ポール・ストッダート

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
ポール・ストッダート
(2005年オーストラリアGP

ポール・ストッダートPaul Stoddart, 1955年5月26日 - )は、オーストラリアの実業家。F1にかつて存在したミナルディチームのオーナーであったことで知られる。 日本語表記はポール・スタッダートと書かれる場合もある。

ビクトリア州メルボルン郊外のコバーグ市出身。

初期の経歴[編集]

最初に営んだのは自動車販売業で、この頃からレースのパトロンを始め、様々な地方レースに自身のGTカーを出場させるという活動を行っていた。

1989年、前触れもなく、オーストラリア空軍からブリティッシュエアクラフトコーポレーション製の旅客機BAC 1-11の新品を1機購入しないか、という申し出を受けた。

当初、ストッダートはこの機体を既存の航空会社なりチャーター便の運営会社なりに転売して利益を得ようという目論みからこの申し出を承諾したが、ほどなく、オーストラリアがタスマニアギャンブルの特区としていることに目をつけ、賭博目的の客をオーストラリア本土とタスマニア島との間で往復させることを目的に、自らチャーター便を運営することを決断した。この事業は、ストッダートが事業の拠点をイングランドに移して後に“ヨーロピアン航空European Aviation Air Charter)”となり、上客(VIP)専門のチャーター便事業として大成功を収めることとなった。

再びサーキットへ[編集]

レースの世界へと再び舞い戻ることを企図したストッダートは、1996年に旧式のティレルミナルディベネトンブラバムのF1カーを購入した。

1997年、ヨーロピアン航空の名義でF1のティレルチームを支援するとともに、前年に購入したF1カーを用いて、F1・ヒストリカル・チャンピオンシップを開催し、この選手権で1997年と1998年に優勝したナイジェル・グリーンソール(Nigel Greensall)とともに、ヨーロピアン・フォーミュラ・レーシングを設立した。

ティレルチームとストッダード(ヨーロピアン航空)の関係はほとんどテクニカルパートナーと言ってよいもので、ティレルチームのファクトリー(開発拠点)にウィンドトンネル(風洞実験装置)を建造する計画を練っていたが、1998年初頭にブリティッシュ・アメリカン・タバコがティレルチームを買収したことで状況が一変してしまった。ブリティッシュ・アメリカン・タバコはティレルが有していたF1への参戦枠を欲していただけで、彼らが設立したブリティッシュ・アメリカン・レーシングチームはティレルの旧設備を必要としていなかったこともあり、ストッダートは自身の腹案の下、それらティレルの古い設備の多くを買い取った。

かくのごとき事情から、1999年ジョーダン・グランプリのスポンサーとなるとともに、自身のチームで国際F3000にも参戦した。

ヨーロピアン航空は2000年にはアロウズのスポンサーとなり、国際F3000のヨーロピアン・レーシングはアロウズのジュニアチームとなった。この時、オーストラリア人ドライバーマーク・ウェバーがストッダートのチームで初めて走り、同ドライバーは後にミナルディ・チームでも走ることとなる。

2001年シーズンの開幕直前、ミナルディの共同オーナーの一人ガブリエール・ルミからチームの株式を買い取り、同チームの運営権を掌握し、ストッダートは念願だったF1への進出を果たした。

ミナルディ[編集]

“万年最下位”“万年金欠”で知られた同チームだが、ストッダートが買い取った当時は、チームの歴史の中でも特に深刻なチーム存続の瀬戸際に立たされており、ストッダートの登場はまさに地獄に仏といってよいものであった。しかし、チームの参戦枠の転売などを目的に同チームに触手を伸ばした、あるいは伸ばそうと試みた実業家は過去にも少なくなかったため、運営するとなると実利はまず見込めないミナルディの買収にあえて踏み切ったストッダートという実業家に対しても、当初、それらの同類といぶかしむ人間は少なくなかった。また、当初はチームをイギリスの自らの本拠地に移し、ファエンツァを離れてしまうのではないか、という声もあがった。

ストッダートが指揮するようになって後も、チームは慢性的なスポンサー不足を解消するには到らず、後方集団に埋もれて各シーズンを送ることとなる。

2002年末、ストッダートはヨーロピアン航空を売却し、オランダの浴槽・トイレ製品製造企業であるウィラックス(Wilux)を新たにタイトルスポンサーに迎えた。しかし、2004年イギリスGP直前に同チームで長年にわたってスポーティング・ディレクターを務めていたジョン・ウォルトンが心臓病により亡くなり、それに弔意を示すべく同GPにおいて全てのスポンサーロゴを事前の通知もせずに外してしまったことで、ウィラックスの逆鱗に触れ、支援が打ち切られるという事態に陥ってしまった。これにより、再びチームは窮状に陥り、オーナーであるストッダート自身が自身のF1カーコレクションを売却するなどの方法すら用いつつ、ミナルディは厳しい財政事情の下で数シーズンを送り、2005年9月12日、ストッダートはチームをオーストリアの飲料会社レッドブルのオーナーであるディートリッヒ・マテシッツに売却すると発表し、F1の世界から去った。

その後の動向[編集]

ミナルディチーム売却に前後して、VIPを対象としたチャーター便会社「Ozジェット (OzJet)」をオーストラリアで設立した[1][2]。 レッドブルにチームを売却した際の売却額については、多額にのぼると噂されており、この新会社の設立にあたってそれをあてたといわれている。

F1からの撤退後も、Ozジェットとヨーロピアン航空のプロモーションの一環として、“ヨーロピアン・ミナルディ”の2シーターF1カーをイベントなどで走行させている。また、2007年のジャンカルロ・ミナルディのGP2への参戦とは別に、アメリカのチャンプカーへの参戦準備を始めた。

F1チーム復活への動き[編集]

チームをレッドブルに売却してからほぼ半年後の2006年3月、ストッダートは2008年のF1選手権に参戦すべく、FIAに“ミナルディ”の名で参加の申請を行ったことを明らかにしている。このニュースを聞いた同胞のマーク・ウェバーは「素晴らしいね。彼は負けず嫌いで情熱的な人物だ。ポールがカムバックできれば嬉しいね。彼はパドックにふさわしい人間だよ」とコメント。しかし、この申請は却下されてしまった。理由は不明。

チャンプカー参戦[編集]

2006年12月18日、インディアナポリスを本拠地とするCTEレーシングHVMチャンプカーチームの株式の過半数を取得し、ミナルディチームUSAとして2007年シーズンからチャンプカーに参戦することを発表した。しかしチャンプカーが2008年よりインディカー・シリーズ(IRL)と統合され(事実上IRLによるチャンプカーの吸収合併)、ミナルディチームUSAはチーム名を元の「HVMレーシング」に戻したため、「ミナルディ」の名前はわずか1年強で消滅した。

関連項目[編集]

脚注[編集]

外部リンク[編集]