土屋圭市

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土屋 圭市
つちや けいいち
生誕 1956年1月31日(58歳)
日本の旗 日本 長野県小県郡東部町
職業 レーシングドライバー
実業家

土屋 圭市(つちや けいいち、1956年1月30日 - )は、長野県小県郡東部町(現:東御市)出身の元レーシングドライバー。血液型B型。埴生高等学校卒業。ドリフト走行を多用するそのドライビングスタイルから「ドリキン」(ドリフトキングの略)とも呼ばれる。愛車はAE86NSXタイプRなど多数。 PlayStation 2用のレースゲーム、峠3の監修もしたことがある。

来歴[編集]

峠道での走り屋として腕を磨き、1977年に富士フレッシュマンレースでプロデビュー。以降ツーリングカー(いわゆる「ハコ車」)でのレースを中心に活躍する。

かつてはヨコハマタイヤ専属ドライバーで、1984年の富士フレッシュマンレースでのADVANトレノは開幕6連勝を果たし、土屋圭市の名前を一躍有名にした。当時の土屋が残した「ADVANには足を向けて寝られない」という言葉は非常に有名である。後にブリヂストンへ移籍し、「BS(ブリヂストン)を履いて戦うということは、表彰台が約束されているということに他ならない」という言葉を残し2003年に自身の体の限界を感じ現役引退を表明。

1994年からル・マン24時間レースに参戦しており、1994年〜1996年高橋国光率いるチーム国光から飯田章と共にHONDA NSX GT2で参戦し、1995年にはGT2クラス優勝を果たした。1998年には片山右京鈴木利男らと共にTOYOTA GT-One TS020で総合9位、翌年の1999年にも同チームとして参加し総合2位の成績を残した。このレースでナイトセッションのトップタイムを出し、夜やレインコンディションに強い峠の走り屋の片鱗を示した。また、GT-ONEは電気系のトラブルで突然ヘッドライトが消えるというトラブルを抱えていたため殆どのスティントを担当した。

レーシングドライバーの他にも1987年に創刊されたビデオマガジンベストモータリング」「ホットバージョン」のキャスター、ラジオDJを務めるなど活動の場は広く、タレント活動をするレーシングドライバーの元祖とも言われている。2006年9月に日本でロードショーされたワイルドスピードX3 TOKYO DRIFTでは、出演者の代わりに車に乗り込み撮影に参加。監督の指示に従ってわざと下手なドリフトをやってのけるなどして、撮影に大きく貢献した。埠頭でのドリフト練習の音だけで、主人公の上達ぶりとハンドリングの是非をスキール音のみで聞き分けるドリフト仙人的な釣り人役でもカメオ出演しており、さらにハリウッドデビューも果たしている(同映画がD1人気によるドリフトを題材にした映画の為)。

レース業界以外での活動も積極的に行っているため、交友関係も清原和博などの他ジャンルのスポーツ選手にとどまらず、河村隆一近藤真彦、声優の三木眞一郎B'z松本孝弘らミュージシャン関係と幅広い。

現役を退いた翌2004年よりARTAのチーム運営に携わり、2004年は全日本GT選手権(現・SUPER GT)GT500、GT300両クラスのチーム監督、2005年はGT300クラスのチーム監督を務めた。2006年は当初監督から外れ、J SPORTSのSUPER GT中継に解説者として登場していたが、セパン・インターナショナル・サーキットで行われた第4戦以降、再びARTAの監督代行を務めた。2007年以降はARTAの「エグゼクティブ・アドバイザー」となり、チーム運営等に関与を続けている。

また自身が峠の走り屋出身であった経緯から全日本プロドリフト選手権(D1グランプリ)を設立し、現役時代からD1の審査委員長として活躍し、自らを「D1グランプリのバーニー・エクレストン」と称していた。しかし2010年12月9日、D1グランプリ運営会社であるD1コーポレーション取締役会にて稲田大二郎と共に取締役を辞任すると表明。併せて2011年度のD1グランプリ審査員を辞退した[1]。その後2011年2月には新たなドリフトイベントの運営母体として「株式会社ドリフトエンタープライズ」を設立したことを発表[2]、「ホットバージョン」との連携により新イベントの展開を進める方針を明らかにし、D1グランプリの対抗カテゴリーとなる新シリーズ『ドリフトマッスル』を立ち上げた。

エピソード[編集]

人物[編集]

  • HKS シルビアの試乗にてドリフトを失敗し大破させる。
  • 自著「PRiDE」にて、自身の危険運転や反社会団体との関わりを多くつづっているが、反省は基本的に述べられていない。
  • 当初は歌手を目指していたといわれ、業界ではなかなかの歌い手とされる。あみん等を輩出したヤマハ主催のヤマハポピュラーソングコンテスト(通称ポプコン)で自身のバンドでエントリーしたものの、他の出演者のレベルのあまりの高さに音楽の道を断念したという。
  • 学生時代はサッカー部に所属。
  • 青年時代は家業の金型工場などで働き、金型の配達でドライビングの基礎ともいえる荷重移動を覚えた逸話がある。また、青年時代は碓氷峠に通いつめていた走り屋だった(夫人には「週10日走りに行っている」などと言われた事がある)。
  • 当時はハコスカの4ドアGTで峠を攻めていたが、ある日、60km/h以上では曲がれないと言われていたカーブを100km/hで曲がろうとしてガードレールを突き破り、車ごと谷に転落する事故で廃車にした。この事故を境に「モータースポーツにはルールと安全性が必要」と感じるようになり本格的にレーサーを目指すことになったと著書の中で語っている。(参考文献参照)
  • 過去に峠アタックのビデオ(「ザ・峠」)を発売したが、後に暴走行為を煽るなどと問題になりビデオは発売禁止処分となり、JAFよりライセンスを剥奪されかけた。しかし、稲田大二郎等の弁護による取り成しによってライセンス剥奪は取り下げられている。この事を彼は今も尚「稲田さんは恩人」として感謝している。
  • ル・マン24時間レース出場の為の練習として、中央自動車道を夜間無灯火で走行していた事をフジテレビジャンクスポーツに出演した鈴木亜久里に暴露されてしまった。鈴木の話によると、六本木へと土屋を誘った鈴木に対し、「今山梨だけどスグ着くから大丈夫」と、制限速度を遥かに超過する速度で走行していたと思われる受け答えをしていたと言う。これらが事実なら、夜間の高速道路を無灯火にて制限速度超過の上、携帯電話で通話しながら運転するという極めて危険な行為をしていた事になる。
  • 峠の走り屋を更生させるというテレビ番組の企画にて、走り屋代表の若者とカートによる一対一の勝負をしたが、先行する若者の背中にカートで乗り上げるという極めて危険な追い越しを仕掛けるも抜く事が出来ず、あっさり負けてしまった。
  • 自著「PRiDE」によれば、ル・マンに出場した際、夜のレースで雨のコンディショニングで全く前方が見えずにアクセルを踏めなかった時、すでに亡くなっていた母親に「助けて」とすがったという。すると不思議と視界が開けてきたという。
  • フジテレビのお笑いどっきり王座決定戦で、モンスターエンジン西森のAE-86レビンで自慢のドリフトを西森に披露した。
  • 映画「ワイルドスピードX3 TOKYO DRIFT」にて劇中の主人公のドリフト練習シーンでドライバーを担当した際、練習ということで初心者らしい動きをしたにも拘らず「上手すぎる。もっと下手に走ってくれ」と監督から注文された。

人間関係[編集]

  • 少年時代に当時トップドライバーだった高橋国光のレースを見て以来(ホンダ・ダックスで当時住んでいた長野県から富士スピードウェイのある静岡県まで自走していったと自伝「ドリキン伝説」に記述がある)、高橋を師と仰ぎ、息子の名前に「国光」と名づけるほど尊敬しているといわれる。ドライバーになってからは全日本GT選手権では1994年から1996年までチーム国光に所属していたり、1995年のル・マン24時間レースのGT2では優勝をしている。引退セレモニーでの国光からの言葉で涙を流している。
  • もうひとりの師匠ともいえる稲田大二郎も尊敬しており、レース活動を引退するとき「俺には帰る場所があった。稲田大二郎っていう場所がね。」のコメントを残している。稲田大二郎は引退セレモニーの最後に「お帰りなさい、土屋圭市」の幕を渡している。土屋によると青年時代に東京に来たとき、寝る場所もなかったということから、稲田の計らいで雑誌Optionの編集部で寝泊りさせてもらったというエピソードがあり、前述の「ザ・峠」発禁処分事件でも土屋を真っ先に助けたのは稲田で、JAFや同業者たちへの働きかけ等によって土屋のライセンス剥奪を防いだ逸話もある。
  • 自身が幅広いレース活動を行っていたため、土屋の弟子筋も走り屋出身の織戸学から生粋のフォーミュラカー育ちである伊藤大輔伊沢拓也と幅広い。また歌手の河村隆一もレーシングドライバーとして師弟関係にあり、河村は土屋が現役時代に着用していたレーシングスーツで雑誌等の媒体にしばしば登場している。しかし、土屋自身が審査委員長を務めるドリフト選手権において、素人目に見ても下手な河村隆一を決勝戦まで進出させるというあからさまな身内贔屓を行い、このときはドリフトファンから大顰蹙を買った。
  • 2003年10月の鈴鹿サーキットでレーシングドライバーとしての引退式が行われパレードランが行われた際、脇阪寿一本山哲道上龍ら後輩レーサーが土屋の乗るパレードカー(ホンダ・S2000)に殺到し、最後は定員大オーバーとなった。後に自身の出演しているラジオ番組で、「S2000に11人乗った」と公言している(注:S2000は本来2人乗りの車である)。当然、サスペンションなどが壊れ、ホンダから後々怒られたと言うエピソードもある。

車関係[編集]

  • 1989年から1992年までF3に参戦したものの目立った結果は残せず、最高位は1991年6月の筑波サーキットでの2位(参戦中唯一の表彰台)。1990年インターF3リーグでは、若き日のミハエル・シューマッハミカ・ハッキネンが一緒に出場している。
  • 1994年及び1995年の全日本ツーリングカー選手権(JTCC)にシビックフェリオで参戦した。しかし、ライバル車とのポテンシャルの差が大きくかなりの苦戦を強いられ、目立った結果は残せず、最高位は1994年5月のスポーツランドSUGOと8月の筑波サーキットでの4位であった。
  • 土屋は1990年~1994年までの間にBNR32型スカイラインGT-Rを計4台所有していた(4台同時ではなく、過酷な走り込みからくる金属疲労の蓄積で車が「ヘタる」為買い替えていった)。内1台は限定版GTR NISMO。その後BCNR33型スカイラインGT-R Vスペックも2台所有した。あるビデオの企画(ベストモータリング1995年4月号)で他社の車とGTRの性能を比較する為のレースに愛車のGTRを持ち込むが、土屋の買った市販用のGTRが日産の用意した広報車にボロ負けし激怒したことがある(この時、「フルノーマル」という名目の広報車には車高やキャンバー角に調整が加えられており、さらにオイルクーラーや強化ブレーキパッドが搭載されていた為)。
  • 若い頃の事故で片目の視力を落としていた。しかしレースでは眼鏡は掛けられないため「勘で走っていた」という。その頃はレース以外では眼鏡を掛けていた。だが年齢と共に戦績が落ちてきた事から2000年頃にレーシック手術を受ける。この時の視力の回復ぶりを「レーサー生命が10年延びた」と比喩した。以後は引退後の公の場でも裸眼である事が多い。ちなみに1980年代に「サングラスも国さん(高橋国光)と一緒でなければ嫌だ」という敬愛ぶりから、国光が掛けていたヤンキー好みのサングラス(所謂『45度サングラス』)まで真似していた。が、国光共々レーサー=不良のイメージが付く為レース関係者には受けが悪かったようである。
  • 沖縄県警の運転指導のイベントで、R34スカイラインのパトカーでイベントが終わる前にドリフトをした。
  • 2002年フェアレディZが登場した際、雑誌等ではフェアレディZを絶賛していたにも関らず、日本カー・オブ・ザ・イヤー(COTY)では当時所属していたレースチームを支援していたホンダが発売したアコードに「大人の事情」で満点を投じた。投票理由に「運転支援システムという発想の素晴らしさ」を挙げていたが、その前年には同様のシステムを提案した日産・シーマに対し「運転の楽しさを奪い取る」として酷評していた。この事について、Optionで連載しているコラムでは「シーマは1000Rまでしか対応していないが、アコードは260Rまで対応し、高速道路をどこでも走れるようになった」とその技術を褒める一方、フェアレディZに対しては「確かにすごいけど、技術は何も無い。以前の車の延長線上」との発言を残している(この年、土屋はフェアレディZを購入したが、アコードは購入していない)。この時はオフィシャルサイトの掲示板が大炎上し、「男芸者」「ホンダの飼い犬」等と手厳しい書込みが殺到した。これらに対する反応からか、同年を最後にCOTY選考委員を退いている。
  • 「オフタイムでもレース車両と同じような感覚を養っておきたい」との思いから、非常に高価でもレースで乗る車と同型の市販車を必ず購入している。R32GT-Rの連続購入やNSXタイプRに乗っているのはその為。

『頭文字D』との関わり[編集]

1995年に連載が始まった漫画「頭文字D」を、土屋は自らのラジオ番組で絶賛したことから、1997年に雑誌の対談を経て作者のしげの秀一との親交が始まり、翌1998年から始まったアニメ版「頭文字D」では、バトルシーンにおける監修を務め、登場する車の走行音を自ら運転して収録するなど、製作で深く関わっている。

自らも第23話で声優として特別出演したほか(電話を通しての声のみ)、同作のドラマCD『ドリキン青春グラフティー』でも、半ばノンフィクションなストーリーで主人公として出演し(若き日の土屋役は声優の上田祐司(現・うえだゆうじ))、アニマックスで放送の特別編やDVDの特典映像にも司会者兼解説者として出演している。ちなみにアニメ版における土屋は、主人公・藤原拓海の父、藤原文太の旧友という設定である。

出演声優との交流では、藤原拓海役の三木眞一郎や武内樹役の岩田光央、高橋涼介役の子安武人らと同乗走行をしたことがあり、この時にもともと車酔いを起こしやすい体質の子安が土屋の運転のすごさに悶絶したといわれている。また、藤原文太役の石塚運昇と「圭市&文太」としてユニットを組み、「86」と言う題名の先述のドラマCDのイメージソングを歌っている。

出演[編集]

テレビ番組[編集]

ラジオ番組[編集]

映画[編集]

ビデオ[編集]

CM[編集]

著書[編集]

  • 土屋圭市FR・MR最強テクニック(講談社 2000年10月) ISBN 4061797247
  • 「PRIDE」
  • 「ドリキン流 基本のクルマBEST40」
  • 「うまくやっている人のクルマの秘密術」

JGTC年度別での成績[編集]

色の意味はこちらを参照→key

所属チーム 使用車両 クラス Rd.1 Rd.2 Rd.3 Rd.4 Rd.5 Rd.6 Rd.7 Rd.8 Rd.9 順位 ポイント
1994 チーム国光 ポルシェ・911 GT1 FUJ
SEN
FUJ
Ret
SUG
1
MIN
2
7th 35
1995 チーム国光 ポルシェ・911 GT1 SUZ
14
FUJ
3
SEN
4
FUJ
8
SUG
8
MIN
Ret
10th 28
1996 チーム国光 ホンダ・NSX GT500 SUZ
Ret
FUJ
8
SEN
12
MIN
7
SUG
10
MIN
11
17th 8
1997 TEAM TAISAN with ADVAN ダッジ・バイパー GT500 SUZ
FUJ
SEN
10
FUJ
Ret
MIN
14
SUG
8
23rd 6
1998 TOYOTA TEAM SARD トヨタ・スープラ GT500 SUZ
3
FUJ
C
SEN
4
FUJ
9
MOT
Ret
MIN
3
SUG
Ret
6th 36
1999 TOYOTA TEAM SARD トヨタ・スープラ GT500 SUZ
16
FUJ
15
SUG
Ret
MIN
7
FUJ
10
TAI
13
MOT
Ret
22nd 5
2000 Autobacs Racing Team Aguri ホンダ・NSX GT500 MOT
7
FUJ
Ret
SUG
15
FUJ
1
TAI
Ret
MIN
Ret
SUZ
Ret
13th 24
2001 Autobacs Racing Team Aguri ホンダ・NSX GT500 TAI
2
FUJ
6
SUG
2
FUJ
12
MOT
11
SUZ
1
MIN
Ret
2nd 56
2002 Autobacs Racing Team Aguri ホンダ・NSX GT500 TAI
7
FUJ
4
SUG
13
SEP
6
FUJ
9
MOT
8
MIN
8
SUZ
2
10th 46
2003 Autobacs Racing Team Aguri ホンダ・NSX GT500 TAI
11
FUJ
Ret
SUG
11
FUJ
11
FUJ
12
MOT
8
AUT
Ret
SUZ
6
19th 9

脚注[編集]

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  1. ^ 稲田大二郎/土屋圭市両氏のD1コーポレーション辞任について - D1グランプリオフィシャルサイトニュース 2011年12月22日付
  2. ^ 新しいドリフトイベントについて - 土屋圭市オフィシャルサイト・2011年2月1日

関連項目[編集]

外部リンク[編集]