ヤマハ

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曖昧さ回避 この項目では、楽器メーカーのヤマハについて記述しています。オートバイメーカーのヤマハについては「ヤマハ発動機」を、その他用法については「ヤマハ (曖昧さ回避)」をご覧ください。
ヤマハ株式会社
Yamaha Corporation
ヤマハのロゴ
種類 株式会社
市場情報
東証1部 7951
本社所在地 Flag of Japan.svg 日本
〒430-8650
静岡県浜松市中区中沢町10-1
電話番号 053-460-2095
設立 1897年10月12日
業種 その他製品
事業内容 楽器・AV機器・半導体・リビング機器の製造、レクリエーション事業、楽曲配信など
代表者 代表取締役社長 梅村充
資本金 285億34百万円
売上高 連結:4,592億84百万円
単体:2,746億38百万円
純資産 連結:2,518億48百万円
単体:2,008億80百万円
総資産 連結:4,089億74百万円
単体:2,990億90百万円
従業員数 連結:20,362人
単体:5,235人
決算期 3月末日
主要株主 静岡銀行4%
外部リンク http://www.yamaha.co.jp/
特記事項:各種経営指標は2009年3月期
  
ヤマハ本社(静岡県浜松市中区)
別角度から

ヤマハ株式会社(Yamaha Corporation)は、日本の楽器半導体スポーツ用品・自動車部品メーカー。本業の楽器以外に様々な分野で、事業展開しているグローバルメーカーである。

ロゴタイプは大文字英字でYAMAHA。ヤマハとヤマハ発動機では、"M"の文字中央の谷の部分に微妙な差異があり、谷の部分が地面についていないものがヤマハ、地面についているものがヤマハ発動機である。また、トレードマーク音叉を3本組み合わせた形を図案化したもの。これもまたヤマハとヤマハ発動機で異なり、音叉の持ち手が周りの円より内側に入っているものがヤマハ、持ち手が円に被り、マーク全体に立体感が付けられたものがヤマハ発動機である。

目次

[編集] 会社概要

明治時代の創業以来の事業であるピアノ製造をはじめとする伝統的な楽器事業は国内トップブランド[1]であり、機械的な面での質の良さから、海外においても非常に知名度のあるブランドとなっている。

1960年代からエレクトーン電子ピアノ等の電子楽器の開発製造をおこなっており、電子的な音源の開発ではMIDI規格等において規格制定企業となるなど高い技術力を誇っている。これらの電子機器の開発から得られた技術力を活かし、半導体等の電子部品、ルータ等のネットワーク機器、オーディオ機器等の製造を行うAV・IT事業でも知られる。

これらの楽器製造から派生した事業として、ピアノの木工加工、塗装等のノウハウを活かし、高級システムキッチン等の住宅機器製造をおこなうリビング事業や高級車用の木工パネル製造等の自動車部品事業、楽器の普及のための事業から発展したピアノ教室やレコード会社等の音楽関連事業、音楽をはじめとして生活に彩りを与えるものとして手がけられたリゾート施設等のレクリエーション事業ゴルフクラブを製造するスポーツ用品事業楽曲配信などを本社及び関連会社で行っている。

二輪車製造大手のヤマハ発動機1955年にヤマハの二輪製造部門が独立して設立されたものである。2006年現在においては資本関係・取引関係は重要なものではないが、ブランド名を共通とする関連会社である。

2006年3月期の連結売上構成は楽器事業58.8%、AV・IT事業14.2%、電子機器・電子金属事業10.5%、リビング事業8.4%、レクリエーション・リゾート事業3.3%、その他4.6%となっている。

[編集] 沿革

[編集] 第二次世界大戦前

ヤマハの源流は1888年山葉寅楠浜松で日本最初の本格的オルガンの製造に成功したことに始まる。

寅楠は1889年に合資会社山葉風琴製造所を設立。1891年には出資引き揚げにより一旦は会社を解散するが、河合喜三郎[2]と共同で山葉楽器製造所を設立した。1897年10月に日本楽器製造株式会社に改組した。当時の資本金は10万円であった。現在も引き継がれている、黒地に白または銀で描かれた、3本の音叉を交叉させた商標は、この直後1898年に定められている。

1916年の寅楠の死後は2代目社長に天野千代丸が就任し、ピアノ製造は一族の山葉直吉[3]らがあたった。1921年には木製プロペラの製造を開始し、これは後のヤマハ発動機に至る事業となる。同年8月には西川楽器(西川オルガン)を合併[4]。西川オルガンは1890年の第3回内国勧業博覧会でもヤマハに次ぐ2等賞を得るなど評価が高く、合併後も「Nishikawa」のブランドで製造が続けられていた。この1921年には家具の製作が開始されている。

1926年4月には大規模な労働争議が発生。社外の労働運動家が多く加わり105日間のストライキが実行され、会社役員宅が爆破されるなどの暴力的な騒動にまで至ってしまう[5]。このことが原因となり翌1927年には天野が辞任。後任に住友電線の取締役であった川上嘉市が3代目社長に就任した。嘉市は住友財閥の支援も受け、経営の合理化と技術革新でヤマハの再建を果たしたと評されるが、その後に続く「非オーナーでありながら経営者の世襲」という問題を生じた川上親子3代の経営の始まりでもあった。

経営の好転後、1935年にはヤマハ初の電気楽器「マグナオルガン」を製作、1937年管楽器製造をしていた日本管楽器株式会社(ニッカン)の経営を援助し、嘉市が監査役となるなど実質的にグループ化、総合楽器製造企業へ成長しつつあった。

しかし、時勢は戦時の雰囲気を強めつつあり、1938年には陸軍管理下の軍需工場となり、金属プロペラの生産を行い大工場になる。1944年11月には楽器類の生産は完全休止、12月にはイギリスの戦艦キング・ジョージ5世艦砲射撃浜松の工場が全壊するなどの被害を受け終戦を迎えた。

[編集] 楽器メーカーから多角化経営へ

終戦後わずか2か月後の1945年10月にはハーモニカシロフォンの製造を再開、1947年4月にはピアノ製造の再開を果たした。1949年5月に東京証券取引所第1部に上場

1950年に嘉市の息子である川上源一が38歳で第4代社長に就任。源一は伝統の楽器事業を充実させるとともに、技術の応用による多角化、また戦後の経済復興とともに音楽をはじめとする生活を彩りを加えるという分野での事業の多角化を図った。源一のかけ声は「日本にエピキュロス[6]を」であったという。

エレクトーン C-35

日本の狭い住宅環境でも鍵盤楽器に親しめるようにとの考えから1959年12月にエレクトーンD-1を開発、同時にヤマハオルガン教室(現在のヤマハ音楽教室)を開設。またピアノ、エレクトーンの販売のために割賦会社を設立。1966年に財団法人ヤマハ音楽振興会を発足、1967年には第1回全日本LMC(ライトミュージックコンテスト)、1969年11月には第1回作曲コンクール(後のポプコン)を開催するなど、手軽に購入できる楽器と音楽教室、コンクール開催で『趣味としての音楽演奏』の普及を図った。1965年に管楽器、打楽器の製造を開始。1970年には日本管楽器を吸収合併するなど、1960年代には総合楽器メーカーとしてグランドピアノから管楽器、打楽器弦楽器まで幅広く製造する総合楽器メーカーとしての基礎を固めた。

YAMAHA YA-1

一方、楽器以外の分野では、1954年ヤマハ・YA-1(愛称は赤トンボ)の製造を開始、1955年7月には二輪車部門を独立しヤマハ発動機株式会社とした。初のスポーツ用品となるアーチェリーは1959年に開発している。素材であるFRP(繊維強化プラスチック)の開発は、1961年スキー板、住宅用浴槽の発売へとつながった。1975年には高級家具の製造を開始している。

リゾート事業では1964年に鳥羽国際ホテルをオープン、以降1967年三重県志摩市合歓の郷1974年静岡県掛川市つま恋1978年袋井市に大正モダン風の葛城北の丸、1981年沖縄県竹富町はいむるぶしをオープンした。

源一の余暇産業への多角化を図るという経営方針は、1960年代から1970年代の20年間の日本の余暇産業の成長と合致し、ヤマハの経営は右肩上がりの成長を続けていた。地元浜松でのヤマハの評判は大きなものであり、同じく地元企業であるスズキ鈴木修(後のスズキ社長)が昭和30年代の新入社員のころ、飲み屋で「つけといてくれ。スズキの社員だ」と言うと「日本楽器さんならいいけど」と断られたという[7]

源一はこの成功により「ヤマハ中興の祖」と言われたが、同時にその強い性格とともにワンマン経営の傾向も指摘されるようになっていった。1977年1月には『足元の明るいうちにグッドバイ』の名台詞を残し第5代社長を河島博に譲るが、意見の対立から僅か3年後の1980年6月には第6代社長に復帰している。

[編集] ハイテク企業への成長

デジタル・シンセ DX7

1960年代のエレクトーンの開発で得たトランジスタに関するノウハウから電子技術が発展し、1971年に初のIC生産を開始、1970年代から1980年代前半にかけて、音楽ミキサーやエレクトーン、電子ピアノ等の電子楽器の開発を進めた。1981年ローランドなどの他5社と共同でMIDI規格をまとめる。この規格を取り入れた1983年5月に発売されたデジタルシンセサイザーDX7はアイドル自身が演奏する「バンドブーム」[8]と重なりヒット商品となった。

MSXパソコン YIS503II

1983年10月にはMSX規格のパソコンを発売。1985年MSX2規格、1988年MSX2+規格、1990年MSXturboR規格ではヤマハの開発したVDPFM音源が採用されるなど、パーソナルコンピューターの分野で「音源チップのヤマハ」という地位を獲得した。

電子部品の分野においても1984年にはハードディスクに用いる薄膜磁気ヘッドの開発を開始。ハードディスクの普及にともない急成長していった。

[編集] 混迷・低迷から再構築へ

強い権力を誇った源一は1983年に長男の川上浩を第7代社長に指名し自らは会長となったが、取締役会の招集権限は会長にあるなど院政の傾向があったと言われる。源一は、後に社長となる上島清介を社長としようとしたが上島は固辞。源一は「浩が武田勝頼になりはしないか。身内として非常に心配だ」と浩の社長就任の際に語ったという[9]

浩は社長就任後に組織を21の事業部制に変更。創業90周年を迎えた1987年には社名を日本楽器製造株式会社(ニチガク)から、山葉寅楠のオルガン修理から100周年を記念し、商標で知名度のあったヤマハ株式会社へ変更した。

しかし、伝統的な楽器事業においてはピアノは1980年、エレクトーンは1981年に出荷台数がピークを迎えて以降、減少傾向が続いていた。新たな事業の柱を育てようとAV機器事業で従来の高級機から普及機への進出を図るなどしたが結果は残せなかった。また半導体・電子部品事業も競争は激しく、楽器事業の余剰人員を吸収することはできなかった。時代としては1980年代後半のバブル期であり収益機会は多分にあるにもかかわらず社内的要因によって経営が立ち後れているという認識が社内に蔓延した。1991年に実施された希望退職制度『転進ライフプラン援助制度』には従業員の6%にあたる724名が応募し、会社側が予想する以上の人材流出を招いた。しかし、これに対し、浩は『停滞感のある職場から、どこか活気ある職場に移りたいという従業員にはそういう機会を与えた』[10]とコメントし、1991年10月には中堅社員の96%が経営に危機感をもち、半数がモラル低下を感じるようになっていたという[11]

ついに1992年2月には労働組合が浩に対し「出処進退申入書」を提出する事態となり、浩は社長退任を表明。上島清介が第8代社長となった。この川上家の経営からの退場劇は、財団法人ヤマハ音楽振興会などを巻き込み1年後まで混乱が続くこととなる。

上島は社内組織を再構築するとともに、半導体・電子部品事業によって経営を立て直しを図るが、バブル崩壊による景気の後退からリゾート事業の不振、また音源チップが主力であった半導体も需要が急変するなど難しい舵取りとなった。

半導体はその後ゲーム機や通信カラオケ機器に搭載[12]されるなどし、電子部品は1995年にはハードディスク用薄膜ヘッドの世界シェアは25%[13]となるなど成果を得ていたが、不安定な需要変動から安定した利益を得ることは難しかった。1997年6月には第9代社長に半導体・電子部品事業出身の石村和清が就任し事業強化を図ったが、1998年に増設した半導体工場をわずか1年後の1999年には半導体大手のロームに売却。同年3月期は上場以来初の営業赤字に転落した。この不振からの脱出のため、2000年には稼ぎ頭だった磁気ヘッド製造事業も売却することとなった。

一方、リゾート事業は、1991年にオープンしたキロロリゾートが不振となり、1995年には149億円の負債を整理した。2002年10月1日にはヤマハリゾートを吸収合併し、負債をヤマハ本体が引き受けた。

この他、資本関係では2000年3月にヤマハ発動機の株式5%をトヨタ自動車に売却、さらにヤマハ発動機の間接的買収防衛策として、2007年5月にヤマハ発動機株式の7.8%を三井物産などに売却するとともに、ヤマハ発動機も2008年3月下旬までに市場を通じてヤマハ株式5%を取得し、両者で持ち合い関係を確立させることになっている。

これらの事業の再構築が功を奏し、2002年以降は業績が回復。特に2004年以降では携帯電話着メロ用の半導体の需要が堅調である。近年では日本国内では携帯電話で再生される音楽は回線の高速化により着うたにシフトしつつあるが、中国等の成長市場においてはヤマハ製の音源チップ内蔵の携帯電話の需要が見込まれている。

2000年4月に就任した第10代社長の伊藤修二は、 今後の経営方針のキーワードを『音楽のヤマハ』・『大人市場』・『中国』としている。楽器レンタル、楽譜のオンライン販売、大人向け音楽教室の展開などにより大人の音楽市場をさらに開拓するとしている。また中国をはじめとするアジアの成長市場においてもピアノ市場は年間販売台数が15万台から20万台と見込まれており、2004年10月から杭州での現地生産を開始している。2005年10月には上海で音楽教室を開始している。2005年にはドイツの音楽ソフトウェア会社であるスタインバーグを買収、2008年にはオーストリアの老舗ピアノメーカー、ベーゼンドルファーを傘下に収めている。

[編集] 主要な製品

[編集] 伝統的な楽器全般

ヤマハ グランドピアノ
  • ピアノ - グランドピアノ、アップライトピアノ、サイレントピアノ(電子ピアノ)

1960年代以前は国内での同社製のピアノの認知度・シェアはトップであったが、海外では全く認知されていなかった。それは戦前のベヒシュタインから技術導入したピアノ製造方法を踏襲し、海外で主流となったスタインウェイとは音質や音量が異なっていたことによる。

1960年代中期より、グランドピアノの研究対象をベヒシュタインからスタインウェイに変更し、大ホールでの使用に適する豊かな音量ときらびやかな高音を持つことを目的としたフルコンサートピアノFCシリーズを開発したが、それでも十分な評価を得ることができなかった。

このため、スタインウェイピアノをさらに徹底的に研究するとともに、イタリアより技術者タローネを招聘し、材質・加工製造方法・精度・強度・剛性等を改良し、フルコンサートピアノCFシリーズを開発した。また普及型グランドピアノにおいても、放射状支柱およびコレクターを後框および金属フレームに結合させ、アリコートを取り入れ、アクションをエルツ式としたCシリーズを投入した。

さらにピアノの調律・整調・整音技術の研修のために村上輝久、松山乾次らをアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリスヴャトスラフ・リヒテルピアノ調律師として派遣し、コンサート前調律のノウハウや演奏家の要求を学び、コンサートチューナーとして信頼を得るとともに、その技術を国内にもフィードバックした。

数年後、多くの一流のピアニストにCFシリーズを紹介する機会が訪れ、その後欧米においてもCFシリーズが次第に使われるようになった。晩年のグレン・グールドがCFシリーズを愛用するなど、その優秀性が認知され、現在では国際的なピアノコンクールにおいても、ヤマハはスタインウェイに次いで多く使用されるピアノとなっている。

アップライトピアノについても70年代から研究対象をベヒシュタインからスタインウェイおよびスタインウェイと同じ起源をもつドイツのグロトリアンとし、UXシリーズなどの高品質なピアノを生産した。

しかし、国内のピアノ需要は少子化、生活スタイルの変化、住宅問題や騒音問題などにより80年代初頭の年産20万台をピークに減少を続け、現在では輸出が有力となっている。国外では精度や耐久性が優れたヤマハピアノの評価は高く、国内よりも高価格で流通している。また国内で70~80年代に生産された多くの中古ヤマハピアノが輸出されている。

技術面では、アコースティックに電子技術を結合し、高度な自動演奏や通信を持つディスクラビアシリーズやDGPシリーズを出荷している。また消音可能なサイレント仕様を多くのモデルに用意している。

電子ピアノの分野でもアコースティックピアノのアクションを電子ピアノに搭載したアバングランドシリーズやDGPシリーズを出荷している。そのデザイン力も高く評価されており、P-140シリーズは2005年のグッドデザイン賞を受賞している。

[編集] 各種打楽器

ドラムセット

[編集] 弦楽器

バイオリンギターベース等(サイレント楽器を含む)。

サイレント・バイオリン
SGシリーズ

エレクトリックギター及びエレクトリックベースはモデルライフが短い物が多く、定番となっているモデル以外は生産終了となるものが多い。近年は発売されている種類が大幅に整理されている。

[編集] 管楽器

ピッコロ (YPC32)

[編集] 教育楽器

[編集] 設備

[編集] 各種アクセサリー

EL-900m.jpg Clavinova CVP-303.jpg Yamaha Tyros.jpg
エレクトーン クラビノーバ Tyros

[編集] 電子楽器

Yamaha CS-80.jpg
CS-80 (ポリフォニックシンセ)
YamahaDX72.jpg
DX7 (FMシンセ)
YAMAHA mo6.jpg
MO6 (ワークステーション)
MU2000 (XG音源)
RM1x (グルーヴマシン)
ショルキー
TENORI-ON

[編集] 業務用音響機器

M7CL (ライブ用コンソール)

特にミキシングコンソール、パワーアンプに定評がある。また、デジタルエフェクトプロセッサーSPXシリーズ、モニタースピーカーNS-10Mシリーズは、業界標準となるまでに好評を博した。

[編集] 音響機器映像機器

NS-2000

かつて、TDKからOEM供給でコンパクトカセット(カセットテープ)を発売していた。

  • ホームシアターシステム
  • アンプ
  • スピーカー
    楽器メーカーとして木材の加工ノウハウを持っていたことから、スピーカーには定評があった。特に銘機として名高いNS-1000Mは、一般家庭のみならず録音スタジオ放送局の音質評価(モニター)用にも使われ、1974年の発売から1997年の生産完了までに20万組以上が出荷されたという。
  • Hi-Fiコンポーネント

[編集] 情報通信機器・電子部品

かつてはMSXCD-RWドライブといったパソコン及び関連製品を製造していたが、現在は撤退している。1995年には世界シェアの25%を誇ったハードディスクの磁気ヘッドは2000年に撤退している。

  • ルータ
    電子楽器の開発で培われた高度なデジタル信号処理技術を生かし、1987年にはアナログ回線用モデムLSIを発売し、通信機器業界に参入した。ちなみにこのLSIは、当初、日本ではほとんど売れなかったが、米国では月に20万個も売れるヒットになり、通信用デバイスのヤマハという言い文句が定着した。その後、機能性の高いルータの名機(RT100i、RTA50i、RTX1000など)を数多く世に送り出し、国内では、中規模ネットワーク向けのルータ販売数で、高いシェアを誇る。現在発売中のRTX1100という機種は、名機RTX1000の後継にあたり、『業務用ルーターならとりあえずRTX1000かRTX1100で大丈夫』といわれるぐらい、定番機種と化している。
    • RTシリーズ
    • SRTシリーズ
    • RTXシリーズ
    • RTVシリーズ
    • NetVolanteシリーズ
  • 会議システム
    同メーカーの持つ音声技術とネットワーク技術を組み合わせることによって、高品質な音声による会議システムを提供することを目玉とした製品群。2006年3月に音声会議システムのPJP-100HとPJP-100UHをリリース、世界初のアレイマイク/スピーカ一体型、高性能なエコーキャンセラーの搭載などを特徴としている。また、同年10月にはIPテレビ会議システムであるPJP-300Vなどをリリースしている。
    • PJPシリーズ

[編集] 半導体

携帯電話用のSMAFフォーマット対応サウンド制御用LSI(ヤマハMAシリーズ。主に一部のauKDDI/沖縄セルラー電話)およびSoftBank向け端末。ドコモ向け端末はNEC製の一部機種に限られる)AudioEngineシリーズを開発している。また1998年にパソコンのPCIバス用PCM音源チップ、YMF724を開発・発売し、これには半ハードウェアXG対応MIDI音源が搭載されていた上に安価であったため、自作パソコンマニアを中心に爆発的に普及した。現在PC用としてはAC97コーデックを製造している。

  • モバイルオーディオ
  • サウンドジェネレーターLSI(FM音源PSGなど)
  • 画像LSI
  • 通信LSI
  • オーディオシステムLSI

[編集] コンテンツ配信

[編集] ヤマハが提唱した規格

[編集] 主な使用ミュージシャン

[編集] かつて使用していたミュージシャン

[編集] リゾート事業

リゾート事業はヤマハリゾート社が行っていたが、2002年以降は各リゾート施設が個別の法人となっている。

「鳥羽国際ホテル」、「合歓の郷」、「キロロ」、「はいむるぶし」の4施設は、2007年10月1日に三井不動産子会社の三井不動産リゾート株式会社に譲渡された。

[編集] 音楽教室

  • 日本全国に11社ある100%子会社のヤマハミュージック各社が音楽教室を運営する他、約1,400店ある特約店が運営する音楽教室がある。2004年時点での生徒数は50万人。ヤマハミュージック各社は全国で楽器店を展開している。
  • 中国、韓国で直営による音楽教室を開設している。

[編集] コンサートホール

[編集] 音楽出版事業

[編集] リビング事業

[編集] 自動車用内装部品

[編集] スポーツ用品

  • アーチェリー用具の開発から始まり、FRP成形技術を活かしてスキー板テニスラケットを製造していた。1997年にはスキー板、テニスラケットから撤退。現在はゴルフクラブのみとなっている。

[編集] 発車メロディー

  • 1989年3月に従来の発車ベルに代わるものとしてヤマハ製の発車メロディー渋谷駅新宿駅それぞれで導入された。また、1990年水戸駅JR東日本で4番目に、ヤマハ製の発車メロディが採用された。さらに同年に、JR西日本北陸本線金沢駅でも採用された。音色は、渋谷駅と新宿駅では、ピアノハープなどが毎日のように流れていた。なお、現在使われている水戸駅(8番線を除く)と金沢駅ではの音色が流れている。その後放送機器の老朽化を理由に順次テイチク製への置き換えが行われ、今では水戸駅(8番線を除く)と金沢駅くらいでしか聞けない。それでも鉄道ファンの間では長年親しまれてきただけに未だ人気は高い。

[編集] 関連会社・法人

[編集] 主な工場

  • 本社工場(静岡県浜松市他)(グランドピアノの製造他)
  • 天竜工場(静岡県浜松市)(楽器類・防音室・自動車用内装部品の製造)
  • 掛川工場(静岡県掛川市)(グランドピアノ、アップライトピアノの製造)
  • 豊岡工場(静岡県磐田市)(電子楽器・管楽器・音響機器の製造及び研究開発)
  • 磐田工場(静岡県磐田市)(ピアノフレームの製造)
  • 埼玉工場(埼玉県ふじみ野市)(管楽器の製造)

[編集] 脚注

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  1. ^ 出典:日経リサーチが実施した2006年企業ブランド調査、2006年6月29日、日経産業新聞
  2. ^ カザリ職人。技術のみならず、金銭的にも寅楠を援助をした。河合楽器製作所創業者一族とは無関係。
  3. ^ 寅楠の姉の婿。
  4. ^ 西川オルガンの創設者の西川寅吉は1884年頃に風琴の試作に成功したとされ、これが事実であれば寅楠より先に製造していたことになる。現在のヤマハによる沿革紹介でも自らが「日本初」であったとは明記していない。
  5. ^ 参考文献:大庭伸介著『浜松・日本楽器争議の研究』、五月社、1980年
  6. ^ 直訳では「快楽主義(者)」となるが趣旨としては余暇を楽しむ思想をもとうという意味であろう。
  7. ^ 出典:1992年5月14日 日本経済新聞
  8. ^ 例えばチェッカーズのデビューは1983年9月である。
  9. ^ 出典:1992年5月13日付け日本経済新聞
  10. ^ 出典:1992年1月16日、日本経済新聞
  11. ^ 出典:1992年2月25日、日経産業新聞
  12. ^ セガ・サターンや通信カラオケDAM
  13. ^ 1995年6月11日、日本経済新聞

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ