ティアゴ・モンテイロ

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ティアゴ・モンテイロ
Tiago Monteiro.jpg
基本情報
フルネーム ティアゴ・ヴァガロソ・ダ・コスタ・モンテイロ
国籍 ポルトガルの旗 ポルトガル
出身地 同・ポルト
生年月日 1976年7月24日(38歳)
F1での経歴
所属チーム '05 ジョーダン
'06 MF1レーシング
活動時期 2005-2006
出走回数 37
優勝回数 0
通算獲得ポイント 7
表彰台(3位以内)回数 1
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
F1デビュー戦 2005年オーストラリアGP
最終戦 2006年ブラジルGP
タイトル 0
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ティアゴ・ヴァガロソ・ダ・コスタ・モンテイロTiago Vagaroso da Costa Monteiro, 1976年7月24日 - )は、ポルトガル出身のレーシングドライバーである。

2005年から2006年にかけF1に参戦。ペドロ・ラミー以来9年ぶりのポルトガル人F1ドライバーとなった。2005年にはF1史上最多となるシーズン18戦完走という記録を残している。

2007年は世界ツーリングカー選手権(WTCC)にセアト・スポーツから参戦し、その後2012年途中よりホンダ・レーシングチームJASに移籍した。

経歴[編集]

初期の経歴[編集]

ポルトガル北部の都市ポルトに生まれたモンテイロは、父の影響でレースキャリアをスタートさせるが、はじめは単なる遊びであった。彼が本格的にレースを始めたのは20歳からと遅咲きであり、しかもポルシェカップからF3にステップアップするという一風変わったキャリアを辿った。

1997年にフランス・ポルシェカップのチャンピオンに輝き、翌年からフランスF3に参戦。初年度にランキング12位となりルーキー・オブ・ザ・イヤーに輝くと、翌年以降も参戦を続け、その傍ら1999年にはルマン24時間レースにGT2クラスで参戦し部門6位(総合16位)という成績を収めてもいる。

フランスF3において2000年2001年にシリーズ2位を得た後、2002年には国際F3000(チームはスーパーノヴァ)に参戦。この年はルノーF1の育成ドライバーに選ばれ、同チームで初めてF1マシンのステアリングを握っている。

2003年には渡米してCARTに参戦。エマーソン・フィッティパルディが創設しこの年から参戦を始めたフィッティパルディ=ディグマン・レーシング[2]に所属し、ポールポジション1回を記録したものの、レイナードシャシーの戦闘力の無さに足を引っ張られ、年間ランキングはシーズンフル参戦したドライバーの中では下から2番目と低迷し、チームそのものも資金難でシーズン終了後に撤退したため、アメリカにおけるシートを喪失した。

続く2004年はヨーロッパへと戻り、F1のミナルディチームでテストドライバーを務めると同時に、カーリン・モータースポーツからワールドシリーズ・バイ・ニッサンに参戦し、シリーズ2位を獲得。この結果は評価され、選手権のルーキー・オブ・ザ・イヤーに選ばれたばかりでなく、その年の『Autosport』誌において「F1以外の選手権のベストドライバー」部門で5位に選出された。

F1[編集]

2005年2月1日、(前月にミッドランド・グループによって買収された)ジョーダン・グランプリとのレギュラードライバー契約を発表し、ついにF1に辿り着いた。

2005年
2005年アメリカGP

当初はマシンの低いポテンシャルから地味なイメージで目立たなかったが、気がつけば開幕戦から第16戦まで連続完走(新人としては史上最多、歴代でも2位)を果たすなど、開幕前には誰も期待していなかった折り紙付きの安定性を発揮した。第17戦ブラジルGPでは惜しくも残り15周でエンジンブローに見舞われたものの、モンテイロは挫けることなく続く残り2戦でも完走を果たし、「年間18戦完走」という史上初の偉業を成し遂げた。

2005年第9戦のアメリカGPでは、ミシュラン勢のタイヤトラブルに絡んだ出走取止めもあり、思わぬ形でポルトガル人初の3位表彰台を獲得することとなった。同時にこのレースで3位に入賞し6ポイントを獲得したことで、それまでポルトガル人F1ドライバーの中で唯一ポイントを獲得していたペドロ・ラミー(通算1ポイント)を抜き、ポルトガル人でF1における獲得ポイント数トップとなった。このレースの表彰台では、1位のミハエル・シューマッハ、2位のルーベンス・バリチェロが喜び少なく表彰台を後にしたのを尻目に、1人でシャンパンファイトを繰り広げ大はしゃぎしていた。

また、決して手を抜いた走りで完走を続けているわけではないということを、ウェット・コンディションとなった第16戦ベルギーGPでの8位入賞、「実力」でポイントを奪ったことで証明してみせた。これはマシンの能力が普段ミナルディチームと最下位を争うほどに劣ることを考慮すると賞賛に値するものであった。それ以外のレースの多くで、チームメイトのナレイン・カーティケヤンに先行し、遅咲きのドライバーながらもF1で十分通用する速さを証明した。2005年はルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得した。

2006年
M16をテストするモンテイロ(2006年4月)

2006年はジョーダンから生まれ変わったMF1レーシングのドライバーとして残留するが、前年とは打って変わって安定性が見られず、チームの中でもスポンサーの関係もあり孤立してしまっていた。

アルバースに追突するモンテイロ(カナダGP)

チームメイトのクリスチャン・アルバースとは相性が悪いらしくレース中にもオープニングラップで3回(モナコGPカナダGPアメリカGP)接触事故を起している。モナコではフロントウイングを折りピットイン、カナダではアルバースがリタイヤ、アメリカではもらい事故のような格好で接触、後にアルバースはリタイヤ、モンテイロ自身も佐藤琢磨と接触、リタイヤしている。

結果、年間ではハンガリーGPの9位が最高成績で、ポイントを獲得することは叶わなかった。なお、この年のミッドランドの車両M16は戦闘力に欠け、チームメイトのアルバースも無得点に終わっている。

シーズン終了後の12月21日、2006年シーズン終盤にMF1を買収したスパイカーF1チームは翌年のラインナップをアルバースとエイドリアン・スーティルと発表[1]。モンテイロはF1におけるシートを失った。

2007年は世界ツーリングカー選手権(WTCC)に参戦しながら2008年からのF1復帰を目指していたが[2]、F1には復帰できなかった。

WTCC[編集]

2007年のWTCC開催カレンダーにポルトガルのポルト市街地コースでの開催を加わったため、ポルトガル人ドライバーの参戦を欲したポルトのレース主催者により、当地出身者であるモンテイロがWTCCのテストに招かれ[3]セアト・レオンのステアリングを握った。

同年3月6日、セアト・スポーツとの契約を結び、この年はWTCCに参戦することを発表した[4]。5月にオランダザントフォールト・サーキットで開催されるヨーロッパラウンド初戦から参戦し、第4戦フランス・ポー市街地コースでの第1・2レースと第7戦スウェーデン・アンデルストープ・サーキットでの第1レースで表彰台に立ち、シリーズ11位となった。

2008年も引き続きWTCCに参戦している。第2戦メキシコ・プエブラでの第2レースで初優勝を飾り地元開催となった第6戦ポルトガル・エストリルでの第2レースでも優勝し、シリーズ12位となった。

翌2009年もそれ以前と同様の体制で参戦したが、第5戦スペイン・バレンシア・サーキットの第1レースと第6戦チェコ・ブルノ・サーキットの第2レースで表彰台に立つにとどまり、シリーズ9位となった。

2010年も引き続き参戦し、第5戦ポルトガル・アルガルヴェの第1レースと第9戦スペイン・バレンシア・サーキットの第2レースで優勝したほか、3位表彰台を3回獲得するなどコンスタントに入賞し自己最高となるシリーズ5位でシーズンを終えた。

2011年にはサンレッド・エンジニアリングに再加入。前年のチームメイトのマイケル・ニュクイェアー、ルーキーのペペ・オリオラと共に参戦した。当シーズンでは前年同様3位表彰台を3度獲得するも、チャンピオンシップは6位に留まった。

2012年シーズン前半は同チームに残留(チーム名は「トゥエンティ・レーシング・チーム」に変更)したが、同年7月にセアトを離れホンダのワークスチーム「ホンダ・レーシングチームJAS」から参戦することが発表され[5]、第10戦日本・鈴鹿ラウンドよりシビックを駆っている。

2013年シーズンは引き続きホンダ・レーシングチームJASのシビックで参戦、ガブリエーレ・タルキーニをチームメイトに迎える。

レース戦績[編集]

国際F3000選手権[編集]

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 DC ポイント
2002 コカコーラ・ノルディック・レーシング INT
9
IMO
10
CAT
Ret
A1R
16
MON
Ret
NUR
Ret
SIL
13
MAG
9
HOC
5
HUN
13
SPA
Ret
MNZ
10
13位 2

F1[編集]

所属チーム # ランキング 獲得ポイント 決勝最高位・回数 表彰台回数 予選最高位・回数
2005年 ジョーダン 18 16位 7 3位・1回 1回 13位・1回
2006年 MF1レーシング 18 21位 0 9位・1回 0回 15位・1回
所属チーム シャーシ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 ランキング ポイント
2005年 ジョーダン EJ15 AUS
16
MAL
12
BHR
10
SMR
13
ESP
12
MON
13
EUR
15
CAN
10
USA
3
FRA
13
GBR
17
GER
17
HUN
13
TUR
15
16位 7
EJ15B ITA
17
BEL
8
BRA
Ret
JPN
13
CHN
11
2006年 MF1レーシング M16 BHR
17
MAL
13
AUS
Ret
SMR
16
EUR
12
ESP
16
MON
15
GBR
16
CAN
14
USA
Ret
FRA
Ret
GER
DSQ
HUN
9
TUR
Ret
ITA
Ret
CHN
Ret
JPN
16
BRA
15
NC(21位) 0

豆知識[編集]

  • ミドルネームの「Vagaroso」はポルトガル語で「のろま」「のんき」という意味を持つ。
  • 2001年に氷上レースアンドレアストロフィーに初出場し4位に入ったことがある。
  • モンテイロ以前にF1デビュー戦からの連続完走記録を持っていたのは、1965年デビューのジャッキー・スチュワートと1994年デビューのオリビエ・パニスで、それぞれデビュー戦から6戦連続完走を達成している。パニスはその後第8戦から最終第16戦まで9戦連続完走している(但し第13戦はレース終了後に車検で失格)。他に変則的なものとして1960年デビューのリッチー・ギンザーもデビュー戦から欠場も重ねつつ翌年にかけ9戦連続完走を達成している(予選のみ出走し決勝で走行しなかった1戦を除く)。また、2007年にデビューしたヘイキ・コバライネンが開幕戦から16戦連続完走を果たし、モンテイロの記録に並んだ。しかし2007年はエンジン開発規制があり全体的に完走率が高いシーズンであったことから、信頼性もイマイチであったジョーダンだったことなどから、モンテイロの記録は数字以上に抜きん出ていると言える。
  • 2006年にモンテイロはパドックで「モンテイロTシャツ」を限定頒布した。この年はそれぞれの開催地にちなんだ絵が描かれているものだったが、バーレーングランプリでは神をモチーフにした絵柄だったため税関で没収された。
  • 2005年と2006年、F1において偶然にも2年連続でカーナンバー「18」を付けたが、そのため、2007年にはWTCCでも主催者の厚意で18番が割り振られた。2013年現在も18番を使っている。
  • 2008年2月に恋人のポルトガル人モデル、ダイアナ・ペレイラとの間に長男が誕生。
  • 2008年11月29日、GP2チームであるBCNコンペティションを自身のマネージメントでビジネスパートナーであるホセ・マニュエル・グエデスとともに買収したことを発表した。新チーム名は「オーシャン・レーシング・テクノロジー」。チームの本拠地はモンテイロの地元であるポルトガルへ変更される。

出典[編集]

  1. ^ Adrian Sutil joins Spyker F1 スパイカーF1公式サイトより。2006年12月21日付
  2. ^ Monteiro aims to keep race-sharp ahead of 08 F1 comeback モンテイロ公式サイトより。2007年2月12日付
  3. ^ Tiago Monteiro testa Seat Leon em Valência モンテイロ公式サイトより。2007年1月23日付
  4. ^ WTCC参戦 WTCC公式サイトモンテイロ公式サイト 2007年3月6日付
  5. ^ [1] ホンダ公式サイトより。2012年7月18日付

関連項目[編集]

外部リンク[編集]