中嶋一貴

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中嶋 一貴
F1での経歴
国籍 日本
生年月日 1985年1月11日(24歳)
車番 17
所属チーム ウィリアムズ
活動時期 2007-
出走回数 26
優勝回数 0
通算獲得ポイント 9
表彰台(3位以内)回数 0
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
F1デビュー戦 2007年ブラジルGP
初勝利 -
2009年順位 16位(0ポイント)
(記録は2009年第7戦終了時)
  

中嶋 一貴(なかじま かずき、1985年1月11日 - )は、日本レーシングドライバー愛知県岡崎市出身。

父は元F1ドライバーの中嶋悟、弟はレーシングドライバーの中嶋大祐

目次

[編集] プロフィール

[編集] 経歴

[編集] ジュニアフォーミュラ

父のレースを幼少時から見て育ち、1997年カートレースにデビュー。1999年には鈴鹿選手権シリーズICAクラスでシリーズチャンピオンとなる。その後、父親の七光りと言う評判が付くことを嫌い、ホンダ系ドライバーであった父親とは違い[1]トヨタが運営するフォーミュラトヨタレーシングスクール(FTRS)を2002年に受講し、スカラシップを獲得した。2003年は、そのスカラシップでエントリーする事となったフォーミュラ・トヨタにて、見事シリーズチャンピオンに輝いた。

[編集] F3/SUPER GT

2004年全日本F3選手権にステップアップし、いきなり開幕ラウンドで2連勝し、父中嶋悟のDNAを受け継ぐ者として周囲に印象付けた。しかしその後は苦戦し、シリーズ5位に終わる。2005年も引き続き全日本F3に参戦しシリーズ2位となる。この年はマカオグランプリに挑戦するも6位に終わる。かねてから指摘されている、父と同じく予選での速さの不足及び不慣れなサーキットの攻略の遅さが表面化した形となった。また2005年はSUPER GT・GT300クラスにも参戦。スポーツランドSUGOで行われたシリーズ第4戦でクラス初優勝を飾っている。

2006年平手晃平とともに、F3ユーロシリーズトヨタ・ヤングドライバーズ・プログラム(TDP)から参戦した(所属はManor Motosport、マシンはダラーラF305 メルセデス[2])。第2ラウンド・ユーロスピードウェイで行われた第4戦において優勝するも、シーズンを通しては成績が伸び悩みシリーズ7位に終った。決勝ではレースをうまくまとめており、課題はやはり予選の速さである。なお、引き続きマカオグランプリにも参加し、予選7位・決勝リタイヤに終わる。

[編集] GP2

2007年シーズンはTDPドライバーとしてDAMSからGP2に参戦した。初戦となったバーレーンから第2戦スペイン・レース1まで3レース連続で1ポイントを獲得。第5戦イギリス・レース1で3位となり初表彰台。第7戦ハンガリー・レース1ではシーズン最上位となる2位に入る。最終戦バレンシアではP.P.を獲得(決勝レース1は3位・レース2は7位)したが、レース1のチェッカーを受ける直前に前を走っていた車にフロントウィングを失う接触を起こした。最終的にシーズン44ポイントでシリーズ5位となりルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得した。

[編集] F1

[編集] 2007年

2006年11月8日ウィリアムズより「2007年シーズンのテストドライバー契約を中嶋一貴との間で締結した」との発表があり、2006年11月16日富士スピードウェイで開催された「トヨタ・モータースポーツ・フェスティバル 2006」において、ウィリアムズのF1カーであるウィリアムズ・FW28を初ドライブした。

2007年シーズンは、GP2を戦いながらウィリアムズチームの第3ドライバーを兼務することになった。これはTDPの「参加ドライバー」として、初めてF1チームとの契約ドライバーになることであった。このことについては、2007年からウィリアムズのエンジンサプライヤーとなったトヨタの推薦を元に、チームオーナーであるフランク・ウィリアムズが自ら面接を行い決断したものであると、共同オーナー兼エンジニアリングディレクターであるパトリック・ヘッドが明かしている。ドライバーとしての能力は当然として、英語が堪能であることも契約に至る判断材料になったものと思われる。

F1の開催がGP2と重ならないレースでは、第3ドライバーとして金曜フリー走行に出走しているが、F1とGP2が併催されるレースではリザーブドライバーとして登録されている。なお、ハンガリーGPではそれまで通りウィリアムズのリザーブドライバーとしての登録と同時に、トヨタのリザーブドライバーとしても重複エントリーされた。これは本来のトヨタのリザーブドライバーであるフランク・モンタニーがトレーニング中のケガのため、サーキットに来られなかったことによる珍事であった。

デビュー戦ブラジルGPフリー走行にて

GP2閉幕後の中国GPではシーズンで5度目となる第3ドライバーを務めていたが、アレクサンダー・ヴルツが中国GP限りでの引退を発表したことにより、最終戦ブラジルGPでF1デビューをすることとなり、日本人としては17人目のF1ドライバーが誕生した。また、アジア人では初めての親子2代のF1ドライバーとなった。このドライバー選考については、GP2最終戦のバレンシアの予選において、P.P.を獲得したことや、中国GPのフリー走行で9番手タイムを叩き出したことが大きく影響したと考えられており、ブラジルGPの結果は、2008年シーズンのウィリアムズチームにおけるドライバー選考に大きな判断材料にはならないと、フランク・ウィリアムズ代表は記者会見で表明した。また、ディレクターのパトリック・ヘッドはエンジンサプライヤーであるトヨタの支援が明確に影響した事を後日認めた(この事との関連は不明だが、中嶋のレーシングスーツの胸の部分にはトヨタの赤いロゴがあるが、ロズベルグの胸にはない)。

F1デビュー戦となった2007年ブラジルGPでは、予選においてはタイヤを上手く使いきれず19位に終わった。決勝では、31周目、1回目のピットイン時に、ブレーキングのミスによって停止位置をオーバーランし自らのチームのピットクルーに接触して脚を負傷させるという失態を犯した。また63周目には第1コーナーで9位走行中のデビッド・クルサードをアウト側からオーバーテイクしたが、クルサードの進路を塞ぐという問題のあるライン取りであったため、クルサードに接触し、クルサードをスピンさせるなど、未熟さが露呈したレースだった。10位で完走し、シリーズ22位の結果を残した。また、レース中のファステストラップは5番手のタイムで、チームメイトのニコ・ロズベルグを0.043秒上回った(ロズベルグはファステストラップ7位、決勝順位4位だった)。

[編集] 2008年

2008年シーズンはウィリアムズとレギュラードライバー契約し、日本人8人目のフルタイムドライバーとして参戦することが決まった。一方でクルサードをはじめ、中嶋がF1ドライバーとして参戦するのは時期尚早ではないかとする意見もあった。

第1戦のオーストラリアGPは7位で完走したが、6位フィニッシュのルーベンス・バリチェロの失格(ピットアウト時の赤信号無視)により繰り上がり、6位に入賞した(チェッカーフラッグを受けたドライバー中の最下位)。またこのレースでは、セーフティカー走行中の48周目に第15コーナーでBMWザウバーロバート・クビサに追突し自身フロントウィングを失うとともに、クビサをリタイヤに追い込んだ。この行為により、第2戦マレーシアGPでは10グリッド降格の処分を受けた。予選は14位(ティモ・グロックの降格により13番手スタート)、レース中のファステストラップは14番手だった。

第4戦スペインGPではここまでの自己最高位となる予選12位で通過し、初めてチームメイトのロズベルグを上回った。また決勝レースでも初めてトップと同一周回で完走し、7位2ポイントを獲得した。

2008年モナコGP

第6戦モナコGPでは、序盤は雨という荒れたレースであったが、最後まで走りきり7位フィニッシュ、モナコGPで日本人初のポイントを獲得した。

第15戦シンガポールGPでは、未知のナイトレースで予選で自身初となるQ3に進出し、予選10番グリッドを獲得する。決勝では序盤に順位を落としたものの、最後は見事8位入賞を果たし1ポイントを獲得する。

初の母国GPとなった第16戦日本GPでは、フリー走行では好調な結果だったものの、Q3進出はならず、予選14番グリッドを獲得する。決勝では1周目でクルサードに追突し、フロントウイングを破損しピットイン。完走はしたものの、最下位の15位フィニッシュ。

[編集] 2009年

2009年シーズンも引き続きウィリアムズのレースドライバーとして参戦。 第1戦のオーストラリアGPでは、スタートの混乱をうまく避けて一時は4位を走行していた。しかし、単独でクラッシュし、リタイアとなった。

第8戦イギリスGPの予選では、自己ベストの5位を獲得した。決勝ではスタートで4位に上がり、目だったトラブルなども特に見られなかったものの、全体的にペースが悪く、11位でレースを終えた。

[編集] レース戦績(F1デビュー以前)

  • 1997年 - 鈴鹿選手権シリーズ・RSOクラス
  • 1998年 - 鈴鹿選手権シリーズ・ICAクラス
  • 1999年 - 鈴鹿選手権シリーズ・ICAクラス(シリーズチャンピオン)
  • 2000年 - 鈴鹿選手権シリーズ・FAクラス
  • 2001年 - 全日本カート選手権・FAクラス
  • 2002年
    • 全日本カート選手権・FAクラス
    • フォーミュラ・トヨタ・レーシング・スクール(FTRS)受講・スカラシップ獲得
  • 2003年 - フォーミュラトヨタシリーズ(TOM'S #8 ウルトラフロースカラシップFT/FT30)(シリーズチャンピオン・3勝)
  • 2004年
    • 全日本F3選手権(TOM'S #8 FTRS トムス F304 /ダラーラF304 3S-GE)(シリーズ5位・優勝2回)
    • バーレーンスーパープリ(トムス)(決勝7位)
  • 2005年
    • 全日本F3選手権(TOM'S #37 TDP トムス F305/ダラーラF305 3s-GE)(シリーズ2位・優勝2回)
    • F3マカオGP(トムス)(決勝6位)
    • SUPER GT・GT300クラス(APEXERA with apr→吉兆宝山 with apr #31 APEXERA→吉兆宝山MR-S/ZZW30 3S-GTE)(シリーズ8位・優勝1回)
  • 2006年
    • F3ユーロシリーズ(Manor Motorsport)(シリーズ7位・優勝1回)
    • F3Ultimate Masters(Manor Motorsport)(26位)
    • F3マカオGP(Manor Motorsport)(決勝DNF)
  • 2007年
    • GP2シリーズ(DAMS)(シリーズ5位・PP1回、最上位2位)

[編集] F1年度別での成績

(2009年第8戦終了時)

所属チーム car-No. ランキング 獲得ポイント 決勝最高位・回数 表彰台回数 予選最高位・回数 ファステストラップ獲得回数
2007年 ウィリアムズ 17 22位 0 10位・1回 0回 19位・1回 0回
2008年 8 15位 9 6位・1回 0回 10位・1回 0回
2009年 17 20位 - 11位・1回 0回 5位・1回 0回

[編集] エピソード

  • 平手晃平小林可夢偉とともに、中嶋一貴はTDP三銃士と呼ばれていた。
  • F1デビュー戦は、父、中嶋悟と同じブラジルGPであったが、サーキットは父がジャカレパグア、中嶋一貴はインテルラゴスと別である。
  • ヘルメットのカラーリングデザインは父のものを踏襲している。デビュー時は父と同じく、赤をベースに白文字で「NAKAJIMA」と書かれていたが、現在は白をベースにした赤文字で書かれている。
  • イギリス「Times(タイムズ)」紙が行った、2008年ベストドライバー投票において、6500票を超える投票数の中で、得票数1で最下位となった。[1]ウィリアムズというイギリスチームからの参戦にも拘わらず、同年わずかに4戦しか出走していない佐藤琢磨アンソニー・デビッドソンの2票を下回る結果となった。ちなみに1位はアロンソ、2位はハミルトンでそれぞれ1000票以上を得票し、その差は僅かに10票だった。

[編集] ドラマ

[編集] 脚注

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  1. ^ ただし中嶋悟は、F1参戦以前にトヨタ系チームのトムスからル・マン24時間レースWEC-JAPAN等に参戦しており、ホンダ一辺倒だったわけではない。
  2. ^ トヨタの育成ドライバーにも関わらずメルセデスエンジンを使うという異例の形だったが、当時のF3で使われていたトヨタ・3S-GEはメルセデスに比べ戦闘力が大きく劣っていたため、ドライバーの成績を優先させるというトヨタとしては苦渋の決断を行った。

[編集] 関連項目

ウィキメディア・コモンズ

[編集] 外部リンク