フェルナンド・アロンソ

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フェルナンド・アロンソ
AlonsoCanada2011.jpg
基本情報
フルネーム Fernando Alonso Díaz
略称表記 ALO
国籍 スペインの旗 スペイン
出身地 同・アストゥリアス州オビエド
生年月日 1981年7月29日(33歳)
F1での経歴
車番 14
所属チーム マクラーレン '15-
活動時期 2001,2003-
過去の所属チーム '01 ミナルディ
'03-'06,'08-'09 ルノー
'07 マクラーレン
'10-'14 フェラーリ
出走回数 234
優勝回数 32
通算獲得ポイント 1767
表彰台(3位以内)回数 97
ポールポジション 22
ファステストラップ 21
初戦 2014年オーストラリアGP
初勝利 2014年ハンガリーGP
2014年順位 6位 (161ポイント)
タイトル 2 (2005,2006)
(記録は2014年最終戦アブダビGP終了時)
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フェルナンド・アロンソ・ディアスFernando Alonso Díaz, 1981年7月29日 - )は、スペインアストゥリアス州オビエド出身のレーシングドライバーである。2005年に、当時のF1史上最年少ドライバーズチャンピオン記録を樹立し、翌2006年には連覇を達成した。

プロフィール[編集]

1981年7月29日、スペイン北部のアストゥリアス州オビエドに生まれる。父親のホセ・ルイスは、鉱石採掘会社の発破技士。母親はスーパーマーケットで働くごく普通の主婦であった。

父はアマチュアカートレーサーであったため、自分の子供がレーサーになることを望み、アロンソの姉であるロレーナが8歳の時に自作のカートを与えた。しかし、ロレーナがレースには興味を示さなかったため、そのカートはアロンソの物となり、わずか3歳でカートに乗り始める。

F1参戦以前[編集]

インターAのアロンソのカート

アロンソがレースに参戦できるようになると、父親はメカニックを兼ねて帯同し、スペイン各地のカートレースに参戦した。家庭は決して裕福ではなかったが、アロンソの活躍によりスポンサーからの資金提供を受けられるようになり、レース活動を続けられた。

1993年、12歳でスペインのカートジュニア選手権チャンピオンに輝くと、以後同選手権を1996年まで4連覇している。1996年、15歳の時にはカート・ジュニアワールドカップを獲得した。1997年はスペインとイタリア両国のカート選手権(Aクラス)でチャンピオンとなり、1998年にはスペイン選手権を連覇するとともに、ヨーロッパ選手権でも2位を記録した。

こうした活躍が同国の元F1ドライバーであるエイドリアン・カンポスの目にとまり、1999年はカンポスレーシングからユーロ・オープン・モビスター・バイ・ニッサンに参戦。デビューレースで優勝を飾り、その年のチャンピオンも獲得。年末にはミナルディでのF1テストドライブも経験、他の同年代のテストドライバーより1.5秒速いタイムを記録した[1]

2000年には国際F3000に参戦し、シリーズランキング4位となる。ベネトンの元チーム代表だったフラビオ・ブリアトーレとマネージメント契約を結ぶ。

F1における経歴[編集]

ミナルディ[編集]

2001年[編集]

ミナルディ・PS01を駆るアロンソ

ルノーの契約下ながら、ミナルディからF1デビュー。開幕戦オーストラリアGPにエントリーされた時点で19歳217日は、史上3番目の若さでのデビューだった。競争力の劣るミナルディのマシンを駆りながらベネトンBARと争うなど卓越したパフォーマンスを見せ、注目を集める。

ルノーのチーム代表に就任したブリアトーレの意向でジェンソン・バトンに代わってルノーのレギュラードライバーとして契約することも考慮されたが[1]、2002年はテストドライバーとして契約した。

ルノー(第1期)[編集]

2002年[編集]

ルノーのテストドライバーとして、シルバーストンバレンシアヘレスカタロニアといった各地のコースで、計1,642周を走破[1]。その一方で、5月にはシルバーストーンでジャガーもテストし、レギュラードライバーのペドロ・デ・ラ・ロサを上回るタイムを記録した。ルノーはこの年限りでジェンソン・バトンとの契約を終了し、アロンソは翌年のレギュラーシートを得ることになる。

2003年[編集]

ルノーのレギュラードライバーとしてレースに復帰すると、第2戦マレーシアGP予選において、当時の史上最年少記録(21歳236日)でポールポジションを獲得。決勝レースは3位でチェッカーを受け、これも当時の史上最年少記録(21歳237日)での表彰台獲得であった。第5戦スペインGPではこの時点で自己最高位となる決勝2位表彰台を獲得した。そして第13戦ハンガリーGP予選で自身2度目のポールポジションを獲得すると、決勝も完璧なレース運びでポール・トゥ・ウィンを飾り、当時の史上最年少優勝記録(22歳26日)を樹立した。

この年は最終的に、優勝1回、優勝を除く表彰台4回、その他入賞6回を獲得し、55ポイントを挙げ年間ランキング6位でシーズンを終えた。

2004年[編集]

2004年アメリカGP

更なる飛躍が期待されたが、中盤までチームメイトであるヤルノ・トゥルーリに遅れをとり、度重なる予選でのミスや第6戦モナコGPでのクラッシュなど、不安定さもうかがわせた。このシーズンは表彰台4回を含め入賞12回、第10戦フランスGPではポールポジションを獲得するなどの活躍も見せたが、フェラーリ勢の圧倒的な活躍もあって、優勝することはできなかった。

2005年[編集]

サンマリノGPで優勝したアロンソ(左2人目)

ルノー・R25が当初より競争力の高さを示し、開幕戦オーストラリアGPにおいて、チームメイトのジャンカルロ・フィジケラが優勝すると共に、自身も3位表彰台を獲得した。第2戦マレーシアGPではポールポジションを獲得すると、決勝でも圧倒的な速さを見せ、1年7か月ぶりの勝利をあげた。続く第3戦バーレーンGP、第4戦サンマリノGPでも勝利をあげ、自身初の3連勝を達成。特にサンマリノGPでは残り13周で首位走行中に、背後のミハエル・シューマッハからの猛攻に晒されたが、それを凌いで勝利した。第5戦スペインGPでも2位表彰台を獲得し、開幕5戦全てで表彰台を獲得した。

その後はマクラーレンキミ・ライコネンが追い上げを見せ、一時守勢に回ることになったが、抜群の安定感で第17戦ブラジルGPまでに実に17レース中13度の表彰台を獲得。スペイン人として初、そして当時F1史上最年少でF1ワールドチャンピオンに輝いた。その後の2レースでも3位と優勝を獲得し、ルノー初のコンストラクターズチャンピオン獲得に貢献した。「24歳58日」でのチャンピオン獲得は、1972年にエマーソン・フィッティパルディが樹立した最年少チャンピオン記録「25歳273日」を実に33年ぶりに更新するものであった(2008年にルイス・ハミルトン、2010年にセバスチャン・ベッテルによりこの記録は更新された)。シーズンオフには2007年よりマクラーレンへ移籍することを早々と表明した。

2006年[編集]

アロンソ(前)とシューマッハ(2006年アメリカGP)

ディフェンディングチャンピオンとして臨んだ2006年、開幕戦バーレーンGPを制すると前年以上のペースでポイントを積み重ねた。第6戦スペインGPでスペイン人ドライバーとして母国グランプリ初制覇を成し遂げ、大観衆のアロンソマニアたちを喜ばせた。スペインGPから第9戦カナダGPまで4連勝(第5戦ヨーロッパGPから5戦連続ポールポジション)、前半戦終了時点でライバルのシューマッハを25点リードした。

中盤以降は突然のマス・ダンパー使用禁止や、第15戦イタリアGP予選での不可解なペナルティなどもあり、第16戦中国GP終了時にはシューマッハにランキングで逆転される。この年限りでルノーを離れる自分にチームのサポートが足りないと不満も漏らした[2]。しかし第17戦日本GPでシューマッハがエンジンブローでリタイアしたことで再逆転し、続く最終戦ブラジルGPでもシューマッハがトラブルで後退したため、余裕の2位フィニッシュで2年連続チャンピオンを獲得した。

マクラーレン[編集]

2007年[編集]

2007年マレーシアGP

3年契約でマクラーレンに移籍。チームメイトはルーキーで前年度GP2チャンピオンのルイス・ハミルトン。移籍2戦目となる第2戦マレーシアGPにおいて優勝をあげ、チームメイトのハミルトンと共にワンツーフィニッシュを飾った。その後も第5戦モナコGP第10戦ヨーロッパGP第13戦イタリアGPで勝利をあげ、第14戦ベルギーGPまでの全戦でポイントを獲得していたが、第15戦日本GPでのシーズン唯一リタイアを喫したことが痛手となり、わずか1ポイント差でタイトル3連覇を逃した。

シーズン中盤からはチームがハミルトンをひいきしていると批判を繰り返したことで、チームとの関係も悪化した。第11戦ハンガリーGPでは、予選時にハミルトンのアタックをさせないための妨害をしたとして(後述)、5グリッド降格処分を受けた。その後、フェラーリとマクラーレン間のスパイ疑惑問題で、アロンソとペドロ・デ・ラ・ロサが交わしたEメールが証拠となり、FIAからマクラーレンに厳罰が下された。この一件でチーム代表ロン・デニスと完全に対立し、他チーム移籍の噂が囁かれるようになる。そして11月2日、残り2年の契約を破棄してチームを離脱することでマクラーレンと合意したことが発表された。

ルノー(第2期)[編集]

2008年[編集]

移籍先としてレッドブルトヨタの名が挙がったが[3]、2007年12月10日、2008年シーズンより古巣ルノーに復帰することが発表された。

シーズン序盤はマシンの競争力が乏しく、予選では上位につける活躍を見せたが、決勝では表彰台にすら立てない程苦戦が続き、特に第10戦ドイツGPのレース内容には、母国スペインのメディアからも批判の声があがった[4]。しかし、第13戦ベルギーGP第14戦イタリアGPと2戦連続4位入賞で勢いに乗ると、F1史上初のナイトレースである第15戦シンガポールGPでは、セーフティカー出動のタイミングに助けられてシーズン初優勝を飾った(のちに疑惑の勝利であることが発覚)。続く第16戦日本GPでも優勝し、2連勝を飾り復調の兆しを見せた。最終戦ブラジルGP、開始数分前に突然の雨が降るなど、波乱の展開となったレースで早めのタイヤ交換など巧みな状況判断で、2位表彰台を獲得。

後半戦では驚くべき前進を見せ、終盤6戦では誰よりもポイントを獲得し、ランキング5位でシーズンを終えた。

2009年[編集]

昨年に引き続きマシンの競争力不足から苦戦をしいられ、2004年シーズン以来、未勝利に終わった。シーズン終盤にアロンソ自身が「R29は(自分が今までに乗った)F1で最悪のクルマ」と語っている[1]ように、シーズンの半分以上をノーポイントで終え、ランキング9位と低迷した。

しかし、そのようなマシンでも第9戦ドイツGPでおよそ1年半ぶりとなるファステストラップ獲得や、第10戦ハンガリーGP2007年イタリアGP以来、およそ2年ぶりとなるポールポジションを獲得する活躍を見せた。そして第14戦シンガポールGPでは、クラッシュゲートによりメインスポンサーの即時契約解除やチーム代表が辞任するなどさまざまな問題が起こったが、そんな中でも予選5番手を獲得し、決勝では今期初表彰台となる3位を獲得。重要なレースで結果を残した。

フェラーリ[編集]

2010年[編集]

2009年10月1日、2010年よりキミ・ライコネンに代ってフェラーリへの移籍を発表。3年契約+3年オプションの契約。 2010年1月12日、フェラーリ恒例のイベント“Wrooom”でフェラーリ・アロンソを初披露した。ちなみにヘルメットを2002年以来から使用し続けていたアライからシューベルトに変更している。 2月3日のバレンシア合同テストでは、初ドライブでトップタイムを記録。1日と2日にドライブしたマッサもトップタイムを記録するなど、上々の滑り出しを見せた。

迎えた開幕戦バーレーンGPでは予選3番手を獲得。決勝ではスタートで1つ順位を上げると、終盤トラブルで失速したベッテルオーバーテイクファステストラップも記録してフェラーリでのデビュー戦で初優勝を達成した。

母国での第5戦スペインGPは予選4番手。決勝での巻き返しが期待されたが徐々に遅れていき首位から20秒以上も引き離された。しかし、単独4位走行中の終盤にファステストラップを連発。3位を走るベッテルを1周約0.5秒ずつ追い上げていきベッテルがトラブルでピットインした後は残り2周でハミルトンがリタイアしたこともあり、2位表彰台を獲得した。

第12戦ハンガリーGPでは予選でレッドブルの2台に圧倒的な差をつけられたが3位につけた。決勝では、ペナルティにより3番手に下がったセバスチャン・ベッテルが1周1秒近く速いタイムで後方から追い上げたが、30周あまりに渡ってブロックし続けて2位表彰台を獲得。第13戦ベルギーGPで予選10番手、決勝では不用意なミスからクラッシュでリタイアとなり不調が心配されていたが、第14戦イタリアGPでは予選でポールポジションを獲得。決勝ではスタートで2位に落ちたが、1回目のピットストップでバトンをかわして首位に立つと、ファステストラップを刻みながらそのままトップでチェッカーを受け、フェラーリの母国でハットトリックを達成した。フェラーリ移籍初年度でフェラーリのお膝元であるモンツァで優勝を決めたのは1996年のミハエルシューマッハー以来14年ぶりである。続く第15戦シンガポールGPでも2戦連続となるハットトリックを飾り、タイトル争いで2位に躍進した。ちなみにこの優勝は、2004年のミハエル・シューマッハー以来6年ぶり、F1史上50回目のグランドスラム達成(ポールポジション獲得・レース中1度も首位を譲らずの完全優勝・ファステストラップ獲得)でもあった。チャンピオンシップ首位に返り咲き、迎えた最終戦アブダビGPにてピット作戦の失敗も重なり7位入賞に終わり、それまでドライバーズランキング3位だったセバスチャン・ベッテルが優勝したため、チャンピオン獲得はならず、ランキング2位に終わった。

2011年[編集]

2011年もフェラーリから参戦。開幕前のテストから好調で、昨年の王者レッドブル勢に対抗しうるシーズンになるかと思われていたが、開幕戦オーストラリアGP予選ではレッドブル勢のみでなくテストの不調から巻き返したマクラーレン勢の後塵を拝し、5番手からスタートすることになり、決勝レースではルノーペトロフにも先行される結果となった。第2戦マレーシアGPでも予選5位にとどまり、決勝では終盤にペースを上げ3位のハミルトンをオーバーテイクしようと試みたが、フロントウィングをリアタイヤに当ててしまい、ピットストップを余儀なくされ結局6位でレースを終えた。レース後に、接触の責任を問われペナルティを受けたが、順位の変動はなかった。

5月19日、2016年までフェラーリとの契約延長を発表。

第9戦イギリスGPでは2010年韓国GP以来の優勝を遂げた。この勝利はフェラーリが初優勝をあげてからちょうど60周年で同じシルバーストーンであった。

ドライバーズランキング3位で迎えた最終戦ブラジルGPであったが、3位を争うウェバーが同グランプリを制したため、アロンソはウェバーと1点差のランキング4位でシーズンを終えた。

2012年[編集]

イタリアGPの表彰式にてアロンソとティフォシたち

2012年も引き続きフェラーリから参戦。テスト段階からF2012の性能不足は明らかで、 開幕戦オーストラリアGPでは予選Q3に進むこともできなかったが、第2戦マレーシアGPでは、雨天の混乱を制してアロンソ自身「大きなサプライズ」と語る勝利を挙げた。母国グランプリの第5戦スペインGPでは大幅なアップデートによりマシン性能が改善、パストール・マルドナドに次ぐ2位を獲得する。続く第6戦モナコGPでも3位表彰台を獲得し、この時点でランキングトップに立った。第8戦地元ヨーロッパGPでは、予選11番手から追い上げ、トップを独走していたベッテルのリタイアにも助けられ今シーズン2勝目を飾った。表彰台では感極まり目頭を押さえた。第9戦イギリスGPと第10戦ドイツGPではどちらも雨の予選を制しポールポジションを獲得する。イギリスGPでは最後にウェバーに競り負け2位に終わるが、ドイツGPでは終始トップを守り3勝目を挙げた。ランキング2位以下のライバル達との大きな差を維持しながら、3度目のチャンピオンへ向けて順風満帆と思われた。

しかし、第12戦ベルギーGP、第15戦日本GPではスタート直後の1コーナーで他車との接触事故によりリタイアし、復調したレッドブルを駆るベッテルにポイントリーダーの座を譲る。勝てないレースでも表彰台に乗り続けることでベッテルとのポイント差拡大を食い止め、最終戦ブラジルGPでの逆転に賭けたが、2010年の雪辱を晴らすような展開にはならなかった。チャンピオンを獲得したベッテルとは3点差のランキング2位でシーズンを終えた。

2013年[編集]

2013年ベルギーGP

2013年は開幕から好調で、タイヤに優しいF138の美点を活かして第3戦中国GPスペインGPで優勝した。地元スペインGPでの勝利は2006年以来となった。しかし、その後はベッテルにポイント差を広げられてチャンピオン獲得をギブアップ。終盤戦はフェラーリとメルセデスのコンストラクターズ2位争いにおける働きが目立つ程度だった。アブダビGPでは高速で縁石を乗り越える際に28Gの衝撃を受け、しばらく頭痛などの後遺症が残った[5]。 最終的にドライバーズランキング2位でシーズンを終えた。

磐石と思われていたチームとの関係も変化し、誕生日のプレゼントに「他の人が乗っているような車」が欲しいと発言して、フェラーリ公式サイト上でルカ・ディ・モンテゼモーロ会長から釘を刺された[6]。イタリアGP予選ではスリップストリーム作戦の失敗に対して無線でチームに暴言を吐いたと報道された[7]

2014年[編集]

レギュレーションの変更に伴い、固定ナンバー制となった。アロンソは14を選択。これはカート時代に使用していたラッキーナンバーである。

特筆されるレース[編集]

2005年サンマリノGP
サンマリノGPではミハエル・シューマッハと緊迫したテール・トゥ・ノーズの優勝争いを展開した。2005年は先行するアロンソがシューマッハを10周以上に渡って巧みに抑え込み僅か0.2秒差で優勝。
2005年日本GP
雨絡みの予選では出走順のあやで16位に沈んだが、決勝ではキミ・ライコネンとともにオーバーテイクショーを披露。最終ラップに逆転優勝したライコネンに及ばず3位に終わったものの、300km/h超のスピードで飛び込む鈴鹿名物の130Rでミハエル・シューマッハをアウトから豪快に追い抜く見せ場を作った。
2006年バーレーンGP
予選4位から順位を上げ、速さで勝るフェラーリのミハエル・シューマッハが迫っていたため予定より早めにピットストップする事を決断、これが見事に的中しシューマッハを逆転する事に成功した。直後にミハエル・シューマッハとサイドバイサイドで1コーナーを通過するという非常に緊迫したバトルを制した。
2008年日本GP
予選ではタイトル候補の一角であるフェリッペ・マッサを上回る4位を獲得。決勝ではスタート直後の1コーナーでルイス・ハミルトンが他車を巻き込みコースアウトするなど大混乱となり、トップ2チームが順位を落とす混乱に乗じて1位となったロバート・クビサに続く2位となる。その後はクビサとの優勝争いとなりクビサのピットストップに乗じてペースアップ、次の周にはクビサよりも短い給油時間でピットストップを行い、逆転に成功。その後のピットストップでもトップを譲ることなく逃げ切り前戦シンガポールGPからの2連勝を達成した。このレースではワールドチャンピオン争いを展開していたハミルトンとマッサが共にトップドライバーとしてあるまじき行為でペナルティを受けるなどタイトル候補の二人が評価を落とした反面、終始安定した走りと速さで大人のレースを見せ優勝したアロンソの評価が大きく上げる結果となった。
2010年イタリアGP
週末を通して好調でポールポジションを獲得。決勝ではフロントローにつけたマクラーレンのジェンソン・バトンにスタートで先行を許すもピットストップで逆転、その後はファステストラップを刻みながら他を寄せ付けない走りで優勝を果たした。フェラーリ移籍初年度でお膝元であるモンツァを勝利したドライバーは1996年のミハエル・シューマッハ以来14年ぶり、ハットトリックを決めたドライバーとしては1950年からフェラーリがF1に参戦してから史上初となる歴史的快挙である。フェラーリの母国凱旋でのハットトリックはこの年のドライバーズチャンピオンシップに望みを繋ぐだけでなくチームの士気をさらに高める大きな勝利となった。
2012年ヨーロッパGP
予選11番手スタートからポジションを上げ、セーフティカー導入前後に2位まで挽回。その後、独走していたセバスチャン・ベッテルがリタイアしてトップに立つ。観衆の声援を受けながら地元グランプリでの2度目の優勝を果たし、表彰台で涙を流した。

議論を呼んだレース[編集]

2006年ハンガリーGP
金曜日午後のフリー走行で道を譲らなかったレッドブルのサードドライバー、ロバート・ドーンボスに対してホームストレートで追い抜きをした直後ドーンボスに対して幅寄せとブレーキテスト[8]を行った。重大な危険行為として、予選各セッションでの最速タイムに2秒を加算するというペナルティを受けた。ウェットレースとなった決勝では予選15位からオーバーテイクするなど怒涛の追い上げを見せ、レース中盤にはトップに返り咲くも51周目にピットインでドライタイヤに交換直後右リアタイヤのホイールナットがきちんと装着されておらず、コース復帰直後にコースを外れてリタイアした。
2006年イタリアGP
予選でフェリペ・マッサのアタックラップを妨害したとして、5グリッド降格ペナルティを受けた。しかしこの裁定は疑問を呼んだ[9]。アロンソはトラブルで予選終了間際までタイムを残せておらず、そのため問題の周回は、予選終了までに最後のタイムアタックができるか否かの瀬戸際のタイミングとなり、意図的にペースを落とせる程の余裕はなかった。この裁定が下された後にルノーによって開かれた会見で「私はこのスポーツのことを愛しているが、F1のことをスポーツだとはもはや思えない。」と涙ながらに語った[10]。また、この年チャンピオン争いを繰り広げたミハエル・シューマッハでさえも、後に「アロンソの心情が理解できる。」と語っている[11]
2007年ハンガリーGP
予選Q3の終盤、最終アタックを前にピットインし、ピットアウトのタイミングを図るために20秒間停止。その間にピットインしたチームメイトのルイス・ハミルトンがアロンソの後で待機していたが、アロンソはチームから発進の指示が下った後も10秒間停止し続けた。ハミルトンは後ろで10秒間余分に待機されたことにより、わずかな差で最終アタックができなかった。この行為が「ハミルトンの最終アタックの機会を妨害した」と判定され、5グリッド降格のペナルティを受けた。また、チームに対しても「このような行為はスポーツに損害を与える、汚すもの」として、コンストラクターズポイントの獲得を本GPにおいて認めないことと、自チームドライバーが優勝してもコンストラクターズトロフィーは受け取ることができないというペナルティが課せられた[12]。アロンソは「余分な10秒」について、「取り付けられたタイヤは正しいのかを聞いていた」と妨害が故意でないことを主張した。ロン・デニスは、Q3序盤にハミルトンがチームからの無線による指示を無視し、アロンソを先行させなかったことで、予選での戦略を妨害したことが発端と発言している[13]
2008年シンガポールGP
フリー走行でトップタイムを記録するも、予選はマシントラブルにより15位に終わる。決勝ではタイヤ交換を行った直後に同僚のネルソン・ピケJr.がクラッシュし、セーフティカーが導入。これに乗じてトップに浮上し、その後もセーフティカーが導入されトップチームに追い上げられるも巧みに押さえ込みルノー復帰後初勝利を果たした。2周目でドリンクボトルが故障したため、2時間近く水分補給が出来なくなるアクシデントを抱えていた。
翌2009年、この勝利に関して「クラッシュゲート」と呼ばれる不祥事が発覚。アロンソ自身も関わっていたのではないかとの嫌疑がかけられ、9月21日に行われたFIAによる世界モータースポーツ評議会の公聴会が開かれた。[14]世界モータースポーツ評議会は「アロンソ氏はルノーF1のレギュレーション違反には一切関与していなかった」と断定した。[15]その後、ネルシーニョの父ネルソン・ピケは「アロンソは知っていた」と主張したが、その証拠を示していない。[16]
2010年ドイツGP
チームメイトのフェリペ・マッサと首位争いをしていたが、チームからマッサへ「Fernando is faster than you. Can you confirm you understood that message?」(フェルナンドは君より速い。このメッセージの意味が理解できるか?)との無線が入り、その直後にマッサは露骨に減速して首位をアロンソに譲った。特に今回、フェラーリの指示がテレビ中継で放映されていたこと、明らかに間接的なチームオーダーだと分かるような表現を使っていたことにより、レース終了後に10万ドルの罰金が課せられた。9月8日、この件に関して世界モータースポーツ評議会による公聴会が開かれ、更なるペナルティが下る可能性もあったが、評議会の裁定は10万ドルの罰金というスチュワードの裁定を認めると共に、FIAが支払った費用の支払いを課すという内容にとどまった。

エピソード[編集]

人気・評価
  • 最速ではないマシンでも勝利を狙うことができるドライバーとして「現役最強」という評価がある[17]ニキ・ラウダは自分やアラン・プロストのように「フェルナンドもまた、ほかの誰にもまねできないレースのビジョンを持っている」と述べている[18]
  • 2010年に現役F1ドライバー24名へ匿名アンケートを行った結果、アロンソが現役最高のドライバーに選ばれた[19]。同年末にイギリスの『AUTOSPORT』誌が実施したF1チーム代表へのアンケートでは、チャンピオンのセバスチャン・ベッテルを上回って2010年のベストドライバーに選ばれた[20]。このようなアンケートについて、ジャッキー・スチュワートは「私はまったく迷わないね。アロンソがナンバーワンだ。(彼は)ほかとは異次元だよ」と述べている[18]
  • ロードレース世界選手権世界ラリー選手権ではスター選手を簇出していたスペインだが、F1においてはアロンソがほぼ初めてのスター選手となった。スペインにおけるアロンソの人気は高く、スペイングランプリで出身地であるオビエドの旗がスタンドに数多くひるがえる。マスコミもアロンソを執拗に追い回しプライベートを取り上げようと躍起になっている。妻や家族にまで取材の手が及び、アロンソ自身もスペインに帰国することすらままならなくなっている[21]
  • 2007年5月21日、スペイン南西部のセビリアにおいて開催されたルノー主催のイベントには、28万人以上のファンが押し寄せた[22]
  • 経済誌『フォーブス』が発表する2012年度のスポーツ選手長者番付では推定3,200万ドル(約25億3,000万円)で総合19位にランクされた(現役F1ドライバー中では最高額)[23]。別報道では年俸3,800万ユーロ(約30億円)と見積もられたが、フェラーリ側はこれを否定している[23]
妻・恋人
  • 2006年11月にポップ・ロックグループ「エル・スエニョ・デ・モルフェオ」のリードシンガーであるラクエル・デル・ロサリオ (Raquel del Rosario) と結婚したが、5年後の2011年12月に離婚を発表した[24]
  • 2012年には新たなガールフレンドとしてロシア人モデルのダーシャ・カプスティナとの交際を公にしている[25]
趣味・思想
チーム・ドライバーとの関係
  • 憧れのドライバーはアイルトン・セナ。「子供の頃は、スペインではF1の人気はあまりなかったが、多くのスペイン国民は実際にセナが何者なのかを知らない人でさえセナが好きだと言っていた。」と語っており、アロンソもその一人だった。幼い頃に遊んでいたミニカーは、全てセナのものか、もしくはセナと同じカーナンバーのものだった。アロンソが2006年当時低迷気味だったマクラーレンにあえて移籍した理由は、セナへの憧れがあったからだという[35]
  • 2007年「今年のマクラーレンは、僕のおかげでコンマ5秒か6秒くらいは速くなっているはずだ。」と語り[36]ロン・デニスに「誰がどれだけ貢献したのかという判断を下すのは難しい。」と返され[37]、ハミルトンには「大勢のスタッフがいるチームでやっていることなんだ。誰か一人がタイムを縮めているんじゃない。」と反論された[38]
  • 2007年シーズンオフには、当時所属していたマクラーレンのアロンソに対する待遇に不満を抱いたファン13万人以上が署名活動を行い、FIAに異議を申し立てた[39]
  • マクラーレンとの契約を破棄する際の合意条項には、その後のアロンソのマクラーレンに関する発言に、何らかの制約が設けられていることが、ロン・デニスにより語られている[40]。また、このような形でケンカ別れしたことに関してマーティン・ウィットマーシュは後に、「フェルナンドのようなスターを失ったことは非常に大きな後悔となっている。」と語っている[41]
  • マクラーレン時代に激しいチーム内争いを繰り広げたルイス・ハミルトンとは事あるごとに確執と因縁が語られるが、アロンソはハミルトンを「現役最速」「ベッテルより上」等とコメントするなど非常に高く評価している[42][43]。またハミルトンもアロンソのことを「永遠のライバル」[44]と評しており、良きライバルとして互いに認め合っている。
  • 常にフェラーリへの憧れを語っていたが、100%フェラーリが最後のチームになると話している。なお、アロンソ以外のスペイン人ドライバーがフェラーリでレースをしたのは1957年フロイラン・ゴンザレスとシートシェアする形で参戦したアルフォンソ・デ・ポルタゴ (Alfonso de Portago) 以来であり、実に43年ぶりのスペイン人フェラーリF1ドライバーとなった。
  • F1ドライバーの中でもロバート・クビサと特に親しく、世界の様々なメディアでもアロンソとクビサの仲を「親友」と取り上げている。クビサはF1デビュー戦の2006年ハンガリーグランプリで8位入賞を果たしたもののマシンの重量規定違反で失格となった。クビサは落胆したが、その走りを見たアロンソは「クビサはチャンピオンになれる素質のドライバーだ。」と評価し、これを機に交友を深めていった。その後、前述の1000ドルポーカーにも参加するなどアロンソと共にポーカーや、上海レーシングカート場でまるで子供の様に2人でカート遊びをするなど彼らのプライベートの仲の良さには様々な逸話が存在する[45]。また、プライベート以外でも2009年までクビサが所属していたBMWザウバーチームが撤退した為にシート喪失の危機に陥ると、アロンソは「僕の後任として迎えられるならば彼を推挙したい」と在籍していたルノーF1に向けてメッセージを送り、実際にクビサがルノーF1への移籍に対して強力な後押しをした人物こそアロンソ本人であると言われている[46]。2011年2月にクビサがラリー事故により重傷を負った時、他のドライバーやF1関係者が見舞いの電報をクビサに送る中、ドライバーの中で病院に駆けつけたのはアロンソだけであった[47]。その後、ヘレスで行われた合同テストでアロンソのヘルメットにクビサのヘルメットのイラストをプリントしたものを使用している[48]
その他
  • ルノー時代には優勝後にカンガルーや鳥の形態模写をする動物パフォーマンスをみせていた。
  • 2011年の東日本大震災について、フェラーリの日本語公式サイト内で「日本が見舞われた悲劇を目の当たりにすると、F1のことや、タイヤやウイング、エンジンといった問題の優先度なんて低くなる。今はまず、被害にあった方や、その家族のことが心配だ」との思いを語った[49]

レース戦績[編集]

国際F3000選手権[編集]

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 順位 ポイント
2000年 チーム・アストロメガ IMO
9
SIL
EX
CAT
15
NÜR
Ret
MON
8
MAG
Ret
A1R
6
HOC
Ret
HUN
2
SPA
1
4位 17

F1[編集]

所属チーム 車番 ランキング 獲得ポイント 決勝最高位・回数 表彰台回数 予選最高位・回数 FL記録回数
2001年 ミナルディ 21 23位 0 10位・1回 0回 17位・1回 0回
2003年 ルノー 15 6位 55 1位・1回 4回 1位・2回 1回
2004年 8 4位 59 2位・1回 4回 1位・1回 0回
2005年 5 1位 133 1位・7回 15回 1位・6回 2回
2006年 1 1位 134 1位・7回 14回 1位・5回 5回
2007年 マクラーレン 1 3位 109 1位・4回 12回 1位・2回 3回
2008年 ルノー 5 5位 61 1位・2回 3回 2位・1回 0回
2009年 7 9位 26 3位・1回 1回 1位・1回 2回
2010年 フェラーリ 8 2位 252 1位・5回 10回 1位・2回 5回
2011年 5 4位 257 1位・1回 10回 2位・1回 1回
2012年 5 2位 278 1位・3回 13回 1位・2回 0回
2013年 3 2位 242 1位・2回 9回 3位・4回 2回
所属チーム マシン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 WDC ポイント
2001年 ミナルディ PS01 AUS
12
MAL
11
BRA
Ret
SMR
Ret
ESP
13
AUT
Ret
MON
Ret
CAN
Ret
EUR
14
FRA
17
GBR
16
GER
10
HUN
Ret
BEL
Ret
ITA
13
USA
Ret
JPN
11
23位 0
2003年 ルノー R23 AUS
7
MAL
3
BRA
3
SMR
6
ESP
2
AUT
Ret
MON
5
CAN
4
EUR
4
GBR
Ret
FRA
Ret
GER
4
HUN
1
ITA
8
USA
Ret
JPN
Ret
6位 55
2004年 R24 AUS
3
MAL
7
BHR
6
SMR
4
ESP
4
MON
Ret
EUR
5
CAN
Ret
USA
Ret
FRA
2
GBR
10
GER
3
HUN
3
BEL
Ret
ITA
Ret
CHN
4
JPN
5
BRA
4
4位 59
2005年 R25 AUS
3
MAL
1
BHR
1
SMR
1
ESP
2
MON
4
EUR
1
CAN
Ret
USA
DNS
FRA
1
GBR
2
GER
1
HUN
11
TUR
2
ITA
2
BEL
2
BRA
3
JPN
3
CHN
1
1位 133
2006年 R26 BHR
1
MAL
2
AUS
1
SMR
2
EUR
2
ESP
1
MON
1
GBR
1
CAN
1
USA
5
FRA
2
GER
5
HUN
Ret
TUR
2
ITA
Ret
CHN
2
JPN
1
BRA
2
1位 134
2007年 マクラーレン MP4-22 AUS
2
MAL
1
BHR
5
ESP
3
MON
1
CAN
7
USA
2
FRA
7
GBR
2
EUR
1
HUN
4
TUR
3
ITA
1
BEL
3
JPN
Ret
CHN
2
BRA
3
3位 109
2008年 ルノー R28 AUS
4
MAL
8
BHR
10
ESP
Ret
TUR
6
MON
10
CAN
Ret
FRA
8
GBR
6
GER
11
HUN
4
EUR
Ret
BEL
4
ITA
4
SIN
1
JPN
1
CHN
4
BRA
2
5位 61
2009年 R29 AUS
5
MAL
11
CHN
9
BHR
8
ESP
5
MON
7
TUR
10
GBR
14
GER
7
HUN
Ret
EUR
6
BEL
Ret
ITA
5
SIN
3
JPN
10
BRA
Ret
ABU
14
9位 26
2010年 フェラーリ F10 BHR
1
AUS
4
MAL
13
CHN
4
ESP
2
MON
6
TUR
8
CAN
3
EUR
8
GBR
14
GER
1
HUN
2
BEL
Ret
ITA
1
SIN
1
JPN
3
KOR
1
BRA
3
ABU
7
2位 252
2011年 150°Italia AUS
4
MAL
6
CHN
7
TUR
3
ESP
5
MON
2
CAN
Ret
EUR
2
GBR
1
GER
2
HUN
3
BEL
4
ITA
3
SIN
4
JPN
2
KOR
5
IND
3
ABU
2
BRA
4
4位 257
2012年 F2012 AUS
5
MAL
1
CHN
9
BHR
7
ESP
2
MON
3
CAN
5
EUR
1
GBR
2
GER
1
HUN
5
BEL
Ret
ITA
3
SIN
3
JPN
Ret
KOR
3
IND
2
ABU
2
USA
3
BRA
2
2位 278
2013年 F138 AUS
2
MAL
Ret
CHN
1
BHR
8
ESP
1
MON
7
CAN
2
GBR
3
GER
4
HUN
5
BEL
2
ITA
2
SIN
2
KOR
6
JPN
4
IND
11
ABU
5
USA
5
BRA
3
2位 242
2014年 F14 T AUS
4
MAL
4
BHR
9
CHN
3
ESP
6
MON
4
CAN
6
AUT
5
GBR
6
GER
5
HUN
2
BEL
7
ITA
Ret
SIN
4
JPN
Ret
RUS
6
USA
6
BRA
6
ABU
9
6位 161
2015年 マクラーレン MP4-30 AUS
-
MAL
-
CHN
-
BHR
-
KOR
-
ESP
-
MON
-
CAN
-
AUT
-
GBR
-
GER
-
HUN
-
BEL
-
ITA
-
SIN
-
JPN
-
RUS
-
USA
-
MEX
-
BRA
-
ABU
-
- -

F1における記録[編集]

現在保持する記録

  • 通算獲得ポイント
2013年第15戦日本GPにてミハエル・シューマッハが保持していた1566ポイントを32歳76日で更新。

更新された最年少記録

  • 最年少ダブルチャンピオン
2006年第18戦ブラジルGPにて25歳86日で樹立。2011年第15戦日本GPセバスチャン・ベッテル(24歳99日)が更新。
  • 最年少チャンピオン
2005年第17戦ブラジルGPにて24歳58日で樹立。2009年第18戦ブラジルGPルイス・ハミルトン(23歳300日)が更新。
  • 最年少優勝
2003年第13戦ハンガリーGPにて22歳25日で樹立。2008年第14戦イタリアGPでセバスチャン・ベッテル(21歳73日)が更新。
  • 最年少ポールポジション
2003年第2戦マレーシアGPにて21歳236日で樹立。2008年第14戦イタリアGPでセバスチャン・ベッテル(21歳72日)が更新。
  • 最年少ファステストラップ
2003年第8戦カナダGPにて21歳321日で樹立。2006年開幕戦バーレーンGPニコ・ロズベルグ(20歳258日)が更新。
  • 最年少表彰台
2003年第2戦マレーシアGPにて21歳237日で樹立。2008年第14戦イタリアGPでセバスチャン・ベッテル(21歳73日)が更新。
  • 最年少ラップリーダー
2003年第2戦マレーシアGPにて21歳237日で樹立。2007年第15戦日本GPでセバスチャン・ベッテル(20歳89日)が更新。
  • 最年少完走
2001年第1戦オーストラリアGPにて19歳217日で樹立。2009年第10戦ハンガリーGPハイメ・アルグエルスアリ(19歳126日)が更新。

脚注[編集]

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  1. ^ a b c F1Fanatic.co.uk 2006年1月7日
  2. ^ "アロンソ ルノーからのサポートがほしい". GP Update.(2006年10月6日)2013年11月28日閲覧。
  3. ^ "2008年にアロンソと真剣交渉していたレッドブル". TopNews.(2013年11月1日)2013年11月28日閲覧。
  4. ^ F1-Live.com 2008年7月23日
  5. ^ "「無感覚」症状の診断を受けていたアロンソ". TopNews.(2013年11月18日)2013年11月28日閲覧。
  6. ^ "F1=フェラーリ会長、アロンソのコメントを非難". ロイター.(2013年7月30日)2013年11月28日閲覧。
  7. ^ "フェルナンド・アロンソ、無線で「お前らは馬鹿か。マンマミーア」". F1-Gate.com.(2013年9月8日)2013年11月28日閲覧。
  8. ^ 意図的に他車の寸前で通常より早めにブレーキを踏む行為。多くの場合、威圧・抗議・嫌がらせなどの意味がある。
  9. ^ F1-Live.com 2006年9月10日
  10. ^ Gpupdate.net 2006年9月10日
  11. ^ Gazzetta dello Sport 2006年11月29日
  12. ^ F1-Live.com 2007年8月6日
  13. ^ F1-Live.com 2007年8月5日
  14. ^ F1-Live.com 2009年9月21日
  15. ^ オートスポーツWeb 2009年9月21日
  16. ^ Motorsport.com 2009年9月14日
  17. ^ フェルナンド・アロンソ「キミ・ライコネン復帰をとても喜んでいる」 - F1トップニュース(2012年2月13日)
  18. ^ a b 元王者たちからアロンソに称賛の嵐 - ESPN F1(2012年7月26日)
  19. ^ 現役最高のドライバーはフェルナンド・アロンソ/現役F1ドライバーのアンケート結果- F1トップニュース(2012年2月13日)
  20. ^ F1通信 2010年12月03日
  21. ^ F1-Live.com 2007年5月3日
  22. ^ F1-Live.com 2006年5月22日
  23. ^ a b http://ja.espnf1.com/ferrari/motorsport/story/81795.html 最もリッチなドライバーはアロンソ - ESPN F1(2012年6月20日)
  24. ^ アロンソ、人気シンガーとの離婚を発表 - オートスポーツ(2011年12月21日)
  25. ^ アロンソ、新恋人カプスティナ嬢と優勝の記念撮影 - オートスポーツ(2012年7月23日)
  26. ^ F1-Live.com 2008年7月24日
  27. ^ 騒音厳禁!パドックキャットがお祭り騒ぎ後の閑散としたパドックに極秘潜入 - PUMA Motorsport(2012年5月13日)
  28. ^ Alonso trains with Tour de France winner Sastre
  29. ^ 公式声明 2012年3月16日付
  30. ^ アロンソ、巨額の税金と共に故郷へ - ESPN F1(2011年5月24日)
  31. ^ フェルナンド・アロンソ、背中に入れた武士のタトゥー画像を公開 - トップニュース(2012年6月3日)
  32. ^ フィギュアと一緒に世界を転戦 F1個人総合首位アロンソと「テイルズ」の不思議な関係 - ねとらぼ(2012年10月5日)2012年10月22日閲覧。
  33. ^ フェルナンド・アロンソ、フィギュア“Tomita”について語る - F1-Gate.com(2012年12月1日)2012年12月2日閲覧。
  34. ^ A FRIEND FOR LIFE - fernandoalonso.com(2012年10月4日)2012年10月22日閲覧。
  35. ^ Autosport 2009年5月7日・14日合併号
  36. ^ F1-Live.com 2007年8月26日
  37. ^ F1-Live.com 2007年8月27日
  38. ^ F1-Live.com 2007年8月30日
  39. ^ F1-Live.com 2007年12月4日
  40. ^ F1-Live.com 2008年8月4日
  41. ^ F1-TopNews 2009年8月23日
  42. ^ ESPN F1 2011年2月15日
  43. ^ ESPN F1 2011年11月12日
  44. ^ AutoSport 2011年3月31日
  45. ^ “オーストラリアGP お友達クビサとブリさんと”. Alonso Fun Style. (2009年3月28日). http://ddc.kirara.st/funstyle/archives/198 2011年2月15日閲覧。 
  46. ^ “アロンソ、ルノーの後任にクビサを推薦”. F1 Gate.com. (2009年10月2日). http://f1-gate.com/alonso/f1_5062.html 2011年2月8日閲覧。 
  47. ^ “【動画】ロバート・クビサの担当医、手術について語る フェルナンド・アロンソ訪問の様子も”. TN topnews.jp. (2011年2月7日). http://www.topnews.jp/2011/02/07/news/f1/teams/renault/30762.html 2011年2月8日閲覧。 
  48. ^ “フェルナンド・アロンソ、ヘルメットにロバート・クビサのイラスト”. F1 Gate.com. (2011年2月13日). http://f1-gate.com/alonso/f1_10772.html 2011年2月15日閲覧。 
  49. ^ フェラーリ日本語公式サイト

関連項目[編集]

外部リンク[編集]


スポーツのタイトル
先代:
ミハエル・シューマッハ
F1ドライバーズチャンピオン
2005年-2006年
次代:
キミ・ライコネン