ルドルフ・カラツィオラ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
妻と共にシートに座るカラツィオラ(1931年
ルドルフ・カラツィオラ(前)とベルント・ローゼマイヤー1936年

オットー・ヴィルヘルム・ルドルフ・カラツィオラOtto Wilhelm Rudolf Caracciola1901年1月30日 - 1959年9月28日)は、1920年代から1950年代にかけて活躍したドイツのレーシングドライバーである。

経歴[編集]

ラインラント=プファルツ州レマーゲンRemagen)出身。

黄金期はメルセデス・ベンツ、シルバーアローの黄金時代とほぼその時期を同じくしている。

当初は草レースに参加しており、1923年6月にメルセデスチームに加入。当初はダイムラー・メルセデス社ドレスデン支店のセールスマン兼ドライバーであり、1923年から1925年までの間にヒルクライムや各種のレースで優勝している。

カラツィオラの初のビッグレースとなった1926年7月のドイツグランプリ(アヴス)において、ワークス・メルセデスではない非公式参戦のかたちでありながら、土砂降りの雨の中見事優勝を遂げて名を上げた。

その後は、名車メルセデス・ベンツSシリーズとともに大活躍し、各種のレース、ヒルクライムにおける勝利を重ね、1930年、1931年にはヨーロッパ・ヒルクライムチャンピオンに輝いている。また1931年には外国人として初めてミッレ・ミリアに優勝するなど、文字通りのトップドライバーとなる。

大事故[編集]

メルセデス・ベンツが財政問題のため1932年以降のレース活動を中止したため、カラツィオラは当初はアルファ・ロメオに乗ってタツィオ・ヌヴォラーリらとともに走っていたが、1933年にはルイ・シロンと共同で独立チーム「スクデリーア・CC」を作りレースに参戦した。しかしモナコGPプラクティスにおいて、乗っていたアルファ・ロメオP3のブレーキが故障したことによる大事故に遭遇し、右足の大腿骨・脛骨を粉砕骨折する重傷を負った。手術の結果、右足の切断は免れたが、右足が事故以前より5cmも短くなるほどの後遺症が残ってしまう。この事故の後遺症と、当時のレーシングドライバーの身体的な負担の大きさを考えると、次項に述べる事故後のカラツィオラの活躍は、まさに奇跡である。

復帰後[編集]

1934年レースに復帰、同年から発効した新フォーミュラ(750kgフォーミュラ)にあわせてメルセデス・ベンツチームが開発した新マシン・W25に乗り、8月に開催されたクラウゼンパス・ヒルクライムに優勝するが、同年は長時間のレース中、怪我の後遺症から走行不能となって運転を交代(当時はドライバーの交代が認められた)するなど、事故以前の勢いを取り戻すまでには至らなかった。

1935年には調子を取り戻し、トリポリGP、アヴスレンネン、アイフェルレンネン、フランスGP、ベルギーGP、スイスGPとスペインGPの7大レースに優勝する大活躍を見せ、新たに始まったヨーロッパ・チャンピオン(オイローパ・マイスター)のタイトルを手にする。

その後も勝利を重ね、1937年、1938年は連続してヨーロッパ・チャンピオンに輝くなど、名実ともにメルセデスチームのナンバー1ドライバーとなり、同時に時代を代表するレーサーとなる。

カラツィオラは雨のレースにめっぽう強く、「雨天の名手」と呼ばれていた(アルフレート・ノイバウアによれば、雨天時にもゴーグルを使用せずに操縦できる特殊な視力を持っていたという)。

そのドライビングスタイルについては、同時代の名手として知られるタツィオ・ヌヴォラーリのような激しいものではなかったが、雨天の名手と呼ばれるほど優れたコーナリングテクニックと巧みなクルマのコントロールにより、悠然とリードしてしまうものであったようである。

自伝によれば、もっとも好きなサーキットとして、難コース中の難コースであるニュルブルクリンク(旧北コース)を挙げている。

1938年1月28日にはW125レコードワーゲンでアウトバーン上の最高速度記録に挑戦し432.7km/hを記録、これが2013年現在に至るまで公道上の最高速度記録となっている(この直後に記録に挑んだベルント・ローゼマイヤーは大事故を起こして死亡している)。

引退、そして死[編集]

1939年に第二次世界大戦が勃発し、ヨーロッパでのレースは中止されてしまう。そのため、カラツィオラのキャリアも戦後までいったん停止することとなる。 終戦後の1946年5月には、米国のインディアナポリス500に出場すべく練習走行を行うが、走行中に頭部に何かがぶつかったことにより意識を失いクラッシュ、頭蓋骨を骨折する重傷を負うものの、無事回復する(なお、カラツィオラはこの練習走行においてヘルメットを初めて着用したという。ヘルメットがなければ即死でもおかしくない事故であった)。

1952年には、レース活動を再開したメルセデスチームにみたび加わり、新型のスポーツカー・300SLに乗ってミッレミリアに出場、4位に入賞する。同年のル・マン24時間レースにも出場予定であったが、5月のベルンGP(スポーツカー)にてまたもブレーキ故障が原因と思われるクラッシュに遭遇し、左足大腿部を骨折し、2年間のリハビリを経て再び歩けるように回復するが、レースの第一線からは引退した。

引退後は、メルセデス・ベンツが各国軍隊に対して行った特別販売活動に精力的に取り組んだが、1959年9月28日、肝硬変が元でカッセルで死去し、自宅のあったルガーノの墓地に埋葬された。

メルセデス・ベンツチームの監督であり、戦後の偉大なチャンピオンであるファン・マヌエル・ファンジオや無冠の帝王と呼ばれたスターリング・モスを擁したこともあるアルフレート・ノイバウアは、カラツィオラを『モーターレーシング開拓期の最も偉大なレーサーにして、私の知る中でのベストドライバーである』と評している。

ニュルブルクリンクで最も有名なコンクリート舗装のコーナーには、カラツィオラを讃えて「カラツィオラ・カルーセル」(Caracciola=Karussell )の名が付けられている。故郷のレマーゲンには記念碑が建てられている。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]