ジャン・トッド

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ジャン・トッドJean Todt1946年2月25日 - )は、フランスカンタル県ピエールフォール出身の自動車技術者ナビゲーター国際自動車連盟(FIA)の9代目会長。

プジョー世界ラリー選手権 (WRC) およびスポーツカー世界選手権 (SWC) チームで、またスクーデリア・フェラーリF1チームで監督を務め、いずれも世界チャンピオンを獲得した。

経歴[編集]

ナビゲーターからプジョー監督へ[編集]

1973年、アルピーヌ・ルノー時代のトッド(右端の人物)

父親のミニクーパーSを駆って友人と乗り回したのがモータースポーツキャリアの始まりである。

それから、数々のラリーレースで様々な役どころを演じるようになり、自分の力が向いている方向を見定めて後はドライバーの補佐をするコ・ドライバーに専念し、1972年には日産ワークスチームのコ・ドライバーとしてモンテカルロ・ラリーに出場し、ラウノ・アルトーネンとのコンビで240Zを総合3位に導いている。

その後、1981年までプジョーのラリーチームに身を置き、WRCへの参戦を続けた。現シトロエン・スポール監督のギ・フレクランと組んだ1981年シーズンには、シリーズ2位を獲得している。

コ・ドライバーを引退した後も、チームは運営部門のスタッフとしてトッドがチームにとどまることを望んだため、レース部門のマネージャーに就任(プジョー・タルボ・スポールの誕生)、1982年からWRCの車体デザイン部門の組織構築を委ねられた。出足は鈍かったが、1984年に投入されたプジョー205T161985年になって初のタイトルを獲得すると、翌年も連覇を達成し、トッドによって組織されたデザイン部門から生まれた車体は選手権の支配に成功した。

プジョーはパリ・ダカール・ラリー(4連覇)、ヒルクライムを経てスポーツカー世界選手権へ進出。トッドは監督としてチームを率いて1992年1993年ル・マン24時間レースを連覇するなど大いに活躍し、ナポレオン優勝請負人と称されていた。この頃からトッドはF1での仕事を望んでいたが、当時のプジョーはF1への進出を決めかねていた。

フェラーリへ転籍[編集]

フェラーリの社長であるルカ・ディ・モンテゼーモロは、1991年からタイトル争いにも加われず、おまけに1勝もできずに低迷していたスクーデリア・フェラーリの復活のため、チームマネージメントからの改革を必要と考えた。

モンテゼモーロは他カテゴリーではあるが、実績を残しているトッドの仕事ぶりを高く評価し、チームマネージャー(監督)へ招聘した。トッドもF1で働きたい意欲があったのでオファーを受けたが、長期的な計画でチームの復活を図る必要を訴え、当時としては異例の5年契約で加入した。

1993年フランスGPから現場に合流したトッドは、チームリソースの現状を分析しながら、内部改革や必要な人材確保を徐々に実行し始める。1994年ドイツGPゲルハルト・ベルガーが、1995年カナダGPジャン・アレジがそれぞれ優勝したが、その一方でチーム復活に向け、当時唯一の現役ワールドチャンピオンであったベネトンミハエル・シューマッハと交渉を始め、ドライバーラインナップの一新を図っていた。

そして1996年からシューマッハと、No.2ドライバーとしてジョーダンからエディ・アーバインを加入させた。また技術陣もそれまでのジョン・バーナードグスタフ・ブルナーの代わりに、ベネトンのテクニカルディレクターであるロス・ブラウンと、チーフデザイナーのロリー・バーンらを引き抜いた。この体制は2000年には、トッド、シューマッハ、ブラウン、バーン、パオロ・マルティネッリらのいずれかがチームから離脱した場合、即座に他の人物も契約を解除できるようになっている、と報道されるほどの結束となっていった。

常勝チーム復活へ[編集]

この強力なメンバーによりチームは劇的に強化され、スクーデリア・フェラーリは1997年から毎シーズンタイトル争いに絡むようになり、1999年から2004年までコンストラクターズタイトルを6連覇、シューマッハも2000年から2004年までドライバーズタイトルを5連覇し、ドライバーズとコンストラクターズのダブルタイトルを5年間保持し続けた。

チーム内ではシューマッハの絶対ナンバー1体制を敷き、勝利のためには時に非情な采配を採った。2002年オーストリアGPではルーベンス・バリチェロに勝利を譲らせるチームオーダーを命じた。

レースでの活躍以外でも、トッドは辣腕ぶりを発揮していた。セールスマンとしてフェラーリ・ロードカーの売り上げにも貢献し、各種イベントやパーティーで顧客に直接契約を持ちかける姿が見られた。特に受注が芳しくなかった612スカリエッティを拡販した。トッドはモンテゼーモロとともにスクーデリア・フェラーリの復活の立役者であり、チームの成績だけでなくフェラーリ本社の業績も上がり、エンツォ・フェラーリ死後において初めて黄金時代を享受することとなった。

モンテゼーモロが2004年にフェラーリを傘下に治めているフィアット会長に就任し、フェラーリ本社の会長も兼務していたが、モンテゼーモロの兼務による負担削減とトッドの既述の実績も評価され、2006年にフェラーリ本社のCEOに就任した。それ以前はFIA会長マックス・モズレーの引退に関連し、トッドがFIAの役員選挙に立候補するのではないかと噂されていたことがあり、当のモズレー自身「トッドなら会長としても申し分ないだろう」という趣旨のコメントを発していた。

一方でこの頃から、モンテゼーモロの承認を得ずに契約をすることが多々あり、両者の不仲説が囁かれていた。その一例として、2007年10月16日にフェリペ・マッサ2008年末までの契約を、2010年末まで2年間延長することを発表したことがあげられる。この背景にマッサのマネージャーがトッドの息子であるニコラス・トッドであるため、トッド自身をチームに残留させるか、マッサを契約延長させるか交換条件を提示した。さらにモンテゼーモロがフェルナンド・アロンソとの契約を構想していたが、「トッドはアロンソとは不仲であるから、上記の事由に加えて契約させないための方法であった」と報道された[1]

2008年3月18日に、フェラーリ本社のCEOとスクーデリア・フェラーリ代表を退いた。その後はFIA・WMSC(世界モータースポーツ評議会)におけるフェラーリの代表を務め、GTカーレース、スポーツ・マネージメントを担っていたが、2009年3月にフェラーリにおける全ての役職を退いた[2]

FIA会長就任[編集]

2009年7月、マックス・モズレーの引退表明に伴い、モズレーの支持を受けてFIA会長選挙に立候補[3]。対立候補のアリ・バタネンを大差で破り、10月23日にFIA会長に選出された[4]。任期は2013年末まで。

会長選出の経緯から、モズレーの院政を警戒する向きもあったが、FOTA(F1チーム連合)との関係ではモズレーのような強硬路線はとらず、対話路線の舵取りを続けている[5]。一方で、2011年バーレーンGP開催問題では迅速な対応をとらず、リーダーシップ不足と批判された[6]

人物[編集]

トッド(左)とミシェル・ヨー(中央)


脚注[編集]

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  1. ^ アロンソは2000年にフェラーリとの合意を反故にして、フラビオ・ブリアトーレとマネージメント契約を結んだ経緯があった[1]
  2. ^ Todt leaves Ferrari
  3. ^ "ジャン・トッド FIA会長選に出馬". F1-Gate.com.(2009年7月16日)2013年3月28日閲覧。
  4. ^ "FIAの新会長はジャン・トッドに決定 バタネン大差で敗れる". オートスポーツ.(2009年10月23日)2013年3月28日閲覧。
  5. ^ "FIA会長「私は独裁者になるつもりはない」". レスポンス.(2012年10月23日)2013年3月28日閲覧。
  6. ^ "メディアからFIAやトッドへの批判噴出". ESPN F1.(2011年2月22日)2013年3月28日閲覧。