リー・アイアコッカ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
リー・アイアコッカ
生誕 1924年10月15日(90歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ペンシルベニア州アレンタウン
職業 クライスラー元会長、
ナリッシュ ザ チルドレン諮問委員会会長

リー・アイアコッカLee Iacocca, 本名:Lido Anthony Iacocca, 1924年10月15日 - )は、アメリカ自動車製造会社、フォード社の元社長であり、その後クライスラー社の会長も務めた。

プロフィール[編集]

生い立ち[編集]

1924年10月15日に、裕福なイタリア系移民の息子として、アメリカ東海岸のペンシルベニア州アレンタウンに生まれた。1930年代大恐慌の影響を受け家計が苦しくなったもののその後持ち直し、大学入学まで同市で育つ。

アメリカ東部の名門大学の一つであるリーハイ大学機械工学管理工学を学んだ後(若年性関節リウマチの既往があったため入隊志願したものの徴兵検査ではねられて第二次世界大戦には徴兵されなかった)、同じく東部の名門であるプリンストン大学大学院修士号を取得。

フォード入社[編集]

第二次世界大戦終結後の1946年8月に、アメリカの自動車製造「ビッグスリー」の一角を占め、世界第2位の規模を持つ自動車会社であるフォード社に入社した。理系の学歴を持つこともあり当初は技術畑への配属を打診されたものの、フォード社に入社した後は主に販売に関わり、アメリカ東海岸地区の地区販売支配人や商用車販売部門長などを歴任した。

マスタング[編集]

ニューヨーク万国博覧会のフォード館前に展示されるマスタング
マーキュリー・クーガー

その後ローン販売の企画の成功などで頭角を現し、1960年11月にフォード部門の総支配人兼副社長に就任。当時のフォード社の社長で、後にジョン・F・ケネディ政権の国防長官となるロバート・マクナマラの下で辣腕を振るうこととなる。

その後、1960年代に入って以降の好景気を背景に、第二次世界大戦以降に出生した、所謂「ベビーブーマー」と呼ばれる世代向けの中型車として開発された2ドアスポーツカー、「マスタング」(当初は「マスタング」とは呼ばれていなかった)の開発責任者となる。

1964年4月17日から開催されたニューヨーク万国博覧会の初日に発表された初代マスタングは、そのスポーティーな外観や性能、低価格、「フルチョイスシステム」と呼ばれる多彩なオプション群と巧みな広告戦略などのマーケティング戦略により、「T型フォード以来」と言われるアメリカ自動車史に残る大ベストセラーとなり、アイアコッカの名はマスタングの名とともに全世界に知れ渡ることになる。

フォード社社長へ[編集]

1965年1月にはフォードとマーキュリーリンカーン部門の副社長に就任。当時低迷していた高級車部門のマーキュリー部門やリンカーン部門の建て直しを成功させた他、マーキュリー部門の高級スポーツカーの「クーガー」やリンカーン部門の高級クーペ「マークⅢ」をヒットさせるなどの実績を残し、1970年1月にフォード社の社長に就任した。

社長在任中は、オイルショックと日本製小型車との競争激化を受けて低迷した国内外の販売を、肥大化したマスタングの小型化や国内販売網の強化、前輪駆動の小型車である「フィエスタ」の導入などを行い乗りきった他、いくつかの不採算事業の売却を行い、経営状況の安定を行った。

一方で、アイアコッカはその優れた手腕とは裏腹に、その地位を利用した公私混同とも言える経営も多かった。社長に就任した直後の1970年には、イタリアのコーチビルダーのギア社を、副社長時代からの友人でイタリアのスポーツカーメーカーのデ・トマソを経営するアレハンドロ・デ・トマソから買収した上に、デ・トマソをフォードのスポーツカープロジェクトに招聘し、フォード製5.8リッターV8エンジンをギアのデザインしたボディに搭載した高級スポーツカー「パンテーラ」を開発させ、アメリカ国内のリンカーンとマーキュリーのディーラーで販売させるなどしていた。

しかしこのプロジェクトはデ・トマソ社には利益とアメリカ市場における知名度の向上という恩恵を与えたものの、フォードにとっては大きな利益を与えるものとはならなかったため批判を受けた。

解雇[編集]

アイアコッカと同社会長のヘンリー・フォード2世(創始者ヘンリー・フォードの孫にあたるオーナー会長)は同社の順調な経営成績を背景に当初は良好な関係を築いていた。が、アイアコッカは優れた経営手腕を発揮しその名声を高めていく一方で徐々に公私混同ともいえる独断的な経営手法を露にしていったことで1970年代中盤に差し掛かると、小型車の市場導入やヨーロッパ市場における販売戦略など、同社の経営方針を巡って両者は対立していった。

対立関係はヘンリー2世がアイアコッカの身辺調査を行うなど修復不可能な状態にまで発展し、フォードは社長職の上に副会長職を創設し3人の上級社長による経営体制の構築を行うなど、アイアコッカに対する事実上の降格人事まで行われた。1978年10月、同社が史上最高の売り上げを2年連続で達成したと発表された直後、ヘンリー・フォード2世の「別に理由はない。俺はお前が好きでなくなっただけだ」の一言で同社を解雇された。

この件に関して当事者のヘンリー・フォード2世は「アイアコッカブームを押さえなければならない理由が山ほどあったのだ」、「アイアコッカがピンときて、ずっと会社を辞めてくれれば、と願っていた」と自伝の作家に語っている[1]。またアイアコッカも、解雇されたショックとヘンリー・フォード2世、そしてその側近に対する恨みを自著に書き綴っている。

クライスラー社会長へ[編集]

Kエンジン・Kプラットフォーム採用 小型車 プリムス・リライアント

フォード社を解雇された直後の1978年11月に、フォード社のライバルであり、日本車との販売競争や第2次オイルショック、ずさんな財務などのあおりを受けて、当時深刻な経営危機に陥っていたクライスラー社のジョン・J・リカルド会長に請われて同社の社長に就任する(その後1979年9月に会長に就任)。

就任後は同社の社内改革を進める一方、自らの年俸を1ドルとし労働組合との共闘の道を開いた。また、1979年12月には、同月に成立した債務保証法により連邦政府から15億ドルの資金調達に成功。同時にV型8気筒エンジン搭載の中・大型車中心の開発姿勢から、2.2リッター直列4気筒エンジン(Kエンジン)搭載の小型車(Kプラットフォーム 日本では中型セダンにあたるモデル)中心の開発へと舵を切った。2年後、1981年に発売された小型車、プリムス・リライアントダッジ・アリエスダッジ400(いずれもKエンジン・Kプラットフォーム採用モデル)は大ヒットし、クライスラー社は深刻な経営危機から立ち直ることとなる。

「アメリカ産業界の英雄」[編集]

Kエンジン・Sプラットフォーム採用 ミニバン ダッジ・キャラバン

さらに1983年には、フォード時代にアイアコッカの右腕として活躍していたが、アイアコッカと同じくヘンリー・フォード2世との対立の末に解雇され、クライスラー社に転職したハロルド・スパーリック(初代フォード・マスタングの開発主任)のもとで開発されたアメリカ自動車初のミニバンダッジ・キャラバンプリムス・ボイジャー(いずれもKエンジン・Kプラットフォームを拡張したSプラットフォーム採用モデル)が大ヒットし、同社を黒字化させた。

小型車で大ヒットを博したKエンジン・Kプラットフォームは小型車での採用のみならず、排気量拡大(やターボ化)、プラットフォームを拡張するなどして、前述のミニバンや、ニューヨーカー(Kエンジン・Kプラットフォームを拡張したEプラットフォーム採用モデル)などの中型車、レバロン・コンバーチブル(Kエンジン・Kプラットフォーム採用モデル)などのスポーティーカーへも流用された。Kエンジン・Kプラットフォームは多くの車種で共用されることとなり、同社の開発コスト低減に貢献し、多くの中・小型車を成功に導き、破産寸前とまでいわれたクライスラー社を立て直し、数十万人のアメリカ人の雇用を守った。この功績により、アイアコッカは「アメリカ産業界の英雄」とまで称されるようになった。

大統領選出馬の噂[編集]

クライスラーを経済危機から救った1982年5月には、当時のロナルド・レーガン大統領に請われ、ニューヨーク自由の女神の修復基金の代表を務めたことから、大統領選挙への出馬さえ噂されるようになるが、1984年に出版され、世界的な大ベストセラーとなった自叙伝「アイアコッカ―わが闘魂の経営」でこれを否定している。

拡大路線[編集]

プリムス・コンクエストの名で販売された三菱・スタリオン

同書では、日本ヨーロッパの自動車会社との資本提携により、世界最大の自動車メーカージェネラル・モーターズ(GM)社を超える競争力を持つ自動車会社を作るという「グローバル・モーターズ」構想を提唱。アイアコッカは経営危機を乗り切り経営が安定したクライスラー社の拡大を目指した。

1985年には、日本三菱自動車との提携をまとめ、イリノイ州に合弁会社の「ダイヤモンドスター・モーターズ(DSM)」を設立し、同社の工場で共同生産を開始するとともに、同社のモデルのクライスラー・ブランドでの販売も開始した。

1987年、経営不振に陥っていたフランスルノーの傘下で「ジープ」ブランドを所有する、アメリカン・モーターズ社(AMC)を買収し、ジープブランドをクライスラー社の高収益部門に育て上げた。またルノーのモデルを「イーグル」ブランドで販売したもののこれは成功したとはいえなかった。

引退[編集]

TC バイ・マセラティ

これらの動きと同時に、フォード時代からの友人であるアレッサンドロ・デ・トマソとの個人的な関係だけを基に話を進め、経営的には何の意味も成さなかったイタリアの高級車メーカーのマセラティ社との提携による「TC バイ・マセラティ」の生産や、1987年に行われたイタリアの高級スポーツカーメーカー・ランボルギーニ社の買収、ビジネスジェット機製造会社・ガルフストリーム・エアロスペースの買収など、アイアコッカは独裁的な地位を背景にした公私混同ともいえる経営を行っていた(アメリカン・モーターズの買収も、役員会が総出で反対したのを「フォードを超える規模の自動車会社を作る」と意気込んだアイアコッカ1人で押し切ったという)。

これらの失策は、数々の成功を収めたアイアコッカでさえ、長期政権による弊害が出てきたとの批判を社内外から浴びざるを得なかった。国内外の自動車会社との競争がさらに強まる中、アイアコッカはこれら本業とは直接関わりのない事業に次々投資し、しかもその多くで巨額の損失を出していった。

さらにKプラットフォームに過度に依存した結果、各モデルの陳腐化が進み販売台数が低迷する中でアイアコッカは社内外から批判を受け、株主や役員会からの反発もますます強くなり、1992年にクライスラー社を退職した。

引退後[編集]

退社後の1994年には自動車殿堂入りした。1995年には、投資会社トラシンダ社の会長カーク・カーコリアンから「クライスラーを株価非公開企業にした方が利益が上がる」と勧誘されクライスラーの敵対的買収に乗り出した。

結果クライスラー会長のイートンは「アイアコッカが会長の職を奪おうとしている」と狼狽してダイムラーとの合併劇に至った。アイアコッカ本人は著書の中で「敵対的買収の意図はまったく無かったと後悔している」と記述している。

現在[編集]

現在は、亡くなった前妻の死因である糖尿病克服のための財団の代表を務める傍ら、電気自転車を製作する会社を経営する。

また、2002年にNu Skin Enterprisesが創設した、世界中の飢餓に苦しむ子供たちを救うという名目のナリッシュ ザ チルドレン活動を支持し、諮問委員会の会長を務めている。

エピソード[編集]

  • 1984年に出版された自叙伝「Iacocca:An_Autobiography」(日本語題:「アイアコッカ - わが闘魂の経営」ダイヤモンド社刊)は世界中で700万部を売り上げる大ベストセラーになり、自動車業界以外にもその名前と経営手腕が知れ渡ることになった。その他にもいくつかのビジネス指南書を上梓し、いずれもヒット作となっている。
  • 珍しい「アイアコッカ」の正しい綴りを覚えるため、クライスラー社の社員たちは記憶術を使い、次のように覚えた:「I Am Chairman Of Chrysler Corporation Always. (私はいつでもクライスラー社の会長である)」。

脚注[編集]

  1. ^ 「その後のアイアコッカ」メイナード・ゴードン著/湯沢章伍訳/東急エージェンシー刊

外部リンク[編集]