ボストン茶会事件

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ボストン茶会事件を描いたリトグラフ(1846年)

ボストン茶会事件(ボストンちゃかいじけん、: Boston Tea Party)は、1773年12月16日に、マサチューセッツ植民地(現アメリカ合衆国マサチューセッツ州)のボストンで、イギリス本国議会の植民地政策に憤慨した植民地人の急進派が港に停泊中のイギリス船に侵入し、イギリス東インド会社の船荷の紅茶箱を海に投棄した事件。

アメリカ独立革命の象徴的事件の一つである。

事件の背景[編集]

18世紀において、イギリスフランスは各地で植民地争奪戦争を繰り返しており、北アメリカもその例外ではなかった。1754年にはフレンチ・インディアン戦争七年戦争)が勃発し、イギリスとフランス・インディアン連合軍は一進一退の攻防を繰り広げた。戦局を打開すべくイギリスは北アメリカに2万人を派兵し、植民地の民兵も戦いに協力した。こうして最終的に優勢となったイギリスが1763年パリ条約でカナダとミシシッピ川以東のルイジアナを獲得した。

しかし、この一連の戦争の戦費として、イギリスには1億3千万ポンドの負債が生じた。イギリス本国は植民地にこの費用の一部を負担させるため、従来の「有益なる怠慢」といわれた緩やかな統治を転換し、1765年には印紙法を、1767年にはタウンゼンド諸法を制定した。

印紙法の制定により、新聞・各種証書・パンフレット、果てはトランプに至るまで印紙を貼ることが義務付けられたが、植民地側は「代表なくして課税なし」の原則を理由としてこれに反対。翌年には同法を廃止させた。また、茶・ガラス・紙・鉛・塗料などに関税をかけるタウンゼンド諸法も、本国製品の不買運動など広範囲の抵抗を招いた。

その中でボストン市民5人が駐留英軍に射殺されるボストン虐殺事件も起こり、急進派によって反英プロパガンダに利用されたこともあいまって世論の反発はいっそう強まった。結局、イギリス本国は植民地側に対し譲歩を余儀なくされ、茶税だけを残しタウンゼンド諸法を撤廃した。

アメリカ独立の前哨戦[編集]

1773年、イギリスは新たに茶法を制定した。これは、茶税を逃れようとして植民地側がオランダ商人から茶を密輸入していたのを禁じ、大量の茶の在庫を抱えて財政的に行き詰まったイギリス東インド会社に植民地での茶の販売独占権を与えるものであった。東インド会社は当時の市価の半額の安値で茶を売り出そうとした。これに対し、

  1. 植民地の貿易全体の独占を狙う第一歩ではないか
  2. 本国の課税権そのものが焦点であるにも拘らず、密輸品に比して茶税の課税後でも安価な東インド会社の茶が販売された場合、課税権を容認することになるのではないか

との懸念が生まれ、反対運動が展開された。ボストンの「自由の息子達」は、東インド会社の茶の販売人を襲撃するなど、過激な運動を展開した。 なお、この時点での彼らの主な要求はあくまで「代表なくして課税なし」であり、イギリス本国からの独立ではなかった事に留意すべきである。

「The History of North America(1789年刊)」より船を襲撃して積荷を投げ捨てる様子。

1773年12月、茶を積んだ東インド会社の貿易船がアメリカの4つの港に到着するが、陸揚げされなかったり、倉庫に実質的に封印されるなど、実際には販売されなかった。この港のうちボストンでは東インド会社の貿易船に、荷揚げせずにボストンからイギリスに退去するよう求めた。現地のイギリス総督はこれを拒否し、貿易船は荷揚げの機会を待つため、船長はボストン港での停泊を継続する。

こうした事態の中、1773年12月16日の夜に事件は起こった。毛布やフェイスペイント等でモホーク族風の簡易な扮装をした3グループ、50人ほどの住人がボストン港に停泊していた東インド会社の船を襲撃。「ボストン港をティー・ポットにする」と叫びながら、342箱の茶箱を海に投げ捨てた。騒ぎを聞いて駆けつけた多くのボストン市民は、加勢も制止もせずこの様子を見つめていた。これが「ボストン茶会事件」と呼ばれる事件で、行動を起こしたのはボストンの急進派市民(自由の息子達)であり、組織化の中心となったのはサミュエル・アダムズである。 また、茶会事件を起こしたのはボストンフリーメイソンのメンバーであるという都市伝説もある。メンバーがロッジで酒を酌み交わしていた時、一人が「海水で酒を飲んだらどんな味になるか」と酔った勢いでボストン港に向かったが、陰謀説をカモフラージュする為、酔った勢いだと釈明させたという説もある。

この時投棄された茶の損害額は1,000,000ドルに上るといわれ、この事件には植民地人の間においても賛否がわかれ、東インド会社の賠償請求に対してベンジャミン・フランクリンは私財をもって「茶の代金(茶税分を除く)」の賠償を試みようとしている(結局賠償はされなかった)。

イギリス政府はこれに対して、翌年、ボストン港の閉鎖・マサチューセッツの自治の剥奪・兵士宿営のための民家の徴発などの強硬な「抑圧的諸法」を出してボストンを軍政下に置いた。植民地側は同年9月、フィラデルフィアに12の植民地代表を集めて第1回大陸会議を開き、本国議会の植民地に対する立法権を否認することと、イギリスとの経済的断交を決議した。このような緊迫した情勢の中で、翌年4月、ボストン郊外のレキシントンコンコードでイギリス軍と植民地民兵が衝突(レキシントン・コンコードの戦い)し、ついに独立戦争が勃発したのである。

また、茶法に反対する一連の運動によって、それまで愛飲していた紅茶をボイコットする植民地人が多くなり、代わりにコーヒーが普及した。現在でもイギリス人に紅茶党が多い一方、アメリカ人にはコーヒー党が多いのは不買運動に由来するものである。

植民地人はイギリスからの移民が大多数を占め、元来親英的であった。アメリカ独立戦争が勃発した後になってさえ独立を支持する愛国派は自営農民・中小工業者らを中心として植民地人口の3分の1ほどであり、忠誠派が3分の1、残りは中立派であった。

訳について[編集]

「Boston Tea Party」は一般に「ボストン茶会事件」と和訳される。この訳については、単語の解釈の違いによって誤訳である、誤訳でないという二つの意見が対立している。

誤訳とする意見では、「Party」は「徒党」や「集団」を意味するため、「茶会」の訳は不適切であるとし、代わりに「ボストンティーパーティー事件」、「ボストン茶党事件」などと表記する。

『アメリカの小学生が学ぶ歴史教科書』[1]によると「茶会」が正しく、大量の茶葉で覆われた海を見た市民が「『ボストン茶会』を開いた」と冗談を言った[2]のが語源だという。よってこの語源を信じれば、直訳的な解釈の誤訳という考え自体が間違いで、ボストン茶会事件で正しいということになる。

なお、日本の歴史教科書においては、「ボストン茶会事件」で統一されている[3]

脚注[編集]

  1. ^ 村田 薫; James M. Vardaman Jr. (2005年1月), 『アメリカの小学生が学ぶ歴史教科書』, ジャパンブック, ISBN 4902928000 
  2. ^ 11月5日付 第1面コラム「産経抄」”. 産経新聞(MSN産経ニュース) (2010年11月5日). 2010年11月5日閲覧。
  3. ^ 17社で掲載とある。全国歴史教育研究協議会 (1989年), 『世界史用語集』, 山川出版社, ISBN 4634030101 

関連項目[編集]