フランク・シナトラ

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フランク・シナトラ
Frank Sinatra
フランク・シナトラFrank Sinatra
『私を野球に連れてって』(1949年)
本名 フランシス・アルバート・シナトラ(Francis Albert Sinatra)
生年月日 1915年12月12日
没年月日 1998年5月14日(満82歳没)
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ニュージャージー州ホーボーケン
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス
民族 イタリア系アメリカ人[1]
身長 170 cm
職業 俳優歌手、エンターテイナー
ジャンル 映画、テレビ
活動期間 1935年 – 1995年
活動内容 映画、歌手
配偶者 ナンシー・バルバト(1939年 - 1951年)
エヴァ・ガードナー(1951年 - 1957年)
ミア・ファロー(1966年 - 1968年)
バーバラ・マルクス(1976年 - 1998年)
著名な家族 フランク・シナトラJr.
ナンシー・シナトラ
公式サイト フランク・シナトラ オフィシャルファンクラブ
主な作品
映画
踊る大紐育
地上より永遠に
オーシャンと十一人の仲間
ザッツ・エンターテインメント

フランシス・アルバート・"フランク"・シナトラFrancis Albert "Frank" Sinatra1915年12月12日 - 1998年5月14日)は、アメリカのジャズ・ポピュラー歌手

概要[編集]

現在も歌い継がれる数々の世界的大ヒット曲を世に送り出し、その卓越した歌唱力によって「ザ・ヴォイス」と称された。エルヴィス・プレスリーマイケル・ジャクソンなどと並び、20世紀を代表する歌手の一人である。「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第3位にランキングされた[2]

第二次世界大戦前の1930年代より死去する1990年代までの長きに渡り現役の歌手として活動し、数々のミリオンセラーを連発し、また多くのミュージシャンに影響を与えた。映画俳優としても活躍し、1953年には第26回アカデミー賞助演男優賞を受賞している他、数多くの名作、ヒット作に出演している。

しかし、デビュー期からイタリア系マフィアとの深い関係が度々取りざたされており、またマフィアを介してジョン・F・ケネディ大統領と親密な交友関係を持ち、ケネディの大統領当選に貢献したものの、後に仲たがいしたことから、同大統領の暗殺に関与したと噂されたこともある。

略歴[編集]

プロフィール[編集]

生い立ち[編集]

1915年ニューヨーク市近郊のニュージャージー州ホーボーケンでイタリア系アメリカ人の家庭に生まれる。1930年代初頭、当時ラジオで人気を得ていたビング・クロスビーの歌声に憧れて歌手を志す。

プロデビュー[編集]

第二次世界大戦中のAFRS時代のシナトラ(左端)とダイナ・ショア(中央・右)、ビング・クロスビー(右端)

1935年、20歳の時に地元のイタリア人ボーカルトリオ「ザ・スリー・フラッシズ」に参加、「ホーボーケン・フォア」としてラジオ出演・全米巡業(ただし他のグループ・コメディアンも一緒の一座であり店頭などで歌った)などを行い後に脱退した。なお、この頃よりイタリア系マフィアとの関係が深かったといわれている。

その後バーのラウンジで歌っていたところを見出され、1939年には当時大衆的な人気が高かったトランペッター、ハリー・ジェイムスの楽団「ミュージック・メイカーズ」の専属歌手としてプロデビューする。その歌唱スタイルはクロスビーの影響下にあるクルーナースタイルであった。

1940年には、やはり人気のあったトロンボーン奏者トミー・ドーシーオーケストラに引き抜かれ移籍して大活躍、10代の女性を中心にシナトラへの人気を決定的なものとした。音楽的に、リーダーのトミー・ドーシーによる滑らかなトロンボーン・プレイを研究し、自らの歌い回しに取り込み、また、世界で最初にマイクロフォンをマイクスタンドから取り外して歌うなど、マイクロフォンの特性を熟知し、自らの楽器とした巧みな歌唱テクニックは、既にこの頃から発揮されていた。

アイドル[編集]

AFRS時代のシナトラ(左端)

1941年12月の日本との間の開戦をきっかけにアメリカも参戦した第二次世界大戦では、国民が兵士として徴兵され、また兵役を自ら志願もした。しかし、シナトラ自身は出生時、難産であり鉗子のため鼓膜が破れており兵役不合格となった。その為、AFRS(American Forces Radio Service = アメリカ軍ラジオサービス)や慰問部隊の歌手の1人として、アメリカ全土の基地やヨーロッパ各地を回ると同時に、レコードのリリースや映画への出演を続けた。従って、その歌手としてのキャリアが兵役によって中断されることはなかった。

アメリカ全土から若者が戦場に赴いたこの時代、若々しい歌声のシナトラは若い女性たちの代替的恋人とも言うべき存在で、「ボビーソクサー(女学生たち)のアイドル」としてその人気は凄まじいものがあった。劇場での公演では、観客の女性に、興奮のあまり気絶し失禁する者すら出たという。

この頃、多くのスターを抱え、人気の絶頂を誇っていたメトロ・ゴールドウィン・メイヤー (MGM) のミュージカル映画にも(演技はさして巧くないものの)多数主演し、後にスタンダード・ナンバーとして記憶される曲を多く歌っている。

スランプと復活[編集]

マイクを前にするシナトラ(1947年)

しかしその反動か、第二次世界大戦終戦後の1940年代後半から一時人気が低迷し、1950年には喉の疾患で一時声が出なくなりスランプに陥った。とうとう所属している映画会社のMGM、レコード会社のコロムビアのいずれからも見放されてしまう。

そのまま「過去の存在」となるかと思われたが、1953年にはフレッド・ジンネマン監督の第二次世界大戦前夜のアメリカ軍兵士を描いた文芸映画『地上より永遠に』の脇役であるイタリア系アメリカ人兵士「マッジオ」役が転機となった。

これまで主役級を演じてきたシナトラにとって脇役の演技は格落ちであったにも関わらず、この役にほれ込み相当の運動をおこなった。明るく陽気で、周囲から仲間はずれにされて虐げられる主人公にいつまでも味方をしたことが仇となり、軍隊内の虐待で惨めに死んで行く兵士を演じ、アカデミー賞助演男優賞を獲得、奇跡的なカムバックを成し遂げる。なお、この役に採用されるまでのエピソードがマフィアを描いた映画「ゴッドファーザー」で取り上げられている(詳細は後述)。

最盛期[編集]

相前後して1940年代から契約していたコロムビア・レコードに代わり、当時は新興レーベルだったポピュラー音楽界の有名レーベルであるキャピトル・レコード1952年に専属契約。歌手としてのキャリアを積んだ結果、円熟の度を重ねた歌唱を発揮し、コロムビア・レコード時代の盟友アクセル・ストーダールとのコンビを解消、新たにネルソン・リドルやビリー・メイ、ゴードン・ジェンキンズなどの優れた編曲家が指揮するオーケストラをバックに、スタンダード曲や、座付き作者とも言うべき作曲家ジミー・ヴァン・ヒューゼンと作詞家サミー・カーンらによる新曲を多数録音した。

こうして1950年代後半にキャピトルから多数送り出されたアルバムは、ジャズ的センスに富んだ質の高いものばかりで、シナトラの最盛期をこの時代とする批評家は多い。またシナトラ+リドルの、シンガーとアレンジャーのコンビネーションは、アメリカのポピュラー音楽史上最高と言われている。

なお、この頃ビル・ヘイリーエルヴィス・プレスリーなどの出現によりロックンロールの人気が高まったが、シナトラのかつての主なファン層である10代を中心に人気を獲得したロックンロールにシナトラは見向きもせず、音楽指向はそのままに音楽の質を上げ、大人になったかつてのファン層を手放さないことで高い人気を維持し続けた。

"シナトラ一家"[編集]

ディーン・マーティンとともに

最盛期であった1950年代後半に、サミー・デイヴィスJr.ディーン・マーティンピーター・ローフォードジョーイ・ビショップハンフリー・ボガートらとともに「シナトラ一家(Rat Pack/ラット・パック)」を組み、ネバダ州ラスベガスに自らが所有するカジノホテル、「サンズ(Sands)」を中心にツアーを行った。

また、『オーシャンと11人の仲間』(後にジョージ・クルーニーブラッド・ピットアンディ・ガルシアなどの出演でリバイバルされた『オーシャンズ11(Ocean`s Eleven)』のオリジナル)などの映画に出演し高い人気を博した。

公民権運動が徐々に高まりつつあったが、まだまだ人種差別が激しく、多くのホテルがアフリカ系アメリカ人を客として受け入れることを拒んでいた1950年代のアメリカで、アフリカ系の血を引いていたサミー・デイヴィスJr.を一家に入れて「サンズ」のショーに出演させることに反対するものが多かったが、シナトラはデイヴィスJr.の音楽センスを高く評価していた上に、新興移民のイタリア系であることから、自ら人種差別を受けることも多く人種差別を嫌悪していたため、周囲の反対を押し切ってデイヴィスJr.をシナトラ一家に迎え入れた。また、キング牧師を支援した。

しかしその反面、シナトラと仲の良かったアフリカ系アメリカ人ミュージシャンのクインシー・ジョーンズは自伝の中で、シナトラが日常的に(冗談半分で)人種差別発言を行っていたことを暴露している。

ケネディとの友情と選挙協力[編集]

フロリダ州で行われた民主党の資金調達パーティーに出席したシナトラとエリナ・ルーズベルト元大統領夫人(1960年)
ケネディ大統領の誕生日祝賀会の後にケネディ兄弟と話すモンロー(1962年5月19日)。この頃にはシナトラとケネディの関係は疎遠になっていた

「シナトラ一家」のメンバーのローフォードが、1956年に民主党の若手上院議員のジョン・F・ケネディの妹パトリシアと結婚して以降、「ケネディの広報マシン」と呼ばれるようになったローフォードを通じてジョンやジョンの弟のロバートエドワードなどのケネディ兄弟と親しい関係を結んだ。

その後シナトラは、ケネディ家を通じて民主党への支援を活発に行い、1960年の大統領選挙にジョンが出馬した際には、ローフォードやサミー・デイヴィスJr.などとともに、カリフォルニア州ネバダ州で行われた選挙資金調達パーティーに出演するなど、ジョンの予備選勝利に向けて協力を行った[3]

さらに、1960年7月10日の民主党大会の初日前夜に、ビバリーヒルズのビバリー・ヒルトン・ホテルで開かれた資金調達パーティーでは、シナトラやローフォード、デイヴィスのほかにも、シナトラが親しかったジュディ・ガーランドトニー・カーチスが出席し、シナトラはアメリカ国歌を歌ったばかりか、会場をまわり代議員へのジョンへの支援への説得を行った[4]

またジョンは、予備選挙中にシナトラから紹介されたシナトラの元恋人のジュディス・キャンベルを経由して、シナトラとも関係の深かったマフィアの大ボスのサム・ジアンカーナを紹介してもらい、ウェストバージニア州における選挙への協力を直接要請した他、FBIの盗聴により、シナトラが同州のマフィアからケネディのために寄付金を募り、ケネディの選対関係者にばらまいたことが明らかになっている[5]

なお、ジョンはシナトラから紹介されたキャンベルと不倫関係を持っただけでなく、その死の直前まで不倫関係にあった女優マリリン・モンローをジョンに紹介したのもシナトラであった。

ケネディとの友情の決裂[編集]

しかしケネディ兄弟、特にジョンがマフィアと関係の深いシナトラと深い関係を築き、ジョンがシナトラの元恋人のキャンベルやモンローと不倫関係を持ったこと、さらに上記のようにジョンが大統領選挙の本選において、ジアンカーナなどシナトラと親しいマフィアからの選挙不正への関与を含む選挙支援を受けたこと、そしてその後の関係の決裂が、後にジョンの名声を傷つけるだけでなく、下記のように暗殺の原因の1つとされることとなる。

1962年に入り、シナトラとジアンカーナらのマフィアとの関係がマスコミなどで問題視され、さらにマフィアへの取り締まり方針を強めたFBIからもジョンとシナトラ、そしてキャンベルとの関係について忠告を受けたこともあり、ケネディ政権の司法長官となったロバートがジョンとシナトラの関係を終結させるように画策した。ジョンは、これを受けてシナトラと距離を置いたためにシナトラが激怒し、ジョンやロバートらケネディ兄弟との関係が疎遠になっだけでなく、ジョンの側近となっていたローフォードを「シナトラ一家」から事実上追放することとなった。

リプリーズ期[編集]

1960年代に入ってからは、個人レーベルとして「リプリーズ・レコード」を設立、後半は全盛期のキャピトル時代に比してやや水準は劣るものの、良質なアルバムを多数送り出している。1962年にはワールド・ツアーで初来日し東京でコンサートを行っており、これ以降数度に渡り来日公演を行っている。なお1963年には、歌手となった長男のフランクJr.が誘拐され、240,000ドルを要求されたものの2日後に解放されるという事件が起きた。

また、映画俳優としての活動も活発に行っていたが、この頃は「演技派俳優」としてその演技が以前にも増して高い評価を受けるようになっており、「影なき狙撃者」などが高い評価を受けたほか、1965年には初の監督作品として「勇者のみ」の監督及び出演を行っている。

1966年、「夜のストレンジャー」がグラミー賞を獲得しシナトラ健在を世界中に示した。1969年にはフランスの歌手クロード・フランソワの楽曲「Comme d' habitude(コム・ダビテュード / いつものように)」にポール・アンカ英語詞を付けたナンバー「マイ・ウェイ」をヒットさせ124週に渡りシングルチャートに、51週に渡りアルバムチャートにとどまる大ヒットとなった(これは通俗的に流行したことで日本でもよく知られており、シナトラ=「マイ・ウェイ」のイメージが強い)。以降この曲は「ニューヨーク・ニューヨーク」「夜のストレンジャー」に並ぶシナトラの代表曲となった。

1971年には一時引退を表明したものの、1973年にはアルバム「Ol' Blue Eyes Is Back」と共に再び歌手業に復帰、以後晩年まで活躍を続けた。1976年には、ゼッポ・マルクスの前妻のバーバラ・マルクスと結婚し、その後添い遂げることになる。

晩年[編集]

ロナルド・レーガン大統領から大統領自由勲章を受けるシナトラ

1980年代は映画への出演こそ減ったものの、アルバムのリリースや、ラスベガスやマディソン・スクエア・ガーデンなどをはじめとする全米各地や日本やイギリス西ドイツなど諸外国でのコンサート活動を精力的に行った。また、同じイタリア系アメリカ人のリー・アイアコッカが社長に就任したクライスラーテレビCMに娘のナンシーとともに出演した。

なお、1985年にはその長年の活動が認められて、以前カリフォルニア州知事選挙の支援活動を行ったことのあるロナルド・レーガンより大統領自由勲章を授与された。

1990年に最後の世界ツアーを行い、この際にニューヨーク線を開設する日本の航空会社全日空のテレビCMに出演した。1991年には横浜アリーナ公演のため最後の単独来日、1994年にはナタリー・コールとのジョイント公演を福岡だけで行った。

1993年には、ロックンロール界の大御所であるU2ボノや、スペイン人スター歌手のフリオ・イグレシアス、またR&B界の大御所であるスティーヴィー・ワンダールーサー・ヴァンドロスといった各国のスーパースターとの競演アルバム『Duets』2作をリリースし、高い評価を受けると共に最後の世界的ヒットとなった。しかしこの年に心臓発作で入院し、その後回復に万全を期すために活動を縮小していったものの、度々マスコミの前に姿を見せた。

死去[編集]

ロナルド・レーガン夫妻と談笑するシナトラ

1997年2月に再度心臓発作を起こした後は一般及びマスコミの前に姿を見せることはなくなり、自宅での治療に専念した。しかし1998年5月14日にビバリー・ヒルズの自宅で心臓発作を起こしウェスト・ハリウッドのセダース・サイナイ・メディカル・センターに運ばれ、そのまま回復することなく永眠した。

シナトラの死は世界各国で大きな衝撃を持って受け止められ、ビル・クリントン大統領がシナトラの死を悼むメッセージを述べたほか、エルトン・ジョンなど世界各国のアーティストがその死を悼むメッセージを発表した。またニューヨークのエンパイア・ステート・ビルディングが弔意を示すために(シナトラの瞳と同じ)青い照明に変えられたほか、ラスベガスのストリップの全ての照明が同じく弔意を示すために10分間完全に消灯された。

1998年5月20日にビバリー・ヒルズのカトリック教会で行われた葬儀には、グレゴリー・ペックトニー・ベネットボブ・ディランライザ・ミネリトニー・カーチスジル・セント・ジョンジャック・ニコルソンソフィア・ローレンカーク・ダグラスロバート・ワグナーミア・ファローナンシー・レーガンなど各界から多数が参列しその死を悼んだ。

マフィアとの関係[編集]

タブー[編集]

シナトラはその生涯にわたり、イタリア系マフィアとの黒い噂が絶えなかった。しかも、このことは「公然の秘密」であったにも関わらず、メディアのインタビュアーがマフィアとの関係を尋ねることはタブーとされていて、実際に尋ねてしまった場合はインタビューは即時中断し、そのインタビュアーは二度とシナトラに対するインタビューはできなかった。

なお、有名なニュースアンカーのウォルター・クロンカイトがインタビュー番組の収録の際、番組のプロデューサーにけしかけられてシナトラにマフィアとの関係を尋ねてしまった際には、怒ったシナトラが自らのマネージャーを呼びつけて中座し、インタビューは中止された。その後、シナトラとマネージャー、プロデューサーの話し合いの後に再開し、シナトラより「興業先で興業主がマフィアであると知らず同席することはあった」との説明があったに留まった[6]

『ゴッドファーザー』[編集]

シナトラが『地上より永遠に』の脇役に抜擢されるまでの有名なエピソードがある。つまり、カムバックを狙ったものの、女性スキャンダルが元で役につけなくなったシナトラが、「育ての親」であるマフィアの大物のサム・ジアンカーナに泣きつき、最終的にジアンカーナが裏で動いて役に抜擢されたというものである。

このエピソードは後に、イタリア系マフィアの血族を描いた映画、『ゴッドファーザー』で取り上げられ、世間に知られるようになる(映画上ではさすがに実名ではなく、「ジョニー・フォンテーン」と言う芸名になっている)。

その後、あるパーティーに、「ゴッドファーザー」の原作者のマリオ・プーゾとシナトラとが同席していて、知人がプーゾをシナトラに紹介しようとしたところ、「Fuck off(うせろ)!!」と怒鳴ったのは有名な話である。

FBI資料[編集]

ラッキー・ルチアーノ

シナトラは、前記のジアンカーナの他にも、カルロ・ガンビーノラッキー・ルチアーノなどのイタリア系マフィアの歴代の大ボスとの交流があったことが、FBIの資料で公になっており、その資料は合計で2,403ページにも及ぶことから、いかに深く広いつき合いがあったかわかる。

最初の結婚[編集]

1940年代、彼はジェノヴェーゼ・ファミリーの副ボスウィリー・モレッティと友人となった。シナトラの最初の妻だったナンシー・バルバートはモレッティと縁のある人物のいとこであった。

ケネディ大統領暗殺事件[編集]

娘のナンシーによれば、ケネディが1960年の大統領選挙に立候補する際、ケネディの父親で、密造酒商売を通じてマフィアと繋がりが深く、禁酒法時代に密造酒製造・販売で財を成してのし上がった過去があるジョセフ・P・ケネディが、シナトラの歌手デビュー当時から密接なつき合いがあるイタリア系マフィアの大ボスで、ショービジネス界を裏で握っているジアンカーナに選挙運動に協力するように頼んでほしい、とシナトラに頼んだと証言している。

シナトラはジアンカーナに協力を要請したほか、その後元ガールフレンドでジアンカーナの情婦でもあったジュディス・キャンベルを大統領になる前のケネディ大統領に紹介し、キャンベルとケネディは短期間の間不倫関係になった。なおその後キャンベルはケネディをジアンカーナに紹介した。実際にその後ジアンカーナはケネディの大統領選挙の支援(選挙不正)を行った。

しかしケネディは大統領当選後、ケネディ家とジアンカーナをはじめとするマフィアとの関係を怪しんだFBI長官ジョン・エドガー・フーヴァーに目をつけられたため、マフィアの協力で大統領に当選したことが表ざたになることを恐れた弟で司法長官となったロバートが、大統領就任後にジアンカーナをはじめとするマフィアとの繋がりがあるシナトラを露骨に避けた上、この様な事実のもみ消しのために「マフィアを徹底的に取り締まる」と発表した。

このような無礼な仕打ちに怒ったジアンカーナとシナトラは徐々に反ケネディに傾いて行き、ジアンカーナは「ケネディ大統領暗殺事件の黒幕の一人」と言われることになる。 さらにシナトラは、1968年の大統領選挙でロバートのライバルとなることが予想された共和党のリチャード・ニクソンと密接な関係を結ぶまでになった。この事が「ケネディ大統領暗殺の際にシナトラが何らかの役割を果たしたのではないか」、「ケネディ兄弟の暗殺はこの裏切りに対する報復であっただろう」と言われる根拠となっている。

ちなみにシナトラはケネディ大統領暗殺事件の直後、自分が出た映画「3人の狙撃者」のフィルムを回収して回った。なぜなら、そこでのシナトラの役は大統領狙撃未遂の主犯だったからである。

私生活[編集]

家族[編集]

ナンシー・シナトラ

1939年にホーボーケン時代からの恋人ナンシー・バルバトと最初の結婚をした後、1951年に離婚するまでの間に3人の子供をもうけた。3人ともエンターテイメントの世界に進んだ。長女のナンシーNancy Sinatra)は歌手として活躍し、特にスパイ映画の007シリーズ第5作『007は二度死ぬ』の主題歌は世界的なヒットとなった。

次女ティナは女優としてテレビを中心に活躍した。長男のフランクJr.は歌手となったが1963年に誘拐され、240,000ドルを要求されたものの2日後に解放された。現在もピアニスト、音楽プロデューサー、歌手として活躍している。来日経験も多く、2012年の2月にはブルーノート東京で亡き父フランク・シナトラの歌を披露した。

ナンシーと離婚してからわずか10日後に女優のエヴァ・ガードナーと再婚したものの、1957年に離婚。1966年には30歳年下の女優、ミア・ファローと結婚したがこの結婚はわずか2年しか持たなかった。最後の妻となるバーバラとは1976年に結婚し、1998年に死ぬまで添い遂げた。

母親のナタリー・シナトラは、1977年1月9日、シナトラの公演に向かう途中、乗っていた小型ジェット機がカリフォルニア州パームスプリングスの北西45kmの山中に墜落し、亡くなった。

交友関係[編集]

上記のように歌手や俳優仲間から政治家、マフィアまで幅広い交友関係を持っていた。また、かつての栄光の座を失って仕事や金銭面で苦境に立たされた友人や後輩などへ陰ながら支援を続けたことでも知られ、「人生のツキから見放されて、初めてフランクのありがたさがわかる」と言われていた[7]

プレイボーイ[編集]

前記のモンローやローレン・バコールキム・ノヴァクシャーリー・マクレーンナタリー・ウッドなど多くの女優と浮名を流したほか、同じく女優のエヴァ・ガードナーやミア・ファローなどと計4回結婚するなど、生涯を通じてプレイボーイとして名を馳せた。

音楽[編集]

ハリウッドのウォーク・オブ・フェイムのシナトラの星

生涯を通じ数多くのミリオンセラーを連発した他、ルイ・アームストロングアントニオ・カルロス・ジョビンセリーヌ・ディオンビング・クロスビーなどの音楽界との大物との競演、競作も数多い。ヒットした曲の多くがスタンダートとして、多くのアーティストにカバーされている。

代表的なヒット曲[編集]

フランク・シナトラのシングルおよびアルバムの年代リスト(英語版Wikipedia)

  • オール・オア・ナッシング・アット・オール (All or Nothing at All) - 1939年、シナトラ初のミリオンセラー曲。
  • アイ・フォール・イン・ラヴ・トゥー・イージリー (en:I Fall In Love Too Easily)

アルバム[編集]

  • フランク・シナトラ・シングス・フォー・スウィンギン・ラヴァーズ
  • フランク・シナトラ・シングス・フォー・ヤング・ラヴァーズ
  • カム・フライ・ウィズ・ミー
  • カム・ダンス・ウィズ・ミー
  • スウィング・イージー
  • オンリー・ザ・ロンリー
  • シナトラ・スウィンギンセッション・アンド・モア
  • ポイント・オブ・ノーリターン
  • アカデミー・アウォード・ウィナーズ
  • シナトラ・ライヴ・アット・ザ・サンズ
  • アラウンド・ザ・ワールド
  • 夜のストレンジャー
  • グレイテスト・ヒッツ
  • クリスマス・アルバム
  • ジョリー・クリスマス・フロム・フランク・シナトラ
  • シナトラ&ジョビン(アントニオ・カルロス・ジョビンとの競演)
  • ヴォイス
  • デュエッツ
  • デュエッツII
  • マイ・ウェイ
  • ザッツ・ライフ
  • セプテンバー・オブ・マイ・イヤーズ
  • シナトラ・アンド・カンパニー
  • ヴォイス~コロンビア・イヤーズ1943-1952
  • キャピトル・イヤーズ
  • リプリーズ・コレクション

日本公演[編集]

日本におけるシナトラの興行や企画等の権利については敏いとうが窓口となっている。

TV[編集]

  • フランク・シナトラ・オン・ステージ(1985年4月10日、フジテレビ

映画[編集]

「踊る大紐育」左がシナトラ
「上流社会」グレース・ケリーとともに
「夜の豹」

『地上より永遠に』で1953年にアカデミー賞助演男優賞を獲得した他、『踊る大紐育』や『上流社会』、『脱走特急』などの多くの作品に主役、準主役級で出演した。オットー・プレミンジャー監督作品『黄金の腕』では、麻薬中毒に苦しむ博打うちのドラマー役で鬼気迫る演技を見せた。『錨を上げて』、『踊る大紐育』、『上流社会』、『抱擁』などの劇中で歌唱したナンバーは、後世までスタンダードとなった歌も少なくない。

しかし一方で、俳優活動を積極的に行わなくなった1960年代後半以降に主演した映画には、質的に他愛ない水準の作品も少なくなかった。

知名度の高さから『八十日間世界一周』や『キャノンボール2』などのカメオ出演でも活躍したが、特に1965年の『オスカー』では、ラストシーンでの一瞬の登場だけで全てをひっくり返すどんでん返しの役割を演じた。

出演作[編集]

CM[編集]

受賞歴[編集]

アカデミー賞[編集]

受賞
1946年 アカデミー名誉賞:『The House I Live In
1954年 アカデミー助演男優賞:『地上より永遠に
1971年 ジーン・ハーショルト友愛賞
ノミネート
1956年 アカデミー主演男優賞:『黄金の腕

ゴールデングローブ賞[編集]

受賞
1954年 助演男優賞:『地上より永遠に』
1958年 主演男優賞 (ミュージカル・コメディ部門):『夜の豹
1971年 セシル・B・デミル賞
ノミネート
1964年 主演男優賞 (ミュージカル・コメディ部門):『ナイスガイ ニューヨーク

出典[編集]

  1. ^ Frank Sinatra - Biography” (英語). IMDb. 2013年4月29日閲覧。 “His heritage was entirely Italian.”
  2. ^ Rocklist.net...Q Magazine Lists..”. Q - 100 Greatest Singers (2007年4月). 2013年5月21日閲覧。
  3. ^ 『ピーター・ローフォード―ケネディ兄弟とモンローの秘密を握っていた男』P.342 ジェイムズ スパダ著、広瀬順弘訳 読売新聞社刊、1992年
  4. ^ 『ピーター・ローフォード―ケネディ兄弟とモンローの秘密を握っていた男』P.346 ジェイムズ スパダ著、広瀬順弘訳 読売新聞社刊、1992年
  5. ^ 『ピーター・ローフォード―ケネディ兄弟とモンローの秘密を握っていた男』P.344 ジェイムズ スパダ著、広瀬順弘訳 読売新聞社刊、1992年
  6. ^ 『クロンカイトの世界』ウォルター・クロンカイト著 浅野輔訳 阪急コミュニケーションズ、1999年
  7. ^ 『クロンカイトの世界』ウォルター・クロンカイト著 浅野輔訳 阪急コミュニケーションズ、1999年

日本語文献[編集]

  • 『シナトラ 20世紀のエンターテイナー』 アーノルド・ショー、尾坂力訳(早川書房、1978年)、公式伝記
  • 『ヒズ・ウェイ』 キティ・ケリー、柴田京子訳(文藝春秋、1989年)、タブーにも触れた伝記
  • 『フランク・シナトラ 栄光の日々』 フレッド・デラー、河村美紀訳(シンコー・ミュージック、1997年)
  • 『ザ・ヴォイス フランク・シナトラの人生』 ピート・ハミル、馬場啓一訳(日之出出版、1999年)、親密だった著者による評伝的エッセー。
  • 『シナトラ』 三具保夫(駒草出版、2007年)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]