エクトル・ラウル・クーペル
|
||||||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 名前 | ||||||
| ラテン文字 | Héctor Raul Cúper | |||||
| 基本情報 | ||||||
| 国籍 | ||||||
| 生年月日 | 1955年11月16日(57歳) | |||||
| 出身地 | サンタフェ州, チャバス | |||||
| 身長 | 182cm | |||||
| 体重 | 74kg | |||||
| 選手情報 | ||||||
| ポジション | DF | |||||
| クラブ1 | ||||||
| 年 | クラブ | 出場 (得点) | ||||
| 1976-1977 1977-1978 1978-1988 1988-1992 |
5 (0) 6 (2) 424 (24) 132 (8) |
|||||
| 代表歴 | ||||||
| 1984-1986 | 5 (0) | |||||
| 1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
||||||
エクトル・ラウル・クーペル(Héctor Raul Cúper、1955年11月16日 - )は、アルゼンチン・サンタフェ州出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。現役時代のポジションはDF(センターバック)。アルゼンチン代表であった。
目次 |
経歴 [編集]
選手時代 [編集]
アルゼンチン・リーグのフェロ・カリル・オエステ、インデペンディエンテ・リバダビアそしてCAウラカンの3つのチームでプレーし、アルゼンチン代表としても5試合に出場した。
指導者時代 [編集]
アルゼンチン時代 [編集]
現役引退から1年半後、CAウラカンの監督に就任して指導者としての経歴をスタートさせ、CAウラカンを3年率いた。1995年にはCAラヌース監督に就任し、1996年にはコパCONMEBOL優勝を果たした。
スペインでの成功 [編集]
1997年に海を渡り、スペイン・リーガ・エスパニョーラのRCDマヨルカ監督に就任した。就任初年度の1997-98シーズンにはプリメーラ・ディビシオン(1部)に昇格したばかりのRCDマヨルカをリーグ5位に押し上げ、コパ・デル・レイでは決勝に導いた(FCバルセロナに敗れて準優勝に終わった)。1998年夏に行われたスーペルコパ・デ・エスパーニャではFCバルセロナに雪辱を遂げて優勝した。1998-99シーズンにはUEFAカップウィナーズカップに出場し、準決勝ではスコットランドのハート・オブ・ミドロシアンFCを破って決勝に進出したが、決勝でイタリアのSSラツィオに敗れた。同シーズンのリーグ戦ではリーグ最小失点の堅い守備の下、FCバルセロナとレアル・マドリードに次ぐクラブ史上最高の3位に躍進し、翌シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。
1999年夏にはバレンシアCF監督に就任し、堅守を基調としてサイドからのダイナミックなカウンターアタックを武器に、1999-2000シーズンと2000-01シーズンの2シーズン連続でUEFAチャンピオンズリーグの決勝に進出した。しかし、初年度は同じスペインのレアル・マドリードに、2年目はドイツのバイエルン・ミュンヘンに敗れ、RCDマヨルカ時代から続く決勝の壁を跳ね返せなかった。
インテル [編集]
2001年には低迷していたイタリア・セリエAのインテル監督に就任し、2001-02シーズンのリーグ戦は3位、2002-03シーズンのリーグ戦は2位とまずまずの成績を残した。2002-03シーズンのUEFAチャンピオンズリーグでは準決勝に進出したが、ライバルのACミランにアウェーゴール差で敗れてベスト4に終わった。2003-04シーズンは6節終了時に8位と期待を裏切り、成績不振により解任された。
スペイン再挑戦 [編集]
契約に関してインテルと揉め、解任から1年間はどのクラブも率いなかったが、2004-05シーズン途中に再びRCDマヨルカ監督に就任した。シーズン開幕から10試合を終え、RCDマヨルカは既に降格圏内に位置していたが、一時は残留を絶望視されていたチームを建て直し、終盤は大久保嘉人らの活躍で快進撃を続け、劇的な残留に成功した。2004-05シーズンはプリメーラ・ディビシオン残留を決め、2005年夏には多くの新加入選手を迎えたが、2005-06シーズンは再び残留争いに巻き込まれ、2006年2月に成績不振の責任を取ってRCDマヨルカ監督を辞任した。2007年夏にはレアル・ベティスの監督に就任したが、12月2日のアトレティコ・マドリード戦敗戦後に成績不振により解任された。
パルマFCとグルジア代表での迷走 [編集]
2008年3月11日、 ドメニコ・ディ・カルロ監督の後任として残留を目指すセリエAのパルマFC監督に就任したが、2ヶ月間で10試合を戦って2勝しかできず、古巣インテルとの最終節を前にして解任された。結局、パルマFCはセリエB(2部)に降格した。2008年8月1日にはグルジア代表監督に就任したが、在任期間中に1勝も挙げることができず、2009年末の契約満了とともに退任した。
ギリシャでの復活 [編集]
2009年11月3日、ギリシャ・スーパーリーグのアリス・テッサロニキFCと1年契約を結んだ。同年12月15日には契約を2011年6月まで延長した。リーグ戦では5位となり、欧州カップ戦出場権を懸けたプレーオフではオリンピアコスFCを上回る3位となって、クラブ史上初のUEFAヨーロッパリーグ出場権を獲得した。同シーズンのギリシャ・カップでは決勝に進出したが、パナシナイコスFCに敗れて準優勝に終わった。2010-11シーズンのUEFAヨーロッパリーグ・グループリーグでは前年度覇者のアトレティコ・マドリードから2勝するなどし、6試合で勝ち点10を挙げて決勝トーナメントに進出した。しかし、同シーズンのリーグ戦では中位にとどまり、2011年1月に責任を取って辞任した[1]。
3度目のスペイン挑戦 [編集]
2011年6月29日、マルセリーノ・ガルシア・トラル監督の後任としてラシン・サンタンデールと1年契約を結んだ[2]。しかし2011-12シーズンは開幕から13試合でわずか1勝しか挙げられずに最下位に低迷し、成績不振により11月29日に辞任した[3]。
トルコへ [編集]
2011年12月9日にトルコ・シュペルリガのオルドゥスポル監督に就任。
八百長問題 [編集]
2012年1月20日、イタリア検察の取り調べに対し、アルゼンチンとスペインでの監督時に、それぞれ2試合ずつの八百長に関連し、20万ユーロの報酬を受けていたと認めていたことが、明らかになった。詳しい時期やクラブの名前は明らかになっていない[4]。
タイトル [編集]
指導者 [編集]
- コパCONMEBOL 優勝 : 1996
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ 優勝 : 1998
- UEFAカップウィナーズカップ 準優勝 : 1998–1999
- コパ・デル・レイ 準優勝 : 1997–1998
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ 優勝 : 1999
- UEFAチャンピオンズリーグ 準優勝 : 1999–2000, 2000–2001
- セリエA 2位 : 2002–2003
- ギリシャ・カップ 準優勝 : 2009–2010
所属クラブ [編集]
フェロ・カリル・オエステ 1976-1977
インデペンディエンテ・リバダビア 1977
フェロ・カリル・オエステ 1978-1988
CAウラカン 1988-1992
指導歴 [編集]
CAウラカン 1992-1995
CAラヌース 1995-1997
RCDマヨルカ 1997-1999
バレンシアCF 1999-2001
インテル 2001-2004
RCDマヨルカ 2004-2006
レアル・ベティス 2007
パルマFC 2008
グルジア代表 2008-2009
アリス・テッサロニキFC 2009-2011.1
ラシン・サンタンデール 2011.6-11
オルドゥスポル 2011.12-2013
脚注 [編集]
- ^ 不振のアリス、クーペル監督が辞任 UEFA.com、2011年1月18日
- ^ クーペル氏がラシンの監督に就任 UEFA.com、2011年6月29日
- ^ ラシンのクーペル監督が辞任 UEFA.com、2011年11月29日
- ^ クーペル監督がアルゼンチン、スペインでの八百長関与を認める SOCCER KING、2012年1月21日
外部リンク [編集]
- 人物紹介 ラシン・サンタンデール公式ウェブサイト (スペイン語)
- BDFutboによるプロフィール
- Transfermarktによるプロフィール
- Worldfootballによるプロフィール
- RCDマヨルカでの出場記録 (スペイン語)
- 選手時代の出場記録 BDFA (スペイン語)
|
|||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||