フォークランド紛争

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フォークランド(マルビーナス)紛争

6月2日のアルゼンチン軍機の攻撃を受け炎上するイギリス海軍のフリゲート「プリマス」
戦争フォークランド紛争(マルビーナス戦争)
年月日1982年3月19日から1982年6月14日
場所:フォークランド(マルビーナス)諸島
結果:イギリスの勝利
交戦勢力
アルゼンチン イギリス
指揮官
レオポルド・ガルティエリ大統領
エルネスト・オラシオ・クレスポ准将
マリオ・メネンデス准将
マーガレット・サッチャー首相
海軍大将ジョン・フィールドハウス卿
サンディー・ウッドワード海軍少将
ジェレミー・ムーア少将
戦力
陸軍 10,001
海軍 3,119
空軍 1,069
艦艇 38隻
航空機 216機
陸軍 10,700
海軍 13,000
空軍 6,000
艦艇 111隻
航空機 117機
損害
死者 645
負傷者 1048
捕虜 11313
喪失 軽巡洋艦1隻
潜水艦1隻
哨戒艇2隻
死者 256
負傷者 777
捕虜 115
喪失 駆逐艦2隻
フリゲート2隻
揚陸艦1隻
コンテナ船1隻

フォークランド紛争(フォークランドふんそう、西:Guerra de las Malvinas、:Falklands Conflict/Crisis)とは、イギリス領フォークランド諸島(スペイン語名/アルゼンチン名: マルビーナス諸島)の領有を巡り、イギリスアルゼンチン間で3ヶ月にわたって行われた紛争である。スペイン語ではマルビーナス戦争と表記されることが多い。

日本語では「フォークランド紛争」と表記されることが多いが、世界的には「紛争」よりも「戦争」に該当する呼び名が用いられることが多い。ただし、イギリス陸軍のウェブサイトでは「Falklands Conflict」の語を用いている[1]。他にも、スペイン語圏では「南大西洋戦争」とも呼ばれる。本項目では、日本語で一般的な紛争として表記する。

目次

[編集] 諸島の概要

[編集] 位置

フォークランド諸島の位置 南米大陸南端から500km沖に位置する
フォークランド諸島は、東西の主要2島と多数の小島からなる

フォークランド諸島は南アメリカ大陸のほぼ南端、アルゼンチン本土から約500km沖合の大西洋に位置している。東フォークランド島西フォークランド島に、200余りの小島で構成された面積12,000平方キロ程度の諸島である。

[編集] 歴史

元々マルビーナス諸島は、アルゼンチンの元宗主国であるスペインフェルナン・デ・マガリャンイスの船団が1520年に発見していたが、1592年にイギリス人のジョン・デーヴィスが最初に発見したという説もあり、イギリスはこの出来事を根拠として領有の正当性を主張している。

1600年以降、スペインイギリスフランスなどのヨーロッパの列強諸国が、捕鯨基地などとして使用するために相次いで入植・撤退を繰り返すなどしていたが、フランスを経て最終的にスペインへの帰属が決定した。その後1816年に最寄に位置するアルゼンチンがスペインより独立したのを契機に領有を宣言した。当然主権はスペインから引き継いだものとみなされ、1820年ラ・プラタ連合州が占領し、1825年には知事が送り込まれ、囚人や政治犯の流刑地となった。

しかし「独裁王」フアン・マヌエル・デ・ロサス統領の時代に入ると、1829年にアルゼンチン政府に海域の通行料を払わなかったアメリカの捕鯨船三隻が拿捕されたのをきっかけに、ブエノスアイレスのアメリカ領事は「島の主権がイギリスにある」と訴えて、アンドリュー・ジャクソン大統領が派遣したアメリカ海兵隊が上陸し諸島の中立を宣言した。続いて1833年にはアメリカの領有を恐れたイギリスが再占領し、以降領有権をめぐって対立した。ロサスは島の奪還を求めていたが、かねてからウルグアイで起きていた大戦争のため島を奪還することが出来なかった。

カセーロスの戦いによるロサス追放後の自由主義者の政権はイギリスを崇拝し、市場としていたため領有権を持ち出すようなことをしないまま150年近い時間が経ち、紛争に至った。なお、アルゼンチンは領有の根拠として、トルデシリャス条約でのスペインの権益を独立後受け継いだと主張しているが、これは少なくともイギリス側よりは領有の正当性が高いものである。

[編集] 背景

一見これといった価値がないこの南大西洋の島で、なぜこのような紛争が起きてしまったのか。既に1930年代のアルゼンチンにおけるロサス再評価と共にマルビーナス奪還はアルゼンチン国粋主義者の悲願となっていたが、歴史が動き出したのは1981年に、双方で政権が交代したことに端を発する。

[編集] アルゼンチン情勢

アルゼンチンは最初直接交渉で、第二次世界大戦後は国連を通じた交渉で穏健策をとり、1960年代以降にはイギリスの維持能力を超えていたこの諸島に様々な行政、医療サービスを行いながら、イギリスに対してフォークランド諸島の返還を求め続けていた。これに対してイギリスも条件付ながら返還を認めるとしてきたが、1982年からアルゼンチンはあくまで無条件返還を求めたため交渉は平行線を辿り難航していた[2]

レオポルド・ガルチェリ大統領(左)

アルゼンチンは1950年代までは畜産物と穀物輸出から得られる外貨と、その外貨を国民に分配した左翼民族主義者フアン・ペロン大統領のポプリスモ政策によって先進国並みの生活水準を誇っていたものの、ペロンが保守派と結託した軍のクーデターで追放されると、ペロン元大統領派(ペロニスタ)や、その流れを汲む都市ゲリラモントネーロスペロニスタ武装軍団など)と軍部による20年以上にも及ぶ政治の混乱が天文学的なインフレと失業を招き、国民生活を深刻な状況に陥れていた。

1976年イサベル・ペロンを追放して誕生したホルヘ・ラファエル・ビデラ将軍の軍事政権は、それまでよりも弾圧の姿勢を強めてCIAの指導やパナマ米州学校 (SoA)での教育を背景にしてペロニスタや左翼を徹底的に弾圧し、この「汚い戦争」で8,000人から30,000人が「行方不明」(実際は治安部隊に暗殺されたが、事件そのものが「存在しないこと」とされ、統計上行方不明になった)になったといわれる[3]。このようにして行方不明になった人間には当然テロやゲリラや左翼と無関係の市民も大勢いた。そして経済状況が一向に改善しないにもかかわらず、こういった政争に明け暮れる政権に対して民衆の不満はいよいよ頂点に達しようとしていた。

軍事政権は、当初よりしばしばフォークランド諸島に対する軍事行動をちらつかせてはいたものの、実際に行動を起こすまでには至らなかった。だが、かかる状況下で軍事政権を引き継いだレオポルド・ガルチェリ大統領(現役工兵中将でもあった)は、民衆の不満をそらすために必然的ともいえる選択肢を選んだ。既にアルゼンチンの活動家が上陸して主権を宣言するなどの事件も起きており、フォークランド諸島問題を煽ることで、国内の反体制的な不満の矛先を逸らせようとしたのである。

[編集] イギリス情勢

第二次世界大戦においてイギリスは国力を消耗し、長引く不況や硬直した政治、社会制度による深刻な財政難に悩まされていた。殆どの植民地海外領土を手放さざるを得なかったこともあり、「陽の落ちることが無い」とまで言われたかつての大英帝国はこの頃には跡形も無く、イギリス本国は英国病から抜け出せずにイギリス連邦がその役割を引き継いでいた。

大戦後に手放さずに済んだ海外領土の一つであるフォークランド諸島はイギリス本国への羊毛の輸出でどうにか成り立っており、フォークランド諸島民は二等市民として扱われて本国からあまり面倒を見られずに、アルゼンチンからの医療などにおける様々な援助のおかげでどうにか維持されていたような状態だった。このように島自体の経済的価値は相対的に低かったものの、戦略的にフォークランド諸島は南大西洋における拠点として非常に重要な位置を占めていた。パナマ運河閉鎖に備えてホーン岬周りの航路を維持するのに補給基地として必要であった上、南極における資源開発の可能性が指摘され始めてから前哨基地としても価値がにわかに高まっていた。

保守党エドワード・ヒースが政権を握っていた頃、1961年にフォークランド諸島と南米各国との空路と海路を開く通信交通協定の締結に成功したが、それ以上の実質的な進展はアルゼンチン側が主権問題を取り上げて拒んだ[4]。当時の国務大臣であるニック・ヒドリーによって提案された「引き続いてイギリスが統治するものの主権はアルゼンチンに移譲する」というリースバック案があったものの、フォークランド諸島の住民の意向に沿ったものではなかったため下院で不採用が決議された。

こういった経緯を含め、国際連合憲章第1条第2項に則った人民の自決の原則を理由に、1979年にイギリス首相へ就任したマーガレット・サッチャーはあくまでフォークランド諸島住民の帰属選択を絶対条件にしていた[5]

[編集] 経過

[編集] 両国の衝突

その後1982年に、民衆の不満をそらすためにガルチェリ政権が問題をクローズアップさせたことで、アルゼンチンではフォークランド諸島問題が過熱ぎみになり、民衆の間では政府がやらないなら義勇軍を組織してフォークランド諸島を奪還しようという動きにまで発展した。

マーガレット・サッチャー首相とロナルド・レーガン大統領(1984年)

この様な動きに対して、アルゼンチン政府は形だけの沈静化へのコメントを出すものの、3月には海軍艦艇がフォークランド諸島の南東約1300kmにある同じくイギリス領となっていたサウス・ジョージア島に2度にわたって寄航し、イギリスに無断で民間人を上陸させるなどして武力行使への動きを見せ始めた。イギリスのサッチャー首相はこれを強制退去させ、3月28日にはアメリカ国務長官であるアレクサンダー・ヘイグに圧力をかけるよう依頼し、フォークランド諸島へ原子力潜水艦の派遣を決定した。

3月31日、アルゼンチンのガルチェリ大統領が正規軍を動かし始めたとの報せを受けて、4月1日にイギリスのサッチャー首相はアメリカのロナルド・レーガン大統領に事態収拾への仲介を要請し、閣議を招集して機動部隊の編成が命じられた。しかし、翌2日にはアルゼンチンの陸軍4000名がフォークランド諸島に上陸、同島を制圧したことで武力紛争化した。

これに対し、サッチャー首相は直ちにアルゼンチンとの国交断絶を通告した。4月2日に下院で機動部隊派遣の承諾を受け、5日には早くも航空母艦2隻を中核とする第一陣が出撃した。到着までの間、アメリカの仲介による事態の打開が模索されていたが、サッチャーの「我々は武力解決の道を選択する」との決断で25日にはフォークランド諸島に続いて占領されていたサウス・ジョージア島に逆上陸、同島におけるアルゼンチン陸軍の軍備が手薄だったこともあり即日奪還した。

その後アルゼンチン軍は、巧みな航空攻撃により幾度となくイギリス海軍の艦船を撃沈するなど、地の利を生かして当初は有利に戦いを進めたものの、イギリス軍は地力に勝る陸軍、空軍力と、アメリカやEC及びNATO諸国の支援を受けた情報力をもってアルゼンチンの戦力を徐々に削っていき、6月7日にはフォークランド諸島に地上部隊を上陸させた。同諸島最大の都市である東フォークランド島のポート・スタンレー(プエルト・アルヘンティーノ)を包囲し、14日にはアルゼンチン軍が正式に降伏。戦闘は終結した。

[編集] 「青作戦」

青作戦の経過
降伏するイギリス軍兵士
勝利報告をするガルチエリ大統領

移動期間を含め3月30日から4月3日にかけて行われたアルゼンチン軍のフォークランド島上陸作戦は、同国の国旗の色をとって「青作戦」(Azul)と呼ばれた。上陸活動は大きく2つに分けられる。ゴムボートに分乗した少数のコマンド部隊による深夜の隠密上陸と、4月2日早朝に実行された水陸両用車両を使った比較的大掛かりな上陸である。

いずれにしてもアルゼンチン軍側も総員900名という、歴史的にみれば小規模な上陸作戦であるが、それに対抗しうるイギリス軍戦力は約100人の海兵隊員に過ぎなかった。アルゼンチンの上陸軍は、圧倒的な戦力差を見せつけて早期にイギリス軍を降伏させることが狙いであった。国際世論を考慮して、できる限り無血で作戦を完遂させることが目標とされた。この作戦は直前にアメリカの偵察衛星により発見されており、アメリカは作戦の中止を求めたが、既にアルゼンチン軍部は引き返すことのできないところにまで来ていた。

4月1日夜には、42型駆逐艦「サンティシマ・トリニダード」(ARA Santisima Trinidad) が東フォークランド島沖合1海里に到着し、21隻のゴムボートを降ろした。1時半ほどかけて92名の上陸コマンド部隊の隊員を移乗させた。ゴムボートは夜11頃、砂浜に到着し、コマンド部隊は2隊に分かれて目的地、すなわちイギリス軍海兵隊員が眠る兵舎と総督邸を目指した。兵舎制圧部隊は、午前5時半に兵舎に到着したが、そこは無人であった。一方、総督邸に向かった16人の分遣隊は、そこで予想外に多い42名(31名の海兵隊と11人の水兵)の武装兵と射撃戦闘を行うことになった。まもなく、無謀な突撃を行ったアルゼンチン軍コマンド隊員の1名が致命傷を負った。分遣隊は、遮蔽物に隠れ援軍を待つことになった。

水陸両用車両(アメリカ製のアムトラックLVTP7水陸両用装甲兵員輸送車)を使った上陸部隊本隊による攻略目標は、スタンレー空港と島都スタンレーである。4月2日未明に、まず潜水艦「サンタフェ」(ARA Santa Fė)が空港の北部沿岸に少数の偵察隊を上陸させた。次いで、揚陸艦「カボ・サン・アントニオ」 (ARA Cabo San Antonio) が、空港沖合から水陸両用車両20両を発進させ、最初の目標であるスタンレー空港へ向かった。空港の滑走路には古い乗用車コンクリートの塊が、アルゼンチン軍機の着陸阻止の目的で置かれているものの、空港は無人であったため、上陸部隊は容易に空港を接取することができた。

その後もスタンレー空港から島都に向かう途中に遭遇した若干の抵抗を除けば、イギリス海兵隊からの反撃は無く、島都のスタンレーもまもなくアルゼンチン軍の占領するところとなった。イギリスのレックス・ハント総督は、圧倒的な兵力を擁するアルゼンチン軍の将軍からの降伏勧告を受け入れ、抵抗するイギリス軍海兵隊へ武器の放棄を命じた。4月2日午前9時半、こうしてイギリス軍は降伏した。

今回の作戦でアルゼンチン軍は戦死者1名、負傷者数名を出したが、アルゼンチン軍の当初の狙い通りイギリス軍に死傷者は出さなかった。後日、ハント総督とその家族および全イギリス海兵隊員は、中立国のウルグアイ経由でイギリス本土へ送還された。

[編集] 「ブラックバック作戦」

アセンション島の基地に帰還するアブロ バルカン

5月1日、イギリス軍は、アセンション島を基地とするバルカン爆撃機、空母から発進したシーハリアーによる空爆、戦闘艦艇による艦砲射撃の三段階の攻撃により、東フォークランド島のスタンレー空港および、同島の中央に位置するグース・グリーン飛行場を使用不能とする計画を立てた。その第一段階がバルカン爆撃機1機によるスタンレー空港の爆撃で、これを「ブラックバック作戦」 (Operation Black Buck) と呼ぶ。

この作戦に参加した航空機は、2機のバルカン爆撃機(同行予備機1機)と15機のヴィクター K.2空中給油機(同行予備機4機)である。1000ポンド爆弾を21発搭載して長大な距離を往復するということと万一の場合に任務を代行するため同行する予備をあてがわれたこと、そして給油機への給油も必要であったため、このような多数の空中給油機を必要とした。爆撃機と給油機の各1機が離陸後しばらくしてから機械関係のトラブルに見舞われ、実際の爆撃は予備機にて行われることとなった。この予備のバルカン爆撃機は4発の爆弾をスタンレー空港の滑走路に命中させ同空港は大型機の発着が不可能となったとされた。

この後、軽空母ハーミーズから飛び立ったシーハリアー FRS.1のうち9機が1000ポンド爆弾とクラスター爆弾で滑走路に甚大な損傷を与えた。総仕上げとして駆逐艦グラモーガン、フリゲートのアラクリティとアローの3隻が日中と夜間の2回に分けてスタンレー空港と周囲の砲兵陣地に向けて艦砲射撃を加えたが、ヘリコプターの砲撃観測がなかったため不正確なものとなり、被害は軽微なものにとどまった。

グース・グリーン飛行場は、別の3機のハリアーが投下したクラスター爆弾により使用不能となった。この際に、駐機していた5機のプカラ攻撃機が大なり小なり損傷した。この後もブラックバック作戦は継続し6月12日の第7次まで行われたが、C-130やエレクトラ、フェローシップ機による在島アルゼンチン軍に対する空輸補給は続いた。

[編集] ベルグラーノとシェフィールドの撃沈

撃沈されるヘネラル・ベルグラーノ

5月2日に、イギリス海軍の原子力潜水艦「コンカラー」の雷撃により、アルゼンチン海軍の巡洋艦のヘネラル・ベルグラーノが撃沈された。多くは救命ボートで脱出し難を逃れたものの、エクトール・E・ボンソ艦長以下1092名の乗員のうち、383人の乗員と共にベルグラーノは海に沈んでいった。

次いで5月4日には、アルゼンチン海軍航空隊のシュペルエタンダール攻撃機空対艦ミサイルエグゾセでイギリス海軍42型駆逐艦「シェフィールド」を攻撃し命中した。この1発の命中で同艦は炎上し総員退艦した。その後シェフィールドは12型フリゲート「ヤーマス」に曳航されるも5月10日に沈没した。

この後アルゼンチン、イギリス両海軍は、艦艇の損失を避けるべく大幅にその活動範囲を狭めることになる。この為もあり、両海軍艦艇同士による海戦は戦争の全期間を通じて行われることはなかった。なおその後艦艇への攻撃は航空機によるものが中心となった。

[編集] イギリス海軍艦艇の相次ぐ撃沈

アルゼンチン軍のミラージュ戦闘攻撃機

5月21日にはイギリス軍が東マルビーナス島のサン・カルロスに上陸し、橋頭堡を築いたが、同日にアルゼンチン軍機の爆撃によりイギリス海軍21型フリゲートアーデント」が撃沈され、続いて5月23日には、イギリス海軍21型フリゲート「アンテロープ」も、アルゼンチン軍のA-4攻撃機の投下した500kg爆弾を被弾。これは不発弾であったが信管除去作業中に爆発。翌24日沈没する。

またさらにその翌日の5月25日には、アルゼンチン海軍航空隊のシュペルエタンダール攻撃機が、空対艦ミサイル・エグゾセによりイギリス海軍徴用コンテナ船「アトランティック・コンベイヤー」を撃沈した。さらにイギリス海軍の42型駆逐艦「コヴェントリー」が、アルゼンチン空軍のA-4Bの攻撃を受け爆弾が命中し撃沈される。この日の攻撃でアルゼンチン側も3機が撃墜されるが、相次ぐ海軍艦艇の損失に、イギリス国内では海軍上層部に対する叱責がマスコミを中心に巻き起こった。

[編集] グース・グリーンの戦い

グース・グリーンの戦いが起きる。この28日から29日にかけての戦いは全戦争を通して、陸上における最大の激戦だった。経験と装備に勝るイギリス軍はこの激戦を制した後、グース・グリーンは5月29日に確保された。

[編集] 再度のイギリス海軍艦艇の相次ぐ撃沈

6月2日にはイギリス海軍フリゲート「プリマス」(HMS Plymouth)が、アルゼンチン軍のミラージュ戦闘攻撃機の投下した500kg爆弾を被弾、大破炎上したものの沈没は逃れた。

しかし6月8日には、アルゼンチン空軍機の攻撃でイギリス海軍補給揚陸艦「サー・ガラハッド」(RFA Sir Galahad)が撃沈。「サー・トリストラム」(RFA Sir Tristram)が大破。揚陸艇F4号が撃沈された。この際にアルゼンチン軍機3機が撃墜され、イギリス軍機1機がエンジン故障により不時着大破した。

[編集] プエルト・アルヘンティーノ陥落

投降するアルゼンチン兵

5月31日には、イギリス軍がプエルト・アルヘンティーノを見下ろすケント山を確保し、包囲体制に入った。6月に入るとイギリス軍は同諸島最大の都市である東マルビーナス島の首都プエルト・アルヘンティーノを包囲した。

この12日から14日までの戦いで200人近いアルゼンチン兵が戦死し、イギリス兵も多数の死傷者を出した。14日に、遂に弾薬の尽きたアルゼンチン軍は、司令官マリオ・メネンデス准将が指揮下の9,800人の兵士と共に投降した。

[編集] 終結

翌15日にはガルチェリ大統領が戦闘終結宣言を出したが、すでに求心力を失っており2日後に失脚する。6月20日にはイギリス軍がサウス・サンドイッチ島を再占領し、イギリス政府は停戦宣言を出した。こうして72日にも及び、両国に多大な犠牲を出した戦争は終わった。

[編集] 推移(時系列)

イギリス海軍艦隊旗艦となった空母ハーミーズ (HMS Hermes)(現・インド海軍ヴィラート)

1982年

  • 3月19日:アルゼンチンの「解体業者」がアルゼンチン海軍輸送艦「バイア・ブエン・スセソ」でサウス・ジョージア島に上陸。
  • 3月26日:アルゼンチン海軍砕氷艦「バイア・パライソ」がサウス・ジョージア島に補給物資を運ぶ。
  • 4月2日:アルゼンチン軍がフォークランド諸島に上陸し、これを占領。イギリスのレックス・ハント総督以下イギリス軍を捕虜とする。イギリス、アルゼンチンに国交断絶通告。
  • 4月3日:アルゼンチン軍、サウス・ジョージア島占領。
  • 4月4日:アルゼンチン政府が全ての国内にあるイギリス資産を凍結。
  • 4月5日:イギリス艦隊、ポーツマス港を出港。イギリスのエリザベス2世女王が民船徴用権付与。
  • 4月10日ECが対アルゼンチン経済封鎖を承認。西ドイツフランスなどの加盟国が対アルゼンチン経済制裁を行う。
  • 4月12日:イギリス軍、フォークランド諸島周辺の洋上封鎖発効。
  • 4月18日:イギリス海軍の機動部隊がイギリス領アセンション島を出港。
  • 4月21日:イギリス海軍のウェセックス HU.5ヘリコプターが2機悪天候により遭難する。
  • 4月23日イギリス海兵隊特殊舟艇隊 (SBS)、サウス・ジョージア島偵察上陸。
  • 4月25日:イギリス海兵隊がサウス・ジョージア島に上陸。これを奪回。
    • アルゼンチン海軍潜水艦サンタフェ」、イギリス海軍艦載リンクスヘリコプター2機の攻撃を受け損傷。同日サウス・ジョージア島に擱座。乗組員は艦を放棄し上陸、イギリス軍に降伏。
  • 4月29日:アルゼンチン政府がアメリカによる調停案を拒否。
  • 4月30日:イギリス、フォークランド諸島周辺の海空封鎖発効。
  • 5月1日:イギリス空軍、アセンション島より発進したバルカン爆撃機が長途飛来、諸島内のポート・スタンレーとグース・グリーンの飛行場への長距離爆撃を初実施し滑走路を破壊。
アルゼンチン海軍のシュペルエタンダール攻撃機
アルゼンチン空軍機の攻撃で大破したイギリス海軍の揚陸艦「サー・トリストラム」
ポート・スタンレー(プエルト・アルヘンティーノ)
  • 5月28日:イギリス陸軍空挺連隊第2大隊がポート・ダーウィンとグースグリーンを占領。
  • 5月30日:アルゼンチン陸軍記念日の演説に際し、ガルチェリ大統領が「必要なら世界の他の地域(東側諸国を意味)からの支援を要請する」旨を言明。
  • 6月2日:イギリス海軍フリゲート「プリマス」(HMS Plymouth)が、アルゼンチン軍のミラージュ戦闘攻撃機の投下した500kg爆弾を被弾、大破炎上したものの沈没は逃れた。
  • 6月2日:ガルチェリ大統領がソ連およびワルシャワ条約機構諸国の援助を受け入れることを示唆する。
  • 6月7日:アルゼンチン政府が国連の撤退提案を拒否。
  • 6月8日:アルゼンチン空軍機の攻撃でイギリス海軍補給揚陸艦「サー・ガラハッド」(RFA Sir Galahad)が撃沈。「サー・トリストラム」(RFA Sir Tristram)が大破。揚陸艇F4号が撃沈された。アルゼンチン軍機3機が撃墜。イギリス軍機1機がエンジン故障により不時着大破。
  • 6月9日:アメリカのロナルド・レーガン大統領がイギリス支持を再度表明。
  • 6月11日:イギリス陸軍によるアルゼンチン陸軍側陣地への攻撃が本格化。
  • 6月11日:陸上から発射されたエグゾセがイギリス海軍カウンティ級駆逐艦「グラモーガン」(HMS Glamorgan)を攻撃、搭載していたウェセックス・ヘリが撃破された。
  • 6月14日:イギリス陸軍部隊がプエルト・アルヘンティーノを包囲。マルビーナス諸島のアルゼンチン軍が降伏。
  • 6月15日:ガルチェリ大統領は戦闘終結を正式に宣言したが、「主権はあくまでもアルゼンチンにある」と述べて「イギリスが再び植民地化の動きをみせるなら戦いをやめない」と主張した。
  • 6月16日:アルゼンチンの外相と内相がガルチェリ大統領に抗議し辞表提出。ガルチェリ大統領は辞表受け取りを拒否。
  • 6月17日:アルゼンチンのガルチェリ大統領が敗北の責任を問われ失脚。大統領及び陸軍総司令官を辞任。

[編集] 戦後

[編集] アルゼンチン

アルゼンチンでは、ガルチェリ大統領が建国以来はじめての敗戦の責任を問われて大統領及び陸軍総司令官を辞任し、失脚した。退役陸軍中将のレイナルド・ビニョーネが大統領に就任したが、戦争初期は軍とペロニスタも挙国一致の下に和解し、「海賊英国」「ガルチェリ万歳」を連呼していたアルゼンチン国民も、この敗戦にかつてないほどの反軍感情を高まらせ、すぐに急進党(旧急進党人民派の流れを汲む)のラウル・アルフォンシンに政権交代が行われて民政移管が完了した。ガルチェリは銃殺刑に値すると言われたが、結果的には懲役12年で済み、ビデラなどの他の軍人と共に1990年に軍と取り引きしたカルロス・メネム大統領の特別恩赦によって釈放された。

アルゼンチン軍の司令官で「汚い戦争」を指導して多くの市民を秘密裏に殺害したマリオ・メネンデス准将は「敬虔なカトリック教徒なので自殺は出来ない」と述べ、多くの少年兵が死んだのとは対照的に責任を逃れた。なお、降伏した1万人以上のアルゼンチン軍兵士はウルグアイ経由でアルゼンチンに送還された。

この戦争の間にアルゼンチンは国際的な評価を大きく落とし、これは文民政権の課題となったが、文民政権の下で20世紀の初めから続いていたチリやブラジルとの軍事対立も急速に収まっていった。一方で敗北した軍は政治力を弱めて大幅に削減され、開戦前には三軍で15万5000人程だったアルゼンチン軍は2000年現在には三軍で7万1000人程になっている。

[編集] イギリス

多くの艦船を失い、多数の戦死者を出したものの勝利したイギリスでは、戦前不人気をかこっていたサッチャー首相の人気が急上昇した。それまで不人気だったサッチャーは続投し、戦勝によって勢い付いた新自由主義的な改革はイギリス経済を復活させた。

自国の領有権を主張するアルゼンチン、エントレ・リオス州の看板

また、それまで「二等市民」扱いされていたフォークランド島民もイギリス本土政府から丁寧に扱われるようになり、イギリスとチリからの投資で島の経済やインフラストラクチャーは発展した。しかしながら本土から遠く離れた小島を「自国領土」として主張し統治するイギリスに対しては、「帝国主義的」、「植民地主義的」という批判が根強く存在する。

なお、紛争前には少数の部隊しか駐留していなかったが、紛争後には最小限の防空部隊を配備しなければならず、F-4M装備の第23飛行隊を派遣した穴埋めの為、アメリカ空軍で余剰になったF-4Jの中古機を購入している(後にトーネードF.3に交代)。

[編集] 戦後の両国関係

その後しばらく、両国の国交断絶状態が続いた。そんな中、1986年6月22日に行われたFIFAワールドカップ・メキシコ大会の準々決勝で、アルゼンチン代表ディエゴ・マラドーナらの活躍によりイングランド代表に2対1で勝利し、敗戦の屈辱が残るアルゼンチン国民を熱狂させた。

1989年10月に、アルゼンチンとイギリスは開戦以来の敵対関係の終結を宣言し、翌1990年2月5日、両国は外交関係を正式に回復した。しかし、現在も互いに自国の領有権を主張し続けている。

[編集] 評価と戦訓

この紛争は、近代化された西側の軍隊同士による初めての紛争であり、その後の軍事技術に様々な影響を及ぼした。両軍で使用された兵器のほとんどは実戦を経験していなかったが、この紛争で定量的に評価されることになった。また、アルゼンチンはイギリスから兵器を一部輸入していた上、両軍ともアメリカやフランス、ベルギーなどの西側第三国で設計開発された兵器を多数使用しており、同一の兵器を使用した軍隊同士の戦闘という特徴があった。

アルゼンチン軍の攻撃によりイギリス軍は多数の艦船と乗組員を失い、戦争中のイギリス軍の艦艇の損失はアルゼンチン軍のそれを大きく上回ったが、経験の豊富な地上軍による陸戦や長距離爆撃機による空爆、同盟国であるアメリカ軍の援助を得た情報戦を有利に進めた結果、最終的に勝利を収めた。

[編集] 海戦

[編集] イギリス海軍

[編集] 膨大な損失
エグゾセ・ミサイル

両軍艦艇による本格的な海戦は行われなかったが、アルゼンチン軍は航空機による攻撃でイギリス海軍の多くの艦艇を撃沈した。特に、保有していた5発のフランス製の空対艦ミサイル・エグゾセシュペルエタンダール攻撃機から発射し、2発を命中させた。これにより、イギリスの42型駆逐艦「シェフィールド」と臨時空母として使用されていた徴用輸送船「アトランティック・コンベイヤー」を沈没させ、同様の攻撃を恐れたイギリス海軍の空母の突入を押しとどめた。

アルゼンチンが5発のミサイルを使いきった後も、イギリスは反対のうわさに踊らされ、アルゼンチンはまだエグゾセを保有していると信じていた。このほかスカイホーク、ダガー部隊は低空艦船攻撃を行い、対空砲火と早期発見を避ける為に低空飛行している機から投下されたため、信管調整の失敗から不発弾もきわめて多かったにもかかわらず、アマゾン級フリゲイト「アンテロープ」と「アーデント」、揚陸艦「サー・ガラハド」などを撃沈、多数の艦船に損害を与えるなど、アルゼンチン軍の敢闘精神とその攻撃能力は目覚ましかった。

[編集] 損失の原因

イギリス海軍は、本土より空母(「インヴィンシブル」と「ハーミーズ」)を派遣したが、アルゼンチンの航空機や潜水艦の攻撃による損害を恐れ、前方展開を行わなかった。イギリス海軍は空母の前方展開を行えなかったのみならず、早期警戒機を展開できなかったために、超低空飛行によって近距離まで接近するアルゼンチン軍の攻撃機を探知できず、この事も艦艇に多数の被害を出した大きな原因の1つとなっている。

この戦訓から、早期警戒機の重要性が改めて認識され、戦後、イギリス海軍はシーキングヘリコプターの早期警戒機型を開発した。シースキミングで接近する対艦ミサイルへの対処と、上陸作戦時の艦砲射撃が見直され、戦訓を取り入れた22型フリゲートの最終生産型バッチ3ではゴールキーパーCIWS114mm単装砲を装備している。

なお、当時のイギリス艦艇の艦橋の構造物はアルミニウム合金製が主流であり、炎上し易いという弱点を露呈したと当時報道され、それがきっかけで海上自衛隊のはつゆき型護衛艦が計画途中で鋼製上構に変更されたとされている。しかし、エグゾセにより沈没した「シェフィールド」はアルミ上構ではなく、アルミニウム製上構だったアマゾン級フリゲイトで沈没した「アーデント」「アンテロープ」とも船体での爆撃浸水被害および不発弾処理失敗が沈没原因であり、アルミニウム上構の脆弱性が大きな原因で沈没した艦船はない。「シェフィールド」に命中したエグゾセは不発だったが、残燃料による火災が塗料および電線被覆に延焼し、被害を拡大、消火作業を阻害したとされる。

[編集] アルゼンチン海軍

艦艇に膨大な損害を受けたイギリス海軍と対照的に、アルゼンチン海軍の損失は巡洋艦「ヘネラル・ベルグラーノ」がイギリスのチャーチル級原子力潜水艦コンカラー」に魚雷で撃沈された(これは原子力潜水艦が史上初めて実戦で戦果をあげたものとなった)他は、艦艇の損失はイギリス海軍と比べるもなく少ないものであった。

なお、戦後フランスは、アルゼンチン軍が使用したエグゾセやそれを搭載したシュペルエタンダールなどの自国製兵器の戦果を兵器の販売促進に大いに役立てた。また、ミラージュ5イスラエル製無断コピー品であるダガーが、アルゼンチン軍によって中東戦争以外で初めて実戦投入された。

[編集] 航空戦

[編集] アルゼンチン軍

アルゼンチン空軍のIAIダガー
ベインティシンコ・デ・マジョ

アルゼンチンは開戦当時、イギリスが派遣した航空機の20倍以上の航空機を所有しており、その中にはハリアーの2倍以上の速度で飛ぶダガー(この数だけで、イギリス側のハリアーの総数を上回っていた)や、この紛争で有名になったシュペルエタンダール、その多くがアメリカ軍の余剰機を中古で購入したA-4Cスカイホークなどがあった。しかしダガーは最新式の電子装備を持ち機動性に優れたハリアーに対抗できず、シュペルエタンダールに搭載するエグゾセ対艦ミサイルは5発しかなかったなど、その質は最新鋭機を揃えたイギリス軍に劣っていた。

またアルゼンチン空軍は、主戦場となったフォークランド諸島はアルゼンチン本土からの距離が低空飛行での作戦行動半径の限界に近く、しかも当時も緊張状態にあった隣国のチリなどに対する本土防衛を主な任務としていたこともあり、アルゼンチン軍には空中給油機が2機しかなかった。しかもアルゼンチン海軍が所有する空母「ベインティシンコ・デ・マジョ」は当時、オランダ時代の大規模な火災事故の損傷を修繕している途中で、本格的な近代化工事は延期され対潜能力等が低いまま出撃したが、潜水艦の攻撃による損害を恐れまもなく引き返した。そのためアルゼンチン側の航空攻撃は少数機による五月雨式の攻撃となりイギリス側が恐れたような多数機による同時攻撃は行われなかった。しかもダガーやミラージュはそもそも空中給油受油装置を持っていない上、フォークランド諸島上空で積極的な空中戦闘を行うには航続距離が十分でなかった。

さらにこの戦争の直前に国境付近で緊張状態にあり、イギリスとの戦争のどさくさにまぎれて攻撃してくる懸念があった隣国のチリの動向に対する懸念により、ある程度の兵力を本土防衛に控置しておく必要があり、さらにブラックバック作戦の成功はアルゼンチン本土に対するイギリス軍機の空襲の可能性がある事を意味した。結果として戦争末期の5月2日よりミラージュは本土の防空にあたる事となり、それ以後、作戦行動半径が狭く本格的な空戦を行う余裕のないアルゼンチン空軍機は対艦、対地攻撃に専念しシーハリアー相手に空対空戦闘を挑むことは殆ど無くなった。

なお、イギリス海軍艦船に対する攻撃においては、シーハリアーを避ける為に超低空で艦隊に接近する事を繰り返したが、超低空で飛ぶ事は更に燃費を悪化させてしまい、運用面からも戦闘行動半径を短くしてしまう事になった。また、同艦船の対空砲火やソフト面で優れたシーハリアーを相手に多くの被撃墜機を出した。しかし、第二次世界大戦後、戦犯となることを逃れて亡命してきたドイツ空軍ハンス・ウルリッヒ・ルーデルに訓練を受けており、高い技術を持っていたアルゼンチン軍機は、目的通りイギリス海軍艦船に膨大な被害を与え、イギリス海軍空母による機動作戦を思いとどめるという結果を残した。

[編集] イギリス軍

撃墜され放置されるイギリス軍のヘリコプター

一方、この戦争におけるイギリス空・海軍機の主な運用目的は、艦船への攻撃が主な目的であるアルゼンチン軍と違い、アルゼンチン軍機からの自国艦船の防御と地上目標の破壊であった。しかし、電子装備では勝っているが数の上では圧倒的に不利な状況でイギリス本国からの大遠征をしなければならなかった。

イギリスの垂直離着陸機であるイギリス海軍シーハリアーは、その能力が論議の的となっていたが、空戦において23機撃墜かつ被撃墜0(ただし、対空砲火および事故等で6機を喪失)という戦果を上げて一定の評価を得ることができた。その一方、速度の遅さや航続距離の短さが致命的であることも再認識された。特に、シーハリアーを搭載していた「インヴィンシブル」と「ハーミーズ」が攻撃を恐れて後方に展開したため、艦載機による即応態勢を整えることができず、この事も影響してアルゼンチン軍機による攻撃を止めることができず、結果的にイギリス軍艦艇に膨大な被害を出すこととなった。

当初ハリアーは「ハーミーズ」に12機と「インヴィンシブル」に8機の合計20機しか搭載していなかったので、攻撃任務に使われると防空に回す機体がなかった。後に徴用したコンテナ船で8機が増派された。早期警戒機を展開出来なかった為、超低空で艦隊に接近するアルゼンチンの攻撃機を見つけられず、滞空時間の短いシーハリアーでは有効な迎撃態勢が整わず、艦隊の外周に配置していたレーダーピケット艦が被害を受ける事が多かった。なおイギリス空軍ハリアー GR.3は、増援部隊としてコンテナ船や空輸により運ばれたが、レーダーが無いため対地攻撃など近接航空支援に専念し、空対空戦闘は行っていない。

同じ西側の航空機と装備、兵器を使用してはいたが、イギリスの方がより最新のものを使用していた。アルゼンチン空軍機の作戦行動半径が狭く本格的な空戦を行う余裕が無かったことを考慮したとしても、ハリアーの23対0という一方的な撃墜スコアが示すとおり、近代戦においては、速度や旋廻性能といった機体そのものの性能より、電子装備がものをいうことを如実に現していた。空対空ミサイルの性能は歴然としており、旧式のミサイルのため後方に占位しなければロックオンが出来なかったアルゼンチン軍の戦闘機に対し、イギリス軍の使用するアメリカから購入した最新式のサイドワインダーAIM-9Lは限定的ながら正面からのロックオンが可能であった。この事はアルゼンチン側の航空機の反撃意欲を失わせ、機数の少ないシーハリアーが空対空戦を圧倒した大きな理由の一つになったが、いずれにしてもアルゼンチン空軍機による自国の海軍艦艇に対する攻撃と、それによる膨大な損失を止めるには至らなかった。

[編集] 地上戦

当初アルゼンチン軍はほぼ無傷でフォークランド諸島を制圧したものの、その後イギリス陸軍は、海軍艦艇が大きな損害を受けたにもかかわらず、アセンション島経由で飛来した長距離爆撃機による空港や航空機の破壊という援助を受けて迅速に地上部隊を上陸させ、実戦経験に乏しいアルゼンチン軍を陸戦で制し、勝利に大きく貢献した。

パタゴニアなどに展開していたアルゼンチン軍の精鋭部隊はチリとの戦争に備えて待機していたため、アルゼンチン軍は北西部の亜熱帯に近いアンデス地域から徴兵された若い兵士が主体であり、全体の3割近くが新兵だった。さらに水と食料や、極寒のマルビーナスで戦うための防寒装備なども不足していた。このように近代戦においては徴兵制のアマチュア兵士を中心にし、しかも実戦経験が殆ど無いアルゼンチン軍が、志願制のプロであり冷戦下における世界各地での紛争で高い経験値を持ったイギリス陸軍と戦うには無理があった。

しかし、確かにアルゼンチン軍は新兵主体のアマチュア軍隊だったが、この戦争はイギリス軍にとって決して「ピクニック」ではなかった。アルゼンチン兵の創意工夫、例えばブローニングM2重機関銃による狙撃によって、イギリス海兵隊は著しい損害を被った。とりわけ、サウス・ジョージア島での攻防では、イギリス海兵隊は敵陣にたどり着くまでに多くの犠牲者を出した。これは、本来は陣地戦での攻防や対車両用に用いられるM2にスコープを載せ、遠距離から狙撃したもので、本格的な大口径対人狙撃の嚆矢となった。これに対しイギリス軍兵士の手持ちのL1A1ライフルなど、自動小銃や軽機関銃はまったく射程が足りず、対抗するためにミラン対戦車ミサイルをもって更なる遠距離から機関銃陣地への攻撃を行った。この戦訓は戦後秘匿されたが、一時は存在意義を失っていた対戦車ライフルが『対物ライフル』として見直される等、各国では、陣地攻撃用の携帯兵器の開発を促すきっかけとなった。また、大規模な白兵戦も行われ、第二次世界大戦後めっきり姿を消していた銃剣突撃も見られた。

[編集] 情報戦・戦時中の国際関係

[編集] ラテンアメリカ諸国の対応

ラテン・アメリカ諸国のほぼ全てがアルゼンチン支持を表明したが、各国は軍隊を送るわけでもなかった上、情報組織などによる具体的な支援があったわけでもないことから戦況にはほとんど影響しなかった。ただし、ペルーなどの南米諸国からは20世紀後半まで持ち越された帝国主義との戦いのためと称して少数ながら義勇兵が参戦を希望したようである。このことは今まで白人国家であることを誇り、「南米のヨーロッパ」と自称してメスティーソが主体の他のラテン・アメリカ諸国を見下していたアルゼンチンにラテン・アメリカの一員としての意識を芽生えさせた。

[編集] チリの対応

しかし、アルゼンチンの隣国のチリだけは、アウグスト・ピノチェト政権以前からパタゴニアのビーグル海峡地域において隣国アルゼンチンと国境問題を抱え、戦争寸前の危機的状況が続いていたことから、自国内の基地を提供するなど積極的にイギリスに協力した。

また、チリが戦争のどさくさにまぎれて参戦してくることを恐れたアルゼンチン軍を、イギリスと戦っていたにも拘らず多くの戦力を対チリ戦に備えて本土に温存せざるを得ない状況に追い込むなど、実質的にイギリスの同盟国として機能した。

[編集] NATO諸国の対応

イギリスはNATOECの一員として他の加盟国へ協力を依頼、これを受けて白人国家アルゼンチンの多くの市民の先祖が住むイタリア西ドイツスペインなどのEC加盟国はアルゼンチンへの経済制裁を発動した。

アルゼンチン人の精神的な故郷であるヨーロッパのこの行為にアルゼンチン人は大きな衝撃を受け、深刻なアイデンティティ喪失の危機に陥った。しかし、この措置が上記のように新たなアイデンティティとしてのラテン・アメリカの一員としての自覚を芽生えさせた。

[編集] アメリカの対応

アメリカ合衆国は全面的に、NATO加盟国で長年の同盟国であるイギリスを支援し、空中給油機の貸与を申し出たほか、アルゼンチンが使用する自国製の戦闘機や各種武器の情報をイギリスへ提供した。それだけに留まらず自国衛星情報を提供し、戦時中のアルゼンチン軍の行動は全て筒抜けだったという。また、アルゼンチンの電話・通信設備を敷設したのがイギリス系企業だったこともあり、アメリカの偵察衛星の情報と合わせるとアルゼンチンの軍や政府の情報はイギリスへ筒抜けであったと言われている。

また、海路長旅を行うイギリス軍のためにアセンション島にイギリス軍を集め、兵員を休憩させるためにあらゆる便宜を図った。こうした行為は、友好国アメリカは米州共同防衛協定とOASを優先して、ヨーロッパの帝国主義の残滓よりはアメリカ大陸の一員として、米州に残る植民地を奪回しようとするアルゼンチンを立てるだろうと考えたアルゼンチン軍部に大きな衝撃を与えた。

アメリカは冷戦下で中米紛争、特に第二次ニカラグア内戦において、アルゼンチン軍はアルゼンチン国内で「汚い戦争」を通して培った対ゲリラ戦の戦訓を、イスラエル国防軍などと共にホンジュラス軍ニカラグアコントラなどへ訓練していた(アルゼンチン・コネクション)。このような、「アメリカが表立って行えなかったようなことをアルゼンチンが行う」という関係を通して両国は友好関係にあったが、一切の正式な同盟関係になかったアルゼンチンへの配慮は全くなかった。

[編集] 東側諸国の対応

これに対し、冷戦下、アメリカやイギリスと敵対していたソビエト連邦東側諸国がイギリスを非難するという形でアルゼンチンを支持したほか、非同盟諸国 の多くがアルゼンチン支持を表明したが、各国は軍隊を送るわけでもなかった上、ソ連が衛星写真を提供したことを除いて、情報組織などによる具体的な支援があったわけでもないことから戦況にはほとんど影響しなかった。ソ連がアルゼンチン支持に及び腰になったのは、日本との間に北方領土問題を抱えていたのが原因のひとつと言われる(ちなみにアルゼンチンは、ソ連との間に北方領土問題を抱える日本は、アルゼンチンを支持するものと期待していた。詳細は下記にて)。

[編集] 日本の対応

日本はアメリカ、イギリス、ECの再三の要請にも拘らず、アルゼンチンへの禁輸措置は最後まで実施しなかった。しかしながら全体としては、国連でのアルゼンチン撤退勧告には賛成票を投じるなど、アルゼンチン側を批判していた。アルゼンチンとしては日本の北方領土問題にあたるマルビーナス問題では、日本が積極的に支持をしてくれる事を期待していたのだが、それをしなかったことは大きな不満であり、その不満は一部でのアルゼンチン人暴徒による日系アルゼンチン人への攻撃となって表面化した。

[編集] ロイターの対応

世界最大の通信社であるロイター社は、イギリスの軍事行動を詳細に世界へ発信した。両軍とも相手の出方をある程度承知していたため実害はなかったが、イギリス政府が「貴社はイギリスの企業であるのに、愛国心はないのか?」と電話で尋ねたところ、応対した責任者は「申し訳ないが私はドイツ人であるので愛国心の問題は分からない」と答えたと言われる。

[編集] アルゼンチン軍の参加兵力

[編集] 参加艦艇

サンタフェ
  • 潜水艦
  • 輸送艦
    • バイア・ブエン・スセソ 他
  • 揚陸艦
    • カボ・サン・アントニオ
  • コルベット・哨戒艇・巡視船等
    • バイア・パライソ 他
  • 他支援艦艇、徴用船舶

[編集] 航空機

ダグラス A-4B「スカイホーク」
ロッキード C-130E/H

[編集] イギリス軍の参加兵力

[編集] 参加艦艇

  • 第317任務部隊(指揮:ウッドワード少将) - 機動部隊
  • 第324.3任務群(指揮:ハーバート少将) - 潜水艦隊
  • 補給部隊(指揮:ダンロップ准将)
HMSインヴィンシブル
HMSアンドロメダとキャンベラ
臨時空母として使用されていたアトランティック・コンベアー
徴用され輸送船として使用されていたクイーン・エリザベス2号
ビッカース VC10 C.1
  • 補給艦
    • フォートグランジ、フォートオースチン、リゾース、ストロムネス、アップルリーフ、ベイリーフ、ブラウンリーフ、プラムリーフ、パールリーフ、ブルーローバー、リージェント、オルメダ、オルナ、タイドプール、タイドスプリング、エンガダイン
  • 氷海巡視船
    • エンデュアランス
  • 掃海艇
    • ハント級掃海艇 ブレコン、レッドベリー
  • 測量艦
    • ヘクラ級測量艦 ヘクラ、ヘカテ、ヘラルド、ハイドラ
  • 通報艦
    • キャッスル級哨戒艇 リーズキャッスル、ダンバードンキャッスル
  • その他支援艦艇若干
  • クイーン・エリザベス2号キャンベラ号、アトランティック・コンベアー(沈没)など徴用艦艇多数

[編集] 航空機

[編集] 参考文献

  • マーガレット・サッチャー著 石塚雅彦訳 『サッチャー回顧録 - ダウニング街の日々』 日本経済新聞社 1993年 ISBN 4-532-16116-9
  • 三野正洋/深川孝行/仁川正貴著 『湾岸戦争 兵器ハンドブック』 朝日ソノラマ 1996年 ISBN 4-257-17313-0 - 書名からはわからないが、後半をフォークランド紛争にあてている。

[編集] 関連項目

ウィキメディア・コモンズ

[編集] 脚注

  1. ^ South Atlantic/Falkland Islands - British Army Website
  2. ^ 『サッチャー回顧録』 222項 ISBN 4-532-16116-9
  3. ^ "Desaparecidos por la dictadura argentina" http://es.wikipedia.org/wiki/Desaparecidos_por_la_dictadura_argentina
  4. ^ 『サッチャー回顧録』 221項 ISBN 4-532-16116-9
  5. ^ "国連広報センター 国際憲章". 国連広報センター. 2008年10月27日 閲覧。

[編集] 外部リンク