ジャン・アレジ
| ジャン・アレジ | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 同・アヴィニョン |
| 生年月日 | 1964年6月11日(47歳) |
| F1での経歴 | |
| 所属チーム | '89-'90 ティレル '91-'95 フェラーリ '96-'97 ベネトン '98-'99 ザウバー '00-'01 プロスト '01 ジョーダン |
| 活動時期 | 1989 - 2001 |
| 出走回数 | 202 |
| 優勝回数 | 1 |
| 通算獲得ポイント | 241 |
| 表彰台(3位以内)回数 | 32 |
| ポールポジション | 2 |
| ファステストラップ | 4 |
| 初戦 | 1989年フランスGP |
| 初勝利 | 1995年カナダGP |
| 最終勝利 | 1995年カナダGP |
| 最終戦 | 2001年日本GP |
| タイトル | 0 |
ジャン・アレジ(Jean Alesi, 1964年6月11日 - )は、フランス人レーシングドライバー。
目次 |
[編集] 経歴
フランスのアヴィニョン生まれ。両親はシチリア出身のイタリア人であり、イタリア語名ではジョヴァンニ・アレージ(Giovanni Alesi)となる。実家は自動車修理工場で、アレジは小さい頃から工場の敷地内でシトロエン・2CVやルノー・5を運転して運転を覚えていった。ときには激しくやり過ぎて横転したこともあったという。
[編集] F1以前
17歳の時カートレースを始め、1987年にフランスF3選手権のチャンピオンとなる。なおこの年は、片山右京などのちにF1でライバルとなるドライバーを抑えてのチャンピオン獲得であった。
1988年に、オレカチームより国際F3000選手権にステップアップした。しかしランキング10位に終わり、1989年にEJR(エディ・ジョーダン・レーシング、後のジョーダン)へ移籍した。
1989年は国際F3000の初年度となる無限ホンダエンジンとレイナードの組み合わせのマシンで参戦した。DAMSのエリック・コマスとは同ポイントであったが、上位成績の数の比較により、チャンピオンを獲得した。また全日本F3000選手権にもスポット参戦した。
[編集] F1デビュー
[編集] 1989年
1989年フランスGPでティレルよりデビューした。このレースよりティレルがキャメルのスポンサードを受けることになり、マールボロドライバーだったミケーレ・アルボレートがチームを去ったため、キャメルの支援を受けるEJRのアレジに声がかかった。このレースでいきなり4位入賞を果たし、注目を浴びた。以後もティレルから継続して参戦したが、国際F3000を優先したため2レースを欠場した。フランスGP以降、イタリアGP(5位)とスペインGP(4位)で入賞した。
[編集] ティレル時代
[編集] 1990年
チームメイトに中嶋悟を迎えてティレルからF1フル参戦を果たした。開幕戦アメリカGPではスタートでトップに立ち、34周目までラップリーダーであった。35周目には、後方から迫るマクラーレンのアイルトン・セナに一旦抜かれるも、次のコーナーで鋭く抜き返すというバトルをした。再び抜かれたが、2位入賞。モナコGPでも、マクラーレンのゲルハルト・ベルガーを抑えて再び2位を獲得し、イタリアGPでは赤旗再スタートを含む2回のスタートで、いずれもオープニングラップで2台のフェラーリを抜き、2周目にはファステストラップを叩き出し、マクラーレンのセナやベルガーにも攻めて近づいていた(結果は、スピンによるリタイア)。
シーズン中に来年の移籍交渉も始まり、ウィリアムズと仮契約したが、幼少より憧れていたフェラーリからも誘いを受ける。ウィリアムズから契約を買い取る形でフェラーリ入りが決まった。この時フェラーリからウィリアムズへ契約買取代金の一部として1990年のマシン641/2が贈られており(オーナーのフランク・ウィリアムズが所望したと言われている)、ウィリアムズのファクトリーには歴代のウィリアムズF1マシンに混じって真紅の跳ね馬が並んでいる。
[編集] フェラーリ時代
[編集] 1991年
念願のフェラーリ入りし、アラン・プロストのチームメイトとなる。ベルギーGPでは一時トップに立つもののリタイア。それでも3位3回を獲得したが、643の戦闘力不足やチェザーレ・フィオリオなど首脳陣の離脱やチーム批判を繰り返したプロストの解雇など、チームは混乱をしていたお陰で優勝どころではなかった。
[編集] 1992年
1992年のチームメイトはイヴァン・カペリになった。本人の希望でカーナンバーを27に変更。F92Aはシーズン前こそ美しいフォルムと革新的な二重底(ダブルデッキ)で注目されるものの、シーズンが始まると失敗作と判明。タイヤに厳しく、ナーバスな操縦性のマシンであり、メキシコGPではチーム資金も性能も格下のティレル・イルモアに乗るアンドレア・デ・チェザリスにホームストレートでオーバーテイクされるなど結果は散々たるもの。完走もできないレースが続いたが3位を2回記録する。 内部批判を繰り返し離脱したプロストに代わり、イタリアのメディアやフェラーリファン(ティフォシ)は次代のエースであるアレジに注目。駄馬をねじ伏せるような攻撃的な走りは同じような境遇にあったフェラーリ伝説のドライバー、ジル・ヴィルヌーヴを彷彿とさせ、ティフォシは熱狂する。
[編集] 1993年
1993年マクラーレンからゲルハルト・ベルガーが復帰。ニューマシンF93Aはアクティブサスペンションやハイテク機器の熟成が進まず成績は低迷。それでもふたりでフェラーリの再建に尽くした。それでもモナコGPでは3位表彰台。イタリアGPでは首位のアラン・プロストのエンジンブローで2位表彰台を獲得。ティフォシを大いに喜ばせたほか、次のポルトガルGPでは予選5位から絶妙のスタートを決めトップに立ち19周にわたってトップを快走するなど魅せる走りを披露した。
[編集] 1994年
1994年ジョン・バーナード作の412T1を得て復活をかけるが、ブラジルGP後のテストで怪我をしてしまい、パシフィックGPとサンマリノGPを欠場してしまう。モナコGPで復帰し5位入賞。グスタフ・ブルナーがモデファイした412T1Bを得るとドイツGPでは自身最高の予選2位(ポールポジションはチームメイトのベルガー)、イタリアGPで初のポールポジションを獲得(2位はベルガー)。共にリタイアに終わるなど、マシンの信頼性に足を引っ張られた感が否めなかった。
[編集] 1995年
1995年は、カナダGPでベネトンのミハエル・シューマッハのマシントラブルでトップに立ち、F1通算92戦目で初優勝を果たした。憧れのジル・ヴィルヌーヴの名前を冠するサーキットで、ジルと同じカーナンバー27のフェラーリでの勝利であった。また、決勝が行なわれた6月11日はアレジ自身の誕生日でもある。当時としてはティエリー・ブーツェンの96戦に次ぐ2番目に遅い初優勝。F1における現時点でのV12エンジン最後の優勝でもある。「国際F3000(後のGP2にあたる)チャンピオンはF1では優勝できない」という当時のF1界のジンクスを打ち破る勝利でもあった。
また初優勝後からチーム監督のジャン・トッドとの関係が拗れ、ポルトガルGPでは「ベルガーを前に出せ」というチームオーダーを無視したアレジに罰金が科せられている。アレジ自身も「チームはいつもベルガーばかり優先する」と怒りをあらわにするなど、関係がこじれた状態でフェラーリを去ることになった。
このベルギーGP前にでフェラーリは1996年にミハエル・シューマッハとの契約を発表。同時にベネトンもアレジとの契約を発表。さらにイタリアGP前にベルガーもベネトンとの契約を発表。ベルガーと共にベネトンへ移籍した。
[編集] ベネトン時代
[編集] 1996年
トラブルに苦しむベルガーに対し、アレジはコンスタントにポイントを稼ぎ11回入賞で表彰台は8回、フェラーリ時代を上回るシリーズ成績を残したが、チャンピオン争いには一切絡めないどころか、優勝すらできなかったため評価は急落した。マネージング・ディレクターであるフラビオ・ブリアトーレからの評価も下がり「(成績が原因で)1997年は1996年ほどの給料は出さない」と通告され、2年目は契約金が下げられてしまうどころか、シーズン中は頻繁に移籍の話題が出るほど立場は危うくなった。チームはシーズン終了後、ロス・ブラウン、ロリー・バーンら技術陣のフェラーリ移籍などでスタッフが流動していた。
[編集] 1997年
チームはスタッフの流出が止まらず、ブリアトーレも経営の熱意を失っていた事からチームは低迷。アレジはそれでも14戦完走うち10回入賞し表彰台は5回の成績を残したが、アレジの評価は上がらず、この年も放出の噂が絶えなかった。しかもベルガーとブリアトーレがチームを去ることから自身も移籍を決意する。イタリアGPでは自身2度目のポールポジションを記録。
[編集] ザウバー時代
[編集] 1998年
1998年、ベネトンを離れたアレジはザウバーに移籍する。チームメイトはジョニー・ハーバート。アレジは安定した走りを見せ12回完走うち4回入賞。ベルギーGPでは3位表彰台を獲得。完全にチームメイトを凌駕し、実質ナンバーワンの座を奪った。オーストリアGPでは予選2位を獲得している。ハーバートとの不仲の噂もあったが、この年は9ポイントを獲得しチームのランキング6位に貢献。エースとして翌年も残留。
[編集] 1999年
1999年のチームメイトはペドロ・ディニス。アレジはエースとして期待がかかるが、マシンは向上せず低迷。フランスGPでは予選2位を獲得するが、決勝ではスピンでリタイア。レース後「ザウバーを出る決心をした」と異例の移籍表明。ペーター・ザウバーとの関係も悪化し、最悪のシーズンを送る。結果は6位2回のみ。6位入賞3回のディニスにもランキングで下回った。翌年はプロストで走る事になる。
[編集] プロスト、ジョーダン そして引退へ
[編集] 2000年
2000年プロストに移籍。新天地で復活をかけるが、チーム状態は最悪。チームメイトのニック・ハイドフェルドとの同士撃ちをするなど成績は低迷。アレジの実力を持ってしても走らないマシンに手を焼きデビュー以来初のシーズンノーポイントに終わる。それでもアレジはチーム批判をすることなく残留を決意する。
[編集] 2001年
前年の大不振やチーム内のゴタゴタにより多くのスポンサーを失い、一転してチームは資金難に陥るが、フェラーリエンジンを得たマシンで奮闘。入賞3回で4ポイントを獲得するが、カナダGPでアレジが入賞した際、高価な無線器具の付いたヘルメットを観客に投げ与えてしまったことにアラン・プロストが激怒。これがきっかけで2人の関係がこじれ、ドイツGP後にチームを離れ、ハインツ=ハラルド・フレンツェン解雇でシートのあいていたジョーダンに移籍する。
移籍後はベルギーGPで6位入賞するなど手堅い走りを見せ、ジョーダンとの2002年の契約延長を望んだが、チームがホンダエンジンの供給を巡り佐藤琢磨との契約を選んだため、最終戦日本GP直前にF1からの引退を表明。ラストレースはルーキーであるキミ・ライコネンのスピンに巻き込まれる形でクラッシュ・リタイアとなった。このライコネンは来年のマクラーレン移籍が決まり、また後のワールドチャンピォンになっており実質的な世代交代の場となった。2001年のアレジは、リタイアはこの最終戦のみでプロスト~ジョーダン移籍後全レースを完走していた。またこの時当時の歴代1位タイとなる17戦連続完走記録も樹立した(現在では歴代8位タイの記録)。
[編集] F1後
2002年よりドイツツーリングカー選手権(DTM)に活動の場を移し、メルセデス・ベンツチームのワークスドライバーとなったが、顕著な成績は得られなかった。2006年シーズンを最後にDTMからも引退。
その傍ら、日本のディレクシブのシニアエクゼクティブアドバイザーに就任し、マクラーレンのセカンドチーム立ち上げを目指し、F1関係者との折衝に当たった。しかし、FIAの承認を得られず、また、ディレクシブのモータスポーツ活動撤退により、計画は実現に至らなかった。2008年にはスピードカー・シリーズに参戦した。
2010年には、ジャンカルロ・フィジケラ、トニ・ビランダーと組み、2010年のル・マン・シリーズLM GT2クラスにフェラーリから出場する。
2012年はインディ500に参戦する。
[編集] DTM 成績
- 2002 - 5位 , 1 勝,
- 2003 - 5位, 2 勝,
- 2004 - 7位,
- 2005 - 7位, 1 勝,
- 2006 - 9位
[編集] 惜しまれるレース
アレジはテスト嫌いの面もあったが、スタートで一挙に順位を上げたり、バトルを見せてくれた。またウエットレースでも魅せる走りを披露した。
- 1992年スペインGP
- 予選8位から絶妙のスタートを決め3位に浮上。優勝の期待がかかるがシューマッハとマクラーレンに抜かれ5位に落ちる。それでもベルガーを抜き4位に浮上。セナのリタイヤに救われ3位表彰台獲得。
- 1993年ポルトガルGP
- 予選6位から好スタートを決め1コーナーでトップに立つ。ピットストップ後はミカ・ハッキネンとテール・トゥー・ノーズで激しいバトルを繰り広げる。しかしベネトンとウィリアムズがピットストップで逆転。自身は4位でフィニッシュ。
- 1994年ドイツGP
- 自身最高の予選2位。ポールのベルガーと共にフロントローを独占するも決勝は0周リタイア。
- 1994年イタリアGP
- 自身初のポールポジション獲得。2位にベルガーがつけ、またもフロントロー独占。決勝ではベルガーとワン・ツー体制を築くも、ピットストップでギヤボックスを壊し無念のリタイア。
- 1994年日本GP
- ウィリアムズのマンセルと赤旗再スタート後数十周をテールトゥーノーズで最後まで争う。最終ラップでマンセルに先行されるも2ヒートでのタイム差で3位をゲット。レース後はマンセルと抱き合い健闘を称えあう。
- 1995年イタリアGP
- ベルガーとのワンツー体制を築いていたが、レース中にアレジの412T2の車載カメラがちぎれ飛んでベルガーのフロントサスを壊してしまい、残り数周でアレジもリヤベアリングトラブルでリタイア。
- 1995年ヨーロッパGP
- 濡れた路面をスリックタイヤでスタートし、レインタイヤ勢を出し抜き1回ピットストップでトップを守り続けるも3回ストップのシューマッハに残り4周でパスされる。
- 1995年日本GP
- スタート後フライングによるペナルティで最後尾まで後退も、雨が降り出すといち早くレインタイヤに交換・最後尾からトップのシューマッハの真後ろまで迫る走りを見せるが、ギヤボックストラブルでリタイア。
- 1996年モナコGP
- シューマッハとデイモン・ヒルのリタイアによりトップに立つが、サスペンショントラブルでリタイア。リジェのオリビエ・パニスに優勝をさらわれる。
- 1997年イタリアGP
- 自身2度目のポールポジションを記録。マクラーレンのデビッド・クルサードとワンストップの同時ピットインする。しかしピット作業で逆転され、追走するものの惜しくも2位に終わる。
- 1998年オーストリアGP
- 予選2位から決勝で5位走行中のアレジ。2位のジャンカルロ・フィジケラが21周目、アレジのほぼ真後ろでピットアウト。フィジケラはスリップストリームでアレジのインに入り、レムスコーナでパスしようとしたが、アレジも譲らず接触。両者リタイアした。
- 1999年フランスGP
- 2位走行中にスピンしてグラベルにつかまりリタイア。このレース後不満が爆発したアレジはチームを離れることを決意。
- 2000年ベルギーGP
- ウェットレースでスタート後、17番手であったポジションを路面が徐々に乾いていったときに一番初めに4周目でドライタイヤへの交換を行なった。そこから6,7周とファステストラップ連発で、他マシンがタイヤ交換を行なっている間に一挙に4位まで上がった。その後10周の間、ポジションをキープする走りをみせたが、32周目に燃圧の低下でその年、13戦目で9回目のリタイアに見舞われた。
[編集] ベルガーとの関係
ゲルハルト・ベルガーとはフェラーリとベネトンで計5年間チームメイトを組んだ。以前はレース中絡むシーンがあり、関係を懸念する声もあったが、2人は仲が良く、共にチームのために戦った仲でもある。
- 1993年からベルガーとコンビを組むことになったアレジはマスコミには「ベルガーと組むのは非常に楽しみ」と語るが、内心はベルガーが加入することで自身の待遇が悪くなることを恐れていたと言う。アレジはチームに対し「カーナンバー27の確保」「ベルガーとの同一の待遇」を要求し認められたという。
- 1993年イタリアGPでは予選中にアレジを避けようとしたベルガーがクラッシュ。メディカルセンターに運ばれる。心配したアレジはベルガーの元へ直行。元気そうに笑顔でアレジを迎えたベルガーにアレジは安心し強く抱きついたと言う。ベルガーは「ジャンは僕の顔を見るなり抱きついてきた。むしろそっちの方が痛かった。あれには参った」と笑顔でコメント。ベルガーは無事決勝に出場した。
- 1994年ドイツGPではフェラーリとしては60レースぶりのフロントロー独占。アレジは自身の予選2位よりもベルガーのポールポジションのほうが相当嬉しかったらしく、「この結果は大変すばらしい。明日(決勝)はイタリアではサッカーのワールドカップ決勝みたいな騒ぎになるよ」とドライバーというよりティフォシとしてのコメントを語る。
- その決勝ではスタート直後に電気系トラブルでリタイア。アレジにとっては残念な結果だが、アレジはピットウォールに直行しジャン・トッドらとベルガーのレースを見守り、ベルガーの優勝が決まると自身もスタッフと共に優勝を喜んだ。自身がリタイアし、レースを見守る事になるとは皮肉であるが、レース後アレジは自身のリタイアには触れず「みんながこの瞬間を待っていた」と1人のティフォシとして大喜びしていた。
- 1995年カナダGPでアレジが初優勝した際も、ベルガーは真っ先に祝福。「自分のリタイアには腹が立ったけど、ジャンが勝ったから嬉しいよ」とコメント。
- 1996年からベネトンに移籍するが、当初の契約は「完全なナンバーワン待遇」だったという。フラビオ・ブリアトーレも明言していた。ところがベルガーのベネトン入りが決まるとブリアトーレは一転「2人は同じマシンで戦う」と発言。つまりアレジのナンバーワン待遇は取り消されたことになる。ベルガーがアレジと同待遇を望んだことも理由のひとつでもあるが、これにはアレジも不快感を表し「来るのは構わないが政治的な動きはやめてほしい」とコメントし大きな波紋を呼ぶ。のちにアレジとベルガーは話し合い、わだかまりは解いたとされ、アレジも「あれは冗談。速いチームメイトを持つことはいいこと。ゲルハルトとまた走れて嬉しい」とコメントを訂正するも、アレジにとっては予想外の人事だったことは間違いない。後にアレジはナンバーワン待遇を諦めることを条件にベネトンから契約金の大幅アップを勝ち取ったと言われる。
- 1996年フランスGPではルノーエンジンが1位から4位まで上位独占。3位アレジで4位ベルガーだったが、アレジは「ゲルハルトは無用なオーバーテイクを仕掛けてこないから安心していたし、時々スローダウンしてバトルを楽しんだ」。ベルガーも「ジャンを抜くのはリスクがあるからしなかった」とコメント。お互い無用なバトルをせず順位をキープする姿勢が良好な関係を築いていたと言われる。
- 1996年ドイツGPではデイモン・ヒル を抑えトップを走っていたベルガーが残り3周エンジンブローでリタイア。これにともないアレジは2位を獲得するが、表彰台での彼はいささか悲しげであった。理由は「自分の結果は満足だけど、ゲルハルトには残念だった。一緒に表彰台に上がれるはずだったのに」。
- 1997年ドイツGPではベルガーが病気欠場から復帰。ポール・トゥー・ウインで完全復活をアピール。多くのドライバーがベルガーの復活を祝福するが、当然アレジもその1人。自身はこのグランプリ6位だったが「ゲルハルトが勝てて嬉しいよ」と満面の笑みを浮かべた。
- 1998年ブラジルGP。前年限りでF1を離れたベルガーがグランプリを訪れザウバーのピットを訪問。さらに予選中のアレジにピットから無線で「ジャン、そんなところで走っていないで一緒にコーヒーでも飲もうよ」と語りかける。アレジは突然のベルガーの来訪に驚くが「もう少しで戻るから、ちょっと待っててね」と返した。アレジがピットに戻り久々の対面を果たした両者は笑顔で写真に納まるなど相変わらず仲の良いところを見せた。アレジは「ゲルハルトが来るのは知らなかったから正直ビックリした。」とコメント。
アレジとベルガーは5年間チームメイトを組むが両者が揃って表彰台に乗ったのは95年サンマリノGPでの1回のみだった[1]。
[編集] F1での年度別成績
| 年 | チーム | シャーシ | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | ランキング | ポイント |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1989年 | ティレル | 018 | BRA | SMR | MON | MEX | USA | CAN | FRA 4 |
GBR Ret |
GER 10 |
HUN 9 |
BEL | ITA 5 |
POR | ESP 4 |
JPN Ret |
AUS Ret |
9位 | 8 | |
| 1990年 | 018 019 |
USA 2 |
BRA 7 |
SMR 6 |
MON 2 |
CAN Ret |
MEX 7 |
FRA Ret |
GBR 8 |
GER 11 |
HUN Ret |
BEL 8 |
ITA Ret |
POR 8 |
ESP Ret |
JPN DNS |
AUS 8 |
9位 | 13 | ||
| 1991年 | フェラーリ | 642 643 |
USA 12 |
BRA 6 |
SMR Ret |
MON 3 |
CAN Ret |
MEX Ret |
FRA 4 |
GBR Ret |
GER 3 |
HUN 5 |
BEL Ret |
ITA Ret |
POR 3 |
ESP 4 |
JPN Ret |
AUS Ret |
7位 | 21 | |
| 1992年 | F92A F92AT |
RSA Ret |
MEX Ret |
BRA 4 |
ESP 3 |
SMR Ret |
MON Ret |
CAN 3 |
FRA Ret |
GBR Ret |
GER 5 |
HUN Ret |
BEL Ret |
ITA Ret |
POR Ret |
JPN 5 |
AUS 4 |
7位 | 18 | ||
| 1993年 | F93A | RSA Ret |
BRA 8 |
EUR Ret |
SMR Ret |
ESP Ret |
MON 3 |
CAN Ret |
FRA Ret |
GBR 9 |
GER 7 |
HUN Ret |
BEL Ret |
ITA 2 |
POR 4 |
JPN Ret |
AUS 4 |
6位 | 16 | ||
| 1994年 | 412T1 412T1B |
BRA 3 |
PAC | SMR | MON 5 |
ESP 4 |
CAN 3 |
FRA Ret |
GBR 2 |
GER Ret |
HUN Ret |
BEL Ret |
ITA Ret |
POR Ret |
EUR 10 |
JPN 3 |
AUS 6 |
5位 | 24 | ||
| 1995年 | 412T2 | BRA 5 |
ARG 2 |
SMR 2 |
ESP Ret |
MON Ret |
CAN 1 |
FRA 5 |
GBR 2 |
GER Ret |
HUN Ret |
BEL Ret |
ITA Ret |
POR 5 |
EUR 2 |
PAC 5 |
JPN Ret |
AUS Ret |
5位 | 42 | |
| 1996年 | ベネトン | B196 | AUS Ret |
BRA 2 |
ARG 3 |
EUR Ret |
SMR 6 |
MON Ret |
ESP 2 |
CAN 3 |
FRA 3 |
GBR Ret |
GER 2 |
HUN 3 |
BEL 4 |
ITA 2 |
POR 4 |
JPN Ret |
4位 | 47 | |
| 1997年 | B197 | AUS Ret |
BRA 6 |
ARG 7 |
SMR 5 |
MON Ret |
ESP 3 |
CAN 2 |
FRA 5 |
GBR 2 |
GER 6 |
HUN 11 |
BEL 8 |
ITA 2 |
AUT Ret |
LUX 2 |
JPN 5 |
EUR 13 |
4位 | 36 | |
| 1998年 | ザウバー | C17 | AUS Ret |
BRA 9 |
ARG 5 |
SMR 6 |
ESP 10 |
MON 12 |
CAN Ret |
FRA 7 |
GBR Ret |
AUT Ret |
GER 10 |
HUN 7 |
BEL 3 |
ITA 5 |
LUX 10 |
JPN 7 |
11位 | 9 | |
| 1999年 | C18 | AUS Ret |
BRA Ret |
SMR 6 |
MON Ret |
ESP Ret |
CAN Ret |
FRA Ret |
GBR 14 |
AUT Ret |
GER 8 |
HUN 16 |
BEL 9 |
ITA 9 |
EUR Ret |
MAL 7 |
JPN 6 |
16位 | 2 | ||
| 2000年 | プロスト | AP03 | AUS Ret |
BRA Ret |
SMR Ret |
GBR 10 |
ESP Ret |
EUR 9 |
MON Ret |
CAN Ret |
FRA 14 |
AUT Ret |
GER Ret |
HUN Ret |
BEL Ret |
ITA 12 |
USA Ret |
JPN Ret |
MAL 11 |
NC (22)位 | 0 |
| 2001年 | AP04 | AUS 9 |
MAL 9 |
BRA 7 |
SMR 9 |
ESP 10 |
AUT 10 |
MON 6 |
CAN 5 |
EUR 15 |
FRA 12 |
GBR 11 |
GER 6 |
15位 | 5 | ||||||
| ジョーダン | EJ11B | HUN 10 |
BEL 6 |
ITA 8 |
USA 7 |
JPN Ret |
・018 1989年開幕戦~1990年第2戦まで、第3戦~最終戦まで、019
・642 1991年開幕戦~第6戦まで、第7戦~最終戦まで、643
・F92A 1992年開幕戦~第11戦まで、第12戦~最終戦まで、F92AT
・412T1 1994年開幕戦~第6戦まで、第7戦~最終戦まで、412T1B
[編集] トリビア
- フランス生まれ(イタリア系フランス人)ながら、シチリア人の熱い血を宿しており、良く言えば情熱的、悪くいえば直情的である。カッとなりやすい所から「大きな子供」と呼ばれたこともあった。フラビオ・ブリアトーレも「アレジは子供のところがある。彼にはパパのような存在が必要だ。だからベルガーをチームに迎えたんだ」と発言している。
- 少年時代はジル・ヴィルヌーヴが憧れのドライバーで、自宅の部屋には等身大のポスターが飾ってあったという。1992年には、チームに頼み込んでジルと同じカーナンバー"27"を得た。また、エリオ・デ・アンジェリスも尊敬しており、自身のヘルメットにアンジェリスと同じ赤と黒のストライプをデザインしている。
- F1デビュー以前はエリック・ベルナール、エリック・コマスと共にフランスの若手有望株、フランスのABC(Alesi,Bernard,Comas)と呼ばれ、F1で成功できたのはアレジのみであった。
- コーナリング中、ヘルメットをコーナーのイン側へ傾ける癖があった。ステアリングの握り方も独特で、円の頂に近い、時計の針に例えるなら「11時5分」の位置を握っていた(上部が平らになったD型や左右にだけグリップがあるタイプでなく円形のステアリングを使用していた)。同郷の先輩パトリック・タンベイが「アレジが勝てないのはこの握り方のせい」とテレビ中継で批判したこともあったが、アレジは後に優勝することで見返した。
- 1991年、フェラーリに移籍して初めてのテストで「アラン・プロストと同じセッティングにしてくれ」と所望して、初めてのテストでは乗りこなした。
- 1992年にローレンス夫人と結婚し長女シャルロットが生まれるが、後に離婚。離婚前から日本の女優後藤久美子と交際しており、のちに事実婚の形で婚約。後藤がアレジの熱心なファンで、日本のファンクラブパーティーで知り合ったことから交際するようになったという。1995年の初優勝時には日本向けのインタビューで交際宣言を行い、しばしワイドショーを賑わした。その後、後藤との間に3子を儲けた。TOYO TIRESのCMにも後藤と出演。親日家であり、度々日本を訪れバラエティー番組にも出演していた。
- 1995年の日本GPでは、ヘルメットに「ゴトウクミコ」と名前を入れて走った。
- アラン・プロストは結婚式の立会人を務めるなど、公私共に友人であったが、現役中は不思議なことに一度も表彰台で一緒に立つことはなかった。また、プロストチームでも関係は保たれたが、2001年のカナダGPの件でプロストが怒り、シーズン中にチームを去ることになってしまった。
- ミハエル・シューマッハとは家族ぐるみで親交があり、シューマッハ夫妻とアレジ・後藤ペアがベビーカーを並べてショッピングしている光景がパパラッチされたこともある。アレジが日本GP前のイベントで突然引退を表明した際、同席したシューマッハは驚きを隠せなかった。
- 1993年ポルトガルグランプリでスタート時からトップラン。多くのF1ファンが驚いた。しかし一番驚いたのはアレジ本人だったらしい。
- 1993年F1日本グランプリでリタイアに終わった夜、帰京先のジュリアナ東京で踊りまくり、リタイアのストレスを発散した。
- 1994年イタリアグランプリでリタイアする際、アレジはすでに悔しさのあまり泣いており、ステアリングとグローブを投げつけてコックピットを降りた。失意のどん底に落ちたアレジはそのままサーキットを去った。「サーキットを離れたくて泣きながらアクセルを踏んだ」と本人は語っている。
- 片山右京はフランスF3時代に競い合った旧友。ともにジル・ヴィルヌーヴを敬愛している。
- 中嶋悟が出演したエプソンの企業TVCM中で疾走するティレル019をドライブしていたのは、中嶋のヘルメットを被ったアレジである。
- 1992年にパイオニアのカーナビゲーションシステム「カロッツェリア」のCMで京都の市街地をフェラーリで走行した。
- F1でのハイテクデバイス禁止~ラウンチコントロールシステム解禁までの間、ドライバーの実力によるスターティンググリッドからのスタート・加速技術において、ミカ・ハッキネン、デビッド・クルサードと並び「スタートダッシュがうまいドライバー」と、F1雑誌AS+Fで取り上げられた。
- 1995年フランスグランプリでは、ヘアピンで周回遅れのルカ・バドエルと接触し、怒りの抗議のため左腕を振り上げたが、もう一方の右手では同時にカウンターを当てて車を制御する走りを見せた。
- ポールポジションを獲得したのは2回であるが、いずれもイタリアグランプリ(モンツァ)で獲得したものである。(1994年、1997年)
- 2001年、F1通算200戦参戦を果たしたアレジはアメリカGPの際に200戦記念ディナーパーティーを行う予定だったが、世界情勢悪化のため延期。その結果鈴鹿に延期され、自身の引退パーティーになった。グランプリの全ドライバーとこれまで在籍したチームのボスを招待したと言う。全ドライバーとはいかなかったがミハエル・シューマッハ、デビッド・クルサード、ミカ・ハッキネンらのドライバーのほか、エディー・ジョーダン、ジャン・トッド、フラビオ・ブリアトーレ、ペーター・ザウバーなどのボスが参加。トッドとはフェラーリ在籍時に関係が拗れたが後に修復。ペーター・ザウバーとも仲違いしてチームを去ったが、彼は自身のマシンをアレジにプレゼントしたという。それだけアレジがドライバーや関係者からも親しまれている人間だったということである。
- アレジはワイン鑑定士で、家族と住んでいるアヴィニョンの故郷の近くにブドウ園を持っている。
[編集] CM
- パイオニア“カロッツェリア”サテライトクルージングシステム(GPSカーナビ) 1991年~1992年
- プレイステーション用ソフトFormula1 '97 1997年~1998年
- TOYO TIRES 2005年ごろまで。
[編集] 関連項目
- モータースポーツ
- ドライバー一覧
- F1ドライバーの一覧
- アラン・プロスト
- ゲルハルト・ベルガー
- 中嶋悟
- 後藤久美子
- エリオ・デ・アンジェリス
- ディレクシブ
- ニコラ・サルコジ(顔が似ていると評判)
[編集] 注釈
- ^ 両者がチームメイトになる以前には1990年モナコグランプリと1992年カナダグランプリと過去2回あった。
[編集] 外部リンク
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