童夢 (自動車会社)

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童夢-P2

株式会社童夢(どうむ、英文名称:Dome Co., Ltd.)は、1975年京都府に設立された自動車関連の会社。主に自動車ショーでのモデルカーの制作を行う一方、レーシングカーのコンストラクター(製造会社)でもあるなど、業務は多岐にわたる。現在は滋賀県米原市に本社を置く。創業者は林みのる

目次

[編集] 概要

本業は自動車ショーに各企業が出品するモデルカーの作成だが、一方で、各モータースポーツカテゴリーに自社製作のレーシングカーを出場させている。

特徴的な社名は語感が由来となっている。会社が設立された1970年代、日本の自動車業界で横文字が多用されていたため、それに対する反発もこめて漢字二文字の社名が生まれたとされる。また創業者の林は命名について、「倒産しても洒落で済むような名前」を考慮していたとのこと。

世界的にレーシングカーを輸出展開可能な企業という意見がある。また、一般市販車の製造・販売が可能な技術力を有した稀有な「スペシャリスト」企業という意見がある。しかし前者は資金的な問題から、後者も運輸省(現・国土交通省)が難色を示したことから、実現を待たされている状況だという意見がある。一般市販車の製造販売に関しては光岡自動車の例があるので、童夢がそれを実現できない(管轄省庁から難色を示されている)のは理不尽という意見がある。童夢創業者の林は「自分があまりにも耳の痛いことを言うので、嫌われているからだ」と分析するに至っている。

童夢は複数の自動車メーカーと顧客関係を持っていることなどから、林などの上層部やレーシング部門の一部などを除いて、人事などの企業詳細は発表していない。社内の見学についても同様に原則として謝絶しているが、レース専門誌やテレビ番組などで社内の様子が紹介されることは少なくない。

[編集] 沿革

童夢のルーツは、1960年代に設立された「マクランサ」にさかのぼる。マクランサは、兄の林みのるがレーシングカーの製作を行い、弟の林正史がコンサートの音響システムの開発やレンタルを行うことでスタートした。浮谷東次郎が運転しレースで活躍したマクランサ・カラス(ホンダ・S600の改造車)など数種類のレーシングカーを製作するも、財政難のためにレース部門は撤退した。

その後、林将一(林兄弟の従兄)が率いるハヤシ・レーシング(大阪府)内に間借りするような形で童夢がスタートした。

当時のスーパーカーブームに乗り『童夢-零』という試作車(スーパーカー)を制作し、1978年ジュネーブショーで発表。斬新なデザインで一躍脚光を浴びた。

童夢-零は一般市販を目指したが、当時の運輸省の不認可により計画は難航し、現在まで実現していない。ただしマーケティング分野のノウハウを持っていた林正史が数多くのプラモデルミニカーメーカーと契約し、童夢-零のおもちゃが各種製造販売されてヒットした。キャラクター使用料収入による財源の確保に成功し、これがその後の童夢の飛躍的発展へとつながったと言われる。

童夢-零の市販計画は続いていたが、実車の開発よりおもちゃ業界の商品の回転が速いことから、おもちゃのベースになるニューモデルの製作を切望されたという。童夢はおもちゃ業界からの資金によりレーシングカーを製作し、1979年ル・マン24時間レースに参加。これをきっかけに、レーシングカーのコンストラクターとしての道を再び歩き始め、今日に至っている。

2000年には米原工業団地の中にレーシングカー開発用の50%スケール風洞「風流舎」を建設。ムービングベルト式風洞を設ける等、風洞施設としては国内のみならず世界的に見ても類の無い充実した施設を誇っている。また同年、ロンドンに販売子会社としてDome Cars Limitedを設立した。2001年には元ムーンクラフトの小野直衛が設立した「有限会社ウィスカー」を買収する形で、製造部門を担当する子会社「株式会社童夢カーボンマジック」を設立。2006年に本社及び童夢カーボンマジックを風流舎の隣接地に移転し、日本国内におけるオフィス機能を米原工業団地に「童夢レーシングビレッジ」として集約する一方で、タイに製造子会社「童夢コンポジット・タイランド」を設立した。

近年は航空機の世界で炭素繊維を含む複合材料が多用されるようになってきたことなどから、レーシングカーのカーボンモノコック等の製造で培ったノウハウを武器に、航空機部品の製造等の分野にも進出している(実際の製造業務は童夢カーボンマジック、童夢コンポジット・タイランドが担当)。

1994年には、長野オリンピックに向けた強化の一環として、日本ボブスレー・リュージュ連盟と共同でボブスレーの開発を行うことが発表されたことがあるが、実現していない。童夢公式サイトの記述によれば「連盟のお家騒動のため」に開発が中断したという。

またJR総研が所有する米原駅の傍らにある風洞施設は童夢が設計、製作に関与している。林みのるとJR総研の関係者が個人的に付き合いが深い事から、建設に関して協力したということである。

[編集] 主な開発実績

[編集] プロトタイプレーシングカー

『童夢-零』のレーシングカーバージョンとして『童夢-零RL』を開発し、1979年のル・マン24時間レースに出場。この年から1984年まで、フォード・コスワース・DFVエンジン搭載車でル・マン24時間に参戦を続ける。

1982年、国産初のグループCカー、トムス童夢・セリカCを開発、同年WEC-JAPANに参戦、5位で完走する。 1984年全日本耐久選手権(後のJSPC)、および富士ロングディスタンス・シリーズ(富士LD)参戦用に「童夢・84C/トヨタ」を開発。林みのるの妻の父・塚本幸一が創業者であるワコールがスポンサーになり、同年のWEC-JAPANで国産車最上位となる7位入賞。 翌1985年、全日本耐久開幕戦鈴鹿500kmで国産C1カー初優勝を遂げる。同年、進化版85Cでル・マン参戦、トヨタの事実上初のル・マン参戦となる(同型のトムス85Cが12位で完走)。

ル・マンへの参戦は1986年限りとなるが、88CまでのトヨタのCカーは基本的に童夢84Cの進化版である。 また、トヨタ・88C-Vの設計を担当し、同社のカーボン関連技術の習得に繋がったという。

ル・マン24時間レース#童夢の戦い(1979 - 1986年)」を参照

その後プロトタイプレーシングカーの開発は中断していたが、2001年にル・マン24時間レース並びにFIAスポーツカー選手権(FIA SCC)参戦用の車としてオープンプロトタイプの「童夢・S101」を開発。2002年2003年には同マシンを駆るヤン・ラマースがFIA SCCのシリーズチャンピオンに輝いている。その後同マシンは2005年には「童夢S101-Hb」(「Hb」は「ハイブリッド」の意)、2007年には「童夢S101.5」と進化し、大資本メーカーと比べて不利な参加体制によりル・マンでの成績には結びつかなかったものの、その高い性能は目を見張るべきものであり期待が持たれた。

2008年には完全新規開発のクローズドボディを持つ「童夢・S102」でル・マン24時間に参戦したが、オイルラインのトラブルやクラッシュ等が重なった結果総合33位(完走扱いの車の中では最下位)に終わった。車両技術の先進性を証明し権威あるモータースポーツ技術誌Racecar EngineeringよりTechnical Advancement Awardを受賞している。なお同社ではS102によるプロジェクトを当初「3年計画で進める」としていたが、2008年秋以降の世界的な景気低迷の影響から、2009年については同年2月に早々と参戦を断念した[1]

[編集] フォーミュラカー

1980年代後半になると、童夢は自社開発のフォーミュラカーによる全日本F3000への参戦を企画する。当初はフルカーボンモノコックの品質が安定せず、最初に製造した童夢・F101はモノコックの剛性不足によりレース参戦を断念せざるを得なくなるといった問題も発生したが、徐々にそういった問題も解消し、1991年1995年までオリジナルシャシーで全日本F3000に参戦、1994年には童夢・F104を駆るマルコ・アピチェラが同シリーズのドライバーズタイトルを獲得した。

さらにテスト用マシン、F105を開発し(エンジンは無限)、「F1GP ニッポンの挑戦」と題して本格的なF1への参戦を画策したが、資金面で参戦が困難だったため、プロジェクトを断念した。ただし、それは飽くまでも表向きのもので、真の理由は他にあるとも言われる。「日本国内の強烈な後押しがなく、寂しく思った」という趣旨の林の発言もあり、その真相は今もなお林本人の胸中にあると言われている。

その後も1990年代後半には、ホンダ・無限との共同開発で「ML」と呼ばれる試作フォーミュラカーを開発したほか、1999年2005年にかけてはフォーミュラ・ドリーム用の専用シャシーを開発・供給。2002年からはイギリスのローラと共同でF3用シャシーを開発・販売した(ただし開発は実質的には童夢が行い、ローラは事実上の販売代理店)。F3用シャシーについては2005年よりローラと袂を分かち童夢の単独開発・販売となったが、結局ダラーラの牙城を崩すことは出来ず、2006年を最後に撤退した。

事実上国内で唯一のF1・F3000クラスのフォーミュラカーを独自に開発・製造できる企業であることから、2009年に予定されているフォーミュラ・ニッポンのシャシー更新に向けた検討作業において、同シリーズの主催者である日本レースプロモーションは童夢に設計コンペへの参加を要請したが、童夢側はこれを辞退している。

[編集] GTカー

童夢は全日本GT選手権(JGTC)→SUPER GTに参戦するホンダ・NSXのシャシー設計・製造に深く関与しているほか、下記の通り自社でレーシングチームを結成しNSXでシリーズに参戦している。なお2005年2006年シーズンは、ホンダの方針でARTAとの合同チームであるTeam Honda Racingとして参戦した。

このほか、過去にはGT300クラスに参戦するフェラーリ・360モデナの設計等にも関わっている。

avex童夢無限 NSX

[編集] avex童夢無限NSX

NSXによる本格的なJGTC参戦のために新規に製作され、1997年の第2戦より参戦を開始。当初はマイナートラブルにより完走もままならなかったが、第5戦ではポールポジションから完走を果たした。メインスポンサーはavexで、車体にディスコをイメージしたイラストが描かれるなど、異色な存在でもあった。

TAKATA 童夢 NSX (2006年マシン)

[編集] TAKATA童夢NSX

シートベルトチャイルドシートのメーカーとして有名なTAKATAをメインスポンサーとしている。1999年までは白系のカラーリング、2000年から2003年までは黄色系のカラーリングだったが、2004年からは緑系のカラーリングになっている。

[編集] 1998年 - 2003年

1999年金石勝智脇阪寿一のコンビで開幕ポール・トゥ・ウィンを挙げる。翌2000年は脇阪がポールポジションを4回獲得するなど、予選最速マシンだった。しかし、決勝では成績面での安定感に欠け、シリーズチャンピオンになるまでにはならなかった。2003年道上龍が移籍してきて、ホンダのエースマシンとなる。レギュレーションの変更で苦しい戦いを強いられたが、軽量化や空力関係の改良、そしてエンジンパワーを引き上げたおかげで苦手とする富士スピードウェイで優勝を飾った。

[編集] 2004年

2004年は2003年までの自然吸気(NA)エンジンのままでは低速トルク不足であるために、このままでは闘うの厳しいと判断し思い切ってターボエンジンに変更したが、他のNSX同様なかなか上位に入れなかった。なお、2004年型は2005年7月29日~8月7日に開催されたわくわく宝島の「わくわくGT選手権」と言うブースに展示されたことがある。

[編集] 2005年

2005年はターボエンジンがエンジンスペースの関係で開発がうまくいかなかったため新たに車体を設計し、ベース車両をより大型にしたNSX-R GTにし、同時にエンジンスペースを拡大したため前年型に比べて信頼性が向上した。しかし、リストリクターの影響でパワー不足で、またブレーキング時に不可解なピッチングも生じ、さらにターボエンジンの補機類の重さでバランスも狂ってしまい、苦戦を強いられた。

このことを受けて、第4戦よりターボエンジンからNAエンジンに変更した。このエンジンは、2003年のものとは違う、全く別に設計されたものである。このおかげでバランスも改善されパワーも少なからず以前のターボエンジンより上がった。また、ピッチングの問題に関しても空力関係の改良で改善された。しかし、アクシデントに巻き込まれたりするなどで優勝争いになかなか絡めずにシーズンを終えた。

[編集] 2006年

2006年は前年型をさらに改良し熟成したマシンで参戦。第2戦では2003年以来となる優勝を飾った。近年不調だったが、ここにきてようやく復調し最終的にはシリーズ3位に輝いた。

[編集] 2007年

2007年は、一昨年のNAエンジン搭載後から昨年までのデータを基に開発されたニューマシンを投入。第2戦から4戦連続ポールポジションという前人未到の記録をうち立て、コース特性を問わず速さを発揮するものの、トラブルやアクシデントに巻き込まれることが多く、なかなか結果を残すことができないでいた。しかしながら、第5戦のスポーツランドSUGOで第2位、第7戦のツインリンクもてぎで今季初優勝を飾った。思い通りのレースができていないながらもシリーズ4位でシーズンを終えた。

[編集] 2008年

2008年は、昨年と同じ布陣で挑んだ。マシンも前年のマシンのアップデートバージョンでより磨きのかかったマシンになった。しかし、この年は日産が投入したGT-Rの速さが際立っていたため、昨年のような活躍ができずにいた。それでも中盤戦あたりで復調。第5戦ではポールtoウィンを飾った。最後までシリーズタイトル争いに残ったものの、後半戦はウエイトハンデに苦しみ思い通りのレースができず、シリーズ6位で終えた。

[編集] ROCK ST☆R童夢NSX

2008年までメインスポンサーだったTAKATAが金融危機の影響で撤退。代わってYOSHIKIがチームプロデューサーに就任し、マシン名はYOSHIKIがプロデューサーをつとめる栄養ドリンクの名を冠して「ROCK ST☆R 童夢 NSX」となった。車両のベースカラーは従来の緑から黒へと変更された。なお、メインスポンサーから撤退後もTAKATAは、テクニカルスポンサーとしての支援は継続する。

ARTA NSX (2007年マシン)

[編集] ARTA NSX

2004年までは自チームでの参戦だった。2005年からは童夢でメンテナンスを行いTAKATA童夢NSXと同チームで参戦する事となった。メインスポンサーはオートバックスが引き続きつとめる。なおARTA NSXは2008年より自社メンテにて参戦することとなったため、ジョイント体制は2007年限りで終了している。2004年以前及び2008年以降については、ARTAを参照のこと。

[編集] 2005年

2005年伊藤大輔ラルフ・ファーマンのコンビで参戦。当初は伊藤とジョナサン・コシェのコンビになる予定だったが、開幕前に変更となった。シーズン序盤はマシンの不調のため苦戦を強いられた。これを受けて第3戦より他チームに先駆けてターボエンジンからNAエンジンに変更。このおかげで復調しこの後ポールポジション3回、優勝1回という好成績を収めた。アクシデントやトラブルによる影響でリタイヤや戦線離脱が余儀なくされた以外は好成績を収めて安定感もあった。最終戦までタイトル争いを繰り広げたが、惜しくも獲得ならなかった。

[編集] 2006年

2006年も伊藤大輔とラルフ・ファーマンのコンビで参戦。マシンはさらに磨きのかかったものになった。開幕では圧倒的な速さでポールを獲得するも決勝は強風の影響で空力バランスが乱れペースが上がらず優勝を逃した。以降なかなか上位に食い込めなかったが、第4戦・セパンサーキットでトラブルに見舞われながらも優勝を飾った。その後も不運やアクシデントに見舞われ、昨年以上の活躍はできなかった。

[編集] 2007年

2007年については自チームからの参戦ではあるが、メンテナンス等の体制は前年までと変わりはない。ドライバーは前年と同じく伊藤大輔とラルフ・ファーマン。開幕戦の鈴鹿では最終周でエンジントラブルによる無念のリタイヤとなったが、第2戦・岡山国際サーキットでは優勝を飾っている。また、第5戦のSUGOでも優勝を飾っている。

第6戦は規定いっぱいのウェイトハンデを背負いながらもライバルの脱落でレースの半分以上をトップで走行した。最終的には終盤の天候変化のタイヤ選定の判断の差でトップを奪われたものの見事ハンデを乗り越えて2位でフィニッシュした。

第8戦もライバルの脱落でトップに浮上し3勝目をマークしこの地点でドライバーズタイトル獲得を決めた。もちろんチームそしてドライバーにとっては初であり、最終戦前にタイトル獲得を決めたのはGT500クラスとしてはこれが史上初の快挙となった。

[編集] 童夢車でレース参戦した主なドライバー

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[編集] 関連項目

テレビCMを放送している。
服飾メーカーワコールの出資企業「ジオット」が企画し、市販を前提に童夢が設計・開発した国産スーパーカー

[編集] 脚注

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[編集] 外部リンク