ペリー・マッカーシー

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ペリー・マッカーシー
2003年
基本情報
国籍 イギリスの旗 イギリス
出身地 イングランドの旗 イングランドロンドン
生年月日 (1961-03-03) 1961年3月3日(63歳)
F1での経歴
活動時期 1992
所属チーム アンドレア・モーダ
出走回数 6 (0 starts)
優勝回数 0
表彰台(3位以内)回数 0
通算獲得ポイント 0
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
初戦 1992年ブラジルGP
初勝利 -
最終勝利 -
最終戦 1992年ベルギーGP
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ペリー・マッカーシーPerry McCarthy1961年3月3日 - )は、イギリスレーシングドライバーロンドン出身。

略歴[編集]

F1以前[編集]

レーシングドライバーとして「フォーミュラ・フォード」でデビューした後、「イギリスF3」にステップアップした。その後「イギリスF3000選手権」及び「国際F3000選手権」にステップアップする。1991年には「フットワーク(アロウズ)」のF1マシン・FA12のテストドライブの機会が与えられ[1]、同年オフにはウィリアムズF1のテストドライバーの候補にもなったが[2]、そのシートには結局デイモン・ヒルが座ることとなりウィリアムズ入りは成らなかった。

F1[編集]

1992年に、イタリアの新興チームの「アンドレア・モーダ」と契約してF1にステップアップを果たす。しかしアンドレア・モーダは、前年までのコローニチームを母体としているとはいえチーム体制が極めて脆弱で、デビューが予定されていた第3戦ブラジルGPではチームの手続き不備により、F1参戦に必要なスーパーライセンスが発給されず予備予選にすら参加できないという事態に陥る。

FISAフォーミュラ委員会のFAX投票による再検討の結果、マッカーシーのF1参戦資格に問題なしとの統一見解が得られたため、スーパーライセンスが正式に発給された第4戦から予備予選参加が実現したものの[3]、アンドレア・モーダはNo.1ドライバーのロベルト・モレノにチームの全リソースを注ぎこむ体制を取っていたため、マッカーシーは予備予選をわずか1周しか走れないということが続き[4]、予備予選落ちを繰り返した。この年からレギュレーションによってF1への1カーエントリーが禁止され、2カーエントリーが義務化されたことから、マッカーシーはチームにとって便宜上の理由だけのエントリーであった。

第12戦ベルギーGPからはブラバムの参戦撤退によるエントリー台数減少により予備予選が行われなくなったため、マッカーシーは本予選からの出走となったが、チーム内の扱いは変わらず、大差での予選落ちを喫した。このグランプリを最後にチームはオーナーであるサセッティの不祥事などもあり国際自動車連盟(FIA)から「F1の信用と価値を貶めた」としてF1参戦を禁止され、事実上追放された。これ以降マッカーシーがF1シートを得ることはなく、従ってマッカーシーは一度もF1の決勝レースを走っておらず、厳密には「F1デビュー」は果たしていない。

その後[編集]

マッカーシーはその後ウィリアムズベネトンといったF1チームでテストドライバーを務めたほか、1999年にはアウディと契約し、アウディ・R8Cをドライブするなど、スポーツカーレースを中心にレース活動を続けている。

初代スティグ[編集]

また2002年には、同年に再スタートを切ったBBCの自動車番組『トップ・ギア』に、番組名物の覆面ドライバーの「ザ・スティグ(初代、通称「ブラックスティグ」)」として登場し、翌年の第2シリーズ終了まで出演を続けた。

当時はスティグの正体がマッカーシーであることは伏せられていたが、2010年にマッカーシーが初代スティグであることがBBCにより明らかにされた(詳細はザ・スティグ#正体を参照)。

レース戦績[編集]

イギリス・フォーミュラ3選手権[編集]

チーム シャシー エンジン タイヤ クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 順位 ポイント
1986年 マジウィック・モータースポーツ レイナード・863 VW A A THR
15
SIL
Ret
THR
10
SIL
Ret
BRH
6
THR
DNS
DON SIL SIL
12
OUL
11
ZAN
9
DON
7
SNE
5
SIL
DNS
BRH
Ret
SPA
2
ZOL
5
SIL
Ret
12位 11
1987年 レイナード・873 A SIL
C
THR
7
BRH
5
SIL
5
THR
Ret
SIL
2
BRH
DNS
THR
9
SIL
13
ZAN
Ret
DON
Ret
SIL
17
SNE
6
DON
17
OUL
5
SIL
6
BRH
3
SPA
10
THR
5
8位 22
1988年 コンセプト3 レイナード・883 アルファロメオ A THR SIL THR BRH
DON
SIL BRH
Ret
NC 0
マジウィック・モータースポーツ レイナード・883 アルファロメオ THR SIL DON SIL SNE OUL
10
SIL BRH SPA THR SIL

国際F3000選手権[編集]

チーム シャーシ エンジン タイヤ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位 ポイント
1988年 GAモータスポーツ ローラ・T88/50 コスワース DFV A JER VLL PAU SIL MNZ PER BRH BIR
DNQ
NC 0
チーム・ラルト ラルト・RT22 ジャッド BUG
Ret
ZOL
Ret
DIJ
16
1989年 ロジャー・カウマン・レーシング ローラ・T89/50 コスワース DFV SIL
VLL PAU JER PER BRH BIR
DNQ
SPA
7
BUG
15
DIJ NC 0

フォーミュラ1[編集]

チーム シャシー エンジン タイヤ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 順位 ポイント
1992年 アンドレア・モーダ S921 ジャッド G RSA MEX BRA
DNP
ESP
DNPQ
SMR
DNPQ
MON
DNPQ
CAN
DNP
FRA
DNA
GBR
DNPQ
GER
EX
HUN
DNPQ
BEL
DNQ
ITA
DNP
POR JPN AUS NC 0

ル・マン24時間レース[編集]

チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 総合順位 クラス順位
1996年 フランスの旗 バイパー チーム オレカ フランスの旗 ドミニク・デュプイ
イギリスの旗 ジャスティン・ベル
ダッジ・バイパー GTS-R GT1 96 DNF DNF
1997年 イギリスの旗 デヴィッド・プライス・レーシング オーストラリアの旗 デビッド・ブラバム
アメリカ合衆国の旗 ドック・バンディ―
パノス・エスペランテ GTR-1 GT1 145 DNF DNF
1999年 イギリスの旗 アウディ・スポーツ UK イギリスの旗 ジェームス・ウィーバー
イギリスの旗 アンディ・ウォレス
アウディ・R8C LMGTP 198 DNF DNF
2002年 フランスの旗 DAMS フランスの旗 ジェローム・ポリカン
ベルギーの旗 マルク・デュエツ
パノス・LMP-1 ロードスターS LMP900 98 DNF DNF
2003年 イギリスの旗 アウディ・スポーツ UK
イギリスの旗 アリーナ・モータースポーツ
ドイツの旗 フランク・ビエラ
フィンランドの旗 ミカ・サロ
アウディ・R8 LMP900 28 DNF DNF

脚注[編集]

注釈[編集]


出典[編集]

  1. ^ フォトギャラリー ペリー・マッカーシー公式サイト ギャラリー
  2. ^ ウイリアムズがヒルとテスト契約か 他にも候補としてD.ブラバム、E.アーバイン、P.マッカーシー、J.ベイリー、A.G.スコットらの中から。 GPX Off-Season Special 山海堂 1991年2月8日発行 30頁
  3. ^ マッカーシーにスーパーライセンス スペインGPより出走可能 Racing On No.121 35頁 ニューズ出版 1992年6月15日発行
  4. ^ 『AUTO SPORT F1 ドイツGP速報』三栄書房、1992年8月15日、49頁。

関連項目[編集]