ルイス・ハミルトン
| ルイス・ハミルトン | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| フルネーム | ルイス・カール・デビッドソン・ハミルトン |
| 国籍 | ( |
| 出身地 | ハートフォードシャー州スティーブニジ |
| 生年月日 | 1985年1月7日(27歳) |
| F1での経歴 | |
| 車番 | 4 |
| 所属チーム | マクラーレン '07- |
| 活動時期 | 2007- |
| 出走回数 | 90 |
| 優勝回数 | 17 |
| 通算獲得ポイント | 723 |
| 表彰台(3位以内)回数 | 42 |
| ポールポジション | 19 |
| ファステストラップ | 10 |
| F1デビュー戦 | 2007年オーストラリアGP |
| 初勝利 | 2007年カナダGP |
| 2011年順位 | 5位 (227ポイント) |
| タイトル | 1 (2008) |
| (記録は2011年最終戦ブラジルGP終了時) | |
ルイス・カール・デビッドソン・ハミルトン MBE(Lewis Carl Davidson Hamilton MBE、1985年1月7日 - )は、イギリス・ハートフォードシャー州(東イングランド)スティーブニジ出身のレーシングドライバー。 グレナダ出身のアフリカ系イギリス人を父親に持つ。初の「黒人F1ドライバー」。2008年に当時の史上最年少でF1ワールドチャンピオンを獲得した。
目次 |
[編集] 初期の経歴
[編集] カート
1993年、8歳でレーシングカートを始める。2年後の1995年、10歳の時にイギリスカートチャンピオンを獲得したのを皮切りに幾つかのタイトルを獲得。この年のオートスポーツ・アワードの授賞式でロン・デニスに自ら歩み寄り「あなたの車に乗ってワールドチャンピオンになりたい」と言ったが、デニスはハミルトンのサイン帳に「9年後にまたおいで」と書いたという。しかし、その後の活躍に注目したデニスから3年後にはコンタクトがあり[1]、1998年にはF1チームのマクラーレンと長期契約を交わした。以後、同チームによる支援の下でキャリアを重ねることとなり、早期から「マクラーレンの秘蔵っ子」として名を知られるようになった。2000年にはフォーミュラAクラスでヨーロッパカートチャンピオンとなり、ツインリンクもてぎ北ショートコースで行われた「アイルトン・セナ メモリアルカップ CIK-FIA WORLD CUP Shell ADVANCE KART RACE IN JAPAN」のフォーミュラAクラスでも優勝。
2001年はCIK-FIA カート世界選手権にフォーミュラスーパーAクラスからエントリー。この年をもってカートを卒業した。
[編集] ジュニアフォーミュラ
2001年は、CIK-FIA カート世界選手権と共にイギリスフォーミュラ・ルノー冬季シリーズにも参戦し、ランキング5位。
2002年は同選手権のレギュラーシリーズに参戦。3度のポールポジションと3度の優勝を記録し、ランキング3位。
2003年は同選手権を独走し、10勝を上げ、最終戦まで2ラウンド(4レース)を残し、チャンピオンに輝いた。この年はF3マカオGPにも出場した。
[編集] F3
2004年はマノー・モータースポーツからF3ユーロシリーズに参戦。初年度は1勝、ランキング5位。マカオGPでも総合14位と不本意な成績に終わった。その後の「バーレーン・スーパープリ」では優勝を飾っている。また、シルバーストンで行われたマクラーレンのテストに参加し、初めてF1カーを運転した。
2005年はASMに移籍すると、20レース中15勝を上げてチャンピオンに輝き、各国F3の強豪が集うマールボロ・マスターズを制した。
[編集] GP2
2006年は前年度チャンピオンのニコ・ロズベルグがF1へ昇格したことを受け、その後任としてARTグランプリからGP2に参戦。開幕戦のサンマリノではセーフティカーを抜き、失格となったが、ポール・トゥ・ウィンを飾ったモナコでの1勝を加えシーズン通算5勝を獲得。なかでもニュルブルクリンクとシルバーストンでは、第1レースとリバースグリッド制の第2レース両方とも勝利して、ネルソン・ピケJr.との争いを制してタイトルを獲得した。
[編集] F1での経歴
[編集] 2007年
2007年、マクラーレン・メルセデスからF1デビュー。チームメイトは2005年、2006年を連覇したチャンピオン、フェルナンド・アロンソ。
「F1史上初の黒人ドライバー」「マクラーレンの秘蔵っ子」などの愛称として注目を浴びる中、デビュー戦となる開幕戦オーストラリアGPで3位に入賞し表彰台へ登った[2]。続く第2戦マレーシアGP、第3戦バーレーンGPでも2位に入り、デビューから3戦連続表彰台という史上初の成績を収めた。更に第4戦スペインGP、第5戦モナコGPでも続けて2位に入賞。第4戦終了時には未勝利ながら史上最年少でドライバーズランキングの首位に立った。
第6戦カナダGPでは初のポールポジションを獲得すると、決勝レースではポールトゥウィンで初優勝を遂げ[3]、続く第7戦アメリカGPでもポールトゥウィンで2戦連続優勝を果たした[4]。その後、第8戦フランスGP、第9戦イギリスGPにおいても3位と安定した成績を収めた。
第10戦ヨーロッパGP予選Q3、公式セッションに於いて初のクラッシュを経験する。その結果デビュー後最低となる10番グリッドからのスタートとなったものの、スタート直後には4位までポジションを上げた。その直後、他車との接触によるパンクで後退し、更には雨によるコースアウトなどで最後尾から追い上げる展開となり、入賞圏外の9位でフィニッシュ。これにより初参戦以来の連続表彰台記録および連続入賞記録は9でストップした。
第16戦中国GPでは、自身初のリタイアを経験した。ポイントリーダーで迎え、初の新人ドライバーによるチャンピオン獲得の可能性に注目が集まった最終戦ブラジルGPでは、スタートでキミ・ライコネンとアロンソに先行を許し、ミスによるコースアウトやギアトラブルにより後退した。その後、追い上げたものの7位に終わり、ライコネンが逆転でチャンピオンを獲得した。決勝後、ハミルトンの上位3人の燃料温度に違反があるとして審議が行われた。その日のうちにペナルティなしとの判断が下されたものの、2日後にマクラーレンはFIA国際控訴裁判所に控訴した。仮にこの3人にタイム加算や失格ペナルティが下された場合、ハミルトンのチャンピオン獲得の可能性は残されていたが、最終的にFIAによりマクラーレンの控訴が棄却されたため、その可能性は消滅した。
結果的にF1史上初のルーキーによるワールドチャンピオン獲得という偉業達成はならなかったものの、このシーズンの多くをポイントリーダーとして過ごし、最終的にチャンピオンとなったライコネンに1ポイント差、前年まで2年連続チャンピオンであるチームメイトのアロンソと同ポイントでシーズンを終えたことで、その才能を遺憾なく見せつける一年となった。
[編集] 2008年
2008年、シーズン開幕前にはフェラーリ圧倒的に有利と言われていた下馬評[5]を覆し、開幕戦オーストラリアGPを制した。しかし第2戦マレーシアGPでは予選中に他車のアタックを妨害したとして、グリッド降格ペナルティを受けてしまい、決勝レースでは5位にとどまった。第3戦バーレーンGPでは2度もアロンソに追突するなどのミスから順位を落とし、ノーポイントに終わったが、その後の2戦では表彰台を獲得。第6戦モナコGPでは序盤にガードレールに当たりタイヤをパンクさせるミスを犯し、ピットインを余儀なくされ後退するも、セーフティカーが導入されたレース展開に巧みに対応して中盤には首位に立ち、モナコGP初優勝を飾った。その後の第7戦カナダGPでは、ピットアウト時に赤信号で停止していたライコネンのマシンに追突するミスを犯し、リタイアに終わる。この事故により次戦第8戦フランスGPでは10グリッド降格ペナルティを受け、決勝でもシケイン不通過でのオーバーテイクによるペナルティを受け、2戦連続ノーポイント。しかし、大雨の第9戦イギリスGPを独走で制すると、第10戦ドイツGPではセーフティカー導入時の戦略ミス[6]を覆して優勝し、2連勝でポイントリーダーに立つ。その後の6戦は優勝こそないものの、手堅くポイントを上げランキング首位を堅持する。第16戦日本GPでは、スタート直後の1コーナーへの進入で他車を巻き込むミスを犯し、それに対するペナルティで後退し無得点に終わった。しかし続く第17戦中国GPではポールポジションからスタートすると、ファステストラップを記録しながら独走し、圧倒的な強さを見せシーズン5勝目をハットトリックで飾った。
5位以上でフィニッシュすれば、タイトルを争うフェリペ・マッサの成績に拘らずチャンピオン獲得となる絶対的に有利な状況で最終戦ブラジルGPをむかえた。スタートからマッサが首位を快走する中、チャンピオン獲得の最低条件となる5位走行中の68周目にセバスチャン・ベッテルに抜かれ、6位で残り2周を迎えることとなった。ベッテルを抜き返せず、チャンピオン獲得は絶望的に思われた最終ラップ、雨が強まる中ドライタイヤを装着していたティモ・グロックがペースを落としたところを、最終コーナー手前でオーバーテイク。5位で完走し、シーズン前の大方の予想[5]を覆して、アロンソの記録を破り当時のF1史上最年少ワールドチャンピオン記録を樹立した(23歳300日)。
結果的に史上最年少でワールドチャンピオンを獲得はしたものの、前年と比較するとミスや荒い運転が目立ち、他のドライバーやメディアの批判の的になることが多い一年となった[7][8][9][10]。
[編集] 2009年
2009年もマクラーレンから参戦。チームは大幅なレギュレーション変更の対応に苦しみ、開幕前のテストから不調が報じられた[11]。ハミルトン自身も、開幕戦オーストラリアGPでは決勝前の全セッションでチームメイトのコバライネンにも遅れをとり苦戦が予想されたが、決勝ではグリッド最後尾から追い上げ、4位でゴールした。レース終了後に3位に繰り上がったが、その際の審議で虚偽証言をしたとして失格処分となった。
第6戦モナコGPから第8戦イギリスGPまで3戦連続で予選Q1落ちを喫していたが、第9戦ドイツGPで復活の兆しを見せ[12]予選5番手を獲得。決勝ではスタートでマーク・ウェバーに追突され[13]タイヤがパンクする不運もあり、最下位でレースを終えた。
しかし、次戦第10戦ハンガリーGPでは予選4位を獲得すると決勝では終始安定したペースで11戦ぶりの勝利をあげ、KERS搭載車の初勝利を記録した。続く第11戦ヨーロッパGPでも好調を維持し、今期初のポールポジションを獲得し、決勝では終盤のピット戦略ミスがあったが2位表彰台を獲得した。
第13戦イタリアGPではシーズン2度目のポールポジションを獲得するが、決勝では3位走行中のファイナルラップで自身のミスによりクラッシュしてレースを終えた。これにより、シーズン4戦を残してタイトル防衛の可能性が無くなった。続く第14戦シンガポールGPでは2戦連続となるポールポジションを獲得し、ポールトゥーウィンを飾った。その後の2戦でも表彰台を獲得し、今期初優勝以降は飛躍的な向上を見せ、終盤の8戦では全ドライバーの中で最も多くのポイントを上げる活躍を見せた。
最終的に、コンストラクターランキング上位2チームの4人に次ぐ、ドライバーズランキング5位でシーズンを終えた。
[編集] 2010年
2010年もマクラーレンから参戦。チームメイトは前年度チャンピオンのジェンソン・バトン。開幕戦バーレーンGP予選では、ポールポジションのセバスチャン・ベッテルから1秒以上の遅れをとり、フェラーリ勢の後塵を拝する4位に留まった。決勝では3位表彰台を獲得したものの、翌第2戦オーストラリアGP、第3戦マレーシアGPでは予選Q2敗退を喫するなど、シーズンの苦戦が予想された。
好機が訪れたのは第7戦トルコGP。首位を争っていたレッドブル勢の2人のドライバー、ベッテルとマーク・ウェバーが接触。ベッテルはリタイアに追い込まれ、ウェバーは後退を余儀なくされた。これにより首位に出たハミルトンは2009年シンガポールGP以来、10戦ぶりの勝利をあげた。幸運な勝利ではあったものの、翌第8戦カナダGPでは今期初のポールポジションを獲得し、開幕以来続いていたレッドブル勢の連続ポールポジションを7で止め、復調の兆しも見せた。決勝もチームメイトのバトンと1-2フィニッシュで優勝を飾り、ポイントランキングでも首位に躍り出た。次の2戦ではマシンのアップデートが進まずに[14][15]絶対的な速さではレッドブル勢に及ばないながらも、チームの巧みなレース戦略にも助けられ共に2位表彰台を獲得しランキング首位を堅持した。
第11戦ドイツGP以降はレッドブル勢ばかりでなく復調したフェラーリ勢にも遅れをとり始め、第12戦ハンガリーGPではギアボックストラブルでリタイアに終わったことによりポイントランキング首位の座をウェバーに明け渡した。翌第13戦ベルギーGPで優勝し再びタイトル争いで首位に立ったが、第14戦イタリアGPでは1周目に自身のミスによりマッサと接触しサスペンションを破損してリタイアに終わったことで再度ウェバーに逆転を許し、続く第14戦シンガポールGPではウェバーに追突されリタイア、アロンソにもポイントで先行される結果となった。第15戦日本GP終了時点ではベッテルにも先行されたものの、翌第16戦韓国GPで2位表彰台を獲得し、レッドブルの2人が共にリタイアに終わったこともあり、タイトル獲得へ望みをつなげた。最終戦アブダビGPをランキング4位で向かえ、ハミルトンにも辛うじてチャンピオン獲得の可能性が残されていた。優勝することと首位のアロンソが無得点であることが最低条件という最も不利な状況であったが、2位表彰台に留まりチャンピオン獲得には至らず、最終的にドライバーズランキング4位に終わった。
[編集] 2011年
2011年もマクラーレンから参戦。開幕前のテストではレッドブルやフェラーリに大きく遅れを取っていたが、開幕戦オーストラリアGPの予選ではポールポジションのベッテルに0.778秒という大差をつけられながらも2位につけ、決勝でも2位表彰台を獲得した。続く第2戦マレーシアGP予選では最後にベッテルに逆転されたものの好調を維持し、2戦連続で2番手につけた。決勝では2位を走行していたがピット作業ミスで3位に落ち、その後アロンソに追突されタイヤに不調をきたし、結局7位でレースを終えた。その後、アロンソとのバトル中にストレートで複数回の進路変更を行ったことを咎められ、ペナルティを受け8位に降格となった。このレースでハミルトンは通産73戦目の参戦であったが、これは1つのチームのみから参戦したドライバーの参戦数としては、生涯ロータスからのみ参戦し続けたジム・クラークの72戦を抜いて歴代1位の記録となった。
第3戦中国GPではベッテルが予選まで全てのセッションでトップタイムをマークする好調さを見せていたが、決勝ではレース終盤でそのベッテルをオーバーテイクして今期初優勝をあげた。第5戦スペインGPでも終盤にベッテルを追い詰めたが、このレースでは2位に終わった。
大雨によりセーフティーカースタートとなった第7戦カナダGPではスタート直後にウェバーと接触し、その後ホームストレートでチームメイトのバトンをオーバーテイクしようとした際に追突してリタイアとなった。この2件の接触は共に審議の結果ペナルティの対象とはならなかった[16]ものの、前戦第6戦モナコGPから2戦で4件の接触事故を起こし、そのドライビングスタイルが非難を浴びた[17]。
4戦続けて表彰台にすら登れないレースが続いていたが、過密スケジュールによる精神的な疲労を理由に直前のいくつかのイベント等をキャンセルし、休暇を取って臨んだ第10戦ドイツGPでは予選で2番手を獲得し、決勝ではスタートで首位に立つとアロンソとウェバーとの三つ巴の激戦を制し、7戦ぶりとなる今期2勝目をあげた。第11戦ハンガリーGPではレースの大半をトップで走るが、ピット戦略のミスやドライブスルーペナルティを受けたことにより勝利を逃し4位に終わった。続く第12戦ベルギーGPでは不注意から可夢偉と接触してリタイア。第13戦イタリアGPでは最高速を犠牲にしコーナリング重視のセッティングにしたのが裏目に出て、最高速に優れるメルセデスを駆るシューマッハに序盤から中盤に抑えられ、最後には3位を走るアロンソの背後まで迫ったものの4位に終わった。第14戦シンガポールGP、第15戦日本GPでは2戦ともマッサと接触し5位フィニッシュと、運のなさや自身のミスが響き、またも表彰台に登れないレースが続いた。
第16戦韓国GPでは去年のカナダGP以来のポールポジションを得たが、決勝では中盤からフロントウィングにデブリが挟まった事でペースが上がらず苦しむことになる。ベッテルには先行を許したもの、ウェバーとの激しい2位争いを制し久しぶりの表彰台を手にする。この時ポールポジション獲得後の記者会見で「久しぶりのポールポジションなのに嬉しそうではないのは何故か」と問い詰められる事があったが、この時ハミルトンは恋人のニコール・ジャーシンガーと別れており[18]、それが影響したのではないかと噂された。後にこうしたプライベートな問題がパフォーマンスに影響したのではないかという噂をハミルトン自身も認めた[19]。第17戦インドGPではまたもやマッサと接触してしまい、今回はペナルティはマッサの方に出たがウイング交換を強いられて7位に終わってしまう。第18戦アブダビGPでは予選Q2で週末最速タイムを記録したもののQ3でうまくラップを纏められずにポールポジションをベッテルに取られてしまったが、スタート直後にベッテルが一周目に早々にリタイアしたため難なくトップに上り、その後は安定したレースコントロールで2位のアロンソとの戦いを制し、久しぶりとなる勝利を挙げた。最終戦となる第19戦ブラジルGPではギアボックストラブルに見まわれリタイアに終わった。
予選では度々最速チームのレッドブルの間に入り、ベッテルには敵わないものの安定して2位につける事が多かった。またレッドブル以外のチームでは唯一のポールポジションを得るなどパフォーマンスを発揮したが、決勝ではピレリタイヤのマネジメントに苦しんだレースが多々あったが、それ以上にレース中のミスや接触が目立ってしまい、結果チームメイトのバトンと同じくシーズン3勝を挙げたものの、12回表彰台に登ってドライバーズランキング2位を手にしたバトンに対し、自身の表彰台獲得数は6回に留まった。こうしてシーズンを通して安定感に欠けたことでドライバーズランキングは5位に終わり、F1のキャリアの中で初めてドライバーズランキングでチームメイトの後塵を喫することになった
[編集] 議論を呼んだレース
- 予選Q3の終盤、最終アタックを前にピットインしたチームメイトのアロンソが、ピットアウトのタイミングを図るために20秒間停止。ハミルトンはその間にピットインし、アロンソの後で待機していたが、アロンソはチームから発進の指示が下った後も10秒間停止し続けた。ハミルトンは後ろで10秒間余分に待機されたことにより、僅かな差で最終アタックが出来なかった。アロンソは「ハミルトンの最終アタックの機会を妨害した」と判定され、5グリッド降格のペナルティを受けた。また、チームに対しても「このような行為はスポーツに損害を与える、汚すもの」として、コンストラクターズポイントの獲得を本GPにおいて認めないことと、自チームドライバーが優勝してもコンストラクターズトロフィーは受け取ることができないというペナルティが課せられた[20]。アロンソは「余分な10秒」について、「取り付けられたタイヤは正しいのかを聞いていた」と妨害が故意でないことを主張した。ロン・デニスは、Q3序盤にハミルトンがチームからの無線による指示を無視し、アロンソを先行させなかったことで、予選での戦略を妨害したことが発端と発言している[21]。
- セーフティカー導入中のピットアウトの際、ピットレーン出口の赤信号を見落とし、ルールに従い停止していたライコネンの後部に激突した。レース後に、次戦フランスGPでの予選グリッド10番手降格のペナルティが科された。また、この件で「レース中なのにピット出口に赤信号を付けるなんて、くだらないルールだ」と、自身のミスを省みずルールを非難するコメントをした[22]。
- 首位ライコネンに対して2位ハミルトンは42周目の最終コーナーで外側からオーバーテイクを仕掛けるが、接触を避けるためシケインを不通過してライコネンの前に出た。シケインの不通過を自覚していたため、ホームストレートで一端ライコネンを先行させたが、直後の第1コーナーで再びオーバーテイクした。この行為がレース後の審議で「明確に順位を戻しておらず不十分である」と裁定され、レース後にレースタイムに25秒加算ペナルティが下された。首位でゴールしたが、これにより3位に降格となった。マクラーレンはこの裁定を不服とし、FIAの国際控訴裁判所に控訴したが、レース中であればドライブスルーペナルティに相当し、抗議や控訴はできないレギュレーションのため、棄却された。マーティン・ウィットマーシュはレース中に、ハミルトンの行為に問題がないことをスチュワードに2度確認したと証言している[23]。
- スタートに失敗した後、1コーナーへの進入でブレーキングを遅らせて大きく白煙を上げるほどタイヤをロックさせ、ライコネンやマッサらがコース外に退避するかたちとなった。これによりドライブスルーペナルティを受けたが、この処分にハミルトンとチームは重過ぎると反論している。実際過去に、接触を伴わないブレーキングミスのみに対するペナルティの前例はなく、異例の措置と言える。また、このブレーキングについて数名のドライバーから批判の声が上がり[9]、後日GPDAで話し合いがもたれた[10]。
- 4位でゴールした後、トゥルーリのペナルティにより3位に繰り上がったが、4日後に失格の裁定が下された。失格の理由は、故意に紛らわしい証言をしたことによる、「国際スポーティングコード違反」とされた。セーフティカー出動中にトゥルーリがコースアウトし、この間にハミルトンがトゥルーリをオーバーテイク。セーフティカー出動中の追い越しによるペナルティを警戒したチームの指示により再度トゥルーリを先行させた[27]。その後の審議で、ハミルトンがトゥルーリを意図的に先行させたか否かが問われたが、ハミルトンは「意図的ではなかった」と証言した[28]。これによりトゥルーリには、セーフティーカー出動中のオーバーテイクを理由にペナルティが下った。しかしこのときの審議ではFIAはチームとハミルトンの無線の内容を把握しておらず、無線ではチームがトゥルーリを先行させるように指示していたことが後に明らかになったため意図的に先行させたと判断され、ハミルトンの証言が虚偽であることが発覚した[27]。
- 当初、マクラーレン代表のウィットマーシュは、最初の審議でFIAが無線の内容を把握していることを前提に証言をしていたため誤解が生じ、故意に虚偽の発言をしたわけではない、と主張していたが[29]、ハミルトン自身は、チームのスポーティング・ディレクターのデヴィッド・ライアンから虚偽の証言をするように言われ、それに従ったと発言し、チームもそれを認めた[30]。
- レース中にロウズヘアピンでフェリペ・マッサと、サン・デボーテでパストール・マルドナドと接触し、レース後にスチュワードに呼び出され審議の結果ペナルティを受けた。この裁定に対してハミルトンは「最低の冗談。」と不満を漏らし、ペナルティを受けた理由については「僕が黒人だからじゃない?」と人種差別があったかのような発言をし、問題となった。2件の接触についても「あのドライバーたちは本当にふざけている。馬鹿げている。」とマッサとマルドナードを批判し[31]、物議をかもした。
- 後日ハミルトンはマッサとマルドナード双方に直接電話にて謝罪し、両ドライバーはその謝罪を受け入れるコメントをした[32][33]。
- またFIAに対しても書簡にて謝罪し、FIA会長ジャン・トッドは「ルイスの発言は受け入れがたいが過剰反応はしたくなかった。裁判所で問題を解決することもできたが正式な手続きはしていない。」と、事実上謝罪を受け入れるコメントをした[34]。
- この接触を機に、ハミルトンとマッサとの間で起こったクラッシュはこのシーズンだけで6回(モナコGP、イギリスGP、シンガポールGP、日本GP、インドGP他1回)生じている。
[編集] エピソード
- F1参戦当初は父・アンソニー・ハミルトンがマネージャーとしてほぼ全てのグランプリに帯同していた。弟・ニコラス・ハミルトンは脳性麻痺を患っているが、いくつかのグランプリではガレージ内で観戦している。2011年4月には、ブランズ・ハッチで行われたルノー・クリオ・カップに出場し、レーシングドライバーデビューを果たした[35]。両親は2歳の時に離婚している。10歳になるまで母親のカーメンと暮らし、その後、アンソニーの後妻のリンダ・ニコラスの家に引っ越した。カーメンとは今でも親しい関係にある。
- 幼い頃からアイルトン・セナに憧れていることを公言しており、しばしばレース後の公式インタヴュー等でもそれを感じさせる発言をする。セナが亡くなった日には泣きさけんだと語っている[36]。2010年にイギリスBBCの人気番組「トップ・ギア」の企画で、セナが初タイトルを獲得したマシン「マクラーレン・MP4/4」をドライブしたことがある。ヘルメットカラーはセナとよく似たものを使用しているが、黄色いヘルメットにした理由を「パパ(父アンソニー)が見つけやすいように」と答えている。
- 2007年ヨーロッパGPにおいて、1コーナーでコースアウトしてグラベルから脱出できなくなった際、エンジンはかかっていたため、近くのクレーンに吊り上げてもらいレースに復帰した。過去にこのような方法でのレース復帰は前例がなく、それを規制するレギュレーションもなかったが、このようなケースでは全てのドライバーに平等な対応ができないため、以降クレーンでのレース復帰はレギュレーションで禁止された。
- 2007年には、自伝「My story(マイ・ストーリー)」が出版された。2008年には、その改訂版も出版された[37]。
- 2008年12月、世界的に権威ある「ING/F1 - Racing Formula1 survey」により、視聴習慣や好み、平均的なF1ファンのプロフィールなどを追求するための世論調査が、世界中に渡って徹底的に実施された。調査にはおよそ7万人が投票し、「好きなドライバー部門」で、全体の約27%の票を得て1位に選ばれた。2位は約17%を獲得したキミ・ライコネン[38]。
- 2011年には「僕にとって宿命のライバル、そして最大のライバルは、永遠にフェルナンド(アロンソ)だ。」と語っており、「僕らがプロストとセナだとすれば、彼は僕にとってプロストだ。どちらかのドライバーを選ぶとすれば僕は迷わずアイルトンを選ぶ。だから彼は僕にとってプロストということになるんだ。」とも語っている。ベッテルについては「彼が現代のマンセル?僕は彼に対してマンセルと同レベルの評価をすることはできない。」と評価している[39]。
- F1直下のカテゴリーとして、フォーミュラ2(1967年~1984年)、国際F3000(1985年~2004年)、GP2(2005年~)と続いてきているこれらのクラスでチャンピオンになったドライバーは、F1ではチャンピオンになれないというジンクスがあったが、40年間続いていたこのジンクスを初めて破ったドライバーである。
- 母国のイギリスGPではファンサービスの為、レース終了後によくドーナツ・ターンを披露している。[40]このような行為は安全性を損なうとされFIAから厳しく規制されている行為であるため、近年ドライバーがグランプリで行うことは滅多に無いが、ハミルトン自身はファンサービスやエンターテイメントの面から見てドーナツ・ターン等のパフォーマンスに肯定的である。[41]
- 過去に下記のような賞を受賞している。
- 2007年11月7日、ドイツの「ビルド・アム・ゾンタック」が選定する、ヨーロッパモータースポーツ界で最も名誉ある賞「ゴールデン・ステアリング賞」を受賞した[42]。
- 2007年12月3日、「オートスポーツ・アワード」において、26年の同賞の歴史の中で初めて「インターナショナル・レーシング・ドライバー・オブ・ザ・イヤー」「ブリティッシュ・コンペティション・ドライバー・オブ・ザ・イヤー」「ルーキー・オブ・ザ・イヤー」の3賞を同時に受賞した[43]。
- 2008年2月18日、「ローレウス世界スポーツ賞」の授賞式において、「年間最優秀成長選手(ブレークスルー・オブ・ザ・イヤー)」を受賞した[44]。
- 2008年11月27日、ドイツのメディアグループ「ヒューバート・ブルダ・メディア・グループ」から、「バンビ賞」を受賞した[45]。
- 2008年12月7日、「オートスポーツ・アワード」において、2年連続で「インターナショナル・レーシング・ドライバー・オブ・ザ・イヤー」を受賞した[46]。
- 2008年12月8日、「BRDC」の授賞式において、ゴードン・ブラウン英国首相から「ゴールド・スター」賞が授与され、スターリング・モスから賞を受け取った[47]。
- 2009年2月10日、「インターナショナル・オートモービル・フェスティバル」において、「パルムドール賞」を受賞した[48]。
[編集] F1での記録
- 史上最年少ポイントリーダー:22歳96日
- 初参戦からの連続表彰台:9回(歴代1位)
- 参戦初年度の優勝:4回(歴代1位タイ)
- 参戦初年度のPP:6回(歴代1位)
- 参戦初年度の表彰台:12回(歴代1位)
- 参戦初年度の入賞:15回(歴代1位)
- 同一チームのみからの参戦:83回(歴代1位) - 更新中
- 更新された記録
- 史上最年少ハットトリック:22歳266日 - 2009年イギリスGPにてセバスチャン・ベッテルが更新
- 史上最年少ドライバーズチャンピオン:23歳300日 - 2010年アブダビGPにてセバスチャン・ベッテルが更新
[編集] F1での年度別成績
| 年 | 所属チーム | シャシー | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | WDC | ポイント |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 2007年 | マクラーレン | MP4-22 | AUS 3 |
MAL 2 |
BHR 2 |
ESP 2 |
MON 2 |
CAN 1 |
USA 1 |
FRA 3 |
GBR 3 |
EUR 9 |
HUN 1 |
TUR 5 |
ITA 2 |
BEL 4 |
JPN 1 |
CHN Ret |
BRA 7 |
2位 | 109 | |||
| 2008年 | MP4-23 | AUS 1 |
MAL 5 |
BHR 13 |
ESP 3 |
TUR 2 |
MON 1 |
CAN Ret |
FRA 10 |
GBR 1 |
GER 1 |
HUN 5 |
EUR 2 |
BEL 3 |
ITA 7 |
SIN 3 |
JPN 12 |
CHN 1 |
BRA 5 |
1位 | 98 | |||
| 2009年 | MP4-24 | AUS DSQ |
MAL 7 |
CHN 6 |
BHR 4 |
ESP 9 |
MON 12 |
TUR 13 |
GBR 16 |
GER 18 |
HUN 1 |
EUR 2 |
BEL Ret |
ITA 12 |
SIN 1 |
JPN 3 |
BRA 3 |
ABU Ret |
5位 | 49 | ||||
| 2010年 | MP4-25 | BHR 3 |
AUS 6 |
MAL 6 |
CHN 2 |
ESP 14 |
MON 5 |
TUR 1 |
CAN 1 |
EUR 2 |
GBR 2 |
GER 4 |
HUN Ret |
BEL 1 |
ITA Ret |
SIN Ret |
JPN 5 |
KOR 2 |
BRA 4 |
ABU 2 |
4位 | 240 | ||
| 2011年 | MP4-26 | AUS 2 |
MAL 8 |
CHN 1 |
TUR 4 |
ESP 2 |
MON 6 |
CAN Ret |
EUR 4 |
GBR 4 |
GER 1 |
HUN 4 |
BEL Ret |
ITA 4 |
SIN 5 |
JPN 5 |
KOR 2 |
IND 7 |
ABU 1 |
BRA Ret |
5位 | 227 | ||
| 2012年 | MP4-27 | AUS - |
MAL - |
CHN - |
BHR - |
ESP - |
MON - |
CAN - |
EUR - |
GBR - |
GER - |
HUN - |
BEL - |
ITA - |
SIN - |
JPN - |
KOR - |
IND - |
ABU - |
USA - |
BRA - |
-位 | - |
[編集] 脚注
- ^ ガーディアン紙 2006年5月23日
- ^ デビュー戦での表彰台は、1996年のジャック・ヴィルヌーヴ以来11年ぶり。
- ^ 22歳154日での初優勝は、当時のF1史上4番目の年少記録。
- ^ 参戦初年度の複数回優勝はF1史上4人目。
- ^ a b F1-Live.com 2008年2月14日
F1-Live.com 2008年2月16日 - ^ F1-Live.com 2008年7月21日
- ^ F1-Live.com 2008年6月24日
- ^ F1-Live.com 2008年9月16日
- ^ a b F1-Live.com 2008年10月16日
- ^ a b F1-Live.com 2008年10月17日
- ^ F1-Live.com 2009年3月21日
- ^ F1-Live.com 2009年7月14日
- ^ F1-Live.com 2009年7月17日
- ^ GPupdate 2010年6月27日
- ^ ESPN F1 2010年7月10日
- ^ ESPN F1 2011年6月13日
- ^ ESPN F1 2011年6月13日
- ^ F1 2011年10月27日
- ^ F1 2011年11月11日
- ^ F1-Live.com 2007年8月6日
- ^ F1-Live.com 2007年8月5日
- ^ F1-Live.com 2008年6月11日
- ^ F1-Live.com 2008年9月10日
- ^ F1-live.com 2008年9月9日
- ^ F1-live.com 2008年9月9日
- ^ PLANET F1.com 2008年9月8日
- ^ a b F1-Live.com 2009年4月2日
- ^ F1-Live.com 2009年4月3日
- ^ GP update 2009年4月2日
- ^ F1-Live.com 2009年4月4日
- ^ ESPN F1 6月1日
- ^ The F1 Times 2011年6月5日
- ^ ESPN F1 2011年6月10日
- ^ ESPN F1 2011年6月9日
- ^ ESPN F1 2011年4月4日
- ^ The Sun 2007年12月3日
- ^ F1-Live.com 2008年12月2日
- ^ マクラーレン公式サイト
- ^ AutoSport 2011年3月31日
- ^ F1-Gate.com 2009年6月22日
- ^ AutoSport 2009年7月11日
- ^ F1-Live.com 2007年11月9日
- ^ F1-Live.com 2007年12月4日
- ^ F1-Live.com 2008年2月19日
- ^ F1-Live.com 2008年11月27日
- ^ F1-Live.com 2008年12月9日
- ^ The Official Formula 1 Website 2008年12月8日
- ^ F1-Live.com 2009年2月12日
[編集] 関連項目
- ニコール・シャージンガー - 恋人
[編集] 外部リンク
| スポーツのタイトル | ||
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| 先代: キミ・ライコネン |
F1ドライバーズチャンピオン 2008年 |
次代: ジェンソン・バトン |
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| 2 | 4 | 6 | 8 | 10 | |||||||||
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| 12 | 15 | 17 | 19 | 21 | |||||||||
| 22 | 24 | ||||||||||||
| 23 | TBA | 25 | |||||||||||
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