ジャン=ピエール・ジャブイーユ

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ジャン=ピエール・ジャブイーユ
Festival automobile international 2012 - Photocall - Jean-Pierre Jabouille - 010.jpg
基本情報
フルネーム ジャン=ピエール・アラン・ジャブイーユ
国籍 フランスの旗 フランス
出身地 同・パリ
生年月日 1942年10月1日(72歳)
F1での経歴
所属チーム '74 イソ・マールボロ (ウィリアムズ)
'74 サーティース
'75 ティレル
'77-'80 ルノー
'81 リジェ
活動時期 1974-1981
出走回数 49
優勝回数 2
通算獲得ポイント 21
表彰台(3位以内)回数 2
ポールポジション 6
ファステストラップ 0
初戦 1974年フランスGP
初勝利 1979年フランスGP
最終勝利 1980年オーストリアGP
最終戦 1981年スペインGP
タイトル 0
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ジャン=ピエール・アラン・ジャブイーユJean-Pierre Alain Jabouille, 1942年10月1日 - )は、フランス人の元レーシング・ドライバー。1976年ヨーロッパF2チャンピオン。

ジャン=ピエール・ジャブイユジャン=ピエール・ジャブイル等の表記がなされることもある。

経歴[編集]

フランスF3やヨーロッパF2に参戦し、1976年にはヨーロッパF2でチャンピオンを獲得。

また、まだF2参戦中だった1974年には、第9戦フランスGPでウィリアムズから、第12戦オーストリアGPでサーティースからF1に挑戦。しかし、どちらも予選落ちとなった。翌1975年には、第9戦フランスGPにティレルから参戦、予選を21位で通過しF1デビューを果たし、決勝も12位で完走した。

ルノーターボマシン開発への尽力[編集]

元々スポーツカーや下位フォーミュラーでルノーと縁があり、実績を残していたジャブイーユは、その後ルノーのF1プロジェクトにおけるドライバーに抜擢される。ルノーのエンジン部門だったベルナール・デュドらと開発し、1977年にはF1史上初のターボ車「RS01」が完成。タイヤ・ガソリンにもそれぞれフランスのミシュランエルフを使用するなど、フランス人のジャブイーユがドライブすることも含めた「オールフレンチ体制」が話題を集めた。

しかしエンジンはターボラグの酷さに加え、信頼性も低いものであった。初陣の1977年第10戦イギリスGPでは、予選21位に沈み決勝でもターボのトラブルでリタイヤ。1977年はこれを含め計5戦にエントリーしたが、リタイヤ4回・予選落ち1回と一度も完走出来なかった。

1978年は速さを獲得し、予選で3位グリッドを2度獲得するなど上位に食い込むようになる。第15戦アメリカ東GPでは、4位に入り自身及びチームにとっての初入賞を記録している。しかし信頼性の低さは変わらず、参戦した14戦中完走は4回であった。

1979年[編集]

1979年は、チームメイトにルネ・アルヌーを迎えて2台体制となった。車両の速さは前年以上となり、ジャブイーユは予選で4度のPPを獲得した。このうち地元の第8戦フランスGPではポールトゥーウィンで自身の初優勝を挙げた。このレースは「フランス人が、フランスGPにおいて、フランス製のガソリンとタイヤを使用したフランスチームのマシンを駆り初優勝を成し遂げたレース」となった。また、これはチームにとっても初優勝であり、開発の努力が報われる結果となった。このレースは、アルヌーとフェラーリジル・ヴィルヌーヴが、終盤に激しい2位争いを展開したGPとしても知られている。

年間を通しては15戦中完走4回と、相変わらず信頼性の無いマシンに泣かされる結果となった。

1980年[編集]

1980年もルノーから参戦、予選ではPP2回など好位置につけ、第10戦オーストリアGPでは予選2位から自身2勝目を記録。しかし、トラブルの多さは相変わらずでリタイヤを連発、結果的にゴール出来たのはオーストリアGPのみとなった(第4戦アメリカ西GPは、リザルト上完走扱い)。また同僚のアルヌーが2勝を挙げるなどの活躍を見せる中で、チームもアルヌー寄りに傾きつつあったとされる。

そんな中でジャブイーユは、一旦は交わしたチームとの来期の契約を破棄し、マトラと契約。ルノー同様、ターボマシンの開発を担当する予定となっていた。しかし第13戦カナダGPでクラッシュし、両足を骨折。最終戦アメリカ東GPへの欠場を余儀なくされると共に、マトラでの挑戦予定も無くなってしまった。

ルノー離脱後[編集]

その後、1981年にはリジェから6戦にエントリーしたが、回復が思わしくなかったこともあり、3度の予選落ちと3度のリタイヤという結果に終わる。第7戦スペインGPをもってチームを去り、その後2度とF1には戻らなかった。

F1後は地元フランスでスポーツカーレースに参戦し、プジョーBMWを駆り活躍した。また1994年のプジョーF1参戦時には、チームディレクターとして関わっている。

補足[編集]

  • マシンデザインにも精通しており、1976年には自身のデザインしたマシンでヨーロッパF2タイトルを獲得した。
  • 1975年の富士グランチャンピオンレース第4戦の予選でポールポジションを獲得したが、決勝は雨のため順延。スケジュールが合わなかったため棄権している。
  • 同胞のジャック・ラフィットとは義兄弟。

F1での年度別成績[編集]

所属チーム シャシー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 WDC ポイント
1974年 イソ・マールボロ (ウィリアムズ) FW ARG BRA RSA ESP BEL MON SWE NED FRA
DNQ
GBR GER NC
(57位)
0
サーティース TS16 AUT
DNQ
ITA CAN USA
1975年 ティレル 007 ARG BRA RSA ESP MON BEL SWE NED FRA
12
GBR GER AUT ITA USA NC
(35位)
0
1977年 ルノー RS01 ARG BRA RSA USW ESP MON BEL SWE FRA GBR
Ret
GER AUT NED
Ret
ITA
Ret
USA
Ret
CAN
DNQ
JPN NC
(45位)
0
1978年 ARG BRA RSA
Ret
USW
Ret
MON
10
BEL
NC
ESP
13
SWE
Ret
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
Ret
AUT
Ret
NED
Ret
ITA
Ret
USA
4
CAN
12
17位 3
1979年 ARG
Ret
BRA
10
RSA
Ret
USW
DNS
13位 9
RS10 ESP
Ret
BEL
Ret
MON
NC
FRA
1
GBR
Ret
GER
Ret
AUT
Ret
NED
Ret
ITA
14
CAN
Ret
USA
Ret
1980年 RE20 ARG
Ret
BRA
Ret
RSA
Ret
USW
10
BEL
Ret
MON
Ret
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
Ret
AUT
1
NED
Ret
ITA
Ret
CAN
Ret
USA 8位 9
1981年 リジェ JS17 USW BRA ARG
DNQ
SMR
NC
BEL
Ret
MON
DNQ
ESP
Ret
FRA GBR GER AUT NED ITA CAN CPL NC
(32位)
0

関連項目[編集]