ジャン=マリー・バレストル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

ジャン=マリー・バレストルJean-Marie Balestre, 1921年4月9日 - 2008年3月27日)は国際自動車連盟(FIA)の元会長。国際自動車スポーツ連盟(FISA)の元会長でもある。フランスサン=レミ=ド=プロヴァンス出身。

略歴[編集]

第二次世界大戦中、フランスSS(ナチス親衛隊)の一員として活動、その後連合軍によって逮捕。 その後バレストルがヒトラーの写真の前でSSの制服を着て写っている写真を使って彼の過去を批判した人物に対し訴訟を起こし、そのすべてで勝訴した。その際「自分はレジスタンス運動に関わっていた」と主張していた(が、証明できる人物はすでに死亡していた)。

第二次世界大戦後、自動車ジャーナリストとしてロベール・エルサンとともに雑誌「Auto Journal」を創刊。1950年にフランス自動車スポーツ連盟(FFSA)の設立に関わり、1973年にはその会長に就任した。1961年にはFIAの国際カート委員会の初代会長に就任。1975年にはフィガロ紙を買収している。1978年、国際自動車連盟の国際スポーツ委員会(FIA-CSI)会長に就任すると組織を改編し、翌年国際自動車スポーツ連盟(FISA)を設立した。

1980年にはF1グラウンド・エフェクト・カーの可動式スカート規制問題をめぐりFISAとF1製造者協会(FOCA)が対立し、「FISA・FOCA戦争」と呼ばれるF1分裂騒動が発生する。FISAはFOCA系コンストラクターのみが出走したスペインGPを選手権無効レースとし、FOCAは1981年南アフリカGPを独自開催するなどしたが、両者は1981年3月にコンコルド協定を締結して和解した。

1983年にはF1のグラウンド・エフェクト・カーを禁じるフラットボトム規制を導入。車輌安全規格の強化(クラッシュテストの導入)などモータースポーツの安全対策を実施した。1986年にFIA会長にも就任し、死亡事故続発をうけ世界ラリー選手権グループBの廃止とF1の過給式エンジン禁止(1989年より)を打ち出した。

1989年の日本GPで、FISAはアラン・プロストと接触したアイルトン・セナを「シケイン不通過」のかどで失格処分とした。バレストルはセナを「危険なドライバー」とみなしスーパーライセンス剥奪を示唆。セナ側が折れる形で一旦は収束したが、翌年の日本GPでセナとプロストが再度接触する事件の伏線となった。

1991年にはF1フランスGPの開催地をポール・リカールからマニ・クールに変更した(同サーキットはバレストルと関係の深いリジェチームの本拠地に隣接する)。また、当時盛況であった世界スポーツプロトタイプカー選手権(WSPC)をスポーツカー世界選手権(SWC)としてリニューアルし、それに伴いエンジン規定をF1と共通化するなどレギュレーションを大幅に改訂したところ、参加チームの大幅減少、果てはカテゴリー自体の消滅を招く結果となった。

1991年、バレストルはFISA会長選挙でマックス・モズレーに敗れ、1993年のFIA会長選挙でもモズレーに地位を譲った。モズレーは「FISA・FOCA戦争」においてFOCAのバーニー・エクレストン会長の法律顧問を務めた人物であり、1993年にFISAをFIAの下部組織へ統合した。その後、バレストルは1996年までFFSAの会長職を務めた。

2008年3月27日に死去。86歳没。

人物[編集]

1986年イタリアGP後のコンストラクターズ会議にて「1988年からのターボエンジンの過給圧を2.5バールに規制する」という案を緊急動議した。この際、ホンダ桜井淑敏総監督に対し、「(母国フランスの)ルノーはF1に最初にターボエンジンを持ち込んだのに、一度もチャンピオンになれないままF1から(一時)撤退するのに、おまえたちは何度も勝ちやがって」と発言。これに対し桜井は「ルノーの功績は認めるが、それとチャンピオンになれるかどうかは別問題。彼らは技術競争に負けたのだからしょうがない」と反論した。それを聞いたバレストルから「F1にイエローはいらない」という人種差別的暴言が飛び出し問題になった[1]。ちなみに、同じく88年から適用されたターボ車の燃料タンクの最大容量に関する規定(190リットルから150リットルに減少)は、この動議を受けて桜井が提案したものである。これによりホンダは燃費で他のサプライヤーに差をつけ、その年はホンダエンジンを搭載したマクラーレン・MP4/4が年間16戦15勝という結果を残すことになる。

1988年にはプロストとセナのチャンピオン争いが過熱する中、ふたりが所属するマクラーレン・ホンダへ「両者に平等なマシンを与えるよう」との異例の書簡を送った。前述の1989年のセナ失格問題もあり、ホンダとセナを中心にF1ブームが加熱していた日本では「フランス至上主義者のバレストルがプロストを贔屓している」という類の報道もなされた。また、1990年日本GPのセナとプロストの接触の際も「セナを処分すべきだ」とレースディレクターに突っかかっている。後任のモズレーは「立法府の長(バレストル)が司法(スチュワード)に口出しする権限はない。彼が正しかったとしてもだ(後にセナが故意に接触したことを認めている)」とこれを批判している[2]

ただし、単純に地元贔屓だったわけではなく、フランス国内でも意にそぐわぬ相手には強硬な態度をとった。プジョーのジャン・トッド監督(後のFIA会長)とはモンテカルロ・ラリー開催を巡ってやり合い、グループBのレギュレーション改正でプジョーが締め出された時には訴訟沙汰になった(後にパリ・ダカールラリーアリ・バタネンのマシンが盗難に遭い、失格裁定が下された時にも裁定を巡って両者は対立している)。また、ル・マン24時間レースのテレビ放送をめぐり主催者のフランス西部自動車クラブ(ACO)と対立し、伝統のイベントが数年間世界選手権から外れることになった。

ともすれば大きな反発を受けかねないこれらの強権的かつ傲慢な言動から、暗喩の意味を込めて「ティラノサウルス」の異名で呼ばれていた。

頑迷といわれたが良くも悪くも豪放磊落な一面があり、ジャーナリストの今宮純は食事の席で突然シャツのボタンを外して胸をはだけ、心臓手術の傷跡を自慢げに見せられた体験を綴っている。地元のフランスGPでは、若くグラマラスなガールフレンドを侍らせて観戦に訪れたこともある。またFIA会長退任後もしばしばフランスGPの表彰台にプレゼンターとして現れ、シャンパンのボトルを握ってドライバーたちとシャンパンファイトに興じる姿がテレビ中継を通して見られた。

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ F1速報特別編集F検問題集 ISBN 978-4-89107-487-6
  2. ^ F1 RACING日本版 2011年9月情報号

関連項目[編集]