ルカ・バドエル

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ルカ・バドエル
Luca Badoer 2007 Desafio Internacional das Estrelas.jpg
基本情報
国籍 イタリアの旗 イタリア
出身地 同・トレヴィーゾ県モンテベッルーナ
生年月日 1971年1月25日(43歳)
F1での経歴
所属チーム '93 スクーデリア・イタリア[1]
'95,'99 ミナルディ
'96 フォルティ・コルセ
'09 フェラーリ
活動時期 1993,1995-1996,1999,2009
出走回数 50
優勝回数 0
通算獲得ポイント 0
表彰台(3位以内)回数 0
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
初戦 1993年南アフリカGP
初勝利 -
最終勝利 -
最終戦 2009年ベルギーGP
タイトル 0
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ルカ・バドエルLuca Badoer, 1971年1月25日 - )は、イタリアトレヴィーゾ県モンテベッルーナ出身のレーシングドライバー。近年ではフェラーリのテストドライバーとしてよく知られている。

略歴[編集]

カート/F3[編集]

レーシングカートでデビューし、1988年にはレーシングカートのイタリアの国際100ccクラスチャンピオンとなり、1990年にはイタリアF3選手権にステップアップし最終戦で初優勝をあげた。

F3000[編集]

1991年にもイタリアF3選手権に参戦し4戦で優勝する。1992年国際F3000選手権にステップアップし、クリプトンチームから参戦、当時史上最年少でチャンピオンを獲得し注目を浴びた。

F1[編集]

1993年[編集]

1993年スクーデリア・イタリアからF1デビュー。おそらくその年最も遅かったであろうローラのシャシーと、信頼性が欠如したフェラーリ製のV12エンジンの組み合わせながら、大ベテランのミケーレ・アルボレートと遜色のない速さを見せる。サンマリノGPでは7位を獲得する。

1994年 - 1996年[編集]

1995年イギリスGPにて、ミナルディ・M195を駆るバドエル

1994年はシートが得られず、ミナルディのテストドライバーとなる。

1995年にはミケーレ・アルボレートの引退で空いたミナルディのシートを獲得。開幕前は期待されたが、資金不足が影響しカナダGPハンガリーGPでの8位がベストリザルトだった。

1996年に新興のフォルティ・コルセに移籍したバドエルだったが、戦闘力に欠け熟成が進まないマシンに苦戦した揚句、資金難に陥っていたチームは第10戦イギリスGPを最後に撤退してしまう。

1997年 - 1999年[編集]

1997年からはフェラーリのテストドライバーを務める事になり、1997年と1998年はテストドライバーに専念した。

1999年はフェラーリの支援もあり、フェラーリのテストドライバーを行いながらミナルディからF1の実戦に復帰した。テスト走行中に右手を骨折し第2戦のみ欠場した。イギリスGPミハエル・シューマッハが足を骨折し、フェラーリのマシンを最もよく知るドライバーとして代役に抜擢される最大のチャンスが訪れたが、その年はミナルディでのチームメイトであるマルク・ジェネとの比較で下回る走りしかできなかったことから、結局その役はミカ・サロに奪われた。本人は「とても失望した」と語った。翌年、シートの獲得が難しくなったバドエルは残りのドライバー人生をフェラーリのテストドライバーとして過ごすことを決意する。

2000年 - 2010年[編集]

バルセロナにおけるテストにて(2008年)

バドエルがテストドライバーであった期間にフェラーリは7回ものワールドチャンピオンに輝いており、バドエルはマシン開発において大きく貢献しているとして高い評価を得た。またレースウィークは全戦に帯同していた。

2009年には、空力付加物の大幅な制限やKERSの導入によりシャシー性能が従来と大きく性格の異なるものとなったが、この年からシーズン中の実走行テストが禁止となり、バドエルはシーズン前のわずかな期間しか開発に関わることが出来なくなった。シーズン中の開発はレースウィークの金曜フリー走行でのレギュラードライバーによる実走行がテストの変わりとなり、従来テストドライバーと呼ばれていたドライバー達は、リザーブ(補欠、予備)ドライバーとなりシャシーに対する習熟が無くなってしまう。

そのような状態で、ハンガリーGPを怪我で欠場したフェリペ・マッサの代役として翌戦のヨーロッパGPと続くベルギーGPにフェラーリから復帰する事となった。1994年サンマリノGPニコラ・ラリーニ以来、約15年ぶりのフェラーリを操るイタリア人ドライバーとなった。

復帰戦ヨーロッパGPにてフェラーリ・F60を駆るバドエル

しかし復帰戦のヨーロッパGPにおいては、

  • 金曜フリー走行で4度ピットレーンでのスピード違反を犯し、4度罰金を科せられる
  • 予選では前車より1.5秒落ちの最下位
  • 決勝でピットアウト時、後方に接近していたルノーからこのGPでデビューしたロマン・グロージャンを先に行かせる(通常、決勝でのピットアウトで後方車を先に行かせる行為はありえない)
  • さらにピットレーン出口の白線を踏み、ドライブスルーペナルティを受ける
  • レース中に2度スピンをする、決勝はチェッカーを受けた中では最下位・1周遅れの17位
  • レース終了後の車両保管所で、フォース・インディアエイドリアン・スーティルのマシンに追突[2]

と、散々な結果に終わってしまった。引き続きベルギーGPにも参戦したが、予選最下位、決勝も完走した中では最後尾でのゴールという結果となった。そのため、イタリアGPからはフォース・インディアから移籍したジャンカルロ・フィジケラに交代することとなった。ただしシーズン中のリザーブドライバーとしての帯同は続けた。

2009年まではリザーブドライバーでもあったが、2010年はその役はフィジケラに替わられた。これは2009年の代役出場の結果によるものではなく、リザーブドライバーでなくなることは2009年シーズン開幕前には既に決定しており、本人にも告げられていた[3]

2010年のシーズン終了でチームを去ることを発表し、12月8日のボローニャモーターショーにおいてフェラーリ・F60でデモ走行を披露した[4]。翌2011年1月14日にフェラーリとドゥカティが合同開催する「Wrooom」においてF60で氷上デモ走行を行い、これがフェラーリドライバーとして最後の走行となった[5]。チーム在籍14年は、フェラーリ歴代ドライバーの中で最長記録となった。

オリンピック[編集]

2006年にバドエルは、同郷ドライバーであるヤルノ・トゥルーリアレッサンドロ・ザナルディとともに第20回冬季オリンピックであるトリノオリンピック聖火ランナーを務めている。また、開会式でフェラーリのF1マシンであるF2005がスピンターンを繰り返すパフォーマンスがあったが、赤いヘルメットを被ってマシンに乗り込んでいたのはバドエルであった。

エピソード[編集]

  • シューマッハのワールドチャンピオン黄金期をテスト走行して影から支え続けいた。フィオラノサーキットやムジェロ・サーキットなどでテスト走行をしていた。
  • 1992年、国際F3000を20歳の若さで制したことから、次世代を担うドライバーと期待されたが、初年度に最遅のマシンに乗ってしまったことが、彼のキャリアを大きく狂わせることとなった。
  • 入賞経験の無いドライバーの中では最多の決勝出走数である。ただしバドエルが主に出走していた1990年代はポイントが与えられたのは6位までであり、近年のドライバーと比較する事は出来ない。最高成績は1993年サンマリノGPの7位。
  • フェラーリのテストドライバーのキャリアとしては最も長く、「車を理解する能力に優れ、エンジニアからの評判もすこぶる良かった」とは、フェラーリのステファノ・ドメニカリ
  • 1999年のヨーロッパGPでは、荒れたレースをしぶとく走り終盤4位に浮上したが、マシントラブルでリタイアとなった。F1での入賞経験が無かったバドエルは、コースサイドに止まったマシンのサイドポンツーンにもたれかかり、人目もはばからず悔し涙を流した。この時、コースマーシャルが「次があるさ」と声をかけたがバドエルは「俺には次がないんだ」と返した。ヨーロッパGP後の残り2戦もリタイアに終わり結局バドエルはポイントを獲得することは出来ず、このあと10年間フェラーリでテストドライバーに専念することになった。
  • 2009年に10年ぶりの復帰(1999年日本GP~2009年ヨーロッパGP)を果たしたが、このブランクの長さはヤン・ラマース(1982年フランスGP~1992年日本GP)に次ぐ記録。
  • 2009年の正ドライバー復帰時には、そのナイジェル・マンセル以上の苦労人ぶりを知るファン達が過剰なまでの期待を込めて復帰戦を迎えたが、その結果は惨憺たるものであった。一部のメディアは「ルカ・バドエル」に発音が似ているということで"Look How Bad You Are(お前がどれくらい酷いか見てみろ)"と揶揄した[6]
  • バドエルがF1でドライブしたチームは長年テストドライバーを務めたフェラーリも含めてすべてイタリア拠点のチームだった。

F1での年度別成績[編集]

所属チーム シャシー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 WDC ポイント
1993年 スクーデリア・イタリア ローラ T93/30 RSA
Ret
BRA
12
EUR
DNQ
SMR
7
ESP
Ret
MON
DNQ
CAN
15
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
Ret
HUN
Ret
BEL
13
ITA
10
POR
14
JPN
AUS
25位
(NC)
0
1995年 ミナルディ M195 BRA
Ret
ARG
DNS
SMR
14
ESP
Ret
MON
Ret
CAN
8
FRA
13
GBR
10
GER
Ret
HUN
8
BEL
Ret
ITA
Ret
POR
14
EUR
11
PAC
15
JPN
9
AUS
DNS
23位
(NC)
0
1996年 フォルティ FG01B AUS
DNQ
BRA
11
ARG
Ret
EUR
DNQ
21位
(NC)
0
FG03 SMR
10
CAN
Ret
ESP
DNQ
CAN
Ret
FRA
Ret
GBR
DNQ
GER
HUN
BEL
ITA
POR
JPN
1999年 ミナルディ M01 AUS
Ret
BRA
SMR
8
MON
Ret
ESP
Ret
CAN
10
FRA
10
GBR
Ret
AUT
13
GER
10
HUN
14
BEL
Ret
ITA
Ret
EUR
Ret
MAL
Ret
JPN
Ret
23位
(NC)
0
2009年 フェラーリ F60 AUS
MAL
CHN
BHR
ESP
MON
TUR
GBR
GER
HUN
EUR
17
BEL
14
ITA
SIN
JPN
BRA
ABU
25位
(NC)
0

脚注[編集]

  1. ^ コンストラクターとしてはローラ
  2. ^ F1-Topnews 2009年8月29日
  3. ^ F1速報でのバドエルのインタビューより
  4. ^ “フェラーリ、ルカ・バドエルの離脱を正式発表”. F1-Gate.com. (2010年12月8日). http://f1-gate.com/ferrari/f1_10199.html 2010年12月9日閲覧。 
  5. ^ “ルカ・バドエル、フェラーリF60で氷上ラストラン”. F1-Gate.com. (2011年1月15日). http://f1-gate.com/badoer/f1_10425.html 2011年1月15日閲覧。 
  6. ^ "バドエル「シートを失った理由はメディアとテスト禁止のせい」". オートスポーツ.(2009年9月6日)2013年1月11日閲覧。

関連項目[編集]