ジュニーニョ・ペルナンブカーノ

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ジュニーニョ・ペルナンブカーノ Football pictogram.svg
Juninho wikipedia.jpg
名前
本名 アントニオ・アウグスト・リベイロ・レイス・ジュニオール
Antônio Augusto Ribeiro Reis Junior
愛称 フリーキックの魔術師
ラテン文字 JUNINHO PERNAMBUCANO
ポルトガル語
基本情報
国籍 ブラジルの旗 ブラジル
生年月日 1975年1月30日(37歳)
出身地 ペルナンブコ州レシフェ
身長 178cm
体重 71kg
選手情報
在籍チーム ブラジルの旗 CRヴァスコ・ダ・ガマ
ポジション MF
背番号 8
利き足 右足
代表歴
1999-2006 ブラジルの旗 ブラジル 40 (6)
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ジュニーニョ・ペルナンブカーノAntônio Augusto Ribeiro Reis Junior "Juninho Pernambucano", 1975年1月30日 - )は、ブラジルレシフェ出身のプロサッカー選手。ポジションはMFCRヴァスコ・ダ・ガマ所属。

目次

[編集] 経歴

ブラジル代表にも選出されているが、出場機会は少ない。同じ時代にカカロナウジーニョという稀代の選手がいなければ間違いなくブラジル代表の中心選手となっていただろうと謳われる選手である。裏を返せば、ジュニーニョが控えに回る程にセレソンの選手層は厚いということでもある。

レシフェの裕福な家庭(4人兄弟の末っ子)に生まれたジュニーニョは、少年時代からフットサルに夢中であった。自身が11歳の時に設立し、初代会長を務めたアルバトロスというフットサルチームが州大会で優勝、ジュニーニョも大活躍したことによって数々のオファーが舞い込むこととなり、ジュニーニョは地元の有力クラブ、スポルト・レシフェに入団する。

1993年、18歳でトップチームにデビュー。1995年に強豪CRヴァスコ・ダ・ガマに引き抜かれた。ちなみに、両親からは勉強を最優先するように教育されていたため、ヴァスコ・ダ・ガマからオファーが届くまで、昼間はサッカーの練習、夜間は高校に通うという生活だった。ここでは1998年コパ・リベルタドーレス優勝に貢献。トヨタカップでも来日した。1999年3月28日に、対韓国戦で満を持して代表デビュー。これを機に欧州クラブでの知名度も上がり、ついに2001年リヨンが獲得にこぎつける。

ジュニーニョが加入した2001-02シーズン、リヨンはクラブ史上初となるリーグ優勝を果たし、ここから破竹の7連覇を果たす。高い戦術理解度と、『魔法』や『枯れ葉』とも称されるフリーキックを初めとするテクニックを武器に、リヨンの中盤の要としてクラブ内で絶対的な地位を築いた。2006-07シーズン終了後、それまでチームの主将を務めていたクラウディオ・カサッパがイングランドのニューカッスルに移籍したため、翌シーズンからは正キャプテンとして、チームの精神的支柱としての役割も果たした。

ドイツW杯ブラジル代表に選出され、グループリーグの対日本戦ではフル出場し、強烈な無回転のミドルシュートを決める。これがブラジルサッカーのレベルの高さの分かりやすい一例としてメディアもこのプレイの映像を多用したため、日本での知名度が上がった。同大会終了後、代表引退を表明しているがドゥンガ監督は「引退は選手が決めるものでは無い、監督が決めるものだ」と代表選出を匂わせる発言をした。

フリーキックの名手と謳われるが、2007-08シーズンでは極度の不振に陥った。同シーズン途中の指の骨折の影響だろうと言われていた。だがクープ・ドゥ・フランススダン戦において、ゴールから38メートル離れた位置からのフリーキックを無回転でゴールに叩き込んだ。約1年ぶりのフリーキックでのゴールであった。2009年5月25日、SMカーン戦でリヨン通算100得点目をPKで決めた[1]。2009年5月、シーズン限りでのリヨン退団を発表した。1年の契約を残しての契約解除だったが、これまで果たした貢献が認められた形となった。

2009年6月、カタールアル・ガラファと2年契約を結んだ。

[編集] 愛称

ペルナンブカーノ」とは、「ペルナンブコPernambuco州の人」という意味である。ペルナンブコは生地レシフェを州都とするブラジル北東部の州の一つであり、CRヴァスコ・ダ・ガマ時代の同僚で同呼称のジュニーニョ・パウリスタ(サンパウロ州の人の意)と区別するためこの呼称が定着した。

[編集] フリーキック

世界屈指のFKの名手と謳われる。ほとんどボールを回転させない無回転フリーキックの他にも、横回転や、さらには純縦回転をかけてFKを蹴る場面も多い。その練習方法は素人が真似をすると怪我をすると本人が言っている。ロベルト・カルロスの異名「悪魔の左足」に擬えて「魔法の右足」と呼ばれることもある。同じくフリーキックの名手として知られるアンドレア・ピルロが彼のフリーキックの蹴り方を見習ったことでも知られる。 魔法の右足の印象と反するが、手は左利きである。

特に2004-2005シーズンUEFAチャンピオンズリーグ・ノックアウトステージ1回戦のSVヴェルダー・ブレーメン戦や2005-2006シーズンUEFAチャンピオンズリーグ・ノックアウトステージ1回戦の対PSV戦で見せたFKは正に魔法だと言われている。どちらも無回転で前者の場合は揺れが本当に激しく、後者の場合は急激な落下にブラジル代表GKエウレリョ・ゴメスが追いつけず体で当てようとしても入ってしまった。

2006 FIFAワールドカップの日本戦では無回転ボールのミドルシュートを決めた。この時日本のGKだった川口能活は「一瞬、ボールが消えた。自分の今の技術では止めることが出来ない」と語った。

2008-2009シーズンUEFAチャンピオンズリーグ決勝トーナメント一回戦のFCバルセロナ相手の1stlegのオリンピック・リヨンホームの試合では、試合開始直後の左サイドからのフリーキックを強烈なドライブ回転をかけ、ゴールの右サイドネットに沈めた。その試合を観戦していた者を驚かせる、凄まじいフリーキックであった。試合後、ゴールキーパーのビクトール・バルデスは目測を誤ったのでは、という質問に対し、バルセロナの監督ジョゼップ・グアルディオラは「たとえゴールラインにキーパーが7人いたとしてもゴールしていただろう」とジュニーニョのフリーキックを賞賛した。

[編集] 所属クラブ

[編集] 脚注

  1. ^ livedoorスポーツ (2009年5月25日). “ジュニーニョ、リヨン通算100ゴール 「やめないでくれ」サポーター乱入”. 2009年7月14日閲覧。
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