ヤマハ

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ヤマハ株式会社
Yamaha Corporation
ヤマハのロゴ
YAMAHA (headquarters 3).jpg
種類 株式会社
市場情報
東証1部 7951
本社所在地 日本の旗 日本
430-8650
静岡県浜松市中区中沢町10番1号
設立 1897年明治30年)10月12日
(創業 : 1887年(明治20年))
業種 その他製品
事業内容 楽器・AV機器・半導体・自動車関連部品の製造
レクリエーション事業
楽曲配信 など
代表者 中田卓也(代表取締役社長
資本金 285億34百万円
(2013年3月31日現在)
発行済株式総数 1億9,725万5,025株
売上高 連結:3,669億41百万円
単体:2,314億18百万円
営業利益 連結:92億15百万円
単体:△42億33百万円
純利益 連結:41億22百万円
単体:58億3百万円
純資産 連結:2,296億36百万円
単体:1,642億90百万円
総資産 連結:3,906億10百万円
単体:2,733億2百万円
従業員数 連結:19,688人(ほか、平均臨時雇用者数:8,198人)
(2013年3月末現在)
決算期 3月末日
主要株主 日本マスタートラスト信託銀行:7.20%
日本トラスティ・サービス信託銀行:6.58%
ヤマハ発動機 : 5.24%
静岡銀行: 4.23%
三井住友海上火災保険 :4.06%
主要子会社 #関連会社・法人を参照
計78社(連結対象:72社)
(2013年3月末現在)
関係する人物 山葉寅楠(創業者)
外部リンク http://jp.yamaha.com/
特記事項:注記なき各種経営指標は2013年3月期
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別角度から

ヤマハ株式会社: Yamaha Corporation)は、楽器半導体スポーツ用品・自動車部品製造発売を手がける日本のメーカーである。本業の楽器以外にも多面的な事業展開をしている。

会社概要[編集]

明治時代の創業以来の事業であるピアノ製造をはじめとする伝統的な楽器事業は国内トップブランド[1]であり、機械的な面での質の良さから、海外においても非常に知名度のあるブランドとなっている。ピアノ生産量では世界シェア1位。

1897年(明治30年)に日本楽器製造株式会社(ニチガク)として発足し、ヤマハYAMAHAのブランド名で展開してきたが、創業90周年に当たる1987年(昭和62年)に社名をヤマハに改称した。

1960年代からエレクトーン電子ピアノ等の電子楽器の開発製造をおこなっており、電子的な音源の開発ではMIDI規格等において規格制定企業となるなど高い技術力を誇っている。これらの電子機器の開発から得られた技術力を活かし、半導体等の電子部品、ルーター等のネットワーク機器、オーディオ機器等の製造を行うAV・IT事業でも知られる。

これらの楽器製造から派生した事業として、ピアノの木工加工、塗装等のノウハウを活かし、高級車用の木工パネル製造等の自動車部品事業、楽器の普及のための事業から発展した音楽教室や楽譜・楽曲データ類の出版・ダウンロード販売・アーティストの発掘やそれに付随する音楽出版等の音楽関連事業、音楽をはじめとして生活に彩りを与えるものとして手がけられたリゾート施設等のレクリエーション事業ゴルフクラブを製造するゴルフ・スポーツ用品事業などを本社及び関連会社で行っている。

二輪車製造大手のヤマハ発動機1955年(昭和30年)に日本楽器の二輪製造部門が独立して設立されたものである。2006年(平成18年)時点においては資本関係・取引関係は重要なものではないが、ブランド名を共通とする関連会社である。

社章・商標・ロゴマーク[編集]

ヤマハの前身である日本楽器製造株式会社が設立した翌年の1898年(明治31年)、社章として「3本の音叉を交叉させたマーク」(音叉マーク)が定められた。[2]
この3本の音叉には、次のような意味が込められている。[2]

  • 「技術」「製造」「販売」の3部門の強い協力体制
  • 音叉に象徴される、音および音楽を中心に世界(外円)にのびゆくたくましい生命力
  • 音楽の基本である「メロディー」「ハーモニー」「リズム」の調和

社章の制定と同時に、商標として「音叉をくわえた鳳凰が定められた。以後、企業の成長とともにこの音叉マークも様々な形を経て、1967年(昭和42年)に統一された。[2]この音叉マークの統一にあわせ、音叉マークとヤマハロゴを組み合わせた「ヤマハロゴマーク」が制定された(ロゴタイプは大文字英字でYAMAHA)。[3]
なお、現在使われているロゴマークは1998年(平成10年)11月にマイナーチェンジされたものである。これには、外円と音叉が黒地に白抜きで表現される「標準形」と、外円と音叉が白地に黒で表現される「特殊形」の2種類がある。[2]
また、日本楽器製造時代には、ヤマハ発動機と共通のカタカナ表記の「ヤマハ」ロゴも使われたが、日本企業各社でCIが盛んであった1987年(昭和62年)の社名改称時にカタカナロゴは廃止された。

ヤマハ発動機との違い[編集]

1955年(昭和30年)、日本楽器製造から二輪製造部門が独立・分離する形でヤマハ発動機株式会社が設立された。それ以降、現在においてもヤマハとヤマハ発動機は関連会社とはいえ完全に別会社であるが、音叉マークやロゴマークはヤマハ発動機設立当時に日本楽器製造から引き継がれ、現在も使用している。
しかし、見た目はほぼ同じ図案とはいえ、両者には細部に下記のような違いがある。[3]

異なる点 ヤマハ ヤマハ発動機
音叉マーク 音叉の先端が外円の内側に収まる 音叉の先端が外円に重なる
「YAMAHA」ロゴ "M"の文字の中央部分が下に付いていない "M"の文字の中央部分が下に付いている
アルファベットの文字の形が左右非対称 各アルファベットの文字の形が左右対称
カラー表示
コーポレートカラー
バイオレット(薄紫色) 赤色

沿革[編集]

明治[編集]

ヤマハの源流は1887年(明治20年)、山葉寅楠が浜松尋常小学校(現:元城小学校)でオルガンを修理したことがきっかけで、1888年(明治21年)に浜松で日本最初の本格的オルガンの製造に成功したことに始まる。

寅楠は1889年(明治22年)に合資会社山葉風琴製造所を設立。1891年(明治24年)には出資引き揚げにより一旦は会社を解散するが、河合喜三郎[4]と共同で山葉楽器製造所を設立した。1897年(明治30年)10月に日本楽器製造株式会社に改組した。当時の資本金は10万円であった。

1916年(大正5年)の寅楠の死後は2代目社長に天野千代丸が就任し、ピアノ製造は一族の山葉直吉[5]らがあたった。1921年(大正10年)には陸軍の要請により、航空機用の木製プロペラの製造を開始し、プロペラの実験用からエンジンも製作した。これは後のヤマハ発動機に至る事業となる。同年8月には西川楽器(西川オルガン)を合併[6]。西川オルガンは1890年(明治23年)の第3回内国勧業博覧会でもヤマハに次ぐ2等賞を得るなど評価が高く、合併後も「Nishikawa」のブランドで製造が続けられていた。この1921年(大正10年)には家具の製作が開始されている。

1926年4月には大規模な労働争議が発生。社外の労働運動家が多く加わり105日間のストライキが実行され、会社役員宅が爆破されるなどの暴力的な騒動にまで至ってしまう[7]。このことが原因となり翌1927年(昭和2年)には天野が辞任。後任に住友電線の取締役であった川上嘉市が3代目社長に就任した。1930年(昭和5年)に釧路工場を大日本人造肥料へ売却し負債を整理し、嘉市は住友財閥の支援も受け、経営の合理化と技術革新でヤマハの再建を果たしたと評されるが、その後に続く「非オーナーでありながら経営者の世襲」という問題を生じた川上親子3代の経営の始まりでもあった。

経営の好転後、1935年(昭和10年)にはヤマハ初の電気楽器「マグナオルガン」を製作、1937年(昭和12年)に管楽器製造をしていた日本管楽器株式会社(ニッカン)の経営を援助し、嘉市が監査役となるなど実質的にグループ化、総合楽器製造企業へ成長しつつあった。

しかし時勢は戦時の雰囲気を強めつつあり、1938年(昭和13年)には陸軍管理下の軍需工場となり、金属プロペラの生産を行い大工場になる。1944年(昭和19年)11月には楽器類の生産は完全休止、1945年7月にはイギリスの戦艦キング・ジョージ5世艦砲射撃浜松の工場が全壊するなどの被害を受け終戦を迎えた。

多角化経営へ[編集]

終戦後わずか2か月後の1945年(昭和20年)10月にはハーモニカシロフォンの製造を再開、1947年(昭和22年)4月にはピアノ製造の再開を果たした。1949年(昭和24年)5月に東京証券取引所第1部に上場

1950年(昭和25年)に嘉市の息子である川上源一が38歳で第4代社長に就任。源一は伝統の楽器事業を充実させるとともに、技術の応用による多角化、また戦後の経済復興とともに音楽をはじめとする生活に彩りを加えるという分野での事業の多角化を図った。源一のかけ声は「日本にエピキュロス[8]を」であったという。

エレクトーンC-35

日本の狭い住宅環境でも鍵盤楽器に親しめるようにとの考えから1959年(昭和34年)12月にエレクトーンD-1を開発、同時にヤマハオルガン教室(現在のヤマハ音楽教室)を開設。またピアノ、エレクトーンの販売のために割賦会社・ヤマハクレジットを設立。1965年(昭和40年)に管楽器、打楽器の製造を開始。1966年(昭和41年)に財団法人ヤマハ音楽振興会を発足し、1967年(昭和42年)には第1回全日本LMC(ライトミュージックコンテスト)、1969年(昭和44年)11月には第1回作曲コンクール(後のポプコン/POPCON)を開催するなど、手軽に購入できる楽器と音楽教室、コンクール開催で『趣味としての音楽演奏』の普及を図った。1970年(昭和45年)には日本管楽器を吸収合併するなど、1960年代には、グランドピアノから管楽器、打楽器弦楽器まで幅広く製造する総合楽器メーカーとしての基礎を固めた。

YA-1

一方、楽器以外の分野では、1954年(昭和29年)にヤマハ・YA-1(愛称は赤トンボ)の製造を開始、1955年(昭和30年)7月には二輪車部門を独立しヤマハ発動機株式会社とした。初のスポーツ用品となるアーチェリー1959年(昭和34年)に開発している。このアーチェリーの素材であるFRP(繊維強化プラスチック)の開発は、1961年(昭和36年)のスキー板、住宅用浴槽の発売へとつながった。1975年(昭和50年)には高級家具の製造を開始している。

1964年(昭和39年)に鳥羽国際ホテルをオープンしレクリエーションリゾート)事業に参入。以降1967年(昭和42年)に三重県志摩市合歓の郷1974年(昭和49年)に静岡県掛川市つま恋1978年(昭和53年)に袋井市に大正モダン風の葛城北の丸、1979年(昭和54年)に沖縄県竹富町小浜島はいむるぶしをオープンした。

源一の余暇産業への多角化を図るという経営方針は1960年代から1970年代の20年間の日本の余暇産業の成長と合致し、ヤマハの経営は右肩上がりの成長を続けていた。地元浜松でのヤマハの評判は大きなものであり、同じく地元企業であるスズキ鈴木修(後のスズキ社長)が昭和30年代の新入社員のころ、飲み屋で「つけといてくれ。スズキの社員だ」と言うと「日本楽器さんならいいけど」と断られたという[9]

源一はこの成功により「ヤマハ中興の祖」と言われたが、同時にその強い性格とともにワンマン経営の傾向も指摘されるようになっていった。1977年(昭和52年)1月には『足元の明るいうちにグッドバイ』の名台詞を残し第5代社長を河島博に譲るが、意見の対立から僅か3年後の1980年(昭和55年)6月には第6代社長に復帰している。

ハイテク企業への成長[編集]

エレクトーンの核となるトランジスタ(当初は日本電気(現:ルネサスエレクトロニクス)との共同開発)で得たノウハウから電子技術が発展し、1971年(昭和46年)に初のIC生産を開始、1970年代から1980年代前半にかけて、音楽ミキサーやエレクトーン、電子ピアノ等の電子楽器の開発を進めた。1981年(昭和56年)にローランドなどの他5社と共同でMIDI規格をまとめる。この規格を取り入れた1983年(昭和58年)5月に発売されたデジタルシンセサイザーDX7はアイドル自身が演奏する「バンドブーム」[10]と重なりヒット商品となった。

MSXパソコン YIS503II

1983年(昭和58年)10月にはMSX規格のパソコンを発売。1985年(昭和60年)のMSX2規格、1988年(昭和63年)のMSX2+規格、1990年(平成2年)のMSXturboR規格ではヤマハの開発したVDPFM音源が採用されるなど、パーソナルコンピュータの分野で「音源チップのヤマハ」という地位を獲得した。

電子部品の分野においても1984年(昭和59年)にはハードディスクに用いる薄膜磁気ヘッドの開発を開始。ハードディスクの普及にともない急成長していった。

混迷・低迷から再構築へ[編集]

強い権力を誇った源一は1983年(昭和58年)に長男の川上浩を第7代社長に指名し自らは会長となったが、取締役会の招集権限は会長にあるなど院政の傾向があったと言われる。源一は、後に社長となる上島清介を社長としようとしたが上島は固辞。源一は「浩が武田勝頼になりはしないか。身内として非常に心配だ」と浩の社長就任の際に語ったという[11]

浩は社長就任後に組織を21の事業部制に変更。創業90周年を迎えた1987年(昭和62年)には社名を日本楽器製造株式会社(ニチガク)から、山葉寅楠のオルガン修理から100周年を記念し、商標で知名度のあったヤマハ株式会社へ変更した。

しかし、伝統的な楽器事業においてはピアノは1980年(昭和55年)、エレクトーンは1981年(昭和56年)に出荷台数がピークを迎えて以降、減少傾向が続いていた。新たな事業の柱を育てようとAV機器事業で従来の高級機から普及機への進出を図るなどしたが結果は残せなかった。半導体・電子部品事業も競争は激しく、楽器事業の余剰人員を吸収することはできなかった。時代としては1980年代後半のバブル期であり収益機会は多分にあるにもかかわらず社内的要因によって経営が立ち後れているという認識が社内に蔓延する一方で、キロロリゾートの開発に着手した。

1991年(平成3年)に実施された希望退職制度『転進ライフプラン援助制度』には従業員の6%にあたる724名が応募し、会社側が予想する以上の人材流出を招いた。しかし、これに対し、浩は『停滞感のある職場から、どこか活気ある職場に移りたいという従業員にはそういう機会を与えた』[12]とコメントし、1991年(平成3年)10月には中堅社員の96%が経営に危機感をもち、半数がモラル低下を感じるようになっていたという[13]

ついに1992年(平成4年)2月には労働組合が浩に対し「出処進退申入書」を提出する事態となり、浩は社長退任を表明。上島清介が第8代社長となった。この川上家の経営からの退場劇は、ヤマハ音楽振興会などを巻き込み1年後まで混乱が続くこととなる。

上島は社内組織を再構築するとともに、半導体・電子部品事業によって経営を立て直しを図るが、バブル崩壊による景気の後退からリゾート事業の不振、また音源チップが主力であった半導体も需要が急変するなど難しい舵取りとなった。

半導体はその後ゲーム機や通信カラオケ機器に搭載[14]されるなどし、電子部品は1995年(平成7年)にはハードディスク用薄膜ヘッドの世界シェアは25%[15]となるなど成果を得ていたが、不安定な需要変動から安定した利益を得ることは難しかった。1997年(平成9年)6月には第9代社長に半導体・電子部品事業出身の石村和清が就任。長野オリンピック開催間際にスキー板・用品およびテニスラケットの製造とスキー実業団「ヤマハスキーチーム」を担っていたスポーツ事業部を廃止し、電子部品分野の事業強化を図ったが、1998年(平成10年)に増設した半導体工場をわずか1年後の1999年(平成11年)にはロームに売却。同年3月期は上場以来初の営業赤字に転落した。この不振からの脱出のため、2000年(平成12年)には稼ぎ頭だった磁気ヘッド製造事業も売却することとなった。

レクリエーション事業は1993年(平成5年)に全面開業したキロロリゾートの会員制ゴルフ場・会員制リゾートホテルの会員権販売が不振に陥り、1995年(平成7年)にヤマハ北海道リゾート開発を解散し149億円の負債を整理するとともに支援を継続。2002年(平成14年)3月31日にはレクリエーション施設を管掌していたヤマハリゾート(旧社)を吸収合併し、不動産評価損で生じた129億円の債務超過をヤマハ本体が処理した。

資本関係では2000年(平成12年)3月にヤマハ発動機の株式5%をトヨタ自動車に売却、さらにヤマハ発動機の間接的買収防衛策として、2007年5月にヤマハ発動機株式の7.8%を三井物産などに売却するとともに、ヤマハ発動機も2008年(平成20年)3月下旬までに市場を通じてヤマハ株式5%を取得し、両者で持ち合い関係を確立させることになっている。

これらの事業の再構築が功を奏し、2002年(平成14年)以降は業績が回復。特に2004年(平成16年)以降では携帯電話着メロ用の半導体の需要が堅調である。日本国内では着うたにシフトしつつあるが、中国等の成長市場においてはヤマハ製の音源チップ内蔵の携帯電話の需要が見込まれている。

2000年(平成12年)4月に就任した第10代社長の伊藤修二は、 今後の経営方針のキーワードを『音楽のヤマハ』・『大人市場』・『中国』としている。楽器レンタル、楽譜のオンライン販売、大人向け音楽教室の展開などにより大人の音楽市場をさらに開拓するとしている。また中国をはじめとするアジアの成長市場においてもピアノ市場は年間販売台数が15万台から20万台と見込まれており、2004年(平成16年)10月から杭州での現地生産を開始している。2005年(平成17年)10月には上海で音楽教室を開始している。2005年(平成17年)にはドイツの音楽ソフトウェア会社であるスタインバーグを買収、2008年(平成20年)にはオーストリアの老舗ピアノメーカー、ベーゼンドルファーを傘下に収めている。

2009年(平成21年)3月期決算においては、世界金融危機を起因とした消費萎縮により大幅減益となり、連結での最終損失が206億円に膨らみ上がった。このため、国内の楽器製造工場を集約化(日本管楽器の流れをくむ埼玉工場を閉鎖し、豊岡工場へ移転させる等)させ、マグネシウム部品事業と住宅設備部門を売却により事業撤退するリストラを決定。住宅設備部門子会社のヤマハリビングテックは2010年(平成22年)3月中に株式持分85.1%が日本産業パートナーズと外資系投資ファンド3社に譲渡し、2013年(平成23年)10月1日にはMBOによりヤマハグループから離脱し、トクラスに変更した。

2014年(平成26年)4月1日会社分割により国内における楽器・音響機器の生産事業を子会社3社に承継した[16]

主要な製品[編集]

ピアノ[編集]

ヤマハ グランドピアノ
  • ピアノ - グランドピアノ、アップライトピアノ、エレクトリックピアノ(電気ピアノ)、サイレントピアノ(電子ピアノ)

1960年代以前は国内での同社製のピアノの認知度・シェアはトップであったが、海外では全く認知されていなかった。それは戦前のベヒシュタインから技術導入したピアノ製造方法を踏襲し、海外で主流となったスタインウェイとは音質や音量が異なっていたことによる。

1960年代中期より、グランドピアノの研究対象をベヒシュタインからスタインウェイ・アンド・サンズに変更し、大ホールでの使用に適する豊かな音量と煌びやかな高音を持つことを目的としたフルコンサートピアノFCシリーズを開発したが、それでも十分な評価を得ることができなかった。

このため、スタインウェイピアノをさらに徹底的に研究すると共に、イタリアより技術者タローネを招聘し、材質・加工製造方法・精度・強度・剛性等を改良し、フルコンサートピアノCFシリーズを開発した。また普及型グランドピアノにおいても、放射状支柱、及びコレクターを後框及び金属フレームに結合させ、アリコートを取り入れ、アクションをエルツ式としたCシリーズを投入した。

さらに、ピアノの調律・整調・整音技術の研修のために村上輝久、松山乾次らをアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリスヴャトスラフ・リヒテルピアノ調律師として派遣し、コンサート前調律のノウハウや演奏家の要求を学び、コンサートチューナーとして信頼を得ると共に、その技術を国内にもフィードバックした。

数年後、多くの一流のピアニストにCFシリーズを紹介する機会が訪れ、その後欧米においてもCFシリーズが次第に使われるようになった。晩年のグレン・グールドがCFシリーズを愛用するなど、その優秀性が認知され、現在では国際的なピアノコンクールにおいても、ヤマハはスタインウェイに次いで多く使用されるピアノとなっている。2010年には、新型フルコンサートピアノCFXを使用したYulianna Avdeevaが、第XVI回ショパン国際コンクールで優勝した。

アップライトピアノについても、1970年代から研究対象をベヒシュタインからスタインウェイ、及びスタインウェイと同じ起源をもつドイツのグロトリアンとし、UXシリーズなどの高品質なピアノを生産した。

しかし、国内のピアノ需要は少子化、生活スタイルの変化、住宅問題や騒音問題などにより1980年代初頭の年産20万台をピークに減少を続け、現在では輸出が有力となっている。海外では、精度や耐久性が優れたヤマハピアノの評価は高く、国内よりも高価格で流通している。また、国内で1970年代から1980年代に生産された多くの中古ヤマハピアノが輸出されている。

技術面では、アコースティックに電子技術を結合し、高度な自動演奏や通信を持つディスクラビアシリーズやDGPシリーズを出荷している。また消音可能なサイレント仕様を多くのモデルに用意している。

電子ピアノの分野でも、アコースティックピアノのアクションを電子ピアノに搭載したアバングランドシリーズやDGPシリーズを出荷している。そのデザイン力も高く評価されており、P-140シリーズは2005年グッドデザイン賞を受賞している。

各種打楽器[編集]

ドラムセット

電子楽器[編集]

Yamaha CS-80.jpg
CS-80 (ポリフォニックシンセ)
YAMAHA DX7.jpg
DX7 (FMシンセ)
MO6 (ワークステーション)
MU2000 (XG音源)
RM1x (グルーヴマシン)
ショルキー
TENORI-ON

弦楽器[編集]

バイオリンギターベースなど(サイレント楽器を含む)。

サイレント・バイオリン
SGシリーズ

エレクトリックギター及びエレクトリックベースはモデルライフが短い物が多く、定番となっているモデル以外は生産終了となるものが多い。近年は発売されている種類が大幅に整理されている。

管楽器[編集]

ピッコロ (YPC32)

教育楽器[編集]

防音室[編集]

各種アクセサリー[編集]

EL-900m.jpg Clavinova CVP-303.jpg Yamaha Tyros.jpg
エレクトーン クラビノーバ Tyros

業務用音響機器[編集]

M7CL (ライブ用コンソール)

特にミキシングコンソール、パワーアンプが知られている。また、デジタルエフェクトプロセッサーSPXシリーズ、モニタースピーカーNS-10Mシリーズは、業界標準となるまでになった。

音響機器・映像機器[編集]

NS-2000

かつて、TDKからOEM供給でコンパクトカセット(カセットテープ)を発売していた。

  • ホームシアターシステム
  • アンプ
  • スピーカー
    楽器メーカーとして木材の加工ノウハウを持っていたことから、スピーカーには定評があった。特に銘機として名高いNS-1000Mは、一般家庭のみならず録音スタジオ放送局の音質評価(モニター)用にも使われ、1974年(昭和49年)の発売から1997年(平成9年)の生産完了までに20万組以上が出荷されたという。
  • ヘッドフォン
  • Hi-Fiコンポーネント
  • レーザーディスクプレイヤー
    1985年(昭和60年)に発売されたLV-X1は10万円を切る価格と水平解像度400本というコストパフォーマンスの両立を成し遂げ、それまでパイオニアの寡占状態だったLDプレーヤー市場に旋風を巻き起こすこととなった。

情報通信機器・電子部品[編集]

かつてはMSXCD-RWドライブといったパソコン及び関連製品を製造していたが、現在は撤退している。1995年(平成7年)には世界シェアの25%を誇ったハードディスクの磁気ヘッドは2000年(平成12年)に撤退している。

  • ルータ
    電子楽器の開発で培われた高度なデジタル信号処理技術を生かし、1987年(昭和62年)にはアナログ回線用モデムLSIを発売し、通信機器業界に参入した。ちなみにこのLSIは、当初、日本ではほとんど売れなかったが、米国では月に20万個も売れるヒットになり、通信用デバイスのヤマハという言い文句が定着した。その後、機能性の高いルータの名機(RT100i、RTA50i、RTX1000など)を数多く世に送り出し、国内では、中規模ネットワーク向けのルータ販売数で、高いシェアを誇る。2005年に発売されたRTX1100という機種は、名機RTX1000の後継にあたり、『業務用ルーターならとりあえずRTX1000かRTX1100で大丈夫』といわれるぐらい、定番機種と化していたが、最大NATセッション数が4096と少なく、Webアプリケーションの普及などから端末毎の消費セッション数の増大もあり、2008年に発売されたRTX1200に後継の座を譲った。
    • RTシリーズ
    • SRTシリーズ
    • RTXシリーズ
    • RTVシリーズ
    • NetVolanteシリーズ
  • 会議システム
    同メーカーの持つ音声技術とネットワーク技術を組み合わせることによって、高品質な音声による会議システムを提供することを目玉とした製品群。2006年(平成18年)3月に音声会議システムのPJP-100HとPJP-100UHをリリース、世界初のアレイマイク/スピーカ一体型、高性能なエコーキャンセラーの搭載などを特徴としている。また、同年10月にはIPテレビ会議システムであるPJP-300Vなどをリリースしている。
    • PJPシリーズ

半導体[編集]

YMF744 (YMF724の後継)

携帯電話用のSMAFフォーマット対応サウンド制御用LSI(ヤマハMAシリーズ。主に一部のauKDDI/沖縄セルラー電話)およびSoftBank向け端末。ドコモ向け端末はNEC製の一部機種に限られる)AudioEngineシリーズを開発している。かつてはFM音源を実用化し、数多くのパソコン、アーケードゲームメガドライブなどのゲーム機に搭載されたことで知られている。また1998年(平成10年)にパソコンのPCIバス用PCM音源チップ、YMF724を開発・発売し、これには半ハードウェアXG対応MIDI音源が搭載されていた上に安価であったため、自作パソコンマニアを中心に爆発的に普及した。現在PC用としてはAC97コーデックを製造している。

  • モバイルオーディオ
  • サウンドジェネレーターLSI(FM音源PSGなど)
  • 画像LSI
  • 通信LSI
  • オーディオシステムLSI

コンテンツ配信[編集]

ヤマハが提唱した規格[編集]

主な使用ミュージシャン[編集]

かつて使用していたミュージシャン[編集]

レクリエーション事業[編集]

音楽教室[編集]

  • ヤマハ音楽振興会が「ヤマハ音楽教室」の名称でカリキュラムを定めて運営しており、ヤマハ完全子会社のヤマハミュージックリテイリング店舗や約1,400店ある特約店で実施されている。2004年(平成16年)時点での生徒数は50万人。
  • 中国、韓国で直営による音楽教室を開設している。

コンサートホール[編集]

音楽事業[編集]

リビング事業[編集]

ピアノ製造の木材加工のノウハウから高級家具を製造したことからはじまり、1991年(平成3年)にヤマハリビングテック(YLT)を設立し分社化。システムバスシステムキッチン等の製品を製造販売していた。家具については1992年(平成4年)にシステム家具の販売取り止めを決定、品目の絞り込みを行った末2005年3月には受注・生産を終了した[17]

2010年(平成22年)にリストラの一環でヤマハはYLT持株85.1%を日本産業パートナーズと外資系投資ファンド3社へ売却。この時点ではYAMAHAブランドおよび社名は継続されたが、実質的に経営から撤退。その後、YLTによるヤマハ及び投資ファンドの出資分についてのMBO実施、2013年10月1日付の社名変更[18][19]により、名実ともに住宅機器事業から撤退した。

自動車関連[編集]

スポーツ用品[編集]

アーチェリー用具の開発から始まり、FRP成形技術を活かしてスキー板テニスラケットを製造していた。1997年(平成9年)にスポーツ事業部を廃止し、スキー板・スキー用品・テニスラケットから撤退。2002年(平成14年)にはアーチェリー用具からも撤退。現在はゴルフHS事業部によるゴルフクラブのみとなっている。なお、マリンスポーツは系列外のヤマハ発動機が管掌している。

発車メロディー[編集]

  • 1989年3月に従来の発車ベルに代わるものとしてヤマハ製の発車メロディー渋谷駅新宿駅それぞれで導入された。また、1990年(平成2年)に水戸駅JR東日本で4番目に、ヤマハ製の発車メロディが採用された。さらに同年に、JR西日本北陸本線金沢駅でも採用された。音色は、渋谷駅と新宿駅では、ピアノハープなどが毎日のように流れていた。なお、現在使われている水戸駅(8番線を除く)と金沢駅ではの音色が流れている。その後放送機器の老朽化を理由に順次テイチク製への置き換えが行われ、現在聞くことができるのは、水戸駅(8番線を除く)と金沢駅くらいである。

関連会社・法人[編集]

主な工場[編集]

  • 天竜工場静岡県浜松市)(自動車用内装部品等の製造、ヤマハファインテック株式会社が運営)
  • 掛川工場(静岡県掛川市)(グランドピアノ・アップライトピアノの製造、株式会社ヤマハピアノ製造が運営)
  • 豊岡工場(静岡県磐田市)(電子楽器・管楽器・音響機器の製造及び研究開発、株式会社ヤマハミュージカルプロダクツ及び株式会社ヤマハミュージックエレクトロニクスが運営)
  • 磐田工場(静岡県磐田市)(ピアノフレームの製造、株式会社ヤマハピアノ製造が運営)

脚注[編集]

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  1. ^ 出典:日経リサーチが実施した2006年(平成18年)企業ブランド調査、2006年(平成18年)6月29日日経産業新聞
  2. ^ a b c d 音叉マークの歴史
  3. ^ a b ヤマハロゴマークの歴史
  4. ^ カザリ職人。技術のみならず、金銭的にも寅楠を援助をした。河合楽器製作所創業者一族とは無関係。
  5. ^ 寅楠の姉の婿。
  6. ^ 西川オルガンの創設者の西川寅吉は1884年(明治17年)頃に風琴の試作に成功したとされ、これが事実であれば寅楠より先に製造していたことになる。現在のヤマハによる沿革紹介でも自らが「日本初」であったとは明記していない。
  7. ^ 参考文献:大庭伸介著『浜松・日本楽器争議の研究』、五月社、1980年
  8. ^ 直訳では「快楽主義(者)」となるが趣旨としては余暇を楽しむ思想をもとうという意味であろう。
  9. ^ 出典:1992年5月14日 日本経済新聞
  10. ^ 例えばチェッカーズのデビューは1983年(昭和58年)9月である。
  11. ^ 出典:1992年5月13日付け日本経済新聞
  12. ^ 出典:1992年1月16日、日本経済新聞
  13. ^ 出典:1992年2月25日、日経産業新聞
  14. ^ セガサターンや通信カラオケDAM
  15. ^ 1995年6月11日、日本経済新聞
  16. ^ 会社分割(吸収分割)による当社国内生産事業の分社化及び子会社商号変更に関するお知らせ
  17. ^ ヤマハ家具商品生産終了に関するご案内(2004年12月24日、ヤマハリビングテック・ニュースリリース)
  18. ^ 資本構成ならびに商号変更に関するお知らせ(2013年6月28日、ヤマハリビングテック・ニュースリリース)
  19. ^ ヤマハリビングテックがMBO 社名「トクラス」に(2013年6月28日、日本経済新聞)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]