パット・シモンズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

パット・シモンズPatrick "Pat" Bruce Reith Symonds, 1953年6月11日 - )は、イギリス出身のエンジニア。2013年よりウィリアムズのチーフテクニカルオフィサーを務める。

経歴[編集]

初期の経歴[編集]

フォード社の見習いとして自動車業界でのキャリアを始め、後にクランフィールド工科大学で自動車工学を学び、1976年に修士号を取得し卒業。

卒業と同時にホークレーシングに加入し、チーフデザイナーとしてフォーミュラ・フォードの設計に携わり、2年後の1978年にはやはりチーフデザイナーとしてロイヤルに移籍。ここでロリー・バーンと知己を得た。

当初、バーンとともにロイヤル社でフォーミュラ・フォードの設計に関わったが、1979年にバーンがF2カー設計のため、トールマンチームから誘われると、バーンが引き上げる形で、シモンズもトールマンでの職を得た。

トールマン時代(1980年 - 1985年)[編集]

1980年のヨーロッパF2選手権において、トールマンとハートの組み合わせは戦闘力を発揮し、ドライバーのブライアン・ヘントンデレック・ワーウィックは計4戦で1-2フィニッシュを達成し、ヘントンはチャンピオンを獲得した。シモンズは、この年は研究開発部門のスタッフとして関与した。

この活躍を引っさげ、1981年にトールマンはF1にステップアップし、シモンズは、その年ステファン・ヨハンソンを擁していたトールマンのF2での開発を継続するとともに、F1でも研究開発、この年はとりわけ空力部門で関与し、風洞プログラムなどを手がけた。

翌1982年以降は、フルタイムでF1に関わるようになり、1982年にテオ・ファビとワーウィック、翌1983年にはブルーノ・ジャコメリ、1984年にはその年デビューの新人アイルトン・セナのレースエンジニアとして任にあたった。

ベネトン&ルノー時代(1986年 - )[編集]

ミハエル・シューマッハ加入以前[編集]

1985年には、チームは、イタリアの衣料品メーカーベネトンに買収されたことにより、ベネトンとなったが、シモンズは引き続き残留した。

1991年にジョン・バーナードをテクニカルディレクターに迎えることをチームが決めると、シモンズはチームを離脱し、バーンとともにエイドリアン・レイナードと契約し、エンジニアリングディレクターとしてレイナードのF1参戦計画に携わった。

このレイナードによる参戦計画は結果として失敗に終わり、また、時期を同じくして、バーナードがフラビオ・ブリアトーレによって更迭されたこともあって、シモンズはバーンとともにベネトンに復帰した。

ミハエル・シューマッハとの共闘[編集]

ベネトンに復帰したシモンズは、研究開発部門に戻りチーフとして統括するとともに、ミハエル・シューマッハのレースエンジニアも務め、1994年と1995年のシューマッハのドライバーズタイトル獲得に貢献した。翌1996年にシューマッハはフェラーリへと移籍していき、その後を追う形で、長年を共にしてきたロリー・バーンがベネトンを去っていったが、シモンズはその後もベネトンに残り、バーン同様にチームを去ったロス・ブラウンの跡を受けて、1996年11月にテクニカルディレクターに就任した。

ミハエル・シューマッハ離脱後[編集]

2001年に、新たにチームに加入したマイク・ガスコインにテクニカルディレクターの座を譲って以後、自らはエンジニアリングディレクターとなり、2002年以降はエグゼクティブエンジニアリングディレクターの称号を帯びるようになった。

私事としては、この間、2002年にオックスフォード・ブルックス大学から博士号を授与されている。

1996年以降、チーム代表はたびたび変わり、2002年にはチームがベネトンからルノーに変わるなど、チーム体制の変化が続いたが、シモンズは一時レイナードに所属していた例を除けば、一貫して同チームに留まり続けていた。

しかし2008年シンガポールグランプリにおいて、ルノーチームがフェルナンド・アロンソの順位を上げるため、ネルソン・ピケJr.に故意に事故を起こさせたというスキャンダル(クラッシュゲート)が発覚。シモンズはマネージングディレクターのフラビオ・ブリアトーレと共にピケJr.に指示を与えた罪が疑われ、2009年の公聴会の直前、ブリアトーレと共にルノーから離脱した。その後の裁定で、国際自動車連盟 (FIA) の管轄するすべてのモータースポーツカテゴリーにおいて5年間の関与禁止(追放)という処分を受けた。

シモンズとブリアトーレは大審裁判所に訴え、FIAの追放処分撤回を勝ち取る。2012年末まで謹慎すれば、2013年以降はF1チームの運営に復帰することが認められた。

ヴァージン/マルシャ時代(2011年 - 2013年)[編集]

ルノーから離脱後、シモンズは自身のコンサルタント会社「ニュートリノ・ダイナミクス」を通じて様々なプロジェクトに関わった。また、イギリスの『F1 Racing』誌にてエンジニアリング関連のコラムを執筆した。

2011年初めに、ヴァージン・レーシングとコンサルタント契約を結んだ。まだ謹慎期間中だったが、技術部門のアドバイザーという形でF1への関与が認められた[1]

チームは2012年よりマルシャF1チームとなり、この年のマシン「MR01」はシモンズの指揮によりデザインされた[2]。2013年には、シモンズが正式にマルシャのテクニカルディレクターに就任し、チームに帯同することになった[3]

ウィリアムズ時代(2013年 - )[編集]

マルシャへの正式就任から数か月後、シモンズはチームとの契約を解消し、ウィリアムズの技術部門を指導するチーフテクニカルオフィサーに就任することになった[4]

評価[編集]

ロス・ブラウンの影に隠れがちだが、シモンズもミハエル・シューマッハのベネトン在籍時からレース戦略の立案に関わっており、レース戦略の分野で一定の評価がある人物の一人である。実際、ブラウンらの離脱後も、ベネトン、ルノーはしばしばその優れた作戦によって他チームに対して優位に立っている。ミハエル・シューマッハはフェラーリ在籍時にロリー・バーンロス・ブラウンとともにシモンズの獲得をフェラーリに要請していた。

脚注[編集]

  1. ^ "パット・シモンズ、ヴァージンと契約し、F1復帰". オートスポーツ.(2011年2月12日)2013年3月12日閲覧。
  2. ^ "マルシャ新車はパット・シモンズがデザインを指揮". オートスポーツ.(2011年12月8日)2013年月3日12閲覧。
  3. ^ "パット・シモンズ、正式にマルシャのTDに". オートスポーツ.(2013年2月5日)2013年3月12日閲覧。
  4. ^ "ウィリアムズの新技術ボス、パット・シモンズQ&A". Topnews.(2013年8月22日)2014年3月7日閲覧。

関連項目[編集]