アレクサンダー・ヴルツ
|
||||
|---|---|---|---|---|
| 基本情報 | ||||
| 国籍 | ||||
| 出身地 | 同・ニーダーエスターライヒ州 | |||
| 生年月日 | 1974年2月15日(39歳) | |||
| F1での経歴 | ||||
| 所属チーム | '97-'00ベネトン '01-'05マクラーレン '06,'07ウィリアムズ |
|||
| 活動時期 | 1997 - 2000 , 2005 , 2007 | |||
| 出走回数 | 69 | |||
| 優勝回数 | 0 | |||
| 通算獲得ポイント | 45ポイント | |||
| 表彰台(3位以内)回数 | 3 | |||
| ポールポジション | 0 | |||
| ファステストラップ | 1 | |||
| F1デビュー戦 | 1997年カナダGP | |||
| 最終戦 | 2007年中国GP | |||
| タイトル | 0 | |||
アレクサンダー・ヴルツ(Alexander Wurz 、1974年2月15日 - )はオーストリア人のレーシングドライバー。1996年、2009年ル・マン24時間レース優勝。FIA 世界耐久選手権に参戦するトヨタのレギュラードライバーであり、F1ではウィリアムズのドライバー顧問も務める。
日本語表記では姓を「ブルツ」、名を短縮形の「アレックス」と記す場合もある[1]。
目次 |
F1 [編集]
1997年第7戦カナダGPで、欠場した同郷のゲルハルト・ベルガーの代わりにベネトンチームより出場。早くも参戦3戦目の第9戦イギリスGPでは、2位に入賞したチームメイトのジャン・アレジに次ぐ3位表彰台を果たした。第10戦からはベルガーが復帰したため、この年は3レースの出走のみだった。
この活躍が認められ、翌1998年よりベネトンチームのレギュラーシートを獲得し、1999年もドライブしたが、2000年にはチームメイトのジャンカルロ・フィジケラともども、走らないマシンに手を焼かされてわずか1戦のみのポイント獲得に留まり、翌シーズンのレギュラーシートを失なった。
このため2000年シーズンオフにマクラーレンのテストドライバーとして契約。以降、何度かジャガーなど他チームのシート獲得寸前までいったこともあったが、実現に至っていない。この頃撮影された写真で左右のドライバーシューズの色が異なっている物が見られるが、スポンサーのD2に配慮してのものではない(後述)。
2005年第4戦サンマリノGPには怪我で欠場したファン・パブロ・モントーヤに代わりおよそ5年ぶりにレースに出場し、B・A・Rの失格による繰上げながら3位入賞を果たした。
長らくテストドライバーを務めていたが、上記のジャガーとの交渉でも分かるように常にレギュラードライバーのチャンスをうかがっていることはよく知られている。2006年についてはマクラーレンのテストドライバーを2005年のDTMチャンピオン、ゲイリー・パフェットに譲ることとなったことから、DTMへの転身などの可能性が囁かれていたが、結局2007年以降のレギュラーシートを目指して、ウィリアムズのテストドライバーに就任することになった。
2007年には念願叶い、ウィリアムズのレギュラードライバーに昇格。ベネトンを放出されて以来7年ぶりにレギュラーシートを獲得した。予選ではスピードに勝るニコ・ロズベルグに大敗するものの、大荒れのレースで確実にポイントを獲得し、カナダGPでは2005年以来の3回目の表彰台(3位)を果たした。その後のヨーロッパGPでも、マーク・ウェバーに惜しくも届かなかったが4位入賞を果たしている。なお、中国GP後にF1からの引退を表明し、最終戦ブラジルGPの出走を中嶋一貴に譲ったが、2008年1月10日にホンダからリザーブ兼テストドライバーとして起用することが発表された。
その年の年末にはホンダのF1撤退が発表され、当初は2009年も引き続き後継チームのブラウンGPにて同職を継続するとされた(ただしシーズン中テスト禁止規則のため、実際はリザーブとアドバイザー職を務めるとしていた)[2]。しかし開幕直前になり、チームはヴルツではなくアンソニー・デビッドソンをリザーブドライバーに起用することを発表したため、今後はアドバイザーとしての職務に専念することになると見られている。なおヴルツ自身は「少なくとも今年一杯、おそらく来年以降もチームに残留する」とコメントしている[3]。
2010年F1の参戦枠3チーム増加に伴うエントリー募集に対し、オーストリアの投資会社スーパーファンドと組んだ「チームスーパーファンド」の代表としてヴルツはエントリー。しかし、選ばれたのはUSF1・カンポス・グランプリ・マノー・グランプリの3チームとなり、チームスーパーファンドは2010年のF1新規参戦の道が閉ざされた。
2012年からウィリアムズのドライバー顧問を勤める。また、ウィリアムズからのF1復帰が報じられたが、本人やチームは否定している。
耐久レース [編集]
F1デビュー前の1996年にル・マン24時間レースにヨースト・レーシングからポルシェ・WSC95で参戦し、総合優勝を飾った。また、2009年のル・マン24時間レースでは、プジョー・スポールからプジョー・908 HDi FAPで参戦し、自身2度目の総合優勝を飾った。2012年はトヨタ・レーシングに加入、ハイブリッドカーのトヨタ・TS030 HYBRIDをドライブした。ニコラ・ラピエールと共に第3戦ル・マン24時間レースから6戦に出場、うちサンパウロ、富士、上海で優勝し、ドライバーズチャンピオンシップで3位を獲得した。
人物 [編集]
- オリビエ・パニスやペドロ・デ・ラ・ロサと同じく開発能力を高く評価され、レギュラードライブの機会がない時期もチームを下支えしてきた存在である。2007年にF1引退を発表した際、フランク・ウィリアムズは「これまでチームが一緒に仕事をしてきた中でも最高のテスト及び開発ドライバーの一人」と語った[4]。
- ベネトンからF1デビューした当時、左右で色の異なる(赤と青)レーシングシューズを履いていることが話題となった。これはカート時代、愛用のレーシングシューズを片方隠されてしまい仕方なく別のシューズを片方だけ履いてレースに臨んだところ、優勝してしまったということにゲンを担いだもので、WECにトヨタから参戦した2012年現在も続けている。しかしマクラーレン所属時にはロン・デニスから禁止を言い渡されていた。
- 四輪のドライバーにしては、二輪のライダーのような派手なカラーリングのヘルメットデザインが特徴的だが、これは四輪にデビューする前には二輪のモトクロスにアマチュアで参加しており、その頃のヘルメットのデザインを使用しているからである。
- 1986年、13歳の時にBMX(自転車モトクロス)の世界チャンピオンを獲得している。
- 父親はERAヨーロッパラリークロス選手権(現在のFIA ヨーロッパ選手権 ラリークロスドライバーズ)で活躍していたフランツ・ヴルツ。
F1での成績 [編集]
| 年 | 所属チーム | 獲得ポイント | ランキング | 決勝最高位・回数 | 表彰台回数 | *予選最高位・回数 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1997年 | ベネトン | 4 | 14位 | 3位・1回 | 1回 | 8位・1回 |
| 1998年 | 17 | 8位 | 4位・5回 | 0回 | 5位・3回 | |
| 1999年 | 3 | 13位 | 5位・1回 | 0回 | 7位・2回 | |
| 2000年 | 2 | 15位 | 5位・1回 | 0回 | 5位・1回 | |
| 2005年 | マクラーレン | 6 | 17位 | 3位・1回 | 1回 | 7位・1回 |
| 2007年 | ウィリアムズ | 13 | 11位 | 3位・1回 | 1回 | 11位・2回 |
*予選順位はペナルティなどを反映した決勝グリッド
脚注 [編集]
- ^ アレックス・ブルツ - 本田技研工業(2012年11月20日閲覧)。
- ^ “ブルツ、ブラウンGPのアドバイザーに就任”. 2009年3月14日閲覧。
- ^ Wurz surprised to miss Brawn reserve role - OneStopStrategy.com(2009年3月27日)
- ^ A.ブルツがF1引退を発表、最終戦も出走せず - carview(2007年10月9日)2012年11月20日閲覧。
関連項目 [編集]
外部リンク [編集]
| 先代: ヤニック・ダルマス J.J.レート 関谷正徳 |
ル・マン24時間優勝者 1996 with: マニュエル・ロイター デイビー・ジョーンズ (レーサー) |
次代: ミケーレ・アルボレート ステファン・ヨハンソン トム・クリステンセン |
| 先代: アラン・マクニッシュ リナルド・カペッロ トム・クリステンセン |
ル・マン24時間優勝者 2009 with: マルク・ジェネ デビッド・ブラバム |
次代: マイク・ロッケンフェラー ロマン・デュマ ティモ・ベルンハルト |
|
|||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||