ポルシェ・962

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索
ポルシェ962C(ワークス仕様/1985年)

ポルシェ 962Porsche 962 )は、グループCと同じ時期にアメリカ合衆国で開催されていたIMSA-GTPのレギュレーションに合わせて開発されたプロトタイプレーシングカー956に引き続きポルシェ黄金時代を築いた。

目次

[編集] 概略

956(1983年)
962C(ブルン・モータースポーツ/1988年)

FIA-グループCとIMSA-GTPの車両規定は似ていたが、安全性に関する考え方が異なっており、グループC用の956は、IMSA-GTPの「ドライバーのつま先がフロント車軸より後ろになくてはならない:フットボックス レギュレーション」という規定を満たしていなかった。このためIMSA-GTPの規定に合わせて956のフロント・バルクヘッドやサスペンション取付位置を再設計したのが、ポルシェ962である。エンジンは、排気量2.87Lの962/70型、3.16Lの962/71型、3.0Lの962/72型があった。956と違いターボチャージャーは1基。 製作台数はワークススペックが1台、カスタマースペックがモノコック製作数ベースで17台である。

[編集] 962C

1985年に変更されたグループCの安全規定に対応させる為に仕様変更されたのが962Cである。962のシャーシに956のエンジンを搭載したほか、前後のホイール径を大きくしている。エンジンは、空冷エンジンをベースにヘッドのみ水冷とした935/82型に排気量2.65L版と後に2.86L版があり、水冷の935/83型に3.0L版、3.2L版、3.25L版がある。最高速は1988年にル・マン24時間レースが行われるサルト・サーキットの約6kmのストレート「ユノディエール」で394km/hという記録がある。尚、935/82型エンジンは後にデチューンされて959に搭載されることとなった。

ワークスマシンとしてポルシェ962Cが正式にル・マン24時間レースに参加したのは1985年からである。記録上では1984年の段階でポルシェ962はC1とGTPのカテゴリーにそれぞれ1台ずつ計2台がプライベートチームにより持ち込まれているが、いずれもリタイヤという結果に終わっている。

962Cの製作台数はワークススペックが14台、カスタマースペックがモノコック製作数ベースで60台である。カスタマースペックがモノコック製作数ベースなのは、ポルシェ956からポルシェ962Cへのアップデートサービス用として交換用に製作されたモノコックが6台、ワークスポルシェ962Cのスペア用に製作されたモノコックが10台、カスタマー向けスペア用として製作されたモノコックが4台、テスト用モノコックが2台が含まれているためである。

[編集] 962PDK

ポルシェはPDK(=ツインクラッチ)とABS(アンチ・ロック・ブレーキシステム)搭載したマシンを実験的に投入しており、1985年のスパ1000kmで実戦投入。熟成不足からリタイアに終わっているが、レース途中までランチアLC2を追い回すなど速さも見せた。

1986年にはル・マンにも出場し、モンツァで行われたレースでは優勝も記録している。その後もドイツ国内のスプリントレースに出場するも1989年からのワークス撤退、CARTプロジェクトの始動にともない開発を中断せざるを得なくなった。

しかしPDKの技術は十数年の時を経てフォルクスワーゲン/アウディのDSGなどに転用され、さらに2008年発表のポルシェ・911にはその名もPDKとなるツインクラッチ機構を搭載したモデルも登場している。

[編集] 開発年譜

1984年

  • IMSA-GTPクラスのカスタマー・チームのために956のGTPクラス仕様として962を開発。ワークスの手により第1戦デイトナ24時間レースでデビュー(アルミツインチューブ・モノコック、962/70エンジン(SOHC全空冷2.87L  シングルターボ))。(962)
  • 962のカスタマー仕様、IMSA-GTP第6戦ラグナ・セカに初登場。(962)
  • WEC第3戦ル・マン24時間で、ジョン・フィッツパトリック・レーシングが962にグループC仕様のエンジンを搭載したマシンを走らす。(962,962C)
  • アメリカのポルシェ・チューナー、アンディアルがIMSA-GTP第10戦ワトキンズ・グレンからホルバート・レーシング(以下ホルバート)に3.16Lに排気量を拡大した962/71エンジンを供給[1]。(962)

1985年

  • ポルシェ、962のグループC仕様として962Cを開発。ワークス、WECの使用車両を956から962Cに移行。(962C)
  • IMSA-GTPのカスタマー・チーム、962/71エンジンに移行。(962)
  • IMSA-GTPのホルバート、オリジナル・モノコックを製作。(962)
  • ブルン・モータースポーツ(以下ブルン)とクレマー・レーシング(以下クレマー)、WEC第1戦ムジェロからカスタマー向け962Cを初使用。
  • ワークス、WEC第4戦ル・マン24時間の予選で935/83エンジン(DOHC全水冷3.0L ツインターボ)を使用。(962C)
  • ワークス、WECのシーズン後半からPDKを再試用。(962C)

1986年

  • 世界選手権、WECからスプリント・イベントを含むWSPCに移行。
  • ワークス、WSPCでPDKを引き続き試用。(962C)
  • ワークス、WSPCで使用エンジンを935/83に移行。(962C)
  • ワークスのWSPCへの参戦目的がタイトルの獲得から、カスタマー・チーム向けの先行開発へ移行[2]。(962C)
  • ポルシェ、カスタマー・チームに排気量を2.8Lに拡大した935/82エンジンを供給。(962C)
  • TCプロトタイプ製アルミハニカム・モノコック登場。(962C)
  • ファブカー製モノコック登場。(962)
  • IMSA-GTPカスタマー、962/72エンジン(SOHC全空冷3.0L シングル・ターボ)に移行。(962)
  • ブルン、WSPCの予選で空水冷3.2Lエンジンを使用。(962C)
  • ワークス、WSPC最終戦富士ABSを試用。(962C)

1987年

  • ワークス、カウルのカーボン化等で約30kgの軽量化。(962C)
  • ワークス、WSPCで引き続きPDKを試用。(962C)
  • ブリテン・ロイド・レーシング(BLR)、962-201をWSPCにデビューさせる(アルミハニカム製モノコック、リヤウィングのミッションマウント化、カウルのカーボン化等)。(962C)
  • クレマー、アルミハニカム製モノコックの962CK6を製作。(962C)
  • チャップマン製モノコック登場。(962,962C)
  • ポルシェ、WSPC第6戦ノリスリンクを以てワークスを撤退させ、手持ちのワークス仕様の935/83エンジン12基のうち4基をヨースト・レーシング(以下ヨースト)、ブルン、クレマー、BLRに放出する[3]。(962C)
  • ポルシェ、インディカー用V8エンジンベースにした962・962Cの後継マシン(エンジン、IMSA-GTP用2.1Lシングルターボ、WSPC用3.2Lツインターボ、アルミハニカム或いはカーボン製モノコック)を開発し、1988年シーズン開幕からWSPCに復帰の予定[4]

1988年

  • ポルシェ、カスタマー・チームに935/83エンジンを供給。(962C)
  • ワークス、WSPC第5戦ル・マン24時間に1988年仕様のワークスマシンを登場させる(モトロニックMP1.7の採用、6段式ミッション、冷却系の改良等)。(962C)
  • IMSA-GTP、第10戦ポートランドからツインターボ・エンジンの使用を認める。以後962Cを使用するチームが増加。(962,962C)
  • ポルシェ、各カスタマーに962Cの開発終了を含むグループC活動の終了を通達。1988年仕様のワークス用シャシーを有力カスタマー・チームに売却[5]。(962C)

1989年

  • ポルシェ、ヨーストにワークス仕様の962-011供給(オイルクーラーのフロント移設、リヤ・ウィングのミッションマウント化等)。(962C)
  • ポルシェ、モトロニックMP1.7をカスタマーに供給。(962C)
  • クレマー、カーボン・モノコックの962CK6/02製作。(962C)
  • バーン・シュパン(以下シュパン)、アルミハニカム・モノコック製作。チーム・デイビーに供給。(962C)
  • ブルン、ラジエーターをフロントに移設した962-004BMを製作。後、サイド・ラジエーターに戻される。(962C)

1990年

  • ポルシェ、ヨーストを通してワークス活動を再開。カスタマー・チーム向けの先行開発が目的[6]。(962C)
  • ポルシェ、ヨーストに935/86エンジン(全水冷3.2L)を供給。ル・マン後にカスタマー・チームにも供給。(962C)
  • クレマー、ポルシェの風洞を使用して開発した、1990年仕様の962CK6を開発[7]。(962C)
  • シュパン、カーボン製モノコック製作。(962C)
  • ポルシェ、SWC C1クラス用マシンの開発を発表。1992年からワークス参戦の予定[8]
  • ブルン、ル・マン24時間の予選でアンディアル・チューンの全水冷3.2Lエンジンを使用して予選2位に入る。(962C)
  • IMSA-GTP、第10戦シアーズポイントから、ポルシェ・ユーザー救済を目的に1991年レギュレーションを前倒しで施行。(962,962C)

1991年

1992年

1993年

1994年

  • ポルシェ、GT1クラス用に962LMを製作。

[編集] レース戦績

962C(ワークス仕様/1988年)
962C(ヨースト・レーシング/1988年)

1985年のル・マン24時間レースは、ポルシェワークスマシンはモトロニックMP1.2のセッティングミスからヨースト・レーシング、GTIレーシングの956に次ぐ最高3位に終わった。

1986年のル・マン24時間レースには、ポルシェワークスは935/82型エンジンを2.86Lに拡大して臨み、力をつけて来ていたジャガーXJR-6ザウバーメルセデスC-8との高速戦に多数のリタイアを出しながらも1位、2位を独占した。この年は初参戦の日産関係者が「24時間のスプリントレースなのか」と呆れる程の高速ぶりでジャガーもメルセデスも全数リタイア、ポルシェだけで8位以外のベスト10を独占している。

1987年のル・マン24時間レースは、ポルシェワークスは予選ブースト850馬力の水冷3.0Lの935/83型エンジンを搭載したが予選時のクラッシュで1台を失い、さらに供給されたガソリンのオクタン価が低くターボエンジンのポルシェは次々リタイア、この時ライバルのジャガーXJR-8LMは3台とも健在で絶体絶命に追い込まれた。しかし監督のノルベルト・ジンガーは原因を突き止めてモトロニックMP1.2のプログラムを書き換えて対応、気温が低くターボエンジンに有利な夜間になってペースアップを指示した。これを受けて立ったジャガーは次々にリタイア、結果1位、2位、4位を独占した。
ポルシェはル・マン優勝の2週間後、ノリスリンクでのレースをもって世界選手権へのワークス参戦を停止した。

1988年にポルシェワークスは世界選手権に出場しなかったがル・マン24時間レースには3.0Lの935/83型エンジンにデジタル化されたボッシュ・モトロニック1.7を搭載したマシンを持ち込んだ。予選ブースト950馬力とも1000馬力とも言われ「ユノディエール」で394km/hを記録するなど充分以上の戦闘力があることを見せた。
予選ではワークスの17、18、19号車が1~3位を独占。特に17号車はル・マンでそれぞれ5勝のデレック・ベル、3勝のクラウス・ルドビッヒ、2勝のハンス=ヨアヒム・スタックが搭乗するエースマシンであった(勝利数は1988年当時)。
レースはその17号車がリードする展開となるが、6位スタートのジャガーXJR-9LMの2号車がオープニングラップだけで4台を抜き2位に浮上し17号車を追撃、18号車がこれに続いた。しかし17号車は3時間目に燃料ポンプにトラブルを起こし2周遅れの8位まで後退してしまう。
4~9時間目にかけては18号車がレースを支配。その後ジャガー2号車とのトップ争いとなるが、18号車は深夜3時にリタイア。トップに立った2号車を序盤のトラブルで遅れた17号車、ジャガー1号車が追う展開となるが1号車は朝になってリタイア。ジャガー2号車と17号車の一騎打ちとなる。
2号車と17号車の後続を大きく引き離しての戦いは6時間にわたって繰り広げられたが、2号車が逃げ切って優勝。17号車は2号車と同一周回の394周を走って2位。3位には385周を走ったヨースト・レーシングの8号車が入った。
ポルシェワークスは、世界選手権の第10戦富士に日本国内のカスタマーチーム向けのプロモーションのためル・マン以来の参戦を果たした[9]。急遽来日が決まったにもかかわらず優勝したジャガーから1周遅れの2位に入り存在感を示すが、これが956/962Cによる最後のワークス参戦となった。

1989年の世界選手権にポルシェはワークスチームを派遣しなかったが、ヨースト・レーシングと共同でワークスマシン962-011(←962-142)を開発[10]。ヨーストは事実上のワークスチームとして参戦しジャガー、ニッサン、トヨタを上回るシリーズランキング2位に食い込み、ブルンもランキング3位に入る活躍を見せた。
962-011は第2戦ディジョンで956/962Cにとって約2年ぶりの世界選手権優勝を果たすが、結果的にこれが956/962にとって最後の世界選手権優勝となってしまう。
この年のル・マン24時間レースにはポルシェはワークスチームを派遣しなかったが、ヨースト、ブルン・モータースポーツ、チーム・シュパンにマシンを放出(それぞれ9号車、17号車、33号車。他にシュパンの55号車にもワークスからの支援があった)、特にヨーストはノルベルト・ジンガーがチームを指揮していた(他にブルン、シュパン、クレマーにもポルシェからエンジニアが派遣された)。
決勝レースでは予選5位スタートのヨーストの9号車(962-145)がトップグループでレースを進め、1日目夜には数時間にわたって首位を快走する。その後、深夜に冷却水漏れがあり後退したが、3位でゴール、表彰台を獲得した(ポルシェ勢最上位)。
ブルンは5、6、16、17、27号車の大量5台の962Cをエントリーさせた。
962Cはこの年のル・マンに計17台出走。5台が完走し3台がトップ10入りしたが、ポルシェの供給したニュースペックエンジンにトラブルが相次ぎシュパンの33号車、クレマーの10号車、RLRの14号車が炎上、リタイアした。

1990年の世界選手権にはポルシェからヨースト・レーシングに、3.2Lエンジンを搭載し空力が改良された962-012、962-014の2台のワークスカーが供給されたが、これはカスタマーチームからの開発継続の要請の声に応えたものであった[11](3.2Lエンジンはシーズン後半の第6戦ニュルブルクリンクから、JSPCでは第4戦鈴鹿1000kmから各カスタマーチームに供給された)。
この年のル・マン24時間レースにはヨーストは6、7、8、9号車の計4台の962Cをエントリーさせた。この内7、8号車は、ポルシェから供給された3.2Lエンジンが搭載されたワークスマシンであった(7号車962-015、8号車962-013)。
しかし8号車は予選中にクラッシュ、使用不能になってしまったことから、ヨーストは9号車に8号車の使用可能なパーツを移植し、急遽9号車をワークスマシンに仕立て上げた。
ブルン・モータースポーツは15、16号車の2台の962Cをエントリーしたが、この年からユーノ・ディエールにシケインが設置されたことに対応しコーナリングスピードを重視。ハイダウンフォースのショートテイル仕様に、アンディアルチューンの3.2Lエンジンを搭載してル・マンに乗り込んできた。
予選ではそのブルン16号車が2位に入り、ニッサン勢の予選上位独占を阻む活躍を見せた。
ブルン16号車は決勝でも終始トップグループを走り、2日目昼には1周前を走るトップのジャガー3号車をラップ、同一周回に戻すなど大健闘を見せるが、レース終了僅か15分前にエンジンブロー、リタイヤしてしまう。
ヨーストはワークスマシンである7号車の6位が予選最上位で、決勝でも7号車が4位に入賞するにとどまった。
962最上位は日本からエントリーしたアルファ・レーシング(メンテナンスは東名スポーツ)で、大きなトラブルも無く走りきり3位入賞。ル・マン初出場でいきなり表彰台を獲得、日本のチームで初めてル・マンの表彰台に上がった(これ以前にクラス別で優勝したことのあるマツダが表彰台に上がっている)。
この年のル・マンには計18台の962Cが出走。14台が完走し、5台がトップ10入りした。

1991年のル・マン24時間レースには12台の962Cが出走。しかし既に962Cは旧態化しており、またSWC規定に伴い最低重量が950kgに引き上げられた為競争力が低下、レース序盤にブルン・モータースポーツの17号車(962-177、962の最終製造車)が上位を走ったのが目立つ程度であった。
結局この年の962Cは、コンラッド・モータースポーツ名義でエントリーしたヨースト・レーシングの58号車の7位が最上位で、956/962Cは82年のルマン参戦開始以来常に獲得してきた表彰台の座をついに逃した。

1994年のル・マン24時間レースにはポルシェ962Cそのものであるダウアー962Cが非常に有利なGT1クラスで出場した。GT1は市販されていることが条件だが台数規定がなかったため1台を公道で走行できるように登録することでホモロゲーションを取得したものである。物議は醸したがレギュレーション違反とは言えず、総合優勝した。

962Cは基本的には956の「エポリューションモデル」とも言うべき存在であったが、ル・マン24時間レースにおいて「同一車種」としては最多優勝記録を誇っており、さらにブルン・モータースポーツやヨースト・レーシングなどのプライベーターも多数使用したこともあり、今でもグループCと言えばこのマシンを思い浮かべるファンがいる等、まさしくグループCのみならず、レーシングカー史においてもその名を長く刻む名車となっている。

[編集] JSPCへの参戦

レイトンハウスの962C(1987年)

1985年から、956に引き続きノバエンジニアリングレイトンハウストラストなどのプライベーターから全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)に参戦した。

各チームともに、オスカー・ララウリ高橋国光フォルカー・ヴァイドラーなどのトップクラスのドライバーのドライブでトヨタトムスサードなど)や日産自動車ホシノインパルハセミモータースポーツなど)のワークス、セミワークス勢と対峙し、1985年から1989年にかけてチャンピオンを獲得した。

各チームは、バブル景気を受けた豊富な資金力を元に、エアロダイナミクス面を中心に日本独自のモディファイを行い戦闘力を高めたほか、ル・マン24時間レースなどへの遠征も行ったものの、1990年に入ると国産勢の戦闘力が増してきたことから、相対的に戦闘力が低下し優勝戦線から遠ざかった上、グループC自体の衰退とJSPCの消滅を受けてその姿を消すこととなった。

[編集] 全日本GT選手権への参戦

グループC消滅後、全日本GT選手権(JGTC)仕様に仕立て直し、1994年シーズンからチーム・タイサンより出場した。

ドライバーは1992年全日本F3選手権チャンピオンで1990年のル・マン24時間3位の経験もあるアンソニー・レイド茂木和男(途中から近藤真彦に交替)であった。当時のJGTCはスタンディングスタートであったが、本来グループCカーはローリングスタートしか想定しておらず1速ギヤが設定されていないため、決勝ではスタート時に出遅れることがよくあった。その他にも規定を満たすべく300kgのウエイトを積んだり、吸入孔にリストリクターを装着した[12]為、本来のポテンシャルを発揮できなくなっていた。しかし第1戦、第3戦の富士スピードウェイにおいて予選でポールポジションを獲得し、第3戦では優勝している。

ライバルである国産ワークスチームのタイムがマシンの改良によって速くなる中で、962Cは上記のようにレギュレーションによる規制による制限事項が多く、それ以上のタイムアップが困難であったので、タイサンは962Cでの参戦を初年度の1994年限りで中止し、翌年からはフェラーリ・F40で参戦している。ちなみにこの962Cは最近までチーム・タイサン監督の千葉泰常氏の自宅に保存されていた。

[編集] 脚注

  1. ^ オートスポーツ No.574 p.50 三栄書房
  2. ^ オートスポーツ No.459 p.49 三栄書房
  3. ^ オートスポーツ No.481 p.38 三栄書房
  4. ^ Racing On No.017 p.38 武集書房
  5. ^ Racing On No.038 p.35 武集書房
  6. ^ オートスポーツ No.555 p.40 三栄書房
  7. ^ Racing On No.070 p.38 武集書房
  8. ^ Racing On No.077 p.35 武集書房
  9. ^ オートスポーツ №514に総監督バーン・シュパン、監督ピーター・フォークとあることから、シュパンがワークスチームを招聘したものと思われる。 
  10. ^ 標準的な962Cとの違いはオイルクーラーのフロントへの移設、リアウイングの独立化、フロントフェンダーにルーバーを追加、ヘッドライトの円形4灯から角形2灯への変更、ブレーキダクトの大型化など。
  11. ^ オートスポーツ №555
  12. ^ この為緒戦ではタービンがサージングを起こしてタービンブローし、長時間のピットインを余儀なくされている

[編集] 関連項目

ポルシェ A.G. 車両年表 1960年-
タイプ 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代
0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 0 1 2
エントリーモデル 912 912E 924 924S 968 ケイマン
356 914 944 ボクスター(986) ボクスター(987)
911シリーズ 911(901) 911(964) 911(996) 911(991)
911(930) 911(993) 911(997)
GT 928
セダン パナメーラ
SUV カイエン(955) カイエン(958)
カイエン(957)
スーパーカー 959 カレラGT
コンセプトカー: 356/1114695901989パナメリカーナ918
モータースポーツ: 64360550718787804904906907908909910914-6 GT917934935936953956961962GT1WSC95RSスパイダー
人物: フェルディナント・ポルシェフェリー・ポルシェフェルディナンド・アレクサンダー・ポルシェフェルディナント・ピエヒ
トラクター: ユニオールスーパー
その他: オフィシャルウェブサイト | ポルシェデザイン | フォルクスワーゲン | ポルシェのエンジン一覧 | ティプトロニック | バリオカム | RUF
個人用ツール
名前空間
変種
操作
案内
ヘルプ
ツールボックス
他の言語