アルファロメオ・158

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アルファロメオ・158
アルファロメオ・159
アルファロメオ・159
アルファロメオ・159
カテゴリー ボワチュレット, F1
コンストラクター アルファ・ロメオ
デザイナー ジョアッキーノ・コロンボ
後継 アルファロメオ・177
主要諸元
シャシー チューブラーフレーム
サスペンション(前) ダブルトレーリングアーム, 横置きリーフ, ダンパー
サスペンション(後) スイングアクスル, 横置きリーフ, ダンパー
ド・ディオンアクスル (159)
エンジン アルファ・ロメオ Tipo 158 1479cc 直8 DOHC FR
トランスミッション ZF 4速 MT
燃料 シェル
タイヤ ピレリ
主要成績
チーム SA アルファ・ロメオ
ドライバー ジュゼッペ・ファリーナ
ファン・マヌエル・ファンジオ
ルイジ・ファジオーリ
出走時期 1950年 - 1951年
ドライバーズタイトル 2 (1950,1951)
初戦 1950年イギリスグランプリ
初勝利 1950年イギリスグランプリ
最終戦 1951年スペイングランプリ
備考 1950年は158、1951年は159
出走
回数
優勝
回数
ポール
ポジション
ファステスト
ラップ
13 10 10 13
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アルファロメオ 158 (Alfa Romeo 158) は、イタリアの自動車メーカーアルファ・ロメオが開発したフォーミュラカー。設計者はジョアッキーノ・コロンボ。別名は「小さなアルファ・ロメオ」を意味するアルフェッタ (Alfetta) 。

1938年から実戦投入され、1950年に開幕したF1世界選手権で全勝[1]1951年には改良型の159が登場した。

158[編集]

車名の158は排気量1500cc、直列8気筒エンジンから付けられた。

1930年代、アルファ・ロメオはグランプリレースにP3を投入して成功を収めた。しかし、1934年に始まるフォーミュラ750(車両重量750kg以下)では、メルセデス・ベンツアウトウニオンのモンスターマシンに太刀打ちできなかった。1938年の3リッターフォーミュラ用として308 (直8) 、312 (V12) 、316 (V16) を開発しながら、1.5リッタークラスのボワチュレット(のちのF2、現在のGP2に相当する)のマシンを製作することになった。

アルファ・ロメオに開発を進言したのは、ワークス活動を代行していたスクーデリア・フェラーリの代表エンツォ・フェラーリだといわれる[2]。設計はP3の開発者ヴィットリオ・ヤーノの弟子であるジョアッキーノ・コロンボが担当した。彼はスクーデリア・フェラーリに出向し、そのファクトリーで158のシャーシが製作された。

158は1938年から1940年まで活躍した後、第二次世界大戦中のブランクを経て1946年からレースに復帰し、F1世界選手権開幕初年度の1950年まで使用された。戦争によるレース界の停滞という事情はあったにせよ、登場以来13年間一線級の戦闘力を保ち続けた名車となった。

特徴[編集]

シャーシは2本の楕円鋼管をメインフレームとする。サスペンションは4輪独立懸架で、フロントがトレーリングアーム、リアがスイングアクスル

Tipo 158エンジンはルーツ式シングルステージスーパーチャージャーを装備した直列8気筒1,479cc。V16エンジンを半分にした形で[2]DOHC16バルブ、ボア・ストローク58×70mm。195ps/7200rpmを発生し、最高速度は232km/h[3]1939年には225ps/7500rpmにパワーアップした[3]1947年には主任技師のオラツィオ・サッタによって、スーパーチャージャー2基に変更され、出力は275psに増大した[4]

レース成績[編集]

戦前から戦後[編集]

1938年、アルファ・ロメオはアルファ・コルセを設立し、ワークス活動を再開した。158はデビューレースのコッパ・チアーノでエミリオ・ヴィロレージのドライブにより優勝した。1939年は、イタリア統治下のリビアで開催されるトリポリGPの優勝が期待されたが、メルセデス・ベンツが急遽送り込んだW165に勝利を奪われた。158は戦争によりモータースポーツが中断する1940年まで活動し、戦時中はチーズ工場に隠されて戦火を免れた。

終戦後の1946年、アルファ・ロメオはGPレースに復帰し、3年間にわたり各地で無敵の13連勝を続けた[2]1947年には「自然吸気エンジンは4500cc、過給式エンジンは1500ccまで」とするF1規定が制定され、158はF1マシンとなった。

1949年、アルファ・ロメオはワークスドライバーのアキッレ・ヴァルツィジャン=ピエール・ウィミーユカルロ・フェリーチェ・トロッシを相次いで亡くす[5]という不幸に見舞われ、この年のレース活動を休止した。その間、エンツォ・フェラーリが創設したフェラーリが台頭したが、フェラーリ・125F1は158と同じくコロンボが設計したマシンだった。

F1世界選手権開幕[編集]

1950年、新たにジュゼッペ・ファリーナファン・マヌエル・ファンジオルイジ・ファジオーリと契約し、3名はイニシャルにちなんで「アルファの3F」と呼ばれた。アルファ・ロメオは出場した11レースに全勝し、F1世界選手権では開幕戦イギリスGPを含む6戦すべて[1]ポールポジション・優勝・ファステストラップを記録した。最終戦、ポイントリーダーのファンジオがリタイアし、ファリーナが逆転で初代ドライバーズチャンピオンに輝いた[6]

159[編集]

1951年、158はコロンボによって再び手を加えられ、車名は「159」となった。リアサスペンションはド・ディオンアクスルに置き換えられた。エンジンパワーは当初の2倍以上の425psに達し、最高速度は300km/hを超えた[3]。しかし、代償として燃費が著しく悪化し、大量の燃料を搭載しなければならなかった。その結果、タイヤの磨耗も早まり、ピットインの回数が増えるという悪循環に陥った。フェラーリは自然吸気V12エンジンに転向しており、戦前のレース界で活躍した過給式エンジンは時代遅れとなっていた。

レース成績[編集]

第4戦まで3連勝[1]するも、第5戦イギリスGPでフェラーリの初優勝を許し、F1開幕以来の連勝がストップした。続く2戦もフェラーリに敗れたが、最終戦スペインGPではフェラーリがタイヤ選択に失敗して後退し、ファンジオがドライバーズチャンピオンを獲得することができた。

アルファ・ロメオには翌年に向けて新車を製造する資金的余裕は無く、この年限りでF1から撤退した。フルワークスでF1に復帰するのは1979年まで待たねばならなかった。

脚注[編集]

  1. ^ a b c 不参加の第3戦インディ500を除く。「世界選手権」という名目上カレンダーに登録されていたが、F1からの参加者はいなかった。
  2. ^ a b c Doug Nye「1950-1999 グランプリカー・オブ・ザ・イヤー」、『F1倶楽部』第29号、双葉社、2000年、 27頁。
  3. ^ a b c 1940 - 1950 伝説のマシン”. Alfa Romeo FIAT Group Automobiles Japan. 2011年10月10日閲覧。
  4. ^ 石塚 朝生 (2004年4月9日). “第13回〜クラシック・カー・エンスージャスト訪問”. L'angolo dell'intenditore 趣味の博物誌. nikkei BPnet. 2011年10月10日閲覧。
  5. ^ ヴァルツィとウィミーユはレース中の事故死、トロッシは病死。
  6. ^ 製造者部門(コンストラクターズチャンピオン)は1958年まで制定されていない。

関連項目[編集]