ピエロ・タルッフィ

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ピエロ・タルッフィ
基本情報
国籍 イタリアの旗 イタリア
F1での経歴
所属チーム '50アルファロメオ
'51-55フェラーリ
'55メルセデス
'56マセラティ
'56ヴァンウォール
活動時期 1950 – 1956
出走回数 45
優勝回数 1
通算獲得ポイント 77.64
表彰台(3位以内)回数 5
ポールポジション 0(最高位2位)
ファステストラップ 1
F1デビュー戦 1950年イタリアGP
初勝利 1952年スイスGP
最終勝利 1952年スイスGP
最終戦 1956年イタリアGP
タイトル 0
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ピエロ・タルッフィPiero Taruffi, 1906年10月12日 -1988年1月12日)は、イタリアローマ出身の元フォーミュラ1 ドライバーである。

経歴[編集]

オートバイ[編集]

オートバイライダーとしてデビューし頭角を現し、1932年にはノートンでヨーロッパ選手権(500cc)のチャンピオンとなった。また1937年にはオートバイでの世界最高速記録を樹立した(279.503 km/h)。

F1[編集]

1950年イタリアGPで、地元イタリアのアルファ・ロメオからF1ドライバーとしてデビューした。翌1951年フェラーリに移籍し、1955年まで所属した。なお1952年スイスGPで初優勝を飾った。

1955年にメルセデス・ベンツに移籍したものの、同チームが同年のル・マン24時間レースで200名以上の観客を死傷させる大惨事を起こしモータースポーツから撤退したために、翌1956年は再びイタリアのマセラティに移籍した。

なお、同年後半はイギリスヴァンウォールに移籍し、同年のイタリアGPを持ってF1から引退した。F1における優勝は1回。予選での最高位は2位で、フロントローは4回獲得している。

他のレース[編集]

1957年ミッレミリア優勝者でもあり、1977年のミッレミリア・ストーリカとして復活するまでの同レース最後の勝者でもある。また、ミッレ・ミリアと並ぶ伝説的なレースであるタルガ・フローリオでも優勝している。

日本のモータースポーツへの貢献[編集]

1960年代初頭の日本のモータースポーツ黎明期において、日本に本場のヨーロッパ流のモータースポーツを根付かせることに大きく貢献した。1964年鈴鹿サーキットで開催された「第2回日本グランプリ」の名誉総監督として運営に対するアドバイスを行ったほか、千葉県船橋市に開設された船橋サーキットのコース監修をつとめた。

また、生沢徹式場壮吉などの、当時の日本人トップレーシングドライバーに対するレーシングドライビングテクニックの講習を行うなど、その貢献は多岐にわたった。晩年まで度々来日している。

脚注[編集]

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