全日本F3000選手権

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全日本F3000選手権にも参戦していたレイナード93D

全日本F3000選手権(ぜんにほんエフさんぜんせんしゅけん、All Japan F3000 Championship)は、1987年(昭和62年)から1995年(平成7年)まで日本で開催されていた自動車レースの1カテゴリーF3000規定のフォーミュラカー(オープンホイール)を使用した四輪レースで、当時の国内トップカテゴリーの1つであった。

概要[編集]

導入[編集]

1987年より、それまでの国内トップフォーミュラである全日本F2選手権に代わって開催されることとなった。なお国際F3000から2年遅れでのスタートとなった。ただ日本自動車連盟(JAF)は、1987年までF2(条件付でF3000車両の参加を認める)を開催し、1988年からF3000に移行する考えであった。

しかし実質的な運営団体である各主催者や参加者は、JAFの意に反して1987年からのF3000化を決断し実行した。この為、1987年のF3000レースにはJAFによる全日本選手権タイトルは掛けられておらず、全日本F2は「参加者ゼロでチャンピオン該当者なし」という前代未聞のシーズンとなった。シーズン終了後、統括側と運営側による話し合いがもたれ、翌1988年から正式に「全日本F3000選手権」として開催されることになった。

隆盛[編集]

シリーズが始まった時期がバブル景気F1ブームが重なった事や、星野一義高橋国光長谷見昌弘松本恵二などのベテランや若手外国人ドライバーの多数参戦により驚異的な充実振りをみせた。

また、鈴木亜久里片山右京鈴木利男中野信治野田英樹高木虎之介服部尚貴エディ・アーバインジョニー・ハーバートハインツ=ハラルド・フレンツェンミカ・サロマーク・ブランデルフォルカー・ヴァイドラーローランド・ラッツェンバーガージャン・アレジミハエル・シューマッハ(ブランデルとアレジ、シューマッハはスポット参戦)など後にF1にステップアップしたドライバーや、ヤン・ラマースなどの元F1ドライバーも参戦していた。

さらにドライバーのみならず、各チームやエンジンサプライヤー、タイヤサプライヤーの技術レベルも極めて高く、エンリコ・ベルタッジアは「インターナショナルF3000はパワフルなF3、全日本F3000は3,000ccのF1」と評した[1]

また、バブル景気を受けて大手企業をはじめとした多様なスポンサーが参入したことで新たなチームやドライバーの出走が相次ぎ、最盛期の1990、1991年には出走台数が30台を超え、予選落ちも発生した他、観客数が1レース5万人を超えることも多かった。

移行[編集]

しかし、バブル景気の崩壊後は次第に参加台数が減少し、観客も減少していった。このため当時F1や全日本F3000のテレビ中継を行っていたフジテレビが中心となり日本レースプロモーション(JRP)を設立。1996年に、JRPが主催する形で国際F3000のワンメイク化とは違う独自性を持ったカテゴリー「フォーミュラ・ニッポン」に移行する事となった。

詳説[編集]

  • エンジン
無限(現・M-TEC)、フォードコスワースジャッドなどが、エンジンチューナー(東名エンジンケン・マツウラレーシングサービス 他)より供給された。
  • シャシー
マーチローララルトレイナードといったヨーロッパの量産コンストラクターが主流で、日本の童夢ムーンクラフトも参戦。1994年には童夢が国産シャシーで初めてタイトルを獲得している。
  • タイヤ
ブリヂストンダンロップ横浜ゴムの3メーカーが参加。国際F3000ではエイヴォンがバイアス構造のタイヤを独占供給していたのに対し(1992年よりラジアルタイヤに移行)、各メーカーが早くからラジアルタイヤを投入して競い合ったことから、グリップ力は国際F3000よりも強力で、よりF1に近いものであったと言われている。
ただし最終年の1995年は、阪神・淡路大震災によりダンロップの神戸工場が壊滅的な打撃を受けた為、ブリヂストンと横浜ゴムの2社供給となった。
  • 予算規模
全日本F3000の発足当初は日本がバブル景気に突入した頃でもあり、参戦チームの予算規模が年を追うごとに拡大していった。
CABIN RACINGが全日本F2最終年の1986年から活動を開始したが、全日本F2・富士グランチャンピオンレース合わせてのスポンサー費が2億円、1987年にレイトンハウスとスポンサー契約をしたホシノレーシングの活動予算がF3000・富士GC 合わせて2億5000万円とされる。なおCABIN RACINGの2億円という金額について「わが国で年間1億円の予算はレーシングチームにとって夢の金額だった」[2]、ホシノ+レイトンハウスの2億5000万円については「日本のレース界では空前の額」[3] とされており、他チームの運営費はこれらを下回っていた。
それが1988年には、F3000チームの運営には年1.5~1.8億円が必要といわれるようになり、[4]1990年にはトップチームの予算は年間4~5億円とされ、[5]「1991年には年間最低3億円が必要」[6]といわれるなど、F3000チームの予算規模は急拡大した。

高性能タイヤの功罪[編集]

全日本F3000ではブリヂストン、ダンロップ、ヨコハマの3メーカーによって熾烈なタイヤ開発競争が行われていた。ロス・チーバ―はこの状況を「全日本選手権とは何かと問えば、それは3つのタイヤメーカーの争いに他ならない」[7]と表現している。その結果F1並に予選用タイヤが用意されたり、ダンロップのように一国内選手権のためにオフシーズンに海外テストを行うメーカーも存在した。その結果全日本F3000のタイヤは極めて高性能なものとなり、予選用タイヤを使用するとコーナリングスピードではF1を凌ぐほどになっていた[8]

ミハエル・シューマッハは、「ボクはF1に行くから、高度でよりF1に近い日本のF3000は勉強になる」[9]として、1991年に国際F3000ではなく全日本F3000にスポット参戦し、その1ヶ月後にベルギーGPジョーダンからF1デビューしたが、「ジョーダンで予選に出場した時も、F3000とF1と、それほどのギャップがあるとは思わなかった」と語っている[10]

高性能なタイヤによって、全日本F3000はハイレベルなレースが展開されるようになったが問題がなかったわけではない。一つにはレースの要素としてタイヤの重要性が突出している、ということである。1989年に全日本F3000とエイヴォンタイヤのワンメイクで行われていたイギリスF3000を掛け持ち参戦していたアンドリュー・ギルバート=スコットは全日本F3000について「タイヤが占めるマシン性能のパーセンテージが大きいのに驚かされる」、「大げさに言うとタイヤメーカーが勝敗の鍵を握っている考えていいんじゃないか」と指摘している[11]

また、(サーキットの路面も含めて)ヨーロッパのレース環境と異なる状況に全日本F3000がなっていたことを鈴木亜久里が指摘している。1989年からF1に参戦するようになった鈴木は、日本の走り方ではタイムが出ないことに気づき、ライン取りを日本時代とは変えていったという[12]

年表[編集]

  • 1983~1986年
  • 1983年秋、ターボエンジン隆盛に伴いF1で余剰気味となっていたコスワースDFVエンジンの転用方法として、バーニー・エクレストンが新カテゴリー、F3000を提案。[13]
  • 1984年7月、FISA、1985年からF3000規定施行を決定。[13]
  • 1984年11月30日、JAF、1988年までの全日本F2選手権継続を決定。[13]
  • 1985年3月24日、ヨーロッパF3000選手権第1戦がシルバーストン・サーキットで開催される。
  • 1985年8月、F1オーストリアグランプリと併催のヨーロッパF3000・第9戦エステルライヒリンクホンダランド関係者が視察。[13]
  • 1985年9月、ホンダランドと全日本F2関係者間で会議。1987年の全日本F2・最終戦からF3000マシンと混走、1988年からF3000移行で合意。[13]
  • スピードスターレーシング、マーチから1986年の全日本F2選手権用シャシーをF3000仕様で購入。[14]
  • 1986年4月13日、国際F3000選手権第1戦がシルバーストン・サーキットで開催される。
  • 1986年10月13日、スピードスターレーシング、鈴鹿サーキットでF3000マシンでテストを行う。[15]
  • 1986年11月19日、1987年からF2マシンと混走で全日本F3000シリーズ開催を決定。[16]
  • 1986年12月1~4日、各タイヤメーカー、鈴鹿サーキットでF3000用タイヤのテストを行う。[13]
  • 1987年
  • 1988年
  • フットワーク/ムーンクラフト、鈴木亜久里とともに国際F3000にスポット参戦。
  • 童夢、ムーンクラフト、オリジナルシャシーを開発・製作。
  • トムス、オリジナルシャシーの開発を開始。[19]
  • 3月12・13日、全日本F3000選手権第1戦を鈴鹿サーキットで開催。出走18台(マーチ10台、ローラ8台)。
  • マーチの国内代理店のルマン、不振のマーチシャシーを諦め、第5戦菅生から使用シャシーをレイナードに変更することに。
  • 7月30・31日、第5戦を菅生サーキットで開催。レイナードが全日本F3000にデビュー、ジェフ・リースのドライブによりデビューウィンを飾る。ロス・チーバー、ダンロップに国内トップフォーミュラでは1983年8月、全日本F2・第6戦富士以来のポールポジションをもたらす。
  • 8月13・14日、富士スピードウェイで第6戦を開催。和田孝夫初優勝。ヨコハマタイヤ、F3000初優勝。ムーンクラフトのオリジナルシャシーMC-031実戦デビュー。
  • 9月24・25日、第7戦を鈴鹿サーキットで開催。鈴木亜久里全日本F3000チャンピオンに。
  • 10月28~30日、鈴木亜久里がF1・日本グランプリラルースからスポット参戦。
  • 11月22日、鈴木亜久里、1989年からのF1フル参戦が決定。
  • 11月26・27日、最終戦を鈴鹿サーキットで開催。マーチ、エントリーが3台にまで減少。ムーンクラフト、ニューシャシーMC-040をデビューさせる。
  • 1989年
  • ダンロップ、童夢とともにシーズン前にオーストラリアテスト実施(以降1991年まで)。松本恵二、ロス・チーバーのドライブにより2,600km以上の走り込み。[20]
  • フットワーク/ムーンクラフト、オリジナルシャシーで片山右京とともに国際F3000にもフル参戦。
  • レイトンハウス、マーチを買収しオリジナルマシンを製作。全日本F3000と国際F3000で使用(1990年まで)。
  • 1988年から全日本F3選手権にチームとして参戦を開始した戸田レーシングが全日本F3000に進出。
  • 3月4・5日、第1戦を鈴鹿サーキットで開催。出走22台。
  • 4月15・16日、第2戦を富士スピードウェイで開催。ロス・チーバー初優勝。
  • 5月13・14日、第3戦を西日本サーキットで開催。中谷明彦がデビュー3戦目でポールポジションを獲得。
  • 全日本F3000参戦チームによるエントラント団体・FORCEの設立が計画される。[21]
  • 5月27・28日、第4戦を鈴鹿サーキットで開催。エマニュエル・ピロ初優勝。
  • エマニュエル・ピロ、7月7~9日開催のF1フランスグランプリからベネトンのレギュラードライバーに転身。
  • 9月22・24日、第7戦を鈴鹿サーキットで開催。小河等初優勝。
  • 10月22~24日、パオロ・バリッラF1・日本グランプリミナルディからスポット参戦。翌1990年からレギュラードライバーに。
  • 11月4・5日、最終戦を鈴鹿サーキットで開催。小河等全日本F3000チャンピオンに。ダンロップ、4勝を挙げ3勝のブリヂストンを上回る。長谷見昌弘、1980年7月、全日本F2・鈴鹿以来の国内トップフォーミュラ優勝。
  • 12月13~14日、鈴鹿でブリヂストンのF3000タイヤテスト。13日にジョナサン・パーマードライブの無塗装のレイナード88D/無限が走る。パドックで「ホンダがF1用のアクティブサスペンションの開発テストを行っているのでは」と噂される。[22]
  • 1990年
  • レイナード、横置きトランスミッションの90Dを開発・製作。
  • フットワークとムーンクラフトが提携を解消。
  • 前年度F1のレギュラードライバーだったジョニー・ハーバートクリスチャン・ダナーフォルカー・ヴァイドラーエンリコ・ベルタッジアが全日本F3000に参戦。
  • ミリオンカードが鈴鹿開催の4レースの冠スポンサーとなり、イベント名が「ミリオンカードカップF3000鈴鹿シリーズ」となる。
  • 3月3・4日、第1戦を鈴鹿サーキットで開催。出走31台。混雑解消を目的に、予選を2組に分けて行うことに(1992年開幕戦まで)。星野一義4年連続で開幕戦を制す。
  • 3月23日、村松栄紀、富士スピードウェイでのタイヤテスト中に事故死。
  • 5月12・13日、第3戦を西日本サーキットで開催。松本恵二、1986年5月、全日本F2・西日本以来の国内トップフォーミュラ優勝。
  • 7月7日、JAF、1991年度のレースカレンダーを発表。オートポリス、8月30~9月1日に国際F3000の開催を予定。[23]
  • 7月16~18日、片山右京、菅生で行われたヤマハのF1テストに参加。[24]
  • 7月28・29日、第5戦を菅生サーキットで開催。マウロ・マルティニ初優勝。レース中に赤旗4回と混乱。
  • 9月1・2日、第7戦を富士スピードウェイで開催。高橋国光、全日本F3000の21戦連続完走の新記録を3位表彰台で飾る。
  • 9月22・23日、第8戦を鈴鹿サーキットで開催。星野一義、優勝で1987年以来の全日本F3000タイトル獲得を決める。
  • 10月27・28日、第9戦を富士スピードウェイで開催。フォルカー・ヴァイドラー初優勝。
  • 11月、JFRA、JAFに年間レース数を8戦までとし、それ以外をノンタイトル戦とすることを要望。[25]
  • 11月17・18日、第10戦を鈴鹿サーキットで開催。星野一義6勝目。高橋国光の連続完走記録、23戦で止まる。
  • 1990年、全10戦で計56万1400人を動員。[26]
  • 1991年
  • 童夢、オリジナルシャシーF102を開発・製作し開幕戦から実戦投入。
  • メンテナンスガレージとして活動してきたセルモがチームを結成し全日本F3000に参戦。
  • 全日本F3の有力チーム、ル・ガラージュCOXが全日本F3000に進出。
  • ラルト、全日本F3000に初進出。
  • 3月2・3日、第1戦を鈴鹿サーキットで開催。出走35台。レイナード、前年の不振によりエントリーを1台にまで減らす。片山右京初優勝。童夢、オリジナルシャシーでの初レースで3位表彰台。JFRA、特殊燃料使用の自粛を申し合わせ。
  • 3月23・24日、第2戦をオートポリスで初開催。中谷明彦初優勝。
  • 4月24日、東京R&D、F3000用オリジナルモノコックを製作。菅生サーキットでテスト。[27]
  • 5月11・12日、第4戦を美祢サーキットで開催。エディ・アーバイン初優勝。
  • フットワーク、第4戦美祢を以て全日本F3000から撤退。
  • 5月頃?、影山正彦コローニから2億円の資金持ち込みを条件にF1参戦を打診されるもこれを断る。[28]
  • 7月27・28日、第6戦を菅生サーキットで開催。スポット参戦のミハエル・シューマッハが2位入賞。
  • 8月10・11日、第7戦を富士スピードウェイで開催。ジャッドエンジン、全日本F3000に初登場。
  • レイトンハウス、第9戦鈴鹿から活動休止。
  • 9月30日、片山右京、1992年からのF1フル参戦が決定。
  • 10月7日、中谷明彦、1992年からのF1フル参戦が決定。
  • 服部尚貴が10月18~20日開催のF1・日本グランプリと、11月1~3日開催のF1・オーストラリアグランプリコローニからスポット参戦。いずれも予備予選落ち。
  • 11月30日、雨天順延となっていた第8戦の決勝レースを富士スピードウェイで開催(シーズン最終戦)。片山右京全日本F3000チャンピオンに。長谷見昌弘がF3000引退レースで5位入賞。
  • 1992年
  • 1月23日、FISA、中谷明彦のスーパーライセンス申請を資格不十分として却下。
  • ニスモ、鈴木利男(ユニバーサルレーシング)を技術支援。
  • Tカーの使用が禁止される。[29]
  • 3月7・8日、第1戦を鈴鹿サーキットで開催。出走29台。JFRA、燃料の成分分析を実施。[30]
  • 5月23・24日、第4戦を鈴鹿サーキットで開催。スポット参戦で出場の小河等、レース中に事故死。
  • 6月21日、ロス・チーバー、インディカー第6戦・ポートランドにスポット参戦し11位完走。
  • 7月19日、第5戦をオートポリスで開催。マルコ・アピチェラ初優勝。童夢、国産シャシーによる全日本F3000初優勝。トム・クリステンセンが全日本F3000デビュー。
  • 8月12日、黒澤琢弥、鈴鹿で行われたヤマハのF1テストに参加。[31]
  • 8月15・16日、第7戦を富士スピードウェイで開催。フォルカー・ヴァイドラー、耳鳴りの症状が悪化し以降のレースを欠場。唯一のユーザーであった藤永敬道の撤退により、ラルトが撤退。
  • 小河等の事故死を機に、全日本F3000ドライバーズ協会(JFRA)が発足。サーキット側に安全性の向上を求める。[32]
  • 9月26・27日、第9戦が鈴鹿サーキットで開催。フォルカー・ヴァイドラーの代役としてハインツ=ハラルド・フレンツェンが全日本F3000にデビュー。星野一義、エンジンを無限からコスワースDFVに変更。
  • 11月14・15日、第11戦を鈴鹿サーキットで開催。マウロ・マルティニ、外国人として初の全日本F3000チャンピオンに。服部尚貴初優勝。松本恵二引退。無限、可変吸気トランペット装備のエンジンをハインツ=ハラルド・フレンツェンとマルコ・アピチェラに供給。
  • 1993年
  • トムス、全日本F3000、国際F3000に進出。
  • ニスモ、鈴木利男に加えて、星野一義(ホシノレーシング)にも技術協力。
  • ムーンクラフト、オリジナルシャシーMC-060ELを開発・製作も実戦投入はせず。
  • 3月20・21日、第1戦を鈴鹿サーキットで開催。出走24台。
  • 4月10日、JFRA、日本自動車レース選手協会(JRDA)に改称。
  • 4月10・11日、第2戦を富士スピードウェイで開催。星野一義、1年8ヶ月ぶりの優勝。
  • 6月24日、オートポリスで予定されていた第5戦の開催中止を決定。オートポリスの経営破たんが理由。
  • 7月31・8月1日、第6戦を菅生サーキットで開催。ハインツ=ハラルド・フレンツェン車に無限・ホンダエンジン搭載。
  • 8月14・15日、第7戦を富士スピードウェイで開催。決勝レース雨天中止。代替として全日本F3000で初めてピットウォークを行う。[33]
  • 8月、ハインツ=ハラルド・フレンツェン、ムジェロサーキットでF1・ザウバーのテストに参加。[34]
  • マルコ・アピチェラ、9月10~12日開催のF1・イタリアグランプリにジョーダンからスポット参戦。
  • エディ・アーバインと鈴木利男、10月22~24日開催のF1・日本グランプリと11月5~7日開催のF1・オーストラリアグランプリにスポット参戦。エディ・アーバインが日本グランプリで6位入賞。
  • 東京R&D、1994年からの全日本F3000進出を目標に、菅生でオリジナルマシンのテスト。
  • 11月13・14日、第11戦を鈴鹿サーキットで開催。星野一義、3度目の全日本F3000チャンピオンに。
  • エディ・アーバイン、ハインツ=ハラルド・フレンツェン、ローランド・ラッツェンバーガーが1994年からF1のレギュラードライバーに。
  • 1994年
  • コスト抑制を目的にタイヤ3セットルールを導入。事実上の予選用タイヤの禁止。
  • ケン・マツウラ、コスワースDFVからジャッドにメンテナンスエンジンを変更。
  • ムーンクラフト、ローラT92/50、T93/50用のモディファイド・カウルを開発・製作し、各チームに販売。
  • 3月19・20日、第1戦を鈴鹿サーキットで開催。出走18台。ロス・チーバー、3年連続の開幕戦優勝。
  • 9月17,18日、十勝スピードウェイで初のノンタイトル戦を開催。
  • 10月1・2日、第7戦を鈴鹿サーキットで開催。F3の若手登用策を実施。中野信治影山正美高木虎之介を抜擢。
  • 10月15・16日、第8戦を富士スピードウェイで開催。高橋国光、54歳8ヵ月で3位表彰台に。
  • ミカ・サロ、11月4~6日開催のF1・日本グランプリと11月11~13日開催のF1・オーストラリアグランプリにスポット参戦。
  • 11月26・27日、第10戦を鈴鹿サーキットで開催。マルコ・アピチェラ全日本F3000チャンピオンに。国産マシンに乗るドライバーとして初。高橋国光F3000を引退。
  • ミカ・サロ、1995年からF1のレギュラードライバーに。
  • 1995年
  • ダンロップ、阪神・淡路大震災により神戸工場が被災したため、全日本F3000から撤退。
  • 3月18・19日、第1戦を鈴鹿サーキットで開催。出走18台。
  • 5月7・8日、第3戦を美祢サーキットで開催。トム・クリステンセン初優勝。
  • 7月8・9日、第5戦を菅生サーキットで開催。高木虎之介初優勝。コスト抑制を目的にタイヤウォーマーが禁止される。
  • 9月16・17日、第7戦を十勝スピードウェイで初開催。
  • 11月18・19日、第9戦を鈴鹿サーキットで開催。鈴木利男逆転で最後の全日本F3000チャンピオンに。

歴代チャンピオン[編集]

チャンピオン 車名 タイヤ エントラント
1987年 日本の旗 星野一義 LEYTON HOUSE 87B HONDA
→ LEYTON HOUSE T87 HONDA
B ホシノレーシング
1988年 日本の旗 鈴木亜久里 Footwork 87B
→ Footwork 88D
B Footwork SPORTS レーシングチーム
1989年 日本の旗 小河等 STELLAR ローラ T88/50
→ STELLAR ローラ T89/50
D オートビューレックモータースポーツ
1990年 日本の旗 星野一義 CABIN T90 無限 B CABIN RACING TEAM WITH IMPUL
1991年 日本の旗 片山右京 CABIN T90-50 DFV
→ CABIN T91-50 DFV
B CABIN RACING TEAM with HEROES
1992年 イタリアの旗 マウロ・マルティニ アコム エボリューション T91
→ アコム エボリューション T92
B ACOM EVOLUTION TEAM NOVA
1993年 日本の旗 星野一義 NISSEKI LOLA T92 B NISSEKI IMPUL RACING TEAM
1994年 イタリアの旗 マルコ・アピチェラ トライ ダンロップ 童夢 F104 D 株式会社童夢
1995年 日本の旗 鈴木利男 パーソンズレーシング ローラ B HOSHINO RACING

スポンサー[編集]

折からのバブル景気とモータースポーツブームを受け多くの企業がスポンサーとして参入した。

主なスポンサー[編集]

テレビ中継[編集]

全戦のテレビ中継がされていたが、開催サーキットにより放送局系列が異なっていた。

1994年より鈴鹿の中継がフジテレビに移行(他のサーキットは従来のまま)。全日本F3000最終年の1995年に全戦の放映権をフジテレビが取得して全国ネットの一元化が図られた。

その他[編集]

  • 1991年に全日本F3000の専門誌『J-formula』が山海堂より発刊。同社のF1専門誌『GPX』と同様の速報誌であったが、発行されたのはこの年のみだった。また、リイド社からは『カテゴリーフォーミュラF3000』が刊行されていた。

脚注[編集]

  1. ^ オートスポーツ」 No.583、p.9、三栄書房、1991年。
  2. ^ 「Racing On」、No.406、p.23、ニューズ出版、2006年。
  3. ^ 「Racing On」、No.011、p.40、武集出版、1987年。
  4. ^ 「Racing On」、No.042、p.51、武集書房、1988年。
  5. ^ 「オートスポーツ」、No.565、p.651、三栄書房、1990年。
  6. ^ 「Racing On」、No.083、P.57、武集書房、1990年。
  7. ^ 「Racing On」 No.123、p.55、ニューズ出版、1992年。
  8. ^ 「Racing On」 No.140、p.53、ニューズ出版、19923年。
  9. ^ 「Racing On」 No.104、p.44、武集書房、1991年。
  10. ^ 「Racing On」 No.106、p.76、武集書房、1991年。
  11. ^ 「Racing On」 No.052、p.30、武集書房、1989年。
  12. ^ 「Racing On」 No.071、p.80、武集書房、1990年。
  13. ^ a b c d e f 『動き出した日本のF3000』、「Racing On」 No.010、武集書房、1987年。
  14. ^ 「Auto Sport Year '86-'87」、p.89、三栄書房、1987年。
  15. ^ 「Racing On」、p.34、武集書房、1986年。
  16. ^ 「Racing On」、p.41、武集書房、1987年。
  17. ^ 「Racing On」 No.019、p.72、武集書房、1987年。
  18. ^ 「Racing On」 No.019、p.71、武集書房、1987年。
  19. ^ 「Racing On」 No.035、p.38、武集書房、1988年。
  20. ^ 「RacingON」No.046、p.63、武集書房、1989年。
  21. ^ 「Racing On」 No.052、p.37、武集書房、1989年。
  22. ^ 「Racing On」 Vol.067、p.9、武集書房、1990年。
  23. ^ 「Racing On」 No.080、p.35、武集書房、1990年。
  24. ^ 「Racing On」 No.081、p.40、武集書房、1990年。
  25. ^ 「Racing On」 No.145、p.38 、ニューズ出版、1993年。
  26. ^ 「オートスポーツ」 No.570、p.85、三栄書房、1991年。
  27. ^ 「Racing On」 No.098、p.6、武集書房、1991年。
  28. ^ 「オートスポーツ」 No.585、p41、三栄書房、1991年。
  29. ^ 「Racing On」 No.118、p.14、武集書房、1992年。
  30. ^ 「Racing On」 No.118、p.41、武集書房、1992年。
  31. ^ 「オートスポーツ」 No.612、p.6、三栄書房、1992年。
  32. ^ 「Racing On」 No.130、p.37、ニューズ出版、1992年。
  33. ^ 「Racing On」 No.151、p.23、ニューズ出版、1993年。
  34. ^ 「Racing On」 No.151、p.41、ニューズ出版、1993年。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]