

F1ドライバーを引退した亜久里は、1996年スーパーアグリカンパニーを設立。自らはドライバーとして全日本GT選手権ル・マン24時間レースに参戦し、1998年のル・マンでは総合3位に入賞、日本人では初めてF1とル・マンの両方の表彰台に上がったドライバーとなる。一方で、船井電機をスポンサーとした「FUNAI SUPER AGURI」チームを率いてフォーミュラ・ニッポンにエントリーした。

1997年のシーズンオフにはオートバックスと提携して「ARTA(AUTOBACS Racing Team AGURI)」プロジェクトを発足。以後チーム総監督としてフォーミュラ・ニッポンや全日本GT選手権に参戦したほか、若手ドライバーの育成にも取り組み、2001年にはARTAのバックアップでドイツF3に参戦した金石年弘がシリーズチャンピオンを獲得する。自身のドライバー活動もそれと並行して続けてきたが、2000年シーズンを最後に完全にドライバーを引退した。

2003年にはエイドリアン・フェルナンデス率いるフェルナンデス・レーシングとの提携で「スーパーアグリ・フェルナンデス・レーシング」を設立。チームオーナーとしてアメリカのフォーミュラトップカテゴリーのIRL(インディ・レーシング・リーグ)へ本格的に参戦を開始した。ロジャー安川(2003年)や松浦孝亮(2004年 - 2006年)をドライバーに起用し、当初は自ら陣頭指揮を執る力の入れようだった。

2005年には、ARTAと童夢ホンダのジョイントで作られたSUPER GT参戦のためのチーム「Team Honda Racing」のチーム代表にも就任したが、同チームは2006年一杯で解散した。

その後も自チームで活動を続け、2007年には伊藤大輔ラルフ・ファーマンによって参戦以来初のSUPER GTのタイトルを獲得した。

2010年NSX-GTからHSV-010にスイッチし、第6戦Pokka鈴鹿700kmではポールトゥーウィンを果たした。2011年はより体制の強化を図ってドライバーを一新し、IRL帰りの武藤英紀と2010年第6戦鈴鹿でポールポジションを獲得した小林崇志を起用した。また、GT300のメンテナンスも自社(アルネックス)で行うように体制を変更した。

なおIRLについては、2007年より提携先をパンサー・レーシングに変更し、「スーパーアグリ・パンサー・レーシング」として参戦したが(ドライバーは引き続き松浦孝亮)、思うような結果が出ず、同年を最後にIRLから撤退した。

オーナーとしてF1参戦[編集]

2005年には夢であったF1チームの所有に向けて動き出す。ディレクシブの支援を受け、ホンダに対してB・A・Rの共同経営を提案。その後紆余曲折を経て、ホンダからエンジン供給を取り付け、一からチームを立ち上げることを決意した。

2005年11月1日には、翌年よりスーパーアグリ・フォーミュラ1としてF1に参戦する予定であると発表(2006年3月24日にスーパーアグリF1チームに変更)。供託金振込みの延滞によりエントリーリストから漏れるも、12月20日には参戦中の10チーム全てから「レイト・エントリー」への同意を取り付け、ようやく2006年1月27日にFIAからのエントリー許可を得た。

佐藤琢磨がドライブするスーパーアグリSA06・ホンダ

元は因縁のウォーキンショーが所有していたアロウズの施設とメンバーを中心にしたスタッフで構成され、シャシーについても、参戦までの時間的制約と、過去2年間に他チームが使用したシャシーは知的所有権の譲渡を含めて使用できないという国際自動車連盟 (FIA) の判断が下されたことから、旧アロウズ2002年シーズンに使用していたA23をベースにした「SA05」で開幕後数戦に参戦することとなった。

2006年シーズンは準備期間の短さ、マシンの戦闘力不足、ドライバーの井出有治スーパーライセンス剥奪、大口スポンサーの獲得失敗による資金不足といった苦難に立ち向かいながら、後半戦にSA06とSA06Bを投入。獲得ポイント0点でデビューシーズンを終えた。

2年目の2007年は前半戦に佐藤琢磨が2度の入賞を果たす躍進を遂げた。しかし、ばんせい山丸証券の紹介でメインスポンサーに就任した「SS UNITED GROUP」が資金未払い問題を起こし、チームの資金繰りが悪化した。

2008年は中東の投資会社ドバイ・インターナショナル・キャピタル (DIC) へオーナーシップを譲る交渉を続け、開幕戦から出場することができた。しかし、土壇場でDICが翻意したため、スペインGP後の5月6日にF1撤退・チーム解散を表明した。

その他[編集]

  • 2歳の頃、既に父親のベンツを立ったままで運転して近所を周っていた。
  • F3時代、足車のカローラには型落ちになったF3用レースエンジン(腰下が同じ)を積んでいた。あるレースからの帰宅途中、前方でトレーラが切り替えしを始めたがスピードが出ていたため止まり切れず、トレーラーのオーバーハングに突っ込んだ。当該カローラはピラーから上の上屋はすべて取れた(本人曰く「コンバーチブルになった」)が、亜久里自身は無傷であった上に車も自走可能であったため、実地検分を終えた後、積んであったレース用ヘルメットをかぶって運転して帰ったという逸話が残っている。
  • 全日本F3000参戦中の1987年、スポンサーだったフットワークの大橋渡会長に「優勝したら何が欲しい?」と問われ亜久里は「ポルシェが欲しいですね。」と答えた。第8戦の鈴鹿で優勝を果たすと、大橋からタミヤのプラモデル(ポルシェの1/24モデル)を手渡された。目を白黒させる亜久里に、本物のポルシェ・911のキーが届くのはそれから数日後だった。
  • 上述の通り、1994年、JTCCに参戦するにあたって「日本人の若手を積極的に起用して育成すること」をトヨタに約束させていたにも関わらず、トヨタがワークスチームに外国人ドライバーを続々と送り込んだためトヨタとは絶縁状態にある。しかしながら、若い頃引退の危機を救ったトムスの舘信秀への敬愛の念は変わらず、読売新聞のインタビューで舘のことを「自分の父親のような存在」と語っている。
  • ミハエル・シューマッハをF1デビューした頃から面倒を見ていたので、今でも仲が良い。グランプリの現場からミハエルがチャーターしたヘリに同乗して帰ることが良くある。「ミハエルに初めてキャビアを食べさせた男」とも古舘伊知郎に明かしている。デビューしたてのシューマッハはペイドライバーであったが、亜久里は億単位のギャラを得ていた。また、後にミハエル・シューマッハがF1で成功して自家用ジェットファルコンに乗り始めた当時、移動準備中の亜久里のファーストクラスのチケットを破って、「俺のシャトル(自家用ファルコンのこと)で行こうぜ!」とふざけて自慢してみせたとの逸話が残っている(なお、実際にモナコまで送り届けている)。
  • ミハエル・シューマッハのサイン入りフェラーリを売ってしまったことがある。(ジャンクSPORTSにて発言)
  • とんねるずの生でダラダラいかせて!!』(日本テレビ)の名物コーナー「生ダラKART GRAND PRIX」の1998年12月9日放送の第3戦ブラジルGP(ブラジルGPと称しているが、シャレであり実際は国内で収録)で、チーム亜久里はトップ走行中にマシントラブルが発生した影響でビリになり、罰ゲームとして亜久里は丸坊主になった。ちなみに、同年7月29日放送の第1戦フランスGP(フランスGPと称しているが、シャレであり実際は国内で収録)でもチーム亜久里はビリとなり、サイドを刈られている。
  • その年の12月30日から翌日にかけて30時間放送されたTBSの番組テレビのちからにゲスト出演した。この出演は同番組のコーナー「スーパーキッズ21世紀夢チャレンジ」に登場した F1ドライバーになる事を夢見る天才カート少年 小林可夢偉 との対決の為であった。生ダラで丸坊主になった直後の亜久里は小林に「今日は小学生と戦うって聞いたから、中学生になってきたよ」と自分の頭をなでながら洒落を利かせた言葉を放つ。カート対決では小林に負けたが、小林は子供ながらに鈴木が手を抜いていた事に気付いており、当時の心境や悔しさをF1ドライバーになった後にも語っている。レース終了後、鈴木は少年時代の小林の力量を長所・短所を含めて的確に語っており、この出会いが後に小林が「F1ドライバー」という夢を叶える原動力の一つとなった。
  • 亜久里の在籍していた埼玉県坂戸市の城西大学正門先の急カーブは通称「アグリコーナー」「アグリカーブ」などと呼ばれ、亜久里が200キロでコーナリングしたという伝説がある。
  • 愛知県豊田市(旧 東加茂郡松平町、徳川家・松平家の祖先の地)にある高月院には、F1レーサー時代の書が残されている。そこには「いい人間だと思われているうちはダメなんだ」と書いてある。
  • 2007年4月29日腸閉塞の治療および精密検査のために都内の病院に入院した。5月6日に退院。
  • サマンサタバサジャパンリミテッドの株主であった。
  • 2010年6月24日 ばんせい山丸証券が活動資金など計約16億2600万円の返済を求めた訴訟の判決で、24日に東京地裁より全額支払い命令を受けた[11]

主な出演CM[編集]

レース戦績[編集]

F1[編集]

所属チーム シャシー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 WDC ポイント
1988年 ラルース LC88 BRA
SMR
MON
MEX
CAN
DET
FRA
GBR
GER
HUN
BEL
ITA
POR
ESP
JPN
16
AUS
35位 0
1989年 ザクスピード 891 BRA
DNPQ
SMR
DNPQ
MON
DNPQ
MEX
DNPQ
USA
DNPQ
CAN
DNPQ
FRA
DNPQ
GBR
DNPQ
GER
DNPQ
HUN
DNPQ
BEL
DNPQ
ITA
DNPQ
POR
DNPQ
ESP
DNPQ
JPN
DNPQ
AUS
DNPQ
47位 0
1990年 ラルース LC89B USA
Ret
BRA
Ret
12位 6
LC90 SMR
Ret
MON
Ret
CAN
12
MEX
Ret
FRA
7
GBR
6
GER
Ret
HUN
Ret
BEL
Ret
ITA
Ret
POR
14
ESP
6
JPN
3
AUS
Ret
1991年 LC91 USA
6
BRA
DNS
SMR
Ret
MON
Ret
CAN
Ret
MEX
Ret
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
Ret
HUN
Ret
BEL
DNQ
ITA
DNQ
POR
Ret
ESP
DNQ
JPN
Ret
AUS
DNQ
22位 1
1992年 フットワーク FA13 RSA
8
MEX
DNQ
BRA
Ret
ESP
7
SMR
10
MON
11
CAN
DNQ
FRA
Ret
GBR
12
GER
Ret
HUN
Ret
BEL
9
ITA
Ret
POR
10
JPN
8
AUS
8
20位 0
1993年 FA13B RSA
Ret
BRA
Ret
24位 0
FA14 EUR
Ret
SMR
9
ESP
10
MON
Ret
CAN
13
FRA
12
GBR
Ret
GER
Ret
HUN
Ret
BEL
Ret
ITA
Ret
POR
Ret
JPN
Ret
AUS
7
1994年 ジョーダン 194 BRA
PAC
Ret
SMR
MON
ESP
CAN
FRA
GBR
GER
HUN
BEL
ITA
POR
EUR
JPN
AUS
42位 0
1995年 リジェ JS41 BRA
8
PAC
Ret
SMR
11
ESP
MON
CAN
FRA
GBR
GER
6
HUN
BEL
ITA
POR
EUR
PAC
Ret
JPN
DNS
AUS
17位 1

JGTC[編集]

色の意味はこちらを参照→key

所属チーム 使用車両 クラス Rd.1 Rd.2 Rd.3 Rd.4 Rd.5 Rd.6 Rd.7 順位 ポイント
1996 NISMO 日産・スカイラインGT-R GT500 SUZ
4
FUJ
Ret
SEN
7
MIN
3
SUG
5
MIN
3
6th 42
1997 NISMO 日産・スカイラインGT-R GT500 SUZ
1
FUJ
4
SEN
2
FUJ
10
MIN
9
SUG
3
4th 60
1998 NISMO 日産・スカイラインGT-R GT500 SUZ
Ret
FUJ
C
SEN
2
FUJ
7
MOT
11
MIN
5
SUG
9
8th 29
1999 NISMO 日産・スカイラインGT-R GT500 SUZ
5
FUJ
11
SUG
9
MIN
12
FUJ
12
TAI
2
MOT
2
6th 40
2000 Autobacs Racing Team Aguri ホンダ・NSX GT500 MOT
7
FUJ
Ret
SUG
15
FUJ
1
TAI
Ret
MIN
Ret
SUZ
Ret
13th 24

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 「クリちゃん」のモデルは根本進の長男で、2輪レーサーからバイク雑誌編集長になった根本健である。
  2. ^ 風貌が野球選手のジャッキー・ロビンソンに似ていることから。
  3. ^ a b 『F1速報PLUS』Vol.14、イデア、2010年、63頁。
  4. ^ 『GPX F1GP '91-'92』 山口正巳、山海堂、1991年12月25日、p.80(日本語)。ISBN 4-381-07648-6
  5. ^ a b c Alan Henry, ed (1991) (英語). Autocourse 1991-92. Hazleton Publishing. pp. p.101. ISBN 0-905138-87-2. 
  6. ^ シーズン後半はアルボレートでさえ完走しても入賞はポルトガルでの1度のみ。彼は7位完走が多かった。
  7. ^ 中嶋悟が1988年のメキシコGPと日本GPで予選6番手を獲得していた。
  8. ^ 自分が契約したシートに自身の推す若手ドライバーを乗せて欲しいと要望するも交渉は難航。最終的にはトヨタが「今後、若手ドライバー育成に力を入れる」ことを確約し契約に至る。しかし結局トヨタは、その後数年間の間に若手ドライバー育成に着手・注力することはなく、「約束を守らなかったトヨタには二度と乗らないと決意した」と後に亜久里自身が語っている。[要出典]
  9. ^ ちなみに3レースのオファーを亜久里に断られたエディ・ジョーダンは、その後の2戦に同じマールボロドライバーであったアンドレア・デ・チェザリスを起用している。
  10. ^ 後にブランドルは「だからさぁ、半分の契約だってことを最初から説明してないから…」と、亜久里サイドへの明確な説明を怠ったチーム側の落ち度を指摘している。
  11. ^ “鈴木亜久里氏が敗訴=F1資金17億円返済命じる-東京地裁”. 時事通信. (2010年6月24日). http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2010062401116 2010年6月24日閲覧。 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]