ルノーF1

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ルノー
エントリー名 Lotus Renault GP (2011)
Renault F1 Team (2002 -- 2010)
Equipe Renault (1977 - 1985)
チーム国籍 フランスの旗 フランス (1977 - 2010)
イギリスの旗 イギリス (2011)
チーム本拠地 イギリスの旗 イギリス オックスフォードシャー州エンストン Chipping Norton,OX7 4EE, Whiteways Technical Center
主なチーム関係者 エリック・ブリエ
ジェラール・ラルース
ミッシェル・テツ
マイク・ガスコイン
フラビオ・ブリアトーレ
パット・シモンズ
ボブ・ベル
マーク・スミス
主なドライバー スペインの旗 フェルナンド・アロンソ
フランスの旗 アラン・プロスト
イギリスの旗 ジェンソン・バトン
フランスの旗 ルネ・アルヌー
アメリカ合衆国の旗 エディ・チーバー
イタリアの旗 ヤルノ・トゥルーリ
イタリアの旗 ジャンカルロ・フィジケラ
フィンランドの旗 ヘイキ・コバライネン
ポーランドの旗 ロバート・クビサ
ロシアの旗 ヴィタリー・ペトロフ
以前のチーム名称 ベネトン・フォーミュラ
(1986 - 2001)
撤退後 ロータスF1チーム
F1世界選手権におけるチーム履歴
参戦年度 1977 - 1985, 2002 - 2011
出走回数 304 (585台)
コンストラクターズ
タイトル
2 (2005, 2006)
ドライバーズ
タイトル
2 (2005, 2006)
優勝回数 35
通算獲得ポイント 1381
表彰台(3位以内)回数 100
ポールポジション 51
ファステストラップ 31
F1デビュー戦 1977年イギリスGP
初勝利 1979年フランスGP
最後のレース 2011年第19戦ブラジルGP
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ルノーF1 (Renault F1) は、1977年のF1世界選手権から1985年及び2002年から2011年にかけて参戦していたF1レーシングチーム。2011年ロータス・ルノーGP (Lotus Renault GP) として参戦し、2012年のF1世界選手権よりロータスF1チームに変更する為、コンストラクターとしてのルノーは2011年シーズンまでで休止となった。

本項ではレーシングチームとしての活動のほか、ルノー及びその子会社のルノー・スポールによるエンジン供給の形でのF1参戦についても扱う。

目次

[編集] 概要

フランスに本社を置くヨーロッパ最大の自動車製造会社であるルノーのF1チームとして、1977年に参戦を開始した。シャシーエンジンを自製するフルコンストラクターとして通算35勝を記録し、2005年2006年にはコンストラクターズ(製造者)、ドライバーズフェルナンド・アロンソ)のダブルタイトルを連覇した。

また、エンジンサプライヤーとしても輝かしい戦績を残しており、F1で使用されるエンジン銘柄としては通算142勝(2011年終了時点、詳細は別項参照)を獲得している。これはフェラーリの211勝、フォード・コスワースの176勝に次ぐ、史上3位の記録となっている。

なお、ルノーF1チームの法人名で活動しているのは第3期のみであり、第1期・第2期についてはルノーモータースポーツ部門であるルノー・スポール(Renault Sport)名義での活動である。また株式売却により、2011年以降ルノーが直接関わるのはエンジンの開発・供給のみとなる。

[編集] 歴史

[編集] 第1期

1979年のRS10。ルノーとしては初のグラウンド・エフェクト・カーであり、第8戦フランスGPでルノーにとってのF1初優勝を挙げた。これはターボエンジン搭載車としてもF1初優勝であった

[編集] ターボの先駆者

1970年代、スポーツカーレースにおいてターボチャージャーエンジンを導入して成功を収め、1977年よりエキープ・ルノー・エルフとしてF1に参戦。3L自然吸気フォード・コスワース・DFVエンジンが大勢を占める当時のF1界に、グランプリ史上初の1.5LV6ターボエンジンを搭載した車体で「フルコンストラクター」(車体もエンジンも自社で製作するチーム)として参入した。タイヤはミシュラン(F1初のラジアルタイヤ)、燃料はエルフ、ドライバーは開発兼務のジャン=ピエール・ジャブイーユというオールフレンチ体制だった。

過給器付きエンジンはF1選手権初期にスーパーチャージャー式が使用されたが、その後自然吸気エンジンが主流となり、自然吸気エンジンの半分という排気量制限の枷により、挑戦する者は現われなかった。ターボチャージャーについては、スロットルに対しての反応が遅い「ターボラグ」が指摘されており、グランプリには自然吸気エンジンの方が適していると言うのが当時の常識であった。当然ルノーの挑戦に対してもグランプリでは懐疑的な意見が多かった。

実際、参入当初は熟成不足のためもありエンジントラブルで白煙を上げながらリタイアすることが多かったため、その黄色いカラーリングをもじって「イエロー・ティーポット」と揶揄されもしたが、次第に信頼性を上げ実力を発揮し、デビュー3年目の1979年にジャブイーユが地元フランスGPで初勝利を達成した。その後のF1界は、ターボエンジンを搭載した車体で勝利を重ねるルノーに倣って、自然吸気エンジンからターボエンジンへの移行が大きな流れとなった。

1981年に加入した新鋭アラン・プロストがエースとなり、ルネ・アルヌーとのコンビで選手権争いに絡んだ。1982年フランスGPでは、アルヌーがチームオーダーを無視して優勝し、シーズン後にチームを去った。1983年にはプロストがドライバーズチャンピオン争いをリードしたが、終盤戦に失速し、最終戦南アフリカGPブラバムネルソン・ピケにタイトルを奪われた。プロストもこの件で責任を負わされ、チームを離脱した。

[編集] エンジン供給

1983年からはロータスティレルリジェなど、当時の強豪チームへのエンジン供給も行ない、ロータスのアイルトン・セナエリオ・デ・アンジェリスにより計5勝をものにした。

一方で同じエンジンを積むロータスが本家ルノーを上回る成績を残したため、シャーシ性能の見劣りが顕在化し、またプロストの離脱などもあってチーム力の低下は否めず、コンストラクターとしての参戦は1985年に終えたが、エンジン供給は1986年まで行った。コンストラクターとしてのルノー、そしてエンジンサプライヤーとしてのルノーともに選手権でのタイトルを何も獲得できないまま、ルノー本社の一時的な経営不振を受け第1期の挑戦を終えた。

[編集] 功績

グランプリに革命をもたらしたターボエンジンは、1982年フェラーリがターボエンジンとしては初めて年間王者を獲得し、それまでのDFV全盛時代に終焉の幕を下ろさせ、F1界に1980年代後半のターボエンジン全盛時代をもたらした。パイオニアとしてターボエンジンを持ち込んでおきながら自身は他社のターボエンジン搭載チームにとうとう勝ち得なかったということはルノーにとって皮肉な事ではあるが、同時に、ルノーが揶揄されながらもターボエンジンをグランプリに持ち込んだ事が間違っていなかったという事は、ターボエンジン搭載車がこの1982年以降、使用を禁止される1988年まで選手権を席捲し続けたという事実によって証明されることとなった。

[編集] 第2期 - エンジンサプライヤーとして復帰

[編集] V10エンジン

ターボエンジンの全面使用禁止と3.5L自然吸気エンジンの導入が開始された1989年に、ルノーはエンジンサプライヤーとしてF1界に復帰した。この時もルノーは復帰第1作となる「RS1」で、V10エンジンというターボに続く新機軸を持ち込んだ。V10エンジンは共振の問題からF1では採用例がなく、ホンダとルノーが初めて導入した。

ホンダを始め、他メーカーがV12エンジンに移行する中、ルノーはニューマチックバルブ(従来の金属ばねではなく、圧搾空気を用いて吸排気バルブを制御する方式)を搭載して高回転化を実現。トラクションコントロールの開発など、エンジン単体よりもトータルパッケージを重視する路線を打ち出した。これらの技術・思想はターボ時代の馬力至上主義を払拭し、1990年代以降のF1エンジンのスタンダードとなった。

[編集] 最強エンジン

1995年のベネトン・ルノーB195。この年はウィリアムズ・ルノーとベネトン・ルノーの2チームで全17戦中16勝を挙げ、エンジンサプライヤーとして年間の最多勝記録を樹立した

先ずはウィリアムズへの独占供給を開始し、後にリジェベネトンにもエンジンを供給するようになった(リジェには1992年から1994年にカスタマー仕様を供給)。

最初の2年こそ、当時隆盛を極めていたホンダエンジン搭載のマクラーレンの後塵を拝することが多かったが、1992年から1997年にかけては、エンジン供給先のウィリアムズとベネトン(1995年からエンジン供給開始)の両チームがコンストラクター(車体製造者)部門のタイトルを6年連続、ドライバー部門のタイトルを計5回(詳細は別項参照)獲得した。9年間に75勝という勝利数は、ほぼ同期間(1983年-1992年)にウィリアムズやマクラーレンなどにエンジンを供給していたホンダの69勝をしのぐもので、1990年代のF1界において最強エンジンサプライヤーの名をほしいままにした。

特に1995年はルノー勢がシーズンを圧倒し、ベネトン・ルノーとウィリアムズ・ルノーの2チームで年間全17戦中16勝を収め、長年ルノーの悲願とされたモナコグランプリ制覇もミハエル・シューマッハによって達成された。過去にはフォード・コスワース勢が年間全勝した1969年(全11戦)、1973年(全15戦)の例があるが、年間の勝利数としては、2005年シーズン終了時点においても1995年にルノーが樹立したこの16勝という記録が依然としてエンジンサプライヤーとしての最多勝記録となっている。

[編集] 撤退

1996年フランスGP中に、翌年末をもっての撤退を発表した。当時経営不振に陥っていたルノーのリストラ策の一環としての苦渋の選択であった。また、撤退の理由のひとつとして、“もはやルノーがグランプリで勝ってもニュースとなることはなく、ルノーが負けた時にのみニュースとなる”ことへの嫌気が挙げられた。

[編集] スーパーテック

[編集] メカクローム社

ルノーは1997年シーズンの終了をもって、F1でのエンジンサプライヤーとしての活動を終了する旨を発表したが、その後も1997年シーズンのルノーエンジン「RS9」をベースとしたエンジンが供給された。このエンジンは元々カスタマー仕様のルノーエンジンの供給を請け負っていたメカクローム社が製作し、元ベネトンのフラビオ・ブリアトーレが販売権利を取得の上、スーパーテックの名称で販売され、ベネトン(1998年から2000年まで一貫して自社のブランドネーム・プレイライフのバッジを付けてプレイライフエンジンと呼ばれていた)、ウィリアムズ(1998年のみメカクロームの名称。1999年まで供給)の旧ルノーユーザーだけではなく、B・A・R(1999年)、アロウズ(2000年)といったコンストラクターにも供給された。

なおメカクロームでは、2005年からは、ルノーブランドでのGP2のエンジン開発、供給を行っている。

[編集] データ収集

スーパーテックエンジンは型遅れのエンジンであり、戦闘力はフェラーリメルセデスと言ったワークスエンジンには遠く及ばなかったものの、これらのエンジンに比べて比較的手に入れやすいエンジンであったため、多くのチームがスーパーテックの恩恵に預かる事となった。このスーパーテックの活動はワークスとしてのルノーが復活する2000年まで続けられた。当然この間のデータは第3期のルノーの活動にフィードバックされている。

[編集] 第3期

[編集] 「100%ルノー」として復帰

その後2000年3月15日に、かつてエンジン供給を行っていたイタリアファッションブランドであるベネトン社が所有していたベネトンF1チームを買収する形でコンストラクターとしてのF1復帰を発表。当初は2002年シーズンを目標に新規参入を計画していたが、1年前倒しで1200万ドルで買収し参入をはたした。2001年はコンストラクター登録期限の関係で「ベネトン・ルノー」として参戦。2002年に「マイルドセブン・ルノーF1チーム」として17年ぶりにコンストラクターとして復帰した。この際に、2005年までにコンストラクター部門でのタイトルを獲得するという目標を掲げた。

ルノーによるワークスエンジン供給を打ち切られた後には一時低迷していたベネトンチームであったが、ルノーとなってからは次第に競争力を取り戻し、ベネトン時代にチームをチャンピオンに導いたイタリア人指揮官のフラビオ・ブリアトーレの下、マクラーレン、フェラーリ、ウィリアムズなどに並び、F1を代表する強豪チームの一角に返り咲いた。

技術部門はテクニカルディレクターであるマイク・ガスコインの指揮下、ふたつのデザインチームが交互に開発を担当するローテーション制を導入。Vバンク角111度という低重心型のエンジンを投入し、ミシュランタイヤに特化した車両開発を進めた。2003年にはフェルナンド・アロンソハンガリーGPで初優勝し、ルノーワークスとして1983年以来の勝利を獲得した。2004年にはヤルノ・トゥルーリのドライブにより念願のモナコGP優勝を果たした。

フェルナンド・アロンソ駆るR25
(※:2005年のF1世界選手権)

[編集] 2005年シーズン

2005年シーズンはティム・デンシャム率いるデザインチームの手になる「R25」に、フェルナンド・アロンソジャンカルロ・フィジケラの2人のトップクラスのドライバーを揃えた。R25の高い戦闘力と信頼性を武器にシーズン前半から勝ち続け、後半マクラーレンメルセデスの猛追を振り切り、最終戦の中国GPでコンストラクター(車体製造者)部門のタイトルを獲得した。最終的に、全19戦中開幕4連勝を含む8勝をあげ、シーズン累計で191ポイントを獲得した。

また、第17戦ブラジルGPにおいて、アロンソがシーズン終了まで2戦を残してドライバー部門のタイトルを獲得した(シーズン累計で計133ポイントを獲得)。アロンソは、スペイン人としては初のチャンピオンとなり、同時に、1972年シーズンのエマーソン・フィッティパルディの記録(25歳273日)を更新する、当時F1史上最年少(24歳58日)のドライバーズチャンピオンとなった。アロンソはシーズン後、2007年よりマクラーレンに移籍することを発表した。

コンストラクターの「ルノー」としては、コンストラクター部門、ドライバー部門ともに初のタイトル獲得となった。

[編集] 2006年シーズン

ルノーRS26エンジン。ルノーとしては初のF1用V8エンジンである

レギュラードライバーは前年と同じで、テストドライバー兼リザーブドライバーだったフランク・モンタニーがチームから離脱し、後任には、2005年には第2テストドライバーを務め、GP2でシーズンランキング2位になったフィンランド人ドライバーのヘイキ・コバライネンが就いた。

第2戦マレーシアGPで、フィジケラ - アロンソの順で1-2フィニッシュを果たした。これはベネトンを買収した「100%ルノー」になってからは初めてのことで、第1期を含めても、1982年フランスGPでのルネ・アルヌーアラン・プロストによるもの以来、実に24年ぶりで2回目のことであった。

シーズン中盤までは快調だったが、R26に搭載する「マスダンパー」の使用禁止により戦力を削がれ、フェラーリによる猛追を受けた。両選手権とも終盤に一時的に逆転を許したものの、ドライバーズ選手権はその後再逆転し、最終戦である第18戦ブラジルGPにおいて、アロンソが2位で入賞しドライバーズタイトルを獲得。また同時にコンストラクターズタイトルも獲得し、2年連続のダブルタイトル獲得となった。

EUによるタバコ広告への規制強化に伴い、ベネトン時代の1994年以降長年に渡ってチームのタイトルスポンサー(メインスポンサー)を務めてきた日本たばこマイルドセブン)は2006年シーズンをもって撤退した。

[編集] 2007年シーズン

2007年シーズンからオランダの保険会社INGグループがタイトルスポンサーとなり、チーム名は「ING・ルノーF1チーム」となった。

移籍したアロンソに代わり、テストドライバーのヘイキ・コバライネンがレギュラードライバーに昇格し、ジャンカルロ・フィジケラとコンビを組んだ。テストドライバーにはトヨタから移籍のリカルド・ゾンタと、かつてのF1チャンピオンの息子であるネルソン・ピケJr.が新たに就任した。

この年は、新たに採用されたブリヂストンワンメイクタイヤの特性にマシンを合わせられず、さらに風洞施設の計測誤差で、R27は優勝を狙えるマシンではなかった。最高位は日本GPでのコバライネンの2位。

またこの年より他チームへのエンジン供給を再開し、レッドブル・レーシングへカスタマーエンジンを供給するようになった。

[編集] 2008年シーズン

マクラーレンからアロンソが復帰し、テストドライバーから昇格したピケJr.とコンビを組む。サードドライバーに2007年GP2ランキング2位のルーカス・ディ・グラッシ、テストドライバーとして2007年F3ユーロシリーズ・チャンピオンでルノードライバー養成プログラムのロマン・グロージャン山本左近が発表された(但し、ディ・グラッシがスーパーライセンスを保有していないことから、リザーブドライバーとしては山本・グロージャンの二人が登録され全戦に帯同している)。

第9戦ドイツGPでピケJr.が2位表彰台を獲得。初のナイトレースとして行われた第15戦シンガポールGPでは、アロンソがチームにとって2006年日本GP以来となる勝利を果たした。アロンソは次戦日本GPでも勝って連勝を成し遂げた。

しかし、シンガポールGP優勝の背景には、アロンソが優位になるようにピケJrに故意のクラッシュを行わせたという不正行為があり、2009年にチーム体制を揺るがすスキャンダルに発展する。

[編集] 2009年シーズン

新たにトタルエルフの親会社)やヒューレット・パッカードとテクニカルパートナー契約を結んだが、開幕前にタイトルスポンサーであるINGグループが、2009年シーズン限りで撤退することを発表した[1]

ドライバーラインナップは2008年と同じくアロンソとピケJr.。新車R29KERSの熟成不足などで不振が続き、アロンソがポールポジション1回(第10戦ハンガリーGP)、ファステストラップ1回(第9戦ドイツGP)を獲得するに止まった。シーズン途中には成績不振のピケJr.を解雇し、テストドライバーのロマン・グロージャンをレギュラーに昇格させた。

[編集] クラッシュゲート

ネルソン・ピケJr.を解雇した直後の8月末、2008年シンガポールGPでのピケJr.のクラッシュがチームの指示による意図的なものだったのではないかとの噂が流れ、FIAが調査を始めた[2]。この事件の始まりは、ピケJr.が7月30日にFIAに提出した供述書のコピーがメディアに流出したことで、ピケJr.本人の告発によるものであることが、後に明確になった[3]。これによると、チームの首脳フラビオ・ブリアトーレパット・シモンズとピケJr.の三者間で事前に、実行する周回数や場所を打ち合わせたとされている。

そして9月4日、FIAは正式に9月21日に開催されるFIA世界モータースポーツ評議会の臨時会議にルノー首脳陣を招聘することをプレスリリースで表明した[4]。これに対しルノーは、評議会の開催までは公式な発言を行わない方針を示していたが[5]、先述の供述書や、テレメトリーデータ[6]、無線の内容[7]の流出を深刻に受け止め[8]、ピケJr.及び父ピケを相手取り、法的措置を取ることを表明した[9]。しかし9月16日、ルノーはFIA世界モータースポーツ評議会の臨時会議においてピケ父子の供述に異議を申し立てない方針を新たに表明し、合わせてブリアトーレとシモンズはチームから離脱したことを発表し[10]、事実上その罪を認めた[11]

9月21日に行われた世界モータースポーツ評議会の公聴会で、2年間の執行猶予付の参戦資格剥奪という有罪判決がルノーに下された。同時に、今回の事件を計画・指示したとして、ブリアトーレはFIAが統括する全てのモータースポーツ競技から無期限の追放処分、シモンズは5年間の追放処分となった。ピケJr.に関しては調査に協力したとして責任追及を免除された[12]

FIAによるこの裁定は、事件が人命に危険性がある非人道的な行為かつ、FIAスポーティングレギュレーション第39条の1項「チームオーダー」に違反していたことにも拘らず「事実上ペナルティーなし」であった。2007年に起こったマクラーレンスパイゲート等と比較され、余りにも寛大な措置であるとしてFIAとルノーの間での裏取引が疑問視され、各メディアから批判の声があがった[13]

この騒動の余波を受けて9月24日、タイトルスポンサーであるINGグループと主要スポンサーであるムトゥア・マドリーニャ (Mutua Madrileña) が即時に契約を終了することを発表した[14][15]シンガポールGPでは、今までINGと書かれていたマシンのスペースをRENAULTに変えて参戦した。

ピケ親子とチームとの間ではその後もチームに対する名誉毀損を巡る訴訟が続行していたが、2010年12月7日にチームは2009年9月11日に発表したピケ親子を非難するプレスリリースを撤回した上で、ピケ親子に対し全面的に謝罪すると共に損害賠償を支払う意向を明らかにした[16]。なお損害賠償の金額等は明らかにされていない。

[編集] 2010年シーズン

[編集] 株式売却

ルノーはメーカー系ワークスチームの中でも本社からの支援額が少なく、時折り撤退の噂が流れた。2005年末にも2006年シーズンをもって撤退するという噂が流れたことがあったが、これは2006年のR26発表の際、ルノーカルロス・ゴーン会長が否定し、2007年以降も参戦を続けることを明らかにした。しかし、同会長はその年その年の「成績、コスト、費用対効果、本業の業績、2008年以降のレギュレーション議論の行方」などを見たうえで判断を下すとの見解も明らかにしており、ルノーがフェラーリのごとく永続的にF1参戦を続けるとする見解は少数派となっていた。

クラッシュゲート発覚後の2009年12月16日、ルノーが保有するルノーF1の株式の大部分がルクセンブルクの投資会社「ジェニー・キャピタル」に売却されたことが発表された。一方で、少なくとも2010年シーズンに関してはチーム名は従来通り「ルノーF1」の名称でF1に参戦すること、またレッドブル・レーシングへのエンジン供給も継続されることが同時に明らかにされた[17]。この際2011年以降のチームの扱いについては発表されなかったため[18]、ルノーがチームに対する関与を段階的に減少させ、遠くない未来にF1から撤退するとの憶測が飛んでいた。

また、ロシアウラジーミル・プーチン首相がルノーF1チームを支援することを発表した。この背景にはロシア人初のF1ドライバーであるヴィタリー・ペトロフと契約したことによる影響が大きいを見られ、EFE通信にも「協力の大きなシンボル」と語っている。この発表の前にルノーのゴーン会長と、プーチン首相とで会談を行い、今後も財政的な支援を拡大させていく姿勢を明らかにした。この契約により、ルノーのマシンにロシアの自動車会社アフトヴァース社の国内外向けブランド「ラーダ」のロゴが掲載された[19][20]。さらにロシアの造船会社であるヴィボルグ社とスポンサー契約をしたと9月21日に発表された[21]

[編集] ワークス最終シーズン

チーム代表職はクラッシュゲート後に臨時的にボブ・ベルが務めていたが、2010年1月5日にかねてより噂のあったグラビティスポーツマネジメント社のエリック・ブーリエが後任となることが発表された[22]。ドライバーはアロンソがフェラーリに移籍、ロマン・グロージャンもチームを解雇される一方で、BMWザウバーの撤退でシートを失ったロバート・クビサが新たに加入した。また、セカンドドライバーとして、初のロシア人F1ドライバーとなるヴィタリー・ペトロフ、サードドライバーとしてホーピン・タン、リザーブ兼テストドライバーとしてジェローム・ダンブロジオヤン・シャロウズがそれぞれ決定した。

新体制初年度はクビサが3位表彰台を2度獲得。マルチディフューザーFダクトの熟成により、後半戦は他チームにとって脅威となる存在感を示した。

2010年12月8日には、ルノーが保有する残るルノーF1の株式を「グループ・ロータス」(プロトン傘下のロータス・カーズを中心としたグループ)に売却し、チーム名を「ロータス・ルノーGP」と改めることが発表された[23][24]。この結果、ルノーのフルワークス参戦は2010年限りで終了し、2011年以降ルノーはエンジン供給のみを行う。この背景には、2010年にルノーエンジンを積むレッドブルのセバスチャン・ベッテルがドライバーズタイトルを、レッドブル・レーシングがコンストラクターズタイトルを獲得し2冠を達成したにも関わらず、ワークス・チームが存在するためにこれらの成果をプロモーションに利用することが難しく、ワークスの存在がむしろマイナスの方向に働いていることも指摘された[25]

「ロータス」の名を冠し、同じルノーエンジンを使用する2つのチーム。

[編集] 2011年シーズン(ロータス・ルノーGPとして再出発)

前述の通り、2011年に関してはシャシー開発から撤退し、ルノーはエンジン供給のみを行う。またそれに伴い、チーム国籍も本拠地のあるイギリスに変更となった[26]。供給先は新生「ロータス・ルノーGP」及びレッドブル・レーシングという従来の2チームに加え、新たにチーム・ロータスが加わり3チームとなった。

ドライバーは2010年シーズンと同じくクビサとペトロフ、テストドライバーはタン、ファイルーズ・ファウジーブルーノ・セナと2009年シーズン以来の復帰となるグロージャンが務めると発表された。しかし、2011年2月6日に、イタリアでラリーに参戦していたクビサがクラッシュにより負傷、長期離脱を余儀なくされた[27][28]。そこで、2010年シーズンいっぱいでレースシートを失っていたニック・ハイドフェルドがクビサの代役として参戦することになった[29]。しかしハイドフェルドのシートはベルギーGPからはブルーノ・セナに取って代わられ、次戦イタリアGP前に正式にハイドフェルドはチームを離脱した[30]

R31は前方排気レイアウトを採用し、シーズン当初は2人のドライバーがそれぞれ表彰台に登るなどマシンに競争力があるように見えたが、実際は予想したほどダウンフォースが発生しないことがシーズン前の最初のテストからわかっており、すぐに成績は低迷した。何とかコンストラクターズ選手権は前年同様5位は確保したものの、4位のメルセデスGPとは90ポイント以上離され、6位のフォース・インディアとは4ポイント差しかなく、シーズン終了後にはテクニカル・ディレクターのジェイムズ・アリソンをしてR31は「失敗した実験」と言わしめた。

ロータス・ルノーGPは2012年からチーム名は「ロータスF1チーム」、コンストラクター名は「ロータス」に変更になった。2011年は名称が残っていただけではあったが、これにより完全にコンストラクターとしてのルノーの活動は終了した。

[編集] 第4期 - エンジンサプライヤーへの復帰

チーム株式の完全売却後、2010年12月8日にルノーは新組織ルノー・スポールF1の設立を発表した[31]。ワークス時代よりエンジン開発を行っていたフランスのヴィリ-シャティオンを拠点として、引き続きF1エンジンの開発・供給を行う。同社は2013年に1.6L直4ターボを導入する計画を支持し、この案の延期が検討されるとF1からの撤退を示唆したが[32]、最終的には2014年より1.6LV6ターボを導入する修正案に同意した。

2012年にはロータス、レッドブル、ケータハムに加えてウィリアムズへのエンジン供給も開始し、1990年代を席巻した「ウィリアムズ・ルノー」のタッグが復活することになった。

エンジン供給先ではレッドブルとの関係がより密接になっている。両者はオフスロットル・ブローイング(エンジン排気の空力的利用)という新分野を開拓して、2011年シーズンを席巻した。2011年9月には、レッドブルへのエンジン供給を2017年まで継続し、V6ターボ開発でも協力することが発表された[33]。レッドブル代表のクリスチャン・ホーナーは「レッドブルはルノーのワークスチーム」と発言している[34]。また、ルノーの資本提携先である日産自動車の高級車ブランド「インフィニティ」がレッドブルのスポンサーとなり、技術面での関係強化も進められる[35]

[編集] 変遷表(コンストラクターとしての参戦のみ)

エントリー名 車体型番 タイヤ エンジン 燃料・オイル ドライバー ランキング 優勝数
1977年 ルノーF1チーム RS01 M EF1 エルフ ジャン=ピエール・ジャブイーユ 14 0
1978年 ルノーF1チーム RS01 M EF1 エルフ ジャン=ピエール・ジャブイーユ 12 0
1979年 ルノーF1チーム RS01,RS10(RS11~RS14) M EF1 エルフ ジャン=ピエール・ジャブイーユ
ルネ・アルヌー
6 1
1980年 ルノーF1チーム RE20 M EF1 エルフ ジャン=ピエール・ジャブイーユ
ルネ・アルヌー
4 3
1981年 ルノーF1チーム RE20B,RE30 M EF1 エルフ ルネ・アルヌー
アラン・プロスト
3 3
1982年 ルノーF1チーム RE30B M EF1 エルフ ルネ・アルヌー
アラン・プロスト
3 4
1983年 ルノーF1チーム RE30C,RE40 M EF1 エルフ アラン・プロスト
エディ・チーバー
2 4
1984年 ルノーF1チーム RE50 M EF4 エルフ パトリック・タンベイ
デレック・ワーウィック
フィリップ・ストレイフ
5 0
1985年 ルノーF1チーム RE60,RE60B G EF4B エルフ パトリック・タンベイ
デレック・ワーウィック
フランソワ・エスノー
7 0
2002年 マイルドセブン・ルノーF1チーム R202 M RS22 エルフ ヤルノ・トゥルーリ
ジェンソン・バトン
4 0
2003年 マイルドセブン・ルノーF1チーム R23,R23B M RS23 エルフ ヤルノ・トゥルーリ
フェルナンド・アロンソ
4 1
2004年 マイルドセブン・ルノーF1チーム R24 M RS24 エルフ ヤルノ・トゥルーリ
フェルナンド・アロンソ
ジャック・ヴィルヌーヴ
3 1
2005年 マイルドセブン・ルノーF1チーム R25 M RS25 エルフ フェルナンド・アロンソ
ジャンカルロ・フィジケラ
1 8
2006年 マイルドセブン・ルノーF1チーム R26 M RS26 エルフ フェルナンド・アロンソ
ジャンカルロ・フィジケラ
1 8
2007年 ING・ルノーF1チーム R27 B RS27 エルフ ジャンカルロ・フィジケラ
ヘイキ・コバライネン
3 0
2008年 ING・ルノーF1チーム R28 B RS27 エルフ フェルナンド・アロンソ
ネルソン・ピケJr.
4 2
2009年 ING・ルノーF1チーム** R29 B RS27 トタル フェルナンド・アロンソ
ネルソン・ピケJr.
ロマン・グロージャン
8 0
2010年 ルノーF1チーム R30 B RS27-2010 トタル ロバート・クビサ
ヴィタリー・ペトロフ
5 0
2011年 ロータス・ルノーGP R31 P RS27-2011 トタル ニック・ハイドフェルド
ヴィタリー・ペトロフ
ブルーノ・セナ
5 0

*斜体になっているドライバーはスポット参戦など

**2009年途中からチーム名をルノーF1チームに変更

[編集] ルノー・エンジンの供給先とF1で記録した優勝

[編集] 第1期

10年間に20勝(ルノー15勝、ロータス5勝)

[編集] 第2期

9年間に75勝(ウィリアムズ63勝、ベネトン12勝)

[編集] 第3期

11年間に47勝(ルノー20勝、レッドブル27勝)

  • 2001年:0勝 - ベネトン0勝
  • 2002年:0勝 - ルノー0勝
  • 2003年:1勝 - ルノー1勝(フェルナンド・アロンソ1勝)
  • 2004年:1勝 - ルノー1勝(ヤルノ・トゥルーリ1勝)
  • 2005年:8勝 - ルノー8勝(アロンソ7勝、ジャンカルロ・フィジケラ1勝)
  • 2006年:8勝 - ルノー8勝(アロンソ7勝、フィジケラ1勝)
  • 2007年:0勝 - ルノー0勝、レッドブル0勝
  • 2008年:2勝 - ルノー2勝(アロンソ2勝)、レッドブル0勝
  • 2009年:6勝 - ルノー0勝、レッドブル6勝(セバスチャン・ベッテル4勝、マーク・ウェバー2勝)
  • 2010年:9勝 - ルノー0勝、レッドブル9勝(ベッテル5勝、ウェバー4勝)
  • 2011年:12勝 - ロータス・ルノーGP0勝、レッドブル12勝(ベッテル11勝、ウェバー1勝)、チーム・ロータス0勝

[編集] 第4期

[編集] ルノーエンジンでドライバーズ・チャンピオンを獲得したドライバー

第2期(エンジン供給のみ)
  • ナイジェル・マンセル(1992、ウィリアムズ)
  • アラン・プロスト(1993、ウィリアムズ)
  • ミハエル・シューマッハ(1995、ベネトン)
  • デイモン・ヒル(1996、ウィリアムズ)
  • ジャック・ヴィルヌーヴ(1997、ウィリアムズ)
第3期(コンストラクターおよび他チームへのエンジン供給)
  • フェルナンド・アロンソ(2005, 2006、ルノー)
  • セバスチャン・ベッテル(2010, 2011、レッドブル)

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

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  1. ^ INGが2009年末でF1撤退へ(F1-Live.com)
  2. ^ Guardian.co.uk 2009年8月31日
  3. ^ F1SA 2009年9月10日
  4. ^ FIA Press Release 2009年9月4日
  5. ^ ING Renault F1 - Press Release 2009年9月4日
  6. ^ TimesOnLine - Piquet's telemetry at the exit of turn 17
  7. ^ TimesOnLine 2009年9月15日
  8. ^ F1-Live.com 2009年9月11日
  9. ^ F1-Live.com 2009年9月11日
  10. ^ F1-Live.com 2009年9月16日
  11. ^ The Independent 2009年9月16日
  12. ^ F1-Live.com 2009年9月21日>
  13. ^ F1-Topnews 2009年9月22日
  14. ^ “ルノー タイトルスポンサーを失う”. Gp Update. (2009年9月24日). http://f1.gpupdate.net/ja/news/2009/09/24/220206/ 2009年9月25日閲覧。 
  15. ^ “ING Group Press release”. http://www.ing.com/group/pressdoc.jsp?docid=412817_EN 
  16. ^ Apology - ルノーF1・2010年12月7日
  17. ^ Renault stays in Formula One - ルノーF1・2009年12月16日
  18. ^ ルノー、株式の大半を売却もF1活動継続! - ESPN F1・2009年12月16日
  19. ^ “ロシア政府、ルノーF1チームを支援”. F1 Gate.com. (2010年3月2日). http://f1-gate.com/renault/f1_6645.html 2010年3月2日閲覧。 
  20. ^ ルノーは2008年にラーダブランドの株式を25%取得していることも、この支援と提携の背景にあると言える。
  21. ^ “ルノー ロシアの造船会社と提携”. GPupdate.net. (2010年9月21日). http://www.gpupdate.net/ja/f1-news/243049/ 2010年9月22日閲覧。 
  22. ^ 2010年1月5日付けAutosport.com
  23. ^ Lotus, the manufacturer, returns to Formula 1^(TM) - ルノーF1・2010年12月8日
  24. ^ Group Lotus Renault Genii Lotus Renault GP - Group Lotus・2010年12月8日
  25. ^ 東京中日スポーツ・2010年12月9日付 19面「カミュが斬る」
  26. ^ ただし、コンストラクター名は「ルノー」のままであり、マシン名もルノーを引き継ぎ、R31となる。
  27. ^ “ロバート・クビサ、ラリーでクラッシュして骨折”. F1-Gate.com. (2011年2月6日). http://f1-gate.com/kubica/f1_10667.html 2011年2月17日閲覧。 
  28. ^ “ロバート・クビサの手術が完了 ・・・ 復帰には最低でも1年”. F1-Gate.com. (2011年2月7日). http://f1-gate.com/kubica/f1_10674.html 2011年2月17日閲覧。 
  29. ^ “ニック・ハイドフェルド、ロバート・クビサの代役に決定”. F1-Gate.com. (2011年2月17日). http://f1-gate.com/heidfeld/f1_10822.html 2011年2月17日閲覧。 
  30. ^ “ニック・ハイドフェルド、ロータス・ルノーGPの離脱に合意”. F1-Gate.com. (2011年9月3日). http://f1-gate.com/heidfeld/f1_12797.html 2011年12月4日閲覧。 
  31. ^ “ルノー、F1活動の新組織「ルノー・スポールF1」を設立”. (2010年12月11日). http://as-web.jp/news/info.php?c_id=1&no=31026 2012年1月12日閲覧。 
  32. ^ “ルノー、新規則延期の動きに怒り。F1撤退を示唆”. オートスポーツweb. (2011年6月17日). http://as-web.jp/news/info.php?c_id=1&no=34325 2012年1月12日閲覧。 
  33. ^ レッドブル、ルノーとのエンジン契約を2017年まで延長 - F1-Gate.com・2011年9月10日
  34. ^ “「レッドブルはルノーのワークスチーム」とチーム代表”. F1トップニュース. (2011年9月16日). http://www.topnews.jp/2011/09/16/news/f1/teams/redbull/42890.html 2012年1月12日閲覧。 
  35. ^ “インフィニティとレッドブルF1、技術協力を強化”. レスポンス. (2011年10月19日). http://response.jp/article/2011/10/19/164037.html 2012年1月12日閲覧。 

[編集] 外部リンク

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