ジョージ・サンダース
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| ジョージ・サンダース George Sanders |
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| 生年月日 | 1906年7月3日 | ||||||
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| 没年月日 | 1972年4月25日(満65歳没) | ||||||
| 出生地 | サンクトペテルブルク | ||||||
| 死没地 | バルセロナ | ||||||
| 国籍 | |||||||
| 配偶者 | スーザン・ラーソン(1940 - 1949) ザ・ザ・ガボール(1949 - 1954) ベニタ・ヒューム(1959 - 1967) マグダ・ガボール(1970 - 1971) |
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ジョージ・サンダース(George Sanders、1906年7月3日 - 1972年4月25日)は、イギリスの俳優。兄のトム・コンウェイも俳優。
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[編集] 生涯
ロシア・サンクトペテルブルクにて生まれる。両親共にイギリス人で、父ヘンリーは製鋼業者、母マーガレットは園芸家だった。ロシア革命で家族と共にイギリスに逃れる。
彼の兄と同じくブライトンにある男子校のインデペンデント・スクールブライトン・カレッジで学んだのち、マンチェスター工科大学に進み、織物を専攻する。卒業後は織物業に従事したのち、南米でタバコの投機事業を始めるが失敗してイギリスに帰国。仕事も無いので舞台俳優にでもなろうと発声のコーチを受け、ロンドンでショービジネスの世界に入り、1934年にノエル・カワード作の舞台に出演したのち、同年に端役として映画デビュー。
1936年にある映画会社と長期契約を結ぶも、撮影所が火事で消失、これを機にハリウッドに行き、20世紀フォックス社のスクリーンテストを受けた結果、1937年に『勝鬨』に出演、この出演で注目され、フォックスと長期契約。その後はもっぱら敵役を演じていたが、1941年にRKOの『The Falcon』シリーズの主役に起用される。以降はクレジット・タイトルがトップかもしくは2番目に出てくるほど、ハリウッドでも重要な俳優のひとりとなった。
1950年の『イヴの総て』でシニカルで非情な策を弄する演劇コラムニストを演じてアカデミー助演男優賞を受賞。冒険活劇のヒーローから下劣な悪党まで演じる老獪な個性派俳優として、時には主役も喰うような印象を残した。
[編集] 私生活
私生活では結婚、離婚を繰り返した。最初の妻はスーザン・ラーソンで、1940年10月27日に結婚し、1949年に離婚した。2番目の妻はハンガリー人女優ザ・ザ・ガボールである。離婚後の1956年、サンダースとザ・ザは映画『Death of a Scoundrel』で共演した。3番目の妻はロナルド・コールマンの未亡人である女優ベニタ・ヒュームであり、1959年2月10日に結婚した。ベニタは1967年に死んだ。4番目の妻はザ・ザの姉マグダ・ガボールであり、1970年12月4日に結婚した。マグダとの結婚生活はわずか6週間で破綻し、彼の酒量は著しく増加するようになった。
1960年に自伝『Memoirs of a Professional Cad(下劣のプロの伝記)』を出版。また、1979年に彼の友人である俳優ブライアン・アハーンが彼についての伝記『A Dreadful Man』を出版しているが、このタイトルは彼自身が提案したものである。
[編集] 死
彼の友人デヴィッド・ニーヴンは自身の自伝『Bring On The Empty Horses』で、1937年にサンダースが自分は65歳になったら自殺するということを宣言していたことを述懐している。その言葉どおり、1972年、スペインのバルセロナ近郊のカステルデフェルスにあるホテルで5本のネンブタールを飲み自殺した。遺書には「退屈だからこの世を去る」と書かれてあるなど、その生涯は気障な皮肉屋を突き通した謎多きものだった。その全文は次の通り。
世界よ、退屈だからオサラバするよ。もう十分長生きした。このステキな糞溜めの中で、君たちが不安に頭を抱えたままにしておこう。せいぜいお幸せに。
サンダースの遺体は火葬され、その遺骨はイギリス海峡に散骨された。
[編集] 主な出演作品
- レベッカ (1940)
- 海外特派員 (1940)
- ドリアン・グレイの肖像 (1945)
- 幽霊と未亡人 (1947)
- サムソンとデリラ (1949)
- イヴの総て (1950)
- 私はそんな女 (1959)
- ソロモンとシバの女王 (1959)
- 暗闇でドッキリ (1964)
[編集] 外部リンク
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