ローランド・ラッツェンバーガー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
ローランド・ラッツェンバーガー
基本情報
国籍 オーストリアの旗 オーストリア
出身地 同・ザルツブルク
生年月日 1960年7月4日
没年月日 1994年4月30日(満33歳没)
F1での経歴
所属チーム '94 シムテック
活動時期 1994
出走回数 1
優勝回数 0
通算獲得ポイント 0
表彰台(3位以内)回数 0
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
初戦 1994年ブラジルGP
初勝利
最終勝利
最終戦 1994年サンマリノGP
タイトル 0
テンプレートを表示

ローランド・ラッツェンバーガー(Roland Ratzenberger, 1960年[1]7月4日 - 1994年4月30日)はオーストリア出身のレーシングドライバーである。日本では「ラッツェンさん」の愛称で親しまれていた。

F1以前[編集]

5歳のとき観戦したレースがきっかけで、レーシングドライバーになることを決意。その後、父の勧めで入った大学を中退してレース活動を開始した[2]

1981年から2年間ジム・ラッセルレーシングスクールでメカニックとして働いて活動資金を得て、1983年にドイツでフォーミュラ・フォードでレースデビュー(1986年まで)。1986年イギリスで行われたFF1600・フェスティバルで優勝。1987年からイギリスF3に進出。ツーリングカーレースでもBMWのワークスチームであるシュニッツァーのレギュラードライバーになる(いずれも1988年まで)。1989年、イギリスF3000参戦のかたわら、全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)にトヨタのセミワークスのサードから参戦[3](1992年まで)。

1990年のサードとの契約内容にはトヨタの3.5L・NAマシンの開発ドライバーを務めることが盛り込まれており[4]、開発ドライバーとしての評価が高かったことが窺われる。

1990年は全日本F3000にも参戦するが、開幕戦で予選落ち。以後数レースにスポット参戦。全日本ツーリングカー選手権(JTC)にBMW・M3で参戦(1992年まで)。

また1992年・1993年にはステラから全日本F3000に再び参戦して1勝を挙げるなど[5]、日本のレース界との関わりは深かった。

F1[編集]

1994年サンマリノGP予選2日目のラッツェンバーガー

1994年に、新興チームのシムテックフォードと5戦のみの契約(序盤4戦と日本GP)ながら念願のF1のシートを獲得した。

開幕戦のブラジルGPは惜しくも予選落ちしたが、岡山県TIサーキット英田で行われた第2戦パシフィックGPで予選を通過。馴染み深い日本でF1デビューを果たし、11位で完走した。

しかし、続く第3戦サンマリノGPにおいて、4月30日の予選二日目でのタイムアタック中、ビルヌーヴコーナー手前でフロントウイングが脱落しコントロールを失い、マシンは310km/hでコンクリートウォールに激突した。病院に搬送されたものの、頚椎骨折、内臓破裂などでほぼ即死の状態だった。33歳没。 事故の衝撃は、強度の高いカーボンモノコックに穴が開くほどのものであり、ラッツェンバーガーの体は露出していた。なお、突然ウイングが脱落した要因については、事故の直前の周に一度コースアウトしており、そのときにフロントウィングにダメージを受けていた可能性が高いと言われている。

レースウィーク中では、1982年リカルド・パレッティ以来12年ぶりに発生した死亡事故であり、F1マシンドライブ中でも1986年エリオ・デ・アンジェリス以来8年ぶりとなった。

補足[編集]

  • 翌日の決勝前に行われたインタビュー中、後述のヴィルヌーヴやアーバイン達同様に全日本F3000時代親交のあったハインツ=ハラルド・フレンツェンジョニー・ハーバート、最後のチームメイトとなったデビッド・ブラバム、同郷で非常に仲が良かったゲルハルト・ベルガー(後に葬儀へも参列)、ウイリアムズアイルトン・セナ(自身も直後の決勝レース中の事故で他界)とデイモン・ヒルらドライバーをはじめ、チーム代表のニック・ワースが哀悼の意を表している。そしてシムテックチームは「レースに全てを捧げたローランドの遺志に応えたい」として、チーム全員が喪章を腕に決勝レースへ臨んだ[6]
  • 事故死の前年まで日本を主体に活動し、その期間も4年と比較的長かったことから、突然の訃報は日本国内のレース関係者やファンにも大きな衝撃を与えた。全日本F3000選手権等で対戦した星野一義は、アイルトン・セナの事故死についてコメントを求められた際、「自身としては、セナ以上にラッツェンの死がショック。去年まで同じレースで闘った仲間だから」と語っている(「オートスポーツ」誌より)。
  • また日本で知り合ったジャック・ヴィルヌーヴ1992年の全日本F3選手権に参戦)も、後年に「セナだけじゃない、ローランドのことも思い出して欲しい」「ローランドとは親友だったが、セナとは会ったことすらない。何故親友を無視して赤の他人の死を悲しまなければならないのか」等、その扱われ方の余りの違いに憤る発言をしている。
  • 没年となった1994年は、ル・マン24時間レースサード・トヨタから出場する予定だった。チームは、ラッツェンバーガーの友人だったエディ・アーバインを急遽代役として起用して参戦、マシンには実際に出場したアーバイン、マウロ・マルティニジェフ・クロスノフの三人の名に並び、ラッツェンバーガーの名もプリントされていた。
    • この3人はいずれもラッツェンバーガーと仲が良く、特にアーバイン、クロスノフは親友であった。そのクロスノフも、2年後に1996年のインディカー・シーズン第11戦トロントでの事故で他界し、このときには普段陽気な性格で知られるアーバインも、「いつもジェフやローランドと、六本木でバカ騒ぎするのがお決まりだった。でもローランドはもう居ない。そしてジェフももう居ないんだ」と発言している。
  • ラッツェンバーガー自身はメカニック出身のレーサーであり、メカニックの気持ちをよく理解していた。シムテック在籍時に、マシントラブルが発生したとき自分自身に怒っていたが、決してメカニックを責めたりはしない紳士的なレーサーだった。
  • 恋人カティーシャとは結婚目前だった。
  • 1990年3月23日発生の村松栄紀の死亡事故に際しては、富士スピードウェイの安全性にかねて疑問を抱いていたこともあり、滞在先のイギリスから意見書を提出し、第1コーナー先のコンクリートウォールなどが取り払われるきっかけを作った。
  • ミカ・サロと日本時代から大変仲が良く、サロはラッツェンバーガーから採って息子のサードネームにローランドと名付けている。

1994年のF1シーズン[編集]

この年はレギュレーションの大幅改正により、開幕前から安全性に疑問の声が上がっていた。開幕前のテストではJ.J.レートが負傷し2戦を欠場、開幕戦後、ジャン・アレジも同じくテスト中の事故で負傷し、その後の2戦を欠場した。

ラッツェンバーガーの事故が起こったサンマリノGPでは、予選1日目にルーベンス・バリチェロが大クラッシュで鼻骨を骨折、決勝ではアイルトン・セナの死亡事故を含む複数の事故が発生し、呪われた週末と言われた。その後も第4戦モナコGPでのフリー走行の事故でカール・ヴェンドリンガーが意識不明の重体に陥り、モナコGP後のテストでペドロ・ラミーが事故を起こし、脚に全治1年とも言われた重傷を負った。

続く第5戦スペインGPの予選でも、ラッツェンバーガーに代わってチームに加入したアンドレア・モンテルミーニが両足を骨折する事故を起こすなど、重大事故が多発した。安全性に問題がある状況が浮き彫りになり、レギュレーションがシーズン途中で変更される事態となった。

レース戦績[編集]

全日本F3000選手権[編集]

所属チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位 ポイント
1990 TEAM NOJI SUZ
DNQ
FUJ
Ret
MIN
Ret
SUZ
SUG
FUJ
FUJ
Ret
SUZ
15
FUJ
DNQ
SUZ
NC 0
1992 ステラインターナショナル SUZ
DNQ
FUJ
13
MIN
3
SUZ
Ret
AUT
Ret
SUG
4
FUJ
Ret
FUJ
4
SUZ
1
FUJ
25
FUJ
Ret
7位 19
1993 ステラインターナショナル SUZ
Ret
FUJ
10
MIN
Ret
SUZ
6
AUT
C
SUG
10
FUJ
C
FUJ
3
SUZ
6
FUJ
14
SUZ
7
11位 6

F1[編集]

  • 1994年 (シムテック・S941・フォード)カーナンバー : 32
    • 第1戦 ブラジルGP 予選27位(予選落ち)
    • 第2戦 パシフィックGP 予選26位・決勝11位
    • 第3戦 サンマリノGP 予選26位・決勝DNS
  • 出走数 : 1
  • ベストグリッド : 26位
  • 決勝最高位 : 11位
  • 生涯獲得ポイント : 0
年度 エントラント シャシー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 WDC ポイント
1994 MTVシムテックフォード シムテック・S941 BRA
DNQ
PAC
11
SMR
DNS
MON
ESP
CAN
FRA
GBR
GER
HUN
BEL
ITA
POR
EUR
JPN
AUS
NC 0

脚注[編集]

  1. ^ レーシングドライバーとしての経歴を若く見せるため、自身は1962年生まれであると、しばしばアナウンスしていた。
  2. ^ このことで父親との関係が悪化、その溝は生涯埋まらないままだったという。
  3. ^ Racing On」 No.052、p.31、武集書房、1989年。
  4. ^ 「Racing On」 No.069、p.54、武集書房、1990年。
  5. ^ “リザルト・リポート 1992年 全日本F3000選手権 第9戦”. BRIDGESTONE Motorsport. http://ms.bridgestone.co.jp/database/result_list_type11a?rid=253 2011年8月22日閲覧。 
  6. ^ AS+F'94 サンマリノGP特集号

関連項目[編集]