柳下正明
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| 柳下正明 | ||
|---|---|---|
| 名前 | ||
| 愛称 | ヤンツー | |
| カタカナ | ヤナギシタ マサアキ | |
| ラテン文字 | YANAGISHITA Masaaki | |
| 基本情報 | ||
| 国籍 | ||
| 生年月日 | 1960年1月1日(49歳) | |
| 出身地 | 静岡県浜松市 | |
| 身長 | 176cm | |
| 体重 | 70kg | |
| 血液型 | O型 | |
| 選手情報 | ||
| ポジション | DF | |
| クラブチーム1 | ||
| 年 | クラブ | App (G) |
| 1982-1992 | ヤマハ発動機 | |
| 代表歴 | ||
| 1974-1980 | 42 (0) | |
| 監督歴 | ||
| 2003 2004-2006 2009-現 在 |
ジュビロ磐田 コンサドーレ札幌 ジュビロ磐田 |
|
| 1. 国内リーグ戦に限る。現在。 ■Template(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
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柳下 正明(やなぎした まさあき、1960年1月1日 - )は、静岡県浜松市出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。
2009年から自身2度目となるジュビロ磐田監督を務める。
目次 |
[編集] 来歴
静岡県立浜名高等学校を経て東京農業大学卒業。東農大時代には地元開催であった1979年の第二回FIFAワールドユースに日本代表として三試合に出場した。ヤマハ発動機株式会社サッカー部(後のジュビロ磐田)でDFとして活躍した。本人は現役時代の自分を「もともとは激しいプレーヤー。だんだん経験を積み、また体もそんなに大きくなかったので、徐々にポジショニングや予測を生かしてボールを奪うという守備をするようになった」と回想している(2006年のスポーツナビでのインタビュー)。なお、中山雅史は現役最末期の柳下とプレーした経験がある。
引退後は若手育成部門や、ハンス・オフト政権時代のトップチームコーチとしてジュビロ磐田のコーチを歴任、2000年9月に鈴木政一ヘッドコーチの監督昇格に伴いヘッドコーチに就任。鈴木監督を支え、2001年1stステージ、2002年1stステージ、2ndステージ(2002年は初の両ステージ)優勝を成し得た。
2003年1月に鈴木政一監督の勇退に伴い、監督に昇格。戦力低下がささやかれる中若手の登用を行い、優勝争いに絡んだものの、この年の成績は1stステージが2位、2ndステージが3位であった。年末から元旦にかけて行なわれる天皇杯直前に、フロントとの強化方針の違いなどを示唆するコメントを残して天皇杯限りで退任を宣言。選手たちの慰留も振り切り、元旦の決勝戦で優勝という結果を残してヤマハ時代から在籍した磐田を去った。
若手選手育成の手腕を買われ、2004年からは、財政難により自前の若手選手育成によるチーム力強化を掲げたJ2コンサドーレ札幌の監督に就任。この年は最下位に終わったが、天皇杯ではベスト8に進出した。翌2005年はシーズン最終盤まで三位争いに絡むなど、着実にチームを進化させている。そのため当初の契約期間は2004年2月1日から2006年1月31日迄の2年契約であったが、2007年1月31日まで延長された。しかし2006年シーズンも最終的には昇格争いから脱落、11月22日コンサドーレ札幌は本人の申し出で契約を延長しないと発表、2006年度シーズン限りでの退団が決まった。その年の天皇杯では千葉や新潟、甲府というJ1勢を次々破り、クラブ史上初のベスト4まで進出した。
2007年はスカパーのサッカー解説者や静岡産業大学サッカー部のコーチとして活動していたが、同年9月に磐田にコーチとして復帰。2008年からはトップチームコーチとサテライトチームの監督を兼任し、内山篤監督が途中解任された際には、オフト新監督がチームを把握するまでのつなぎとして、1試合のみ実質の監督代行として指揮を執った(オフトはベンチ入り自体はしたため、正式に代行職を務めたわけではない)。
2009年より、退任したオフトの後任として、2度目となる磐田監督に就任。
[編集] 監督としての特徴
目指すサッカーは「アクションサッカー」、すなわち磐田がオフト時代から目指してきた組織的かつ攻撃的なスタイルである。前線から積極的にプレッシングを仕掛け、スペースを見つけて相手より早く動き出すことを目指す。若手の育成も得意で、戦術を叩き込むことや手直しをして機能させることにも優れている。
札幌でも就任以降それまでのサッカーのカラーを一新してみせるなど、そのチーム作りの手腕は評価されているが、選手起用や交代策がいささか硬直的であること、相手に合わせた柔軟な戦術の変更をめったにしない(札幌時代は同じ相手に同じように負けることから対戦相手に対するスカウティング不足を指摘する声もあった)ことなど、磐田時代から「戦略家としては今ひとつ物足りない」との指摘もある。
[編集] 逸話
- 「ヤンツー」というあだ名は小学生時代からのもので、友人達の間で何にでも「ツー」とつけることが流行った際についた。柳下もよく分からないうちに、同僚からも指導した選手達からもこの呼び名が定着してしまった。
- 2004年に札幌は翌2005シーズンチケット先行販売の申込者に対し柳下自筆の「アクションサッカー」が染め抜かれた日本手ぬぐいをプレゼント、サポーターの間で話題になった。
- 自らが監督を務めたチームが天皇杯において強さを発揮する(磐田の天皇杯21年ぶり2度目の優勝ならびにJ2札幌の天皇杯ベスト4など)。
[編集] 所属クラブ
- 静岡県立浜名高等学校
- 東京農業大学
- 1983年 - 1992年 ヤマハ発動機
[編集] 個人成績
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| 日本 | リーグ戦 | JSL杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 1983 | ヤマハ | JSL1部 | |||||||||
| 1984 | ヤマハ | JSL1部 | |||||||||
| 1985 | ヤマハ | 7 | JSL1部 | ||||||||
| 1986-87 | ヤマハ | 7 | JSL1部 | ||||||||
| 1987-88 | ヤマハ | 7 | JSL1部 | ||||||||
| 1988-89 | ヤマハ | 7 | JSL1部 | ||||||||
| 1989-90 | ヤマハ | 7 | JSL1部 | ||||||||
| 1990-91 | ヤマハ | 7 | JSL1部 | ||||||||
| 1991-92 | ヤマハ | 7 | JSL1部 | ||||||||
| 通算 | 日本 | JSL1部 | |||||||||
| 総通算 | |||||||||||
[編集] 監督経歴
- 1993年:サテライトコーチ
- 1994年:コーチ
- 1995年:サテライト監督
- 1996年:コーチ
- 1997年 - 1998年:ユース監督
- 1999年 - 2000年:コーチ兼サテライト監督
- 2001年 - 2002年:コーチ
- 2003年:監督
[編集] 監督成績
| 年度 | 所属 | クラブ | リーグ戦 | カップ戦 | ||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 順位 | 試合 | 勝点 | 勝利 | 引分 | 敗戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | |||
| 2003 | J1 | 磐田 | 2位 | 30 | 57 | 16 | 9 | 5 | ベスト4 | 優勝 |
| 2004 | J2 | 札幌 | 12位 | 44 | 30 | 5 | 15 | 24 | - | ベスト8 |
| 2005 | J2 | 札幌 | 6位 | 44 | 63 | 17 | 12 | 15 | - | 3回戦敗退 |
| 2006 | J2 | 札幌 | 6位 | 48 | 72 | 20 | 12 | 16 | - | ベスト4 |
| 2009 | J1 | 磐田 | 予選リーグ敗退 | |||||||
| J1通算 | - | 30 | - | 16 | 9 | 5 | ||||
| J2通算 | - | 136 | - | 42 | 39 | 55 | ||||
[編集] 関連項目
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