トヨタ自動車のモータースポーツ

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1957年のオーストラリア1周ラリーに出場したクラウンの再現車。このレースへの参加がトヨタのモータスポーツ活動の始まりとされる。

トヨタ自動車のモータースポーツでは、トヨタ自動車モータースポーツ活動の特徴や歴史について記述する。

概要[編集]

体制[編集]

トヨタの本格的なモータースポーツ活動は1960年代に始まる。当時の体制はトヨタ自動車工業(自工)とトヨタ自動車販売(自販)の2系列に分かれていた。自工は第7技術部(通称「ナナギ」)がヤマハと提携してスポーツプロトタイプを開発し、ワークス・チームの「チーム・トヨタ」が日本グランプリなどの主要イベントに参戦した。自販はトヨペットサービスセンター特殊開発部(通称「綱島[1]」)がツーリングカーのチューニングを行い、若手ドライバー主体の二軍的な活動を行った。

1971年にはワークス運営を終え、クラブチームのTMSC-Rをセミワークスとして支援したが、オイルショックの影響で1974年に国内のレース活動を休止する。海外では世界ラリー選手権 (WRC) に参戦する「トヨタ・チーム・ヨーロッパ (TTE) 」への支援を継続した。

1980年代にレース活動を再開してからは、系列3部門が各地域のモータースポーツ活動を担当している。東富士研究所が開発拠点として機能している。これらの部門の統括は従来本社モータースポーツ部 (MSD) が担当していたが、2014年の組織改編でMSDは「モータースポーツユニット開発部」と名称を変更して技術系の業務に専念することになり、マーケティングについてはトヨタ全体のマーケティングを担当するトヨタモーターセールス&マーケティング(TMSM)に移管された[2]

トヨタ・モータースポーツ有限会社 (TMG) [3]
ヨーロッパ地域を担当。ラリーチームのTTE(アンダーソン・モータースポーツ)を前身とし、ドイツケルンに拠点を置く。WRC、ル・マン24時間レース(1998 - 1999年)、F1を経て、2012年よりFIA 世界耐久選手権に参戦。
トヨタ・レーシング・ディベロップメント (TRD) [4]
日本・アジア地域を担当。トヨタテクノクラフトのレース部門であり、自販特殊開発部を前身とする。現在はSUPER GTの車両開発やネッツカップのメンテナンスなどを行う。
TRD U.S.A. Inc.[5]
北米地域を担当。アメリカの販売会社米国トヨタ (TMS) の子会社であり、カリフォルニア州コスタメサ及びノースカロライナ州シャーロットに拠点を置く。IMSACARTインディカー・シリーズへのエンジン供給を経て、現在は主にNASCARのエンジン開発・供給および車両開発を行う。

また、2000年には富士スピードウェイを買収し、約200億円を投じて近代化改修を行い[6]、2007年と2008年にはF1日本グランプリを開催した。

おもな活動[編集]

ラリー[編集]

サファリ・ラリーで優勝したセリカ (グループB) 、2007年撮影
セリカGT-FOUR (ST165)、2005年撮影
セリカGT-FOUR(ST185)、2010年撮影

1957年(昭和32年)、オーストラリア1周ラリーに招待され、クラウンで出場して総合47位となった。これがトヨタのモータースポーツ活動の原点である。

その後、1973年(昭和48年)から1999年(平成11年)まで世界ラリー選手権(WRC)にトヨタ・チーム・ヨーロッパ (TTE) がカローラレビンセリカスープラで参戦していた。1975年(昭和50年)の1000湖ラリー(フィンランド)での、カローラレビンによるWRC初制覇に始まり、TA64型セリカで1984年(昭和59年)、1985年(昭和60年)、1986年(昭和61年)とサファリラリー3連覇を達成した。

1988年(昭和63年)、WRC王座獲得を目指すべくツール・ド・コルス(フランス)でST165型セリカをデビューさせ、当時最強を誇っていた王者ランチアに挑み、熾烈な戦いを繰り広げることになる。

ST165型セリカで挑んだ1990年(平成2年)とST185型セリカにスイッチした1992年(平成4年)にはカルロス・サインツがドライバーズチャンピオンを獲得。

1993年(平成5年)には日本の自動車メーカーとして初めてマニュファクチャラーズタイトルを獲得(ドライバーズとの2冠)。1994年(平成6年)にも2年連続でダブルタイトルを制覇した。また、1994年(平成6年)のサンレモ・ラリーユハ・カンクネンの手でそれまでのST185型セリカに変わってST205型セリカがデビューした。

1995年(平成7年)はTTEにとって苦難の年となってしまった。前年にデビューしたST205型セリカの性能が思わしくなく、辛うじてディディエ・オリオールがツール・ド・コルスでST205型セリカによる唯一の優勝を獲得するに留まった[7]

そして、1995年(平成7年)のラリー・カタルーニャでエンジンの吸気量を制限するリストリクターに意図的に細工を施すという行為が発覚した。とても手の込んだ細工で、エアリストリクターが装着されたトランペット状の部品単体では問題ないが、エンジンに取り付けると吸気の負圧でパーツがスライドして隙間ができ、その隙間から空気を吸入しパワーを上げるというものだった。国際自動車連盟 (FIA) は写真付きでその方法を公表し、1995年(平成7年)シーズンのドライバー及びマニュファクチャラーの全ポイント剥奪と1996年終了までの出場停止処分を発表した。

その事件から、2年後の1997年(平成9年)シーズン途中、1997年シーズンから始まった新規定WRカー規定を適用し、モデルチェンジ毎に大きくなっていったセリカから、セリカ譲りの3S‐GTEエンジンを搭載したよりコンパクトなカローラWRCへとスイッチ。ディディエ・オリオールの手によって1997年のフィンランドラリーでデビューを飾った。

1998年(平成10年)はオリオールに加えて、サインツがフォードから移籍。サインツが開幕戦で優勝を飾るなど2勝をマークし、マニュファクチャラーズランキング2位でシーズンを終えた。

1999年(平成11年)は優勝こそチャイナ・ラリーのみだったもののコンスタントに入賞を繰り返し、5年ぶり3度目のマニュファクチャラーズタイトルを獲得。しかし、サンレモラリーの直前にTTEはWRC撤退とF1参戦を発表、27年にも及ぶ日本最大のマニュファクチャラーのラリーへの挑戦は幕を閉じた。獲得タイトル数は7(ドライバーズ4回、マニュファクチャラーズ3回)、通算勝利数は日本のメーカーでは最多となる43勝。

スポーツプロトタイプ[編集]

トヨタ・7の開発[編集]

トヨタが初めてスポーツプロトタイプのレースに参加したのは1966年(昭和41年)の第3回日本グランプリである。ただしマシンは市販前の2000GTで、純粋なレーシングカーではない。日産/プリンスに対しプロトタイプの開発が遅れたトヨタは、翌1967年の第4回日本グランプリを欠場した。

1968年(昭和43年)、トヨタは自社初のプロトタイプレーシングマシン、3リッターV型8気筒エンジン搭載のトヨタ・7をデビューさせる。5月の'68日本グランプリでは日産・R381に敗れたものの、その他のレースで勝利を収める。日産が日本GP以外あまり出場なかったのに対して、トヨタは耐久レースに積極的に参戦し「耐久のトヨタ」と呼ばれた。

1969年(昭和44年)には5リッターV型8気筒エンジンを搭載するトヨタ・7の第2期モデルが登場する。このマシンもデビュー戦の7月の富士1000kmで勝利を収め、続く8月のNETスピードカップも日産R381を破り優勝。また11月の第2回日本Can-Amも制するが、肝心の10月の日本グランプリでは6リッターV型12気筒エンジンを搭載する日産・R382の前にまたも涙を飲む。

翌年に向けてトヨタは日本初の5リッターV型8気筒エンジンにターボチャージャーを装着した第3期モデルのトヨタ・7を開発するが、日産が1970年の日本グランプリの欠場を表明したため、トヨタも欠場することとなる。トヨタの目は世界に向けられ、トヨタ・7ターボでのCan-Amへの挑戦を決意するが、それが決定したまさにその日、鈴鹿サーキットでトヨタ・7ターボをテスト中の川合稔が事故死、これによりトヨタ・7のプロジェクトは白紙にされてしまう。以降1980年代までトヨタはプロトタイプカーのレース活動を中断することになる。

ル・マン挑戦[編集]

GT-One (TS020)、2005年撮影

1975年(昭和50年)にはシグマ・オートモーティブ(SARDの前身)にエンジンを供給し、シグマ・MC-75がル・マン24時間レースに参戦した。また、1973年にマツダのロータリーエンジンを搭載したシグマ・MC-73のリアウィングには「TOYOTA」のスポンサーロゴが書かれている。

1982年(昭和57年)に世界耐久選手権(WEC)の日本ラウンド (WEC-JAPAN) が初開催されると、童夢トムスが共同開発したグループCカー、トムス童夢・セリカCにWRC用エンジンをベースにした4気筒ターボエンジンを供給した。

1983年(昭和58年)から始まる全日本耐久選手権(1987年(昭和62年)より全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権=JSPC)にも参戦。童夢とトムスの共同開発によるトムス・83C(1983年) - 88C1988年(昭和63年))を経て、8気筒ターボエンジンを新開発し、88C-V(1988年) - 92C-V1992年(平成4年))を送り込む。1987年(昭和62年)からはトヨタの名を冠した「トヨタチームトムス」として参戦を開始。TRDが開発を主導することになり、マシン名も「トムス」から「トヨタ」となり、オイルショック以降中断していたワークス活動の事実上の再開となった。

1985年(昭和60年)からはル・マン24時間レースにも参戦を開始し、1989年にはイギリスのトムスGBを拠点として世界スポーツプロトタイプ選手権 (WSPC) にもフル参戦する。ル・マンには1990年(平成2年)まではターボエンジン車で参戦し、1992年、1993年には当時のF1と同じ規定で造られた自然吸気3.5リッター10気筒エンジンを搭載したTS010で参戦し、1992年には2位を獲得している。1994年には92C-Vを改造した94C-Vで出場、しかしポルシェ962CをGTとして改造した、掟破りとも言えるダウアー962GTの前にまたも2位に終わる。

1992年にはスポーツカー世界選手権 (SWC) 第1戦のモンツァで、日本の小河等が優勝した。

1998年(平成10年)から1999年(平成11年)にかけては、TTEを中心に開発したToyota GT-One (TS020) でル・マンに参戦。マシン性能は他社に比べて優れていたが、マシントラブルのために最高成績は1999年の2位止まりに終わる。

2012年ハイブリッドエンジンを搭載するTS030 HYBRIDを投入し、ル・マン24時間レースを含むFIA 世界耐久選手権へ参戦を開始した。ル・マンへは1999年のGT-One TS020以来、13年ぶりの参戦となったが、途中首位を奪うシーンもあったものの、リタイヤに終わる。

IMSA GTP[編集]

イーグル・マークIII

1980年代後半、アメリカではTRD-USAがダン・ガーニー率いるオール・アメリカン・レーサーズ (AAR) と提携し、IMSAに参戦。GTUクラス、GTOクラスを経て、1989年より最高峰のGTPクラスに挑戦した。

1991年にはトヨタの2.1リッター直4ターボエンジン(3S-G改)を搭載するイーグル・マークIIIを投入し、1992年と1993年にドライバーズ(ファン・マヌエル・ファンジオ2世)とマニュファクチャラーズタイトルを連覇した。

フォーミュラカー[編集]

1996年(平成8年)からアメリカのチャンピオンシップシリーズ (CART) にエンジンマニュファクチャラーとして参戦した。IMSAからの流れでAARと提携したが、当初は戦闘力も信頼性も無く、エンジンの熟成には時間を要した。2000年(平成12年)にはファン・パブロ・モントーヤのドライブでCART初勝利を達成。2002年(平成14年)にはドライバーズ(クリスチアーノ・ダ・マッタ)、マニュファクチャラーズのダブルタイトルを獲得した。

2003年(平成15年)からは、インディカー・シリーズへ参戦し、世界3大レースのひとつであるインディ500を日本メーカーとして初めて制覇。参戦初年でドライバーズ(スコット・ディクソン)、マニュファクチャラーズのダブルタイトルを獲得した。その後、2006年(平成18年)末撤退予定を前倒しし、2005年一杯で撤退した。

F1にはシャーシ・エンジンとも自製するフルコンストラクターとして2002年(平成14年)から参戦。2009年(平成21年)シーズン終了後に撤退を表明した。ポールポジション3回を獲得したが、F1での勝利は達成できなかった。

国内では2006年(平成18年)よりフォーミュラ・ニッポンスーパーフォーミュラにホンダとともに以下のエンジンを供給している。これらは仕様変更してSUPER GTの車両にも搭載されている。

その他[編集]

ツーリングカー / GTカー[編集]

JGTCに参戦したスープラ

1963年(昭和38年)に初開催された日本GPパブリカコロナクラウンが出場。「レースには積極的に関与しない」という国産メーカー間の紳士協定を破り、トヨタ自工がチューンした「裏ワークスマシン」を投入して出場3クラスを制覇した。その成績を大々的に宣伝したことがプリンスなど他メーカーを刺激し、ワークス対決のきっかけとなる。

市販車ベースのレースでは、2000GTのほか1600GTS800が活躍した。1600GTのプロトタイプは「RTX」の名で自工ワークスが使用し、ツーリングカーの公認を得てからはプライベーターにも愛用され、日産スカイライン2000GTの牙城を崩した。

1970年代はカローラ / スプリンターセリカスターレットなどが活躍。ワークス活動休止後はプライベーターに放出され、マイナーツーリングレースで激戦を展開した。

1994 - 1998年には全日本ツーリングカー選手権 (JTCC) に参戦し、1994年(平成6年)第4戦からは全日本GT選手権(JGTC:現・SUPER GT)に参戦。GT500クラスでは2005年までスープラ、2006年からはレクサスSCで参戦。GT300クラスにもレクサスIS、および2008年までMR-S、2009年からはカローラアクシオ、2012年よりプリウスがそれぞれ参戦している。

ストックカー[編集]

2000年(平成12年)、アメリカのストックカーレースであるNASCARのグッディーズダッシュシリーズにセリカで初参戦。2004年(平成16年)にクラフツマントラックシリーズ(現・キャンピング・ワールド・トラック・シリーズ)にタンドラで参戦。トップ3カテゴリーへ参戦する史上初の新マニュファクチャラーとなり、2006年(平成18年)にはドライバーズ、マニュファクチャラーズのダブルタイトルを獲得した。

2007年(平成19年)からは最高峰カテゴリーにあたるネクステルカップシリーズ(現・スプリントカップシリーズ)とブッシュシリーズ(現・ネイションワイド・シリーズ)へカムリで参戦。2008年(平成20年)のスプリントカップ第4戦で、外国車メーカーとしては1954年(昭和29年)のジャガー以来、日本車メーカーとしては初となる最高峰カテゴリーでの優勝を果たした。

普及活動[編集]

アマチュアおよびモータースポーツ入門者向けのカテゴリとして、ワンメイクレースの運営を行っている。1981年(昭和56年)には国内初のワンメイクレースとして「スターレット・グランドカップ」を創設。2000年(平成12年)よりヴィッツアルテッツァ(2006年まで)で参加する「ネッツカップ」や、ラリー初心者向けのワンメイクラリー「TRDヴィッツチャレンジ」などを開催している。ヴィッツレースは趣味で参加できる「ナンバー付き車両レース」として人気を博している。2013年には86及びスバル・BRZによって争われる「GAZOO Racing 86/BRZ Race」もスタートした。

フォーミュラカーでは1991年(平成3年)より2007年(平成19年)年までジュニア・フォーミュラシリーズとしてフォーミュラ・トヨタを主催。2006年(平成18年)~2013年(平成25年)には日産ホンダと共同でフォーミュラチャレンジ・ジャパン(FCJ)を運営していた。

また若手レーシングドライバー育成プロジェクトとしてフォーミュラトヨタ・レーシングスクール(FTRS)やトヨタ・ヤングドライバーズ・プログラム(TDP)を運営。中嶋一貴小林可夢偉という2名のF1ドライバーを輩出した。

年表[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 整備を行う横浜工場(現在のトヨタテクノクラフト横浜本社)が神奈川県横浜市港北区綱島にあったことからこう呼ばれる。
  2. ^ トヨタ自動車、2014年のモータースポーツ活動および支援計画を発表 - トヨタ自動車・2014年1月30日
  3. ^ Toyota Motorsport GmbH” (英語・ドイツ語). 2012年3月22日閲覧。
  4. ^ モータースポーツ/国内”. 事業案内. トヨタテクノクラフト. 2012年3月22日閲覧。
  5. ^ 2008年NASCAR特集 第14回 トヨタのNASCAR最前線基地 TRD Competition Drive”. TOYOTA MOTOR SPORTS. 2012年3月22日閲覧。
  6. ^ “トヨタ、富士スピードウェイでのF1開催の撤退を検討”. F1-Gate.com. (2009年5月29日). http://f1-gate.com/toyota/f1_3709.html 2012年3月22日閲覧。 
  7. ^ このラリーを最終日まで1位で走行していた選手のマシントラブルによるリタイアがあっての優勝だった。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]