カール・クリング

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カール・クリング
Karl Kling
カール・クリング(1951年)
基本情報
国籍 ドイツの旗 ドイツ
出身地  ドイツ帝国
ヘッセン大公国の旗 ヘッセン大公国ギーセン
生年月日 (1910-09-16) 1910年9月16日
死没地 ドイツの旗 ドイツバーデン=ヴュルテンベルク州コンスタンツ郡ガイエンホーフェン英語版
没年月日 (2003-03-18) 2003年3月18日(92歳没)
F1での経歴
活動時期 1954-1955
所属チーム メルセデス
出走回数 11 (11スタート)
優勝回数 0
表彰台(3位以内)回数 2
通算獲得ポイント 17
ポールポジション 0
ファステストラップ 1
初戦 1954年フランスGP
最終戦 1955年イタリアGP
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カール・クリングKarl Kling1910年9月16日 - 2003年3月18日)は、ドイツのレーシングドライバー。

概要[編集]

レーシングドライバーとしては1950年代にダイムラー・ベンツ(メルセデス・ベンツ)のワークスドライバーとして活躍した。

ダイムラー・ベンツが自動車レースに復帰した1952年のカレラ・パナメリカーナにおけるクリングの優勝はドイツ国内で高く評価され、レーシングドライバーとしては初めて、同国のスポーツマン・オブ・ザ・イヤー英語版に選ばれた。

1954年にF1参戦し、F1では表彰台を2度獲得し、1954年フランスグランプリのそれはドイツ人としては初のF1表彰台獲得であった。

ダイムラー・ベンツがF1から撤退した際にドライバーを引退し、その後は同社のスポーツ部門の責任者となり、1960年代に同社のラリーチームの監督を務めた[1][W 1]

その人柄はアルフレート・ノイバウアーから「ステアリングを握った紳士」(Gentleman am Steuer)と讃えられた[W 2]。チームメイトのファン・マヌエル・ファンジオはクリングを「正確で無駄のない、いかにもドイツ的な走り方をする」ドライバーと評した[2]

経歴[編集]

1936年にメルセデス・ベンツチームに加入し、テスト走行では良好なラップタイムを刻んだが、ダイムラー・ベンツの製造部門で働くこととなる。

ドライバー時代[編集]

300SL(1952年カレラ・パナメリカーナ優勝車)

第二次世界大戦が終結した後、ドイツ人は1945年から1949年にかけて国際レースの参加が不可能であったことから、ドイツ国内レースにBMWヴェリタス (自動車)英語版を駆って参戦し、1948年と1949年に2リッタースポーツカークラスで、ドイツのスポーツカー選手権でチャンピオンとなる[W 3]

1951年にメルセデス・ベンツチームに戻り、同チームがブエノスアイレスグランプリ英語版に遠征した際、メルセデス・ベンツ・W154で参戦した[W 3]

1952年に同チームから300SL英語版(W194)の1台を任され、5月に開催された初戦のミッレミリアで2位、11月のカレラ・パナメリカーナでは優勝を遂げる(どちらもハンス・クレンク英語版とのコンビ)[W 2]。この活躍から、1952年のドイツ・スポーツ・マン・オブ・ザ・イヤードイツ語版に選ばれた。

1954年フランスグランプリで、同チームがF1参戦を開始したのに伴い、クリングもF1でデビューした。初戦をチームメイトのファンジオに次ぐ2位で終えたものの[W 3]、F1の決勝レースではこれが最高位となり、翌1955年にチームが撤退するまで、ファンジオや1955年に加入したスターリング・モスに勝つことはできなかった。

監督時代[編集]

1955年末にダイムラー・ベンツがF1とスポーツカーレースから撤退したのに伴い、それまでチーム監督として同チームを率いていたアルフレート・ノイバウアーも引退し、クリングはノイバウアーの跡を引き継いでスポーツ部門の責任者に就任した[1][W 4][W 1]

ダイムラー・ベンツはサーキットレースからは撤退したものの、1956年以降もプライベーターを支援する形で活動を続け、クリングはラリーに参戦するプライベーターたちを支え、モンテカルロラリーアクロポリスラリー1000湖ラリーといった多くの国際的なラリーでメルセデス・ベンツ車両は優勝を遂げることとなる。1960年代前半のヨーロッパラリー選手権(ERC)では監督としてダイムラー・ベンツの自社チームを率い、1960年には同チームのヴァルター・ショックドイツ語版、1962年には同じくオイゲン・ベーリンガードイツ語版がヨーロッパラリーチャンピオンに輝いた[1][W 1]

クリングは1968年にダイムラー・ベンツを退職して引退したが、その後もコンサルタントとして同社のスポーツ部門に協力を続けた[W 3][W 2]

レース戦績[編集]

F1[編集]

エントラント シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 WDC ポイント
1954年 ダイムラー・ベンツメルセデス W196 メルセデス M196 2.5 L8 ARG 500 BEL FRA
2
GBR
7
GER
4
SUI
Ret
ITA
Ret
ESP
5
5位 12
1955年 ARG
4*
MON 500 BEL
Ret
NED
Ret
GBR
3
ITA
Ret
11位 5
非選手権の結果

ル・マン24時間レース[編集]

チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 総合順位 クラス順位
1953年 ドイツの旗 ダイムラー・ベンツ ドイツの旗 ハンス・クレンク英語版 メルセデス・ベンツ・300SL英語版(W194) S3.0 277 DNF DNF
1955年 ドイツの旗 ダイムラー・ベンツ フランスの旗 アンドレ・シモン英語版 メルセデス・ベンツ・300SLR S3.0 134 DNF DNF

ミッレミリア[編集]

チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 総合順位 クラス順位
1952年 ドイツの旗 ダイムラー・ベンツ ドイツの旗 ハンス・クレンク英語版 メルセデス・ベンツ・300SL英語版(W194) S+2.0 2位 2位

カレラ・パナメリカーナ[編集]

チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 総合順位 クラス順位
1952年 ドイツの旗 ダイムラー・ベンツ ドイツの旗 ハンス・クレンク英語版 メルセデス・ベンツ・300SL英語版(W194) S 1位 1位

脚注[編集]

出典[編集]

書籍
  1. ^ a b c MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.428
  2. ^ ファンジオ自伝(高斎1984)、「15 2度目の世界チャンピオン:1954年」 pp.171–180
ウェブサイト
  1. ^ a b c Ten Mercedes-Benz rally highlights: worldwide adventures” (英語). Mercedes-Benz AG. 2021年6月28日閲覧。
  2. ^ a b c Karl Kling” (英語). Mercedes-AMG Formula One Team. 2021年6月28日閲覧。
  3. ^ a b c d e Karl Kling (1910 - 2003)” (英語). Mercedes-Benz Group Media. 2022年1月30日閲覧。
  4. ^ Rallies and records” (英語). Mercedes-Benz Group Media. 2022年1月30日閲覧。

参考資料[編集]

書籍
  • Juan Manuel Fangio; Marcello Giambertone (1961). My Twenty Years of Racing. Temple Press Limited 
    • フアン・マヌエル・ファンジオ(著)、高斎正(訳)、1974-10-31、『ファンジオ自伝』、二玄社 ASIN B000J936IA
  • Karl Ludvigsen (1995-06). Mercedes-Benz Quicksilver Century. Transport Bookman Publications. ASIN 0851840515. ISBN 0-85184-051-5 

外部リンク[編集]

  • Karl Kling - Mercedes-Benz Group Media (英語)
  • Karl Kling - Mercedes-AMG Formula One Team (英語)
  • Karl Kling - Mercedes-Benz Public Archive (英語)