エディ・ジョーダン
エディ・ジョーダン(Eddie Jordan, 1948年3月30日 - )、エドマンド・ジョーダン(Edmund Jordan)は、ジョーダン・グランプリの創立者およびオーナー。元レーシングドライバー。
[編集] 経歴
ジョーダンは1948年にアイルランドで生まれる。彼は歯科医になるつもりで学んだが、学校を卒業した後アイルランド銀行に就職する。ダブリンでストライキが行われているとき、彼はジャージー島を訪れ、そこで初めてカートレースを目撃しその虜となる。ダブリンへ戻ると彼はカートを購入しレースに参加し始める。彼の最初のレースはジャージー島のボーレイ湾で1970年に行われた物であった。彼は1971年のアイルランド・カート選手権に参加し優勝する。
1974年になるとジョーダンはフォーミュラ・フォードにステップアップする。彼は同クラスに二年間参加したが、事故で両脚を骨折し、1976年シーズンへの参加を断念する。傷が癒えると彼はフォーミュラ・アトランティックに参戦、1977年に三勝し1978年にはアイルランド選手権を獲得する。ジョーダンはステファン・ヨハンソンと1979年のイギリス・フォーミュラ3で戦い、彼らは自身を「チーム・アイルランド」と呼んだ。同年ジョーダンはフォーミュラ2の一戦に参加し、マクラーレンのテストドライブも行った。
1979年の終わりにジョーダンは最初のチーム、エディ・ジョーダン・レーシングを設立、ドライバーはデヴィッド・レズリーとデヴィッド・シアーズで、1981年にイギリス近辺の複数のレースに参加した。1982年にはジェームズ・ウィーバーがエースドライバーとなる。ウィーバーは1983年のヨーロッパ・フォーミュラ3に参加し、ジョーダンはマーティン・ブランドルを採用する。ブランドルはイギリス・フォーミュラ3でアイルトン・セナと選手権を争い、二位に終わっていた。チームは1987年にジョニー・ハーバートを採用した。
ジョーダンはフォーミュラ3000へハーバート、マーティン・ドネリーとともに参戦し、1988年に初勝利を挙げ、1989年にはジャン・アレジを擁してチャンピオンシップを獲得した。
ジョーダンは1991年にジョーダン・グランプリを設立する。ミハエル・シューマッハは同チームからF1デビューを果たしている。1998年にはデイモン・ヒルとラルフ・シューマッハがベルギー・グランプリでワンツー・フィニッシュを果たし、チーム最高の結果を達成した。
2002年にB・A・Rとのホンダ・エンジン獲得競争に敗れ、ジョーダンはコスワース・エンジン搭載を決定するが、その決定はチームをバックマーカーとして下位争いを強いることとなり、将来を不安定な物とした。
2004年末の資金難で、ジョーダンはロシア系カナダ人ビジネスマン、アレックス・シュナイダーにチームを売却、チームは2006年にMF1レーシングと改名した。
[編集] エピソード
- F1に携わっていた時は、策士として数々の商才を発揮していた。代表例として、1991年はジョーダングランプリでたった1戦しか在籍しなかったミハエル・シューマッハに対し、数年後シューマッハ側から違約金が支払われた。1995年には、エディ・アーバインと契約をまとめた後に、後日金銭トレードでフェラーリに移籍させてフェラーリ側から違約金を貰っている。
- 新人ドライバーの発掘能力にも長けており、ミハエル・シューマッハ、ルーベンス・バリチェロ、エディ・アーバイン、ラルフ・シューマッハなど数々の逸材をF1に抜擢した。
- ジョーダンはチームの所有権を2004年まで保持していたが、幾度も噂された買収アプローチ(最も顕著な物はプジョーとホンダからによる物であった)に対する拒絶が、チームの価値を高めることに成功した。彼の巧みなスポンサーとドライバー契約、移籍の交渉術がなければ、ジョーダン・グランプリはプロスト・グランプリやアロウズと同様の末路をたどっていたと思われる。
- ジョーダンの趣味はロックンロールと競馬であり、彼はしばしばドラムを演奏する。彼は「F1 Racing magazine」にコラムを連載するが、直接F1には関わっていない。
- カツラを着用しているという話が枕言葉的に出るが、真相は定かではない
[編集] 関連項目
|
||||||||||||||||||||